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第六章-朔日-
第6章 第93話
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雪風は、格闘技の技の引き出しは、年齢の割には多い方である。
これは、将来有望なハンター候補の若人に、是非とも己が奥義を一手授けようとする『協会』の格闘バカの重鎮が、一山いくらで売る程わんさか居る事に起因する。
そんな雪風だが、身内をはじめとする肉食系の獣人とやり合った事はあっても、草食系獣人と手合わせした経験は皆無、どころか、そもそもお目にかかった事すらない。
――さぁて。ドルマさん、正直、身のこなしは全然ダメそうだけど……――
ぎりぎりと、音まで聞こえそうなくらいに歯を食いしばって雪風を睨めつけるドルマを見ながら、雪風は、考える。
――……まあ、そりゃそうか。お嬢様だもんね、殴り合いのケンカなんかした事無いか――
「くあああっ!」
雪風の思いなど知る由もなく、だしぬけに、構えも何も無しに、やみくもにドルマが掴みかかってくる。
雪風は、体捌きで突進を躱すと同時にそのドルマの両手をまとめて右手で払い、流れで軽く身を沈め、
「ふっ!」
左の外門頂肘をドルマの右脇に決める。
「……ぐ、う……」
たまらず、ドルマは右脇を庇うように体を丸める。
「はっ!」
その、うずくまるように低くなったドルマの顔面に、綺麗に腰をひねった雪風の右ストレートが入る。
声も上げず、ドルマは斜め後ろに崩れ落ちる。
――とはいえ……――
間合いをとって左前の猫足立ちに構えつつ、雪風はドルマから目を離さない。そのドルマは、崩れ落ちた状態から、早くも両手をついて体を起こそうとし始める。
雪風の予想より、回復が、早い。
――……回復力、再生能力は今のあたしと互角かそれ以上、生かせてないけどパワーもスピードも互角以上。それに……――
ドルマの目が、雪風に向く。今ひとつ焦点の合っていない目、しかし、その瞳の奥には、冥い炎のような闇が、強く、激しく、燃えている。
――……それ!それよ、それ!――
雪風は、してやったりと、ほくそ笑む。
――どんだけ鬱積してるか知らないけど、その黒い感情、あたしが全部受け止めたげるから!吐き出しちゃえ!――
ゆらりと立ち上がったドルマは、あろうことか、雪風を真似て構えをとった。
――馬鹿にして!馬鹿にして!!馬鹿にしてぇ!!!――
雪風の左足刀のミドルキックを右腕で受けたドルマは、雪風の笑みを、余裕の表れ、嘲笑だと受け止めた。
――ふざけるなぁっ!――
「くあああっ!」
視界が、真っ赤に染まっているような気がする。考えが、まとまらない。そもそも、考えているのかどうかすら分からない。
ただ、体が動く、衝動的に。文字通り、突き動かされるように。
掴み。爪をたて。噛みついて。角で刺す。
ただ、それだけ。技も何も無い、獣のような突進。
だが、それでは。
それではダメだと、頭の片隅で微かに、消え入りそうな、かき消すような声がする。
そんな気がした、気のせいかもしれない、そう思う間もなく、ドルマは雪風にいなされ、強烈な肘打ちを食らい、思わず屈んだところで顔面をしたたかに殴られる。
痛みと衝撃で、気が遠くなる。腰が砕け、膝が崩れる。
――なんで……――
現実味のないふわふわした感覚の中で、ドルマは思う。
――なんで、勝てない、掴めないの?だって、今まで……今までは、こんなこと……今までは……――
ドルマは、思い出す。
忌まわしい記憶を。
――……今までは、触れただけで、みんな死んでしまったのに――
この姿に生まれ変わってから、私は、幾度か人を殺めた。
最初は、本当に何も分からなかった。私の体を、剥き出しの胸を見るその下卑た視線が嫌で、私はその手を振り払った。振り払ったつもりだったけれど、私の手はあいつの腕を掴んでいた。そして。
あいつは、あの男は、死んだ。
血を、失って。私の手が触れたところから、幾つもの傷を、まるで猫ほどの獣に噛みつかれたような傷跡をいくつも付けて。その傷跡から、腕といい体といい、見えるところ全てについたその無数の傷跡から、赤黒い血を溢れさせて。
あの男。私を娶ろうとした老地主は、事切れた。
私は、何も感じなかった。哀しいとも、怖いとも。
ただ、高揚していた。得体の知れない高揚感だけが、そこにあった。
その高揚感の中、私は、その場を見て悲鳴を上げる母を、腰を抜かした父を順番に抱きしめた。
精一杯の笑顔で、優しく抱きしめて。そうだ。大丈夫、何を怯えているの?私はドルマ、貴女達の娘よ。そう言ってなだめようとしたのだ。
気が付いたら、母も父も、事切れていた。
あの男と同じような傷を、私が触れたところにいっぱい付けて。
不思議な高揚感の中、そうだ、その事は覚えている。
私は自由だ、自由になった。そう思った事だけは。
私は、自由。この世で、自由。
父も母も、自由。あの世で、自由。
高揚感の中、私は、とてもうれしかった。
人の姿に戻った時、あれはきっと悪い夢だと、そう信じていた。
現実感のない、モノトーンのようでもあり、人の認知出来る範囲を超えた極彩色でもある、歪んだ光景。
ナルブ様が養女として受け入れてくださった時も、だからあえて、両親の事やあの男の事は言わなかった、口に出さなかった。
不思議な、高揚感。自分が、人ではない、人ではなくなったという、酩酊に近い感覚。酷い酔い方をする程お酒を飲んだ事はないけれど、きっと、あれは、あの姿と時のあれは、そういう事に近い感覚なのだろう。
ただ、唯一、『元君』の前でだけは、『西王母』の御前では、私は、私だった。あの姿であっても、私は、私として自我を持ち、自制していられた。
だから、受け入れられた。
全てを。事実を。
『元君』のお言葉であれば、疑う余地はないから。
私自身が『元君』の一部でもあるのだそうだから、疑う余地など、あり得ない。
『元君』はおっしゃった。あなたに罪は無い、全てはあるがまま、全ては運命。あなたはそのままでいい。思うままに生き、思うままに動き、そして、いつか、思うままに死になさい、と。
だから、私は、ほんのわずかなりとも『元君』と繋がりのある肉を持つ私は、『元君』のお言葉のままに生きる、そう決めた。
その言葉に、すがった。
すがって、その代わりに、感情を殺した。
自我を、殺した。
殺した、はずだった。
それが変わったのは、あの時。
ユキさんに、こっぴどく蹴飛ばされた時。
あの時、始めてユキさんが私に対峙した時、ユキさんは、私を見て驚きこそすれ、恐れも、逃げもしなかった。
私に触れたのに、死なないどころか、傷一つ付けられなかった。
それどころか、私を殴りつけ、蹴りつけ、私の腕をへし折った。
そんな人が居るものかと、そんな事が出来る人が居るのかと、びっくりした。本当に、びっくりした。
あの不思議な高揚感がなかったら、驚きと痛みで叫んでいたかもしれない、逃げ出してしまっていたかもしれないくらいに。
その夜は、しばらく眠れなかった。
ナルブ様の前から下がり、自室で床についても、左腕が、ずっと痺れていた。
折れた骨は、すぐに元に戻った。
痛みも、すぐに引いた。
でも、不思議な痺れが、ずっと残っていた。
それどころか、その痺れは、どんどん体中に広がっていった。
広がるにつれて痺れそのものは薄く、弱くなっていったけれど、その分全身に広がるものだから、私は、このまま体がおかしくなってしまうのではないかと、床の中で震えていた。
そして、気が付いたら、朝になっていた。ケガと緊張と疲労で、いつの間にか眠って、あるいは気を失っていたのだろう。
目が覚めてみれば、体の痺れはすっかり消えていた。
でも、左腕に、痣が残っていた。
それほどまでに、ユキさんの蹴りは強烈だったのだろう。意図的に消す事も出来たけれど、私は、少なくともその時は痣を消さずに、包帯を巻き直した。
何故そうしたのか、今でもよく分からない。
切られても突かれても傷一つつかなかったあの体に初めて付いたその傷を、その時の私は残しておきたかったのかもしれない。
多分、自分も、傷つく事が出来る、ただの生き物なのだと、確認する為に。
おかしいと気付いたのは、あの時。
私は、ナルブ様やモーセス師範の為の使い走り、事務的な役目でしかないと思っていたペーター少尉とのやりとりに、気を許してしまっていた。
ペーター少尉は、私が『井戸』に身を投げ、人事不省で居た間にナルブ様を訪ねて来られたから、その時にどのようなやりとりがあったか、私は知らない。
生まれ変わり、『元君』の思し召しに従って生きると決めた私は、ただ、ナルブ様の養女として相応しいよう、精いっぱいに、ナルブ様の使いの役を果たすだけ、単なる通信係、そのはずだった。
そのはず、だったのに。
そんなはずはない、自分にそう言い聞かせてみても、無駄だった。
あの日、ペーター少尉が『都』にいらした日から、私は、感情を殺し、しかし感情があるように『ドルマ』という役を演じているつもりだったのに、ペーター少尉の前ではそれが出来ていないと気付いてしまった。
昨日までは、何も感じていなかった、ただひたすらに事務的に、しかし表面だけは取り繕って、『有能なナルブ様の秘書兼養女』を演じていた、そのはずなのに。
驚いた事に、あの姿になった時のあの不思議な高揚感、それすらも、嘘のように消えてしまっていた。
そして……私の意思と関係なく、血と肉に貪欲に反応する私の体も、なりを潜めてしまっていた。
再びユキさんの前に姿をさらした時、それに気付いた。
全てのきっかけは、ユキさんに殴られ、蹴飛ばされた、あの夜なのだと思う。
藁にもすがる思いで『元君』に尋ねてみても、『元君』にも、理由はわからなかった。
分からないと言っているだけなのかも知れなかったけれど、私に理由がわからない事に違いは無いし、『元君』がそんな意地悪を私にする理由も無いから、私には全能にして全知、偉大なる母たる『西王母』であっても、御存知ない事はあるのだろう。
だけれども。
『元君』は、こうも言った。
「ドルマ。私の嬰児、私の分身、私の血肉を分けた娘。私はあなたに、思うままに生きなさいと言った。それをどう解釈するかはあなた次第だけど、自分に向ける感情と、誰かに向ける感情は、分けてあげないといけなくてよ?」
『元君』は、見抜いていた。
私が、認めたくない、受け入れたくない事実を恐れて、自分の心を捨てたように振る舞っている事を。
それはそうだ。だって『元君』は『元君』、崑崙の仙人の上に君臨する『西王母』。仙人どころか凡俗中の凡俗である私の頭の中など、お見通しに違いないのだから。
そう、そうだ。私は、自分が生まれ変わった事、生まれ変わったその体で人を幾人も殺めた事、それら一切を認めたくなかったのだ、無意識の奥底で。
それを認めたら、私は、心まで、人ではない怖ろしい何かになってしまう、いや、既になっている事を認める事になるのだから。
無意識にそう思うからこそ、私は、心を捨てた、心を閉ざした、心のない抜け殻だと自分に言い聞かせたのだ。
「ああ、可哀想なドルマ。私の愛しい嬰児。あなたの心が折り合いを付けるのがいつになるのか、私にすら見えないけれど、必ずそれは来ます、来ないはずがありません。だから、ドルマ、あなたは、心のままに生きなさい。心のままに、悦び、哀しみ、笑い、泣きなさい。そして、そう、これだけは見えます。あなたが泣く時、胸を貸す者がきっと現れる。その事だけは、間違いがありません」
そう言って、『元君』は私を抱きしめた。
「その誰かは、もちろん私ではありません。それが誰か、あなたではない私には、見る事は出来ても知る事は出来ないから、教えようがないのだけれど。必ず現れる、女と、男。そう遠くない未来に。だから、その時は、遠慮せずに、胸を借りて、泣いて、苦しみを吐き出して、代わりに悦びを受け入れなさい」
そう言われた時、私は、悟った。
その女は分からないけれど、その男は、ペーター少尉だ、と。
そうでないはずがない。
そうでなくてはならない。
そうに、違いない。
そうだ。
私は、ペーター少尉を、慕っていたのだ。
ふしだらな女と、人は嗤うだろう。
つい先日、行きずりの外国の男に懸想し、酷い目に合い、懲りずに今またろくに知りもしない外国の男に心を引かれる、ふしだらな女、と。
でも、そんな事はどうでもいい。誰がどう思おうが、どうでもいい。
大事なのは、私の心。私は、それに気付いた私の心は、それで大変に満たされていたから、それで良いのだ。
そんな感情は捨てた、『井戸』に身を投げた時に体からこぼれ落ちたと思っていたし、それからずっとそう振る舞っていたから自分としても意外だったけれど。
自分が人を殺めた事すらも、親を手にかけた事すらもどうでもよくなってしまうくらい、意外だった。
意外といえば、何故ペーター少尉に惹かれたのか、それも私にもよく分からない。
よく分からないけれど。
その事を打ち明けたら、『元君』は、それは素敵な事だと言って、たいそう喜んでくれた。
『元君』が何故私ごときの事でそれほどまで喜ばれるのかはよくわからないけれど、私としてもそれは嬉しい事だった。
でも。
それも、もう終わり。
あの夜から、夕べから、ペーター少尉は、ペーター様は、変わってしまわれた。
何がどう変わったのか、私にはよくわからない。でも、はっきりと、分かっている事がある。
ペーター様は、ペーター様の心は、失われてしまった。
まるで、私が心を取りもどしたのと、入れ替わるように。
だから。
私も、再び、心を捨てる。
心を捨てて、心を持たない同士、ペーター様にお仕えする。
お仕えし、そして。
いつか、それに相応しい時にペーター様を殺し、私も死んで、全てを終わらせれば良い。
そんな破滅こそが、こんな私に相応しい。
その時が来るまで。そのチャンスが巡ってくるまで。
私は、ドルマは、心を殺し、心を捨てて、ペーター様にお仕えするのだ。
そう伝えた時、『元君』が寂しそうだった事だけは、よく覚えている。
はっと、ドルマは目を開く。
どれくらいの時間、そうしていたのか。
両手を床につき、まだ言う事を聞かない体を無理矢理に起こす。
下半身に、まだ力が入らない。
上半身だけを起こし、横座りのような姿勢から振り返るようにして、ドルマは雪風を見る。
――ペーター様の言いつけを、守るのだ――
ドルマは、自分に言い聞かせる。
――その為には、どうすればいい?どうすれば、勝てる?――
下半身が、体が、急速に力を取りもどしてゆく。
無理矢理立ち上がり、ドルマは雪風の姿勢を真似る。
――業腹だけど。少しでも、その技を盗むのが、今は一番正しいと思える――
深呼吸し、ドルマは全身の力が戻っている事を確認する。蹄が、石の床を掻いて乾いた音をたてる。
――全身で、全ての能力で、か……なるほど、そういう事か――
ドルマの髪が、角が、ドルマの意思で、うねった。
――なら、まず、試してみよう。あの日、最初に見た、あの体の使い方を……――
左前に構えたドルマを、同じように構えた雪風は、観察する。
――見よう見まねにしちゃ、様になってるじゃん。やっぱ、ドルマさん、頭良いんだ――
すり足で、にじり寄るようにして、雪風はじわじわと間合いを詰めてみる。
左前の猫足で構えるドルマは、しかし、下半身が山羊のそれになっているから、多少やりにくそうではある。
雪風は、獣の姿の時の自分もそうだから、そこは理解出来る、納得する。
納得した上で、思う。
――あの時のあたしの動きをコピーする気だろうけど……必ず、どっかでスカして来るはずよね――
一刀一足の間合いまであと少し、といったところで、ドルマが動いた。
前に出ている左足が、低く、小さく、蹴り出される。
雪風から見れば、見え見えのフェイント。とはいえ、対応しなければ多少なりともダメージはもらうだろう。
雪風は、自分の左足を引いて、ドルマのローキックをかわす。
その、退けた雪風の上半身めがけ、ドルマの左の拳が伸びる。
スピードも、腕の伸びも、まるでなってないけれど、それでもこの体だ、フライ級のパンチ程度には威力があるだろう。
瞬時にそう思って、雪風は右のガードを上げる。まともに受けるのではなく、パンチの手首を内側から弾くようにして、右手で外に逸らす。
次に来るのは、右。左を引いた反動を載せた右ストレート、のはず。そう思って、雪風は前に出ている左手で、それを払うか、それとも掴んで投げ落とすか、パンチの軌道に合わせて決めようと考える。
その雪風の予想に違わず、ドルマの右手が動く。
右だけでなく、左も。
――え?――
ドルマの両手の動きは、雪風の予想を裏切る。
左右に開いた両手で、体のバランスをとるようにして、ドルマの体が中に浮く。
ドルマの両足が、雪風に向けて伸びる。
少しだけ傾いだ仰向けの姿勢で、一度いっぱいに曲げた膝のバネで、ドルマは両足を、山羊の、偶蹄類の蹄の付いた鋭く強力な蹴りを、雪風の胸元、喉の下あたりめがけて放つ。
「ぃやあっ!」
意表を突いた、ドロップキック。
雪風も、躱す事はおろか、まともにブロックする事すら出来ない。
わずかに引き戻した左手ごと、強烈無比な蹴りをもらって、雪風は後ろに吹き飛んだ。
これは、将来有望なハンター候補の若人に、是非とも己が奥義を一手授けようとする『協会』の格闘バカの重鎮が、一山いくらで売る程わんさか居る事に起因する。
そんな雪風だが、身内をはじめとする肉食系の獣人とやり合った事はあっても、草食系獣人と手合わせした経験は皆無、どころか、そもそもお目にかかった事すらない。
――さぁて。ドルマさん、正直、身のこなしは全然ダメそうだけど……――
ぎりぎりと、音まで聞こえそうなくらいに歯を食いしばって雪風を睨めつけるドルマを見ながら、雪風は、考える。
――……まあ、そりゃそうか。お嬢様だもんね、殴り合いのケンカなんかした事無いか――
「くあああっ!」
雪風の思いなど知る由もなく、だしぬけに、構えも何も無しに、やみくもにドルマが掴みかかってくる。
雪風は、体捌きで突進を躱すと同時にそのドルマの両手をまとめて右手で払い、流れで軽く身を沈め、
「ふっ!」
左の外門頂肘をドルマの右脇に決める。
「……ぐ、う……」
たまらず、ドルマは右脇を庇うように体を丸める。
「はっ!」
その、うずくまるように低くなったドルマの顔面に、綺麗に腰をひねった雪風の右ストレートが入る。
声も上げず、ドルマは斜め後ろに崩れ落ちる。
――とはいえ……――
間合いをとって左前の猫足立ちに構えつつ、雪風はドルマから目を離さない。そのドルマは、崩れ落ちた状態から、早くも両手をついて体を起こそうとし始める。
雪風の予想より、回復が、早い。
――……回復力、再生能力は今のあたしと互角かそれ以上、生かせてないけどパワーもスピードも互角以上。それに……――
ドルマの目が、雪風に向く。今ひとつ焦点の合っていない目、しかし、その瞳の奥には、冥い炎のような闇が、強く、激しく、燃えている。
――……それ!それよ、それ!――
雪風は、してやったりと、ほくそ笑む。
――どんだけ鬱積してるか知らないけど、その黒い感情、あたしが全部受け止めたげるから!吐き出しちゃえ!――
ゆらりと立ち上がったドルマは、あろうことか、雪風を真似て構えをとった。
――馬鹿にして!馬鹿にして!!馬鹿にしてぇ!!!――
雪風の左足刀のミドルキックを右腕で受けたドルマは、雪風の笑みを、余裕の表れ、嘲笑だと受け止めた。
――ふざけるなぁっ!――
「くあああっ!」
視界が、真っ赤に染まっているような気がする。考えが、まとまらない。そもそも、考えているのかどうかすら分からない。
ただ、体が動く、衝動的に。文字通り、突き動かされるように。
掴み。爪をたて。噛みついて。角で刺す。
ただ、それだけ。技も何も無い、獣のような突進。
だが、それでは。
それではダメだと、頭の片隅で微かに、消え入りそうな、かき消すような声がする。
そんな気がした、気のせいかもしれない、そう思う間もなく、ドルマは雪風にいなされ、強烈な肘打ちを食らい、思わず屈んだところで顔面をしたたかに殴られる。
痛みと衝撃で、気が遠くなる。腰が砕け、膝が崩れる。
――なんで……――
現実味のないふわふわした感覚の中で、ドルマは思う。
――なんで、勝てない、掴めないの?だって、今まで……今までは、こんなこと……今までは……――
ドルマは、思い出す。
忌まわしい記憶を。
――……今までは、触れただけで、みんな死んでしまったのに――
この姿に生まれ変わってから、私は、幾度か人を殺めた。
最初は、本当に何も分からなかった。私の体を、剥き出しの胸を見るその下卑た視線が嫌で、私はその手を振り払った。振り払ったつもりだったけれど、私の手はあいつの腕を掴んでいた。そして。
あいつは、あの男は、死んだ。
血を、失って。私の手が触れたところから、幾つもの傷を、まるで猫ほどの獣に噛みつかれたような傷跡をいくつも付けて。その傷跡から、腕といい体といい、見えるところ全てについたその無数の傷跡から、赤黒い血を溢れさせて。
あの男。私を娶ろうとした老地主は、事切れた。
私は、何も感じなかった。哀しいとも、怖いとも。
ただ、高揚していた。得体の知れない高揚感だけが、そこにあった。
その高揚感の中、私は、その場を見て悲鳴を上げる母を、腰を抜かした父を順番に抱きしめた。
精一杯の笑顔で、優しく抱きしめて。そうだ。大丈夫、何を怯えているの?私はドルマ、貴女達の娘よ。そう言ってなだめようとしたのだ。
気が付いたら、母も父も、事切れていた。
あの男と同じような傷を、私が触れたところにいっぱい付けて。
不思議な高揚感の中、そうだ、その事は覚えている。
私は自由だ、自由になった。そう思った事だけは。
私は、自由。この世で、自由。
父も母も、自由。あの世で、自由。
高揚感の中、私は、とてもうれしかった。
人の姿に戻った時、あれはきっと悪い夢だと、そう信じていた。
現実感のない、モノトーンのようでもあり、人の認知出来る範囲を超えた極彩色でもある、歪んだ光景。
ナルブ様が養女として受け入れてくださった時も、だからあえて、両親の事やあの男の事は言わなかった、口に出さなかった。
不思議な、高揚感。自分が、人ではない、人ではなくなったという、酩酊に近い感覚。酷い酔い方をする程お酒を飲んだ事はないけれど、きっと、あれは、あの姿と時のあれは、そういう事に近い感覚なのだろう。
ただ、唯一、『元君』の前でだけは、『西王母』の御前では、私は、私だった。あの姿であっても、私は、私として自我を持ち、自制していられた。
だから、受け入れられた。
全てを。事実を。
『元君』のお言葉であれば、疑う余地はないから。
私自身が『元君』の一部でもあるのだそうだから、疑う余地など、あり得ない。
『元君』はおっしゃった。あなたに罪は無い、全てはあるがまま、全ては運命。あなたはそのままでいい。思うままに生き、思うままに動き、そして、いつか、思うままに死になさい、と。
だから、私は、ほんのわずかなりとも『元君』と繋がりのある肉を持つ私は、『元君』のお言葉のままに生きる、そう決めた。
その言葉に、すがった。
すがって、その代わりに、感情を殺した。
自我を、殺した。
殺した、はずだった。
それが変わったのは、あの時。
ユキさんに、こっぴどく蹴飛ばされた時。
あの時、始めてユキさんが私に対峙した時、ユキさんは、私を見て驚きこそすれ、恐れも、逃げもしなかった。
私に触れたのに、死なないどころか、傷一つ付けられなかった。
それどころか、私を殴りつけ、蹴りつけ、私の腕をへし折った。
そんな人が居るものかと、そんな事が出来る人が居るのかと、びっくりした。本当に、びっくりした。
あの不思議な高揚感がなかったら、驚きと痛みで叫んでいたかもしれない、逃げ出してしまっていたかもしれないくらいに。
その夜は、しばらく眠れなかった。
ナルブ様の前から下がり、自室で床についても、左腕が、ずっと痺れていた。
折れた骨は、すぐに元に戻った。
痛みも、すぐに引いた。
でも、不思議な痺れが、ずっと残っていた。
それどころか、その痺れは、どんどん体中に広がっていった。
広がるにつれて痺れそのものは薄く、弱くなっていったけれど、その分全身に広がるものだから、私は、このまま体がおかしくなってしまうのではないかと、床の中で震えていた。
そして、気が付いたら、朝になっていた。ケガと緊張と疲労で、いつの間にか眠って、あるいは気を失っていたのだろう。
目が覚めてみれば、体の痺れはすっかり消えていた。
でも、左腕に、痣が残っていた。
それほどまでに、ユキさんの蹴りは強烈だったのだろう。意図的に消す事も出来たけれど、私は、少なくともその時は痣を消さずに、包帯を巻き直した。
何故そうしたのか、今でもよく分からない。
切られても突かれても傷一つつかなかったあの体に初めて付いたその傷を、その時の私は残しておきたかったのかもしれない。
多分、自分も、傷つく事が出来る、ただの生き物なのだと、確認する為に。
おかしいと気付いたのは、あの時。
私は、ナルブ様やモーセス師範の為の使い走り、事務的な役目でしかないと思っていたペーター少尉とのやりとりに、気を許してしまっていた。
ペーター少尉は、私が『井戸』に身を投げ、人事不省で居た間にナルブ様を訪ねて来られたから、その時にどのようなやりとりがあったか、私は知らない。
生まれ変わり、『元君』の思し召しに従って生きると決めた私は、ただ、ナルブ様の養女として相応しいよう、精いっぱいに、ナルブ様の使いの役を果たすだけ、単なる通信係、そのはずだった。
そのはず、だったのに。
そんなはずはない、自分にそう言い聞かせてみても、無駄だった。
あの日、ペーター少尉が『都』にいらした日から、私は、感情を殺し、しかし感情があるように『ドルマ』という役を演じているつもりだったのに、ペーター少尉の前ではそれが出来ていないと気付いてしまった。
昨日までは、何も感じていなかった、ただひたすらに事務的に、しかし表面だけは取り繕って、『有能なナルブ様の秘書兼養女』を演じていた、そのはずなのに。
驚いた事に、あの姿になった時のあの不思議な高揚感、それすらも、嘘のように消えてしまっていた。
そして……私の意思と関係なく、血と肉に貪欲に反応する私の体も、なりを潜めてしまっていた。
再びユキさんの前に姿をさらした時、それに気付いた。
全てのきっかけは、ユキさんに殴られ、蹴飛ばされた、あの夜なのだと思う。
藁にもすがる思いで『元君』に尋ねてみても、『元君』にも、理由はわからなかった。
分からないと言っているだけなのかも知れなかったけれど、私に理由がわからない事に違いは無いし、『元君』がそんな意地悪を私にする理由も無いから、私には全能にして全知、偉大なる母たる『西王母』であっても、御存知ない事はあるのだろう。
だけれども。
『元君』は、こうも言った。
「ドルマ。私の嬰児、私の分身、私の血肉を分けた娘。私はあなたに、思うままに生きなさいと言った。それをどう解釈するかはあなた次第だけど、自分に向ける感情と、誰かに向ける感情は、分けてあげないといけなくてよ?」
『元君』は、見抜いていた。
私が、認めたくない、受け入れたくない事実を恐れて、自分の心を捨てたように振る舞っている事を。
それはそうだ。だって『元君』は『元君』、崑崙の仙人の上に君臨する『西王母』。仙人どころか凡俗中の凡俗である私の頭の中など、お見通しに違いないのだから。
そう、そうだ。私は、自分が生まれ変わった事、生まれ変わったその体で人を幾人も殺めた事、それら一切を認めたくなかったのだ、無意識の奥底で。
それを認めたら、私は、心まで、人ではない怖ろしい何かになってしまう、いや、既になっている事を認める事になるのだから。
無意識にそう思うからこそ、私は、心を捨てた、心を閉ざした、心のない抜け殻だと自分に言い聞かせたのだ。
「ああ、可哀想なドルマ。私の愛しい嬰児。あなたの心が折り合いを付けるのがいつになるのか、私にすら見えないけれど、必ずそれは来ます、来ないはずがありません。だから、ドルマ、あなたは、心のままに生きなさい。心のままに、悦び、哀しみ、笑い、泣きなさい。そして、そう、これだけは見えます。あなたが泣く時、胸を貸す者がきっと現れる。その事だけは、間違いがありません」
そう言って、『元君』は私を抱きしめた。
「その誰かは、もちろん私ではありません。それが誰か、あなたではない私には、見る事は出来ても知る事は出来ないから、教えようがないのだけれど。必ず現れる、女と、男。そう遠くない未来に。だから、その時は、遠慮せずに、胸を借りて、泣いて、苦しみを吐き出して、代わりに悦びを受け入れなさい」
そう言われた時、私は、悟った。
その女は分からないけれど、その男は、ペーター少尉だ、と。
そうでないはずがない。
そうでなくてはならない。
そうに、違いない。
そうだ。
私は、ペーター少尉を、慕っていたのだ。
ふしだらな女と、人は嗤うだろう。
つい先日、行きずりの外国の男に懸想し、酷い目に合い、懲りずに今またろくに知りもしない外国の男に心を引かれる、ふしだらな女、と。
でも、そんな事はどうでもいい。誰がどう思おうが、どうでもいい。
大事なのは、私の心。私は、それに気付いた私の心は、それで大変に満たされていたから、それで良いのだ。
そんな感情は捨てた、『井戸』に身を投げた時に体からこぼれ落ちたと思っていたし、それからずっとそう振る舞っていたから自分としても意外だったけれど。
自分が人を殺めた事すらも、親を手にかけた事すらもどうでもよくなってしまうくらい、意外だった。
意外といえば、何故ペーター少尉に惹かれたのか、それも私にもよく分からない。
よく分からないけれど。
その事を打ち明けたら、『元君』は、それは素敵な事だと言って、たいそう喜んでくれた。
『元君』が何故私ごときの事でそれほどまで喜ばれるのかはよくわからないけれど、私としてもそれは嬉しい事だった。
でも。
それも、もう終わり。
あの夜から、夕べから、ペーター少尉は、ペーター様は、変わってしまわれた。
何がどう変わったのか、私にはよくわからない。でも、はっきりと、分かっている事がある。
ペーター様は、ペーター様の心は、失われてしまった。
まるで、私が心を取りもどしたのと、入れ替わるように。
だから。
私も、再び、心を捨てる。
心を捨てて、心を持たない同士、ペーター様にお仕えする。
お仕えし、そして。
いつか、それに相応しい時にペーター様を殺し、私も死んで、全てを終わらせれば良い。
そんな破滅こそが、こんな私に相応しい。
その時が来るまで。そのチャンスが巡ってくるまで。
私は、ドルマは、心を殺し、心を捨てて、ペーター様にお仕えするのだ。
そう伝えた時、『元君』が寂しそうだった事だけは、よく覚えている。
はっと、ドルマは目を開く。
どれくらいの時間、そうしていたのか。
両手を床につき、まだ言う事を聞かない体を無理矢理に起こす。
下半身に、まだ力が入らない。
上半身だけを起こし、横座りのような姿勢から振り返るようにして、ドルマは雪風を見る。
――ペーター様の言いつけを、守るのだ――
ドルマは、自分に言い聞かせる。
――その為には、どうすればいい?どうすれば、勝てる?――
下半身が、体が、急速に力を取りもどしてゆく。
無理矢理立ち上がり、ドルマは雪風の姿勢を真似る。
――業腹だけど。少しでも、その技を盗むのが、今は一番正しいと思える――
深呼吸し、ドルマは全身の力が戻っている事を確認する。蹄が、石の床を掻いて乾いた音をたてる。
――全身で、全ての能力で、か……なるほど、そういう事か――
ドルマの髪が、角が、ドルマの意思で、うねった。
――なら、まず、試してみよう。あの日、最初に見た、あの体の使い方を……――
左前に構えたドルマを、同じように構えた雪風は、観察する。
――見よう見まねにしちゃ、様になってるじゃん。やっぱ、ドルマさん、頭良いんだ――
すり足で、にじり寄るようにして、雪風はじわじわと間合いを詰めてみる。
左前の猫足で構えるドルマは、しかし、下半身が山羊のそれになっているから、多少やりにくそうではある。
雪風は、獣の姿の時の自分もそうだから、そこは理解出来る、納得する。
納得した上で、思う。
――あの時のあたしの動きをコピーする気だろうけど……必ず、どっかでスカして来るはずよね――
一刀一足の間合いまであと少し、といったところで、ドルマが動いた。
前に出ている左足が、低く、小さく、蹴り出される。
雪風から見れば、見え見えのフェイント。とはいえ、対応しなければ多少なりともダメージはもらうだろう。
雪風は、自分の左足を引いて、ドルマのローキックをかわす。
その、退けた雪風の上半身めがけ、ドルマの左の拳が伸びる。
スピードも、腕の伸びも、まるでなってないけれど、それでもこの体だ、フライ級のパンチ程度には威力があるだろう。
瞬時にそう思って、雪風は右のガードを上げる。まともに受けるのではなく、パンチの手首を内側から弾くようにして、右手で外に逸らす。
次に来るのは、右。左を引いた反動を載せた右ストレート、のはず。そう思って、雪風は前に出ている左手で、それを払うか、それとも掴んで投げ落とすか、パンチの軌道に合わせて決めようと考える。
その雪風の予想に違わず、ドルマの右手が動く。
右だけでなく、左も。
――え?――
ドルマの両手の動きは、雪風の予想を裏切る。
左右に開いた両手で、体のバランスをとるようにして、ドルマの体が中に浮く。
ドルマの両足が、雪風に向けて伸びる。
少しだけ傾いだ仰向けの姿勢で、一度いっぱいに曲げた膝のバネで、ドルマは両足を、山羊の、偶蹄類の蹄の付いた鋭く強力な蹴りを、雪風の胸元、喉の下あたりめがけて放つ。
「ぃやあっ!」
意表を突いた、ドロップキック。
雪風も、躱す事はおろか、まともにブロックする事すら出来ない。
わずかに引き戻した左手ごと、強烈無比な蹴りをもらって、雪風は後ろに吹き飛んだ。
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