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第六章-朔日-

第6章 第92話

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「あー……こう来たか……」
「マジか……ああもう!」
 ユモは、ドルマを見て、フンスと鼻息をついてから、両手を腰に当てる。
 雪風は、下を向いて、髪を掻く、激しく。
「ドルマ……そこを通してください」
 モーセス・グースは、それでも努めて優しく、ドルマに翻意を促す。
「拙僧は、王子に意見しに行かねばらなないのです。そう。ケシュカル君と、何よりドルマ、あなたのために」
 ドルマの肩が、ぴくりと震える。
「さあ、そこを……」
師範ロード!」
 ドルマの、悲痛な叫びが、通廊にこだまする。
「……どうか……お引き取りを……」
 一声叫んだ後、ドルマは、食いしばった歯の間から、それだけの言葉を絞り出す。
「……ドルマ、聞かせなさい」
 モーセスの声から、わずかに優しさが消えている。
「それは、王子の御意志ですか?」
 ひたとドルマを見据えるモーセスの目は、厳しい。
「……貴き宝珠マニ・リンポチェの、御意志、なのかも知れません……」
 モーセスの質問に、少しだけ気が逸れたのか、ドルマは、ぽつりぽつりと答える。
「……ですが、私に命じたのは……私は……」
 ドルマは、言い淀んでから、顔を上げる。
 涙で潤んだ、腫れぼったい目を、モーセスに向け、言う。
「……私は、ペーター様の言いつけで、こうしています」
「……っだああっもう!」
 雪風が、吐き捨てる。
 吐き捨てて、普段は優しいその垂れ目が、どうしたらそれほど厳しくなるのかという視線を、雪風はドルマにぶつける。
「っとにこれだからもう!世間知らずのお嬢様も!エリートの将校様も!」
 語気鋭く言い放って、雪風はずかずかとドルマに向けて大股で歩く。
「おーい」
 ユモが、その後ろ姿に声をかける。
「話をするだけ、よね?」
 雪風は、返事の代わりに一度だけ手を振った、振り向かずに。
「行きましょ、あたし達も」
 それを見て、ユモも横を見ずに言って、歩き出す。
「大丈夫ですか?」
 返事を期待しない質問を発して、オーガストが続く。
 ため息をついて、モーセスが殿しんがりをとった。

「……ドルマさん、どいてください」
 一足先に歩き出した事、大股で早足で歩いた事が効いて、雪風は他の三人に10メートルほど先行してドルマの目の前に着いた。
 相変わらず厳しい目つき、檜皮色ひはだいろの三白眼が、ドルマの目を射る。
 その迫力にやや気圧されつつも、ドルマは、どかない。
 深くため息をついた雪風は、すっと、左に、ドルマから見て右に、左足を一歩踏み出す。
 どう見ても自分を迂回して行くつもりにしか見えないその雪風の動きに、ドルマは半ば反射的に、半分は義務感から、雪風の前に立ち塞がろうと、右足を横に踏み出す。
 踏み出そうと、した。
 その瞬間。
 抜く手も見せず、雪風の右手がドルマの外套チュパの襟を、左手がドルマの右手の肘を取る。
 踏み込んだ左足に重心を載せ、引きつけた右足をそのまま前に振り、ついで後ろに振り戻す、振り子のように。
 その雪風の右足は、踏み出そう、踏み込もうとしたドルマの右足を払う。
 まさに、目にも止まらぬ動き。教科書に載せたいくらい見事な大外刈り。
 ドルマは、自分に何が起きたのか、まるで理解出来ない。状況を把握する事すら出来ず、投げられ、背中から固い石の床に落ちる。
 受け身をとる事も出来ず、そもそも受け身など知らず、ドルマは背中を床に叩きつけられ、後頭部をしたたかに床にぶつける。
 衝撃で呼吸が止まり、目の奥に火花が散る。痛い、どころではない。意識が、飛ぶ。
「っせい!」
 間髪入れず、雪風の右の正拳突きが、ドルマの鳩尾みぞおちを襲う。
 正拳の拳が一瞬纏った淡い鈍色にびいろの光は、見えた者は居ただろうか。
 ぐぽっ。
 ドルマの口から、音と吐瀉物が溢れる。
 一回だけ、ドルマの全身が痙攣し、動かなくなる。
「……荒事あらごとは避けるって」
「だから避けたわよ、可能な限り。先、行って。ここは抑えるから」
「ん」
 雪風の横を通り抜ける際に短く言葉を交わして、ユモは小走りに大扉に向かう。
 黄金の、宮殿の地下に通じる大扉。
 歩幅の大きいモーセスとオーガストは、わずかにユモに先行し、もう扉にたどり着いている。
「あ」
「あっ!」
 懐から金の鍵を取り出すモーセス、こちらを振り向くオーガストに追いつく刹那、ニーマントとユモは、それ・・に気付いて、思わず声を上げ、振り向く。
 哀しく、辛く、どす黒い放射閃オドが、倒れているドルマの中で急激に膨れ上がった事に気付いて。

「……ぅがああああっ!」
「うおっと!」
 ユモを目で追っていた雪風は、そのただならぬ気配を感じ、脊髄反射的に後ろに飛びすさる。
 ヒトにあらざるような叫び声とともに、爆ぜるように起き上がったドルマの傍らから。
「あああああ!」
 叫び、吠えながら、跳ね起きたドルマは床に一度膝をつき、顔を上げ、モーセスに向けて飛びかかろうと床を蹴って……
 間髪入れずに目の前に割り込んできた雪風に、浮落うきおとしで投げられ、再度床にしこたま叩きつけられる。
「りゃあ!」
 ドルマを投げた雪風は、そのまま左に体をひねり、左肘からドルマの上に体を落とす。
 エルボー・ドロップ。狙い違わず雪風の肘はドルマの胸の中央を抉り、硬いものが折れるような音が響き、遅れて、ドルマの口から赤黒い血が流れ出す。
「ドルマ!」
「いいから!早く鍵開けて!」
 思わず振り向いて叫ぶモーセスに、ユモがぴしゃりと活を入れる。
「あの程度でくたばるようなら苦労しないわ!」
「……」
 何か言いたそうなモーセスは、しかし、言葉を呑み込んで鍵をひねる。
 かちり。
 小さな音をたてて、黄金の大扉が解錠される。
「よし……さあ!」
 鍵を錠から抜き、モーセスは大扉を押し開けながらオーガストとユモを促す。大扉は軋みもなくスムースに動くが、その重さ故の慣性力はいかんともしがたく、モーセスの体躯を持ってもするりと開くというわけにはいかない。
「急ぎましょ。グズグズしてたらユキの足手まといだわ」
 言って、ユモはまだ細い扉の隙間をするりと通り抜ける。
「足手まとい?」
 振り向いて戦況・・を確認したオーガストは、首を傾げる。
「どう見ても、圧倒的にユキさんが押しているように見えますが……」
「今は、ね」
 扉の向こうから、ユモが振り返る。
「常人なら二・三回は死んでるはずよ。大丈夫とは思うけど、護りながら戦うのは難しいんでしょ?」
 はっとして、オーガストは雪風が制圧したドルマを見る。雪風は既に身を離し、大扉との間に間合いをとって立ち塞がっている。
「行きましょう」
 オーガストの肩を叩いて、モーセスが扉をくぐる。
「ミス・ドルマの放射閃オドは健在です、失神しているだけかと」
「拙僧も心配ですが、ともかくも先に進まねば。さ、お早く」
 ニーマントとモーセスに言われ、もう一度、オーガストはドルマを見る。
 最前の雪風のエルボー・ドロップで肋骨数本と、もしかしたら胸骨も骨折、折れた骨が肺と心臓に刺さっているとおぼしきドルマ。
 その体が、ぴくりと動いた。
 雪風が、半身に構えて腰を落とす。
 オーガストは、みなまで見ずに急いで身を翻し、扉を閉めた。

「どうして……」
 明らかにドルマの、しかし、若い女とは思えないしわがれた声が、言う。
「どうして、邪魔をするの……ペーター様の言いつけを……ペーター様の……」
 むくりと、ドルマが身を起こす。
 かつり。
 固い床を、まるで鋲を打った軍靴が踏むような音がする。
 豊かな黒髪が、うねる。それ自体が生き物であるかのように。
「……私は……ペーター様の、言いつけを、守りたいだけなのに」
 ゆらりと、ドルマが立ち上がる。
 そのシルエットは、わずかに、ヒトのそれから逸脱している。
「ペーター様のお役に立ちたいだけなのにぃ!」
 ドルマの蹄が、床の石版をケリ砕いた。
「うわ早!」
 想定外の突進速度に、雪風は咄嗟に身を逸らそうとし、同時に気付く。
 まだ、大扉が閉まりきっていない事を。
――まいったな――
 雪風は、思う。瞬きより短い間に。
――……浮かぶ瀬もあれ、ってヤツ、かしらね――
 一瞬で覚悟を決め、雪風は、両の足を踏ん張った。

 大扉を閉め切る直前、観音開きの両側に取り付いて扉を押していたオーガストとモーセスは、ものすごい衝撃をその扉越しに受ける。
「な?」
「閉めて!良いからそのまま閉めて!」
 ユモが、叫ぶ。
「行け!ユモ!」
 扉の向こうから、雪風の叫びが聞こえる。
「ドルマさんは任せろ!」
「無茶すんじゃないわよ!」
 叫び返して、ユモはオーガストの押す扉に取り付き、押す。
 直後、大扉はがちりと閉まる。即座に、モーセスは錠のノブを回し、内側から鍵をかける。
 さらには、扉の横に用意してある閂を取り外し、大扉の閂受けに、
「どっせぇい!」
 投げ込む勢いではめ込む。
「すっご……」
「ざっとですが、あの閂、100キロでは利かないでしょう」
 ユモの感嘆に続けて、大まかに放射閃オドから閂の重量を見積もったニーマントが言う。
「……ドルマの本気なら、これでも安心は出来ません」
 息も切らさず、振り返ったモーセスは言い切る。
 言いきるかきらないかで、何かが大扉に叩きつけられる音と衝撃が伝わってくる。
「さあ、行きましょう」
 モーセスは、先頭に立って扉に続く小ホールから行く手の下り階段に身を翻す。
「……うげ」
 その階段を覗き込み、長さを想像して、ユモはげっそりした。

 ドルマの突進を受け止め、しかし受け止めきれずに大扉までずり下がり背中から扉に激突した雪風は、ユモに向けて叫ぶ。
「行け!ユモ!ドルマさんは任せろ!」
「無茶すんじゃないわよ!」
 扉の向こうからユモの叫び返す声が聞こえた。
 直後、扉は完全に閉まる。
「私の!私の邪魔を!」
「知ら、ない、わよ!んな事ぉ!」
 喉笛を掴もうとするドルマの両手首をつかんで押さえ込みながら、雪風はその両手を一度持ち上げるようにし、ドルマが対抗するのに合わせて身を沈め、右手を離してドルマの右腕を両手で掴み、背負い投げよろしく投げる。
 投げられたドルマは、床ではなく今度は目の前の大扉に叩きつけられる。
 ドルマを投げっぱなしに投げた勢いで前転し、間合いをとった雪風は、ドルマをよく観察する。
 その姿は、やはり、何度か見た『山羊女』の姿。何度かまみえ、手合わせもし、匂いも嗅いだ、あの姿。
――わかっちゃいたけど、まあ、山羊女の正体がドルマさんって、目の前で見ると衝撃的ではあるわよね――
 服を着ているとはいえ、特徴的な下半身の形状は誤魔化しようはなく、スカート様の着物の裾がまくれ、山羊の脚が見えている。
 うねる髪は角のよう、いや、角そのもの。
――あの角、突いて来られたらやっかいね――
 雪風は、本能的に、あるいは経験上からも、ドルマの攻撃手段を値踏みする。
――やっかいなんだけど、突いて来ないわよね――
 左前の半身に構えつつ、雪風は、思う。
――ドルマさん、もしかして、戦うの、下手か?――
「……このぉ!」
「だったら!」
 ユモ達が出ていった大扉から遠ざかる方向に動線が逸れた事を確認した雪風は、ドルマの再度の突進を体捌き、三才歩で左にかわすと、
「せい!」
 すれ違いざまに右の膝をドルマの腹に入れる。
 間を置かず雪風は、動きの止まったドルマの右の顔面に、
!」
 至近距離から、左のフックを見舞う。
 声も上げず、ドルマはそのまま床に沈む。
 そのドルマを見下ろして、雪風は、
「……立ちなさいよ」
 ドルマをあおる。
「文句あるなら聞いたげるから、かかってきなさいよ。この早大学院中の剣道部次鋒、戦闘妖精、雪風が相手になってあげるんだから、有難く思いなさいよ!」
「……っあああああ!」
 鼻血も拭かず、ドルマは起き上がって雪風に殴りかかる。
「ふざけないで!何様のつもりよ!」
――本当に、何様のつもりよ――
 メチャクチャに両手を振り回して、ドルマは雪風に迫る。
「なんで!なんで!!」
――なんで、殴れない!あたらない!――
 そのメチャクチャに振り回す腕をかいくぐって、雪風はドルマの背後にまわる。
「あなたは!一体!」
――どうして、そんなに――
 がつん。背後からの衝撃に、ドルマはたたらを踏んでつんのめる。
 つんのめるが、つんのめる体に反して、首が、頭が後ろに引かれる。
 雪風が、ドルマの角を掴んで引き戻す。
「ぐ……」
「ドルマさん、下手すぎ」
 パッと、雪風は手を離す。
 ドルマは、またしても床に倒れ込む。
 倒れ込んで、雪風を見上げるドルマを、雪風は見下ろして、言う。
「もっと全力で、全身・・で、全ての能力を使って・・・・・・・・・かかってきてくださいよ」
「……うるさぁい!」
――何よ、何よ!何よ!!――
 ドルマは、わけもわからずに、雪風に飛びかかる。
――何が全力よ!何が全身よ!何が!何が!!何が!!!――
「うわあああああっ!」
 右手で、殴る。その右手に重なるように、右の角が追う。
「っうお!」
 左手でドルマの右拳をさばいた雪風は、ミリ単位の時間差で来た角の突きを捌ききれず、動体視力と反射神経で辛うじて身を躱す。
「らあああああ!」
 その雪風を、ドルマの左の角が追う。
「ふっ!」
 先の動きから本能的にある程度読んでいた雪風は、その角を右腕で払う。
 払って、その上半身の動き、ひねりを止めずに下半身も回し、左足刀のミドルキックをドルマの胴に見舞う。
「きゃ!」
 思わず身を縮めたドルマは、偶然、右腕でそのミドルキックをガードする形になる。
 鋭く痛む右腕に思わず目を固くつむったドルマは、目を開けた時、蹴り脚を戻した雪風が笑っているのを見る。
「……そうそう。その調子よ」
 その微笑みが、ドルマの琴線に、いや逆鱗に、触れた。
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