【R18】Gentle rain

日下奈緒

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優しい雨

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敦弥さんが、突然家を訪ねてきてから、会えなくなってしまった。

兄さんに言われて、棚の奥から兄さんのお気に入りのワインを出して、二人の間にも積もる話があるだろうと、リビングを出たのが最後。

あのリビングを出る間際、敦弥さんの背中を見たのが、目の奥に焼き付いている。


『ただ今、電話に出ることができません。ご用件のある方は…』

何度、この留守電を聞いただろう。

「敦弥さん…」


この一週間、ずっとこの留守電で我慢してきた。

でも、もう待てない。

たった一言でもいいから、敦弥さんの声を聞きたい。

ピーっと言う音と共に、私は留守電に声を吹き込もうとした。

「敦弥さん…元気にしてる?ちゃんと、ご飯食べてる?……」

そんな言葉しか言えなくて、本当に言いたい事が言えない。



― どうして急に、会ってくれなくなったの? ―



私に飽きたの?

それとも、他に好きな人でもできたの?

わからなくて、涙が出てくる。


涙をこぼしているうちに、録音は終わってしまった。

心が空っぽなまま、電話を切る。

そんな時、部屋のドアをトントンとノックする音が聞こえた。

涙を拭いて、私はドアを開けた。

「はい。」

「美雨。」


てっきり小林さんだと思っていたのに、そこに立っていたのは、誰でもない兄さんだった。

「入ってもいいか?」

「…うん。」

何の用だろうと思いながら、兄さんを部屋の中へと通す。

部屋の真ん中で、立ちつくす兄さんに、私はテーブルの傍に座るように促した。

女の子の部屋の中で、ちょこんと座る兄さんは、まるで生徒の部屋に迷い込んだ教師のようだった。

「どうしたの?兄さん。」

「ああ……」

何も話そうとせず、兄さんはテーブルの上に、自分の腕を置いた。

「…なんだか慣れないな。美雨の部屋に来たのは、高校生以来だよ。」

「ああ……」


あの時、私はまだ小学生で、親に叱られて部屋で泣いていた。

そんな時、兄さんが私の部屋を訪れてくれて、しばらくの間、泣いている私を慰めてくれた。

そのまま安心しきったのか、私と兄さんはベッドの中で、寝入ってしまって。


朝になって、兄さんはお父さんにこっぴどく叱られていたのを思い出す。

その時はどうして怒られていたのか、わからなかった。


でも、今ならなんとなくわかる。

高校生の兄と、小学校高学年の妹。

本人同士は何もないのに、大人は間違いがないように、目を見張る年齢だった。


「あのさ。階堂の事なんだけど……」

わざわざ慣れない妹の部屋に来てまで話そうとしていたのは、敦弥さんの話?

「最近、仕事で大変そうなんだ。」


どうしたんだろう、私。

なんだか、心がイラつく。

私にはそんなこと、一言も言っていなかったのに、どうして兄さんは、敦弥さんのそんな事を知っているの?


「美雨。階堂は、連絡を取りたくても、取れないんだ。」

「どうして?」


どうして?って聞いたのに、兄さんは黙っている。

「ねえ、兄さん。敦弥さんの事、何か知っているのなら、教えて!!」

私は兄さんの傍に、すがる様に坐った。

「お願い……」

私、まだ恋愛経験なんて少ないけれど、あんなに一人の男の人に求められたのって、初めて。

だから、受け入れられない。

全く連絡の一つもない、この現状を。


「美雨……」

「敦弥さんは、私の事、嫌いになっちゃったの?」

「それはない!!」

兄さんは、私の肩を掴んで、力強く否定してくれた。

「階堂は、美雨の事を本当に大事に思っているんだ。それだけは信じてやってくれ。」


男同志の友情なの?

でも、私にはわからない。

だって、どうして兄さんの方が、敦弥さん事を知っているの?

私の方が、誰よりも敦弥さんの傍にいるって、思っていたのは嘘だったの?


「美雨…階堂は…階堂は…」

そう言った兄さんは、なぜか辛そうな表情をしていた。

「階堂は、自分の会社を手放さなければならない寸前なんだ。」

「ウソ!!」

「嘘じゃない!!」


呼吸が上手くいかない。

どうして!?

会社はあんなにうまくいっていたのに!!


「恐れていたことが起こった。」

「恐れていたこと?」

「ああ。森川社長がいつの間にか、階堂の会社の筆頭株主になっていた。社長は、有りもしない業績悪化を株主総会に叩き付き、社長である階堂に、責任を押し付けた。」

「ええ!?」

「信じられない事に周りは、森川社長の手に周った。ここ一か月の業績が前年対比を超えなければ、代表取締役の座を降りろと階堂に迫ったんだ。」


私の頭の中が、真っ白になる。

そんな…

そんな事が、敦弥さんに起こっていたなんて。


「敦弥さんは?敦弥さんは、どうしているの?」


どうして、あの人が一番大変な時に、私は側にいる事ができないのだろう。


「階堂はもちろん、自分の会社の為に、今必死で働いている。自分が取締役を解任されれば、あの会社は、文字通り森川社長の物になってしまうからな。」

いつか、敦弥さんが言ってた。

今の仕事は、自分の人生が詰まっているって。


「うん…わかった。」

寂しいけれど、納得しなきゃいけない。

「美雨。」

兄さんは、私の肩に腕を回した。

「この状況が、いつまでも続くわけじゃない。階堂の会社が持ち直せば、またいつもと同じように、階堂と会う時間が取れるよ。」


恋人同士のハグとは違う。

親は子供にするような、そんな安心するハグだ。


「うん。」

兄さんはいつだってそう。

私が寂しくないように、いつも励ましてくれる。

「美雨。俺、美雨には誰よりも幸せになってほしいんだ。」

抱きしめてくれる腕の力が、心なしか強くなる。


「美雨には、俺のせいでたくさん迷惑をかけた。」

「迷惑って?」

「俺の為に、一番大事なモノを失った。」

私が少しだけ兄さんが離れると、あっさり兄さんの体は、私の体から遠のいた。

「…別に私、何も失っていない。」

「本当か?」

兄さんが真剣な目で、私を見つめる。

「三科に襲われた時、美雨は無かった事にしてと。誰にも言わないでと言ったよな。」

兄さんの真剣な目が、あの日の事を思い起こさせる。


「最初は、男に襲われた事なんて、泣き寝入りするのは悔しいけど誰にも知られたくない。そんな気持ちだと思ってた。だが、時間が経ってふと考えてみると、三科は俺に『妹をくれ。』と言った。もしかしたら…三科は最後まで無理に、美雨の体を要求したわけじゃないんじゃないか?」

忘れかけていたあの人の声が、だんだん聞こえてきそう。

「わかんないよ。」

「美雨。」

「もう、忘れたから。」

忘れた。

ううん、忘れる。



「忘れたんだったら、いいんだ。」

兄さんはそう言うと、スッと立ち上がった。

「ただ美雨。これだけは覚えていてくれ。」

そっと、兄さんの温かい手が、私の頬に触れる。

「自分を犠牲にするような人生なんて、送らないでくれ。」

「…わかった。」

その返事を聞くと、兄さんは私の部屋から出て行った。

しばらくは、兄さんが廊下を歩く音が聞こえたけれど、その後は何も聞こえない。

その沈黙が、余計にあの夜の事を、思い出せる。

私は、止せばいいのに膝を抱えて、その中に顔を埋めた。


力任せに押し倒される体。

引きちぎられる洋服。

好きでもない男に、撫でまわされる身体。

口元を塞がれ、耳元に聞こえてきた悪魔のような低い声。



『兄貴を、助けたいんだろ?』


受け入れたのは、私。

経験した事のない痛みに耐えながら、私は思った。




これで、兄さんの会社は倒産しなくて済む




初めて会った人を、なぜそこまで信じたのか、わからない。

でも実際に、兄さんの会社は持ち直した。

それとは逆に、兄さんは私に対して、それまで以上に優しくなったけれど。

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