【R18】Gentle rain

日下奈緒

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心と体

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「どけよ、美雨。」

「嫌よ!」

そう言い放った美雨を押しのけて、太我は俺の胸倉を掴んで、立ち上がらせた。

「階堂。あんたは俺より一回り以上も年上だけれども、仲間とか同志とか、それ以上に親友だと思ってたんだ。それを!人の妹で遊びやがって!そんな奴だったのか!!!」

俺は胸にある太我の拳を、力づくで振り払った。

「遊んでなんかいないさ。本気だ。」

「はあ?」

「本気で美雨を愛している。」

その言葉に、太我は冷静になったのか、俺から手を離して一歩二歩下がると、またリビングへと戻って行った。

「敦弥さん。」

側に寄ってきた美雨を、そのまま強く抱きしめた。

「ごめん。心配かけた。」

「ううん…わたしこそ。疑ってごめんなさい。」

その様子を、遠くで見ていた太我が、また疲れたように椅子に身体を放り出して座った。

「おまえの気持ちはわかったよ、階堂。」

「太我……」

「だけど階堂。事態は思ったよりも難しくなるぞ。」

「どういう事だ?太我。」

俺と美雨はキッチンを出て、リビングにいる太我の傍に行った。

「階堂と森川社長のお嬢さんとの噂、思ったよりも周囲に広がっている。」

「えっ?」


いつの間に?


「階堂、森川社長のお嬢さんと何かなかったか?」

「何もないよ。」

「本当か?」

「ああ。」

即答出きるほど、俺の中にはやましい気持ちなんて、一度もない。

「些細な事でもいいんだ。」

「些細なことって……」


一瞬浮かんだのは、森川社長のパーティーでの、菜摘さんとのキスだった。

だが、美雨の前でそんな事を言ったら…


「美雨。席を外せ。」

「兄さん!」

「階堂にとっても、おまえにとっても、一番大事な事なんだよ!」

スッと俺の手を、美雨が握った。

「何を聞いても、私は敦弥さんを信じるわ。私も一緒に受け止める。」

そう言って俺を強い眼差しで、見つめた美雨。

そこには一点の曇りもなかった。


「…森川社長のホームパーティーに呼ばれたことがあった。それは菜摘さんの誕生日会も含まれていた。だがプレゼントを持ってきたのは、俺一人だった。」

「あの時の……アロマキャンドル?」

「ああ。」

美雨が働いていた店で、美雨に選んでもらったあのキャンドルだ。

「もしかしたら、森川社長の策略かと思いながら、俺は菜摘さんにプレゼントを渡した。でもどこかで……菜摘さんに気に入って貰えれば、森川社長ともっと太いパイプができるかもしれないと、思ったのかもしれない。」


そうだ。

あの時の俺は、森川社長の目に止まっている事をいい事に、菜摘さんに言い寄っている男達とは、格が違うのだと勘違いしていたんだ。


「案の定、菜摘さんは俺に、手作りの料理を用意してくれていた。このタイミングに乗ればと思って、二人きりになって……彼女に誘われるがままに、キスを交わした。」


胸が痛んだ。

どうしても、美雨の顔を見ることができなかった。


「美雨と付き合ってからの話か?」

「いや。付き合う前の話だ。」

太我ははあぁっと、大きくため息をつくと、髪を激しく掻き上げた。

「許してやれ、美雨。付き合う前の事は、どうすることもできない。」

「…うん。」

俺と美雨は、ゆっくりと目を合わせた。


美雨の瞳に、涙が溜まっている。

謝りの言葉も出なくて、俺は美雨の目の脇に、そっと口付けを落とした。


「ったく。親友と妹が付き合うと、これだから困る。」

二人を見ていた太我は、呆れていた。

「すまん、太我。」

俺の傍で、さっきまで目に涙を貯めていた美雨が、ウフフッと笑っている。

「いいさ。これっきりだぞ。あとは二人がケンカしようが何しようが、俺には関係ない。」

そう言った太我は、どこか寂しそうな背中を見せていた。


それを見た美雨が、太我を後ろから抱きしめた。

「兄さんも大好きよ。」

「ウソつけ。何かあったら、階堂を取るくせに。」

笑い合っている太我と美雨に、少しだけ心を救われた気がした。

「階堂。ここからが、本題だ。」

太我のその一言で、俺は太我の傍にあるソファに、腰を降ろした。

「森川社長のお嬢様が、以前交際していた男を知っているか?」

「ああ。三科紘文という奴に聞いた。」

「三科!?あいつから聞いたのか?」

「偶然な。奴の、死んだ兄貴だそうじゃないか。」

太我は、俺の口から出た言葉に、しばらく黙ってしまった。

「どこまで聞いた?」

「兄貴は菜摘さんと付き合う前までは、何でもない普通のサラリーマンだったこと。菜摘さんと付き合ってからは、どんどん昇格していったが、仕事の失敗で左遷された。その時に菜摘さんに別れを告げられ、引越す前の日に、自殺したと。」

「そうか…そこまで知っているのか……」

普段忙しい毎日を送っている太我に、こんなことでまた精神的に悩ませるのはどうかと思ったが、太我はぐったりとしながらも、話を続けてくれた。

「三科は、太我の大学の時の、同級生なんだろう?」

「ああ。」

「三科は、菜摘さんのせいで、自分の兄貴が死んだと思っている。いや、そればかりじゃない。菜摘さんを通して、社長の娘達という存在を、良くは思っていないらしいだ。」

「そうか……」

俺の目の前で、太我は深いため息をついた。

「なあ、太我。三科紘文という奴は、大学時代はどんな感じだった?」

太我は、ちらっと俺を見ると、またテーブルに視線を置いた。

「頭が良かった。どうすればみんなが得するか、それを一早く計算できた奴だった。もちろん見た目もよかったが、誰にでも気さくで優しくて、男女問わず慕われていた。」

「……まるでヒーローみたいじゃないか。」

俺が街中で受けた印象とは、大分違った。

「しかも、家族思い。とりわけ兄貴の事を、尊敬していた。」

その兄貴が自殺。

太我ばかりか、俺の視線も床へと落ちて行った。

「その時に、三科が付き合っていた彼女というのが、今働いている会社の社長の娘だった。」

「えっ?大学からの付き合い?」

確か秘書の子からの報告書では、その後に二人は別れているはずだ。

「階堂。さっき三科は、社長の娘たちという存在を、よく思っていないと言ったよな。」

「ああ。」

三科紘文は、“社長夫人という地位と、贅沢という日常がほしいだけの奴ら”と表現していた。

「それはおそらく、森川社長のお嬢さんだけを見て、そう思ってるわけじゃない。」


なぜか俺は、その時。

太我は俺よりも10歳も年下だと言うのに、たくさんの事を背負い、自分の中に閉じ込めているような気がした。

太我は、その美少年の顔立ちと、華奢な身体をしていた。

だから余計に、痛々しく感じる。


「太我、教えてくれ。おまえが知っている事、全部教えてくれ。今、俺は森川社長の大きな渦に吸い込まれているような気がするんだ。だが、そこで出会った三科紘文の言動も気になる。何か知っておくべきことがあるんじゃないかって、俺はそう思えてならないんだよ!」


俺と太我は、しばらく見つめ合った。

お互い、嘘偽りを言わない。

相手を信じる。

それを確かめ合っているようにも、思えた。

いつだったか。

森川社長に、『夏目太我に惚れたか。』と尋ねられた。

あの時は冗談にも程があると思ったが、今は違う。

太我の事を、一人の人間として、心から信用しているのだと、思うのだ。


「美雨。」

「なに?」

「棚の奥から、ワインを取ってきてくれないか。」

「うん……」

美雨はソファから立ち上がると、太我は自分の隣の席を引き、ここに座れと手を差し出した。

俺は無言で立ち上がり、太我の隣の席に座る。

二人で足を組むと、膝が触れるか触れないかの距離だった。


そこへ丁度、美雨が一本のワインと、グラスを二つ持ってきてくれた。

オープナーを持ち、美雨がワインを開けようとした時だ。

「ああ、いい。俺が開ける。」

そう言って、太我は美雨からワインと、オープナーを受け取る。

スーッと滑らかにワインを開ける仕草は、やはりワインの輸入会社の社長らしく、美しかった。

コルクを開け、その匂いを嗅ぎ、その香りに異常がない事を確かめると、太我は俺のグラスにルビー色の香り高いワインを注いでくれた。

「シャトー・マルゴーだ。」

「俺でも聞いた事がある。」

「ああ。ボルドーワインの中でも特に好きなシャトーでね。」

グラスで乾杯をし、お気に入りだと言うワインを飲む太我は、どこか夏目社長を思い起こさせた。


そして、知らぬうちに美雨が、いなくなっている事に気づく。

「美雨は部屋に戻ったんだろう。俺と階堂を二人きりにさせてくれたんだ。」

太我のそのセリフを聞いて、少し嫉妬を覚えた。

どんなに美雨と愛し合っていても、実の兄との太我と過ごした年数には敵わない。


「階堂。あいつは、いい女か?」

「ああ、美雨はいい女だよ。」

同じ女性を兄の太我は“あいつ”と呼び、俺は“美雨”と呼ぶ。

まるで一人の女性を、二人で取り合っている気分だ。
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