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第五章-月齢28.5-
第5章 第83話
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ペーター・メークヴーディヒリーベ少尉は、必死に自我を保とうとしていた。
きっかけは、『ペーター・メークヴーディヒリーベの肉体』が睡眠状態になった事だった。
それまでは、歪んだ視野、歪んだ聴覚であっても、曲がりなりにも情報として、感覚としての入力があったのだが、肉体が目を閉じ、就寝してしまうと、当然の事ながら視覚情報は漆黒に塗りつぶされ、聴覚情報も聴覚の下限未満の雑音だけになってしまった。
その途端、ペーター少尉の意識は、不快で不安定な浮揚感と、まるで世界から隔離されたかのような孤独感にさいなまれ、まるで無限の井戸を落下していくかのような錯覚、恐怖にとらわれた。
思わず叫びだしそうになるのを必死でこらえたペーター少尉は、必死に考えを巡らせ、そしてすぐに、救いようのない一つの推論にたどり着いた。
曰く。これで終わりではない、今はまだ、見えない、聞こえないだけで、感覚そのものは繋がっているが、先ほどの王子の言葉が確かであれば、いずれその感覚すらも断ち切られ、正真正銘の闇と静寂の中に放置されてしまうのだ、と。
何故なら。王子は言ったではないか。
『転送の副作用として、情報が逆流する』のだと。
ならば。
情報の転送が終了したら。
きっと、この、肉体との接続は、失われてしまうのだろう。
それは……その虚無感、恐怖に、一体私は耐えられるのだろうか?
いっそ、自分も眠ってしまおうか。
ペーター少尉は、そうも考えてみた。
だが、出来なかった。
なんとなれば、そもそも全く眠気を感じていないのもその理由だが、ペーター少尉は、ある考えから目を逸らすことが出来なくなっていた。
それはつまり。
今、自分が――比喩的な意味で――目を閉じてしまったら、果たして自分は、二度と目を醒まさないのではないだろうか、という、えもいわれぬ不安感、否定のしようが無い、否定しようと思うほどにつのる恐怖感であった。
そして、ペーター少尉は、悟った。
自分の周りに幾人も居る『意識』、一人の例外もなく、大なり小なり気が触れてしまっているそれは、つまり、そういう事なのだ、と。
耐えられないのだ。ヒトの意識は、そのような不安、虚無感に、耐える術を持たないのだ。
そして。
私の、私達の脳をこうして肉体から切り離し、しかし生かしたまま保存する術を持つ何者か、恐らくはあの『ピンク色の、鉤爪と、渦を巻くような頭を持った何か』、ああ、それこそが『マイゴウ』、王子の言う英智を授けるもの、『ユッグゴトフ由来の菌類』、それに違いないのだろうけれど、そのもの達は知らないし、考えたこともないのだろう。
ヒトが、このような扱いに耐えられないという事を。
そして。さらに。
ペーター少尉は、気付く。
その『ユッグゴトフ由来の菌類』と同じように私の、私達の脳を扱う王子、貴き宝珠、彼もまた、『ユッグゴトフ由来の菌類』と同じ思考、同じ感性を持ち合わせているのだろう事に。
必死に、ペーター少尉は、油断すると四散し霧散しそうになる意識を、自我を保とうとした。
回りの『意識』に声をかけ、そうすることで自分もまた独立した一つの『意識』であることを確認しようとした。
しかしながら、回りの『意識』のほぼ全てはチベット人のそれであり、ただでさえ片言のペーター少尉のチベット語では方言などもあって通じづらい事に加えて、多かれ少なかれ『気が触れている』彼らは、全くもって自分の事にしか興味が無いようで、ペーター少尉の呼びかけにまともな返事が返ってきたことは皆無であった。
ただ一つの、例外を除いては。
その例外は、ブツブツと常に英語で賛美歌ないしは聖書の一節を呟き、チベット語で経を唱え、まれにラテン語で神を称える言葉を唱えていた。
英語はともかく、チベット語もラテン語も堪能とは言い切れないペーター少尉であったが、その意味するところは明確に理解出来た。
神を称えるその言葉の合間に、ペーター少尉の知らない神の名が含まれている事も。
――ああ……せいせいした……サンタ・マリーア……ああ……疲れたな……もう、さようならです……サンタ・マリーア・慈母観世音菩薩……ク・バウ、クババ……いあ、しゅぶ・にぐらあと……――
度々、その声は、そのような一節を繰り返していた。
それは、賛美歌に続く神への祈りのようであり、神の名を騙る邪神への礼賛でもあるように、ペーター少尉には聞こえた。
――いあ、いあ、しゅぶ・にぐらあと、ぐららがあ、ぐららがあ。漆黒の森の強き象よ、高き頂の尊き黒山羊よ、ぐららがあ、悪を成さず、求めるところは少なく、孤独に歩め……――
歌い上げるようなその言葉は、神か、あるいは悪魔か、いずれ人外のそれに訴えるようでありつつも、己に言い聞かせているように、ペーター少尉には思えた。
――いあ、しゅぶ・にぐらあと、西王母、王母娘娘、我は願い訴えます、普く民草に祝福を、普く地上に平穏を……――
それは、その他の『意識』とは全く別の、ひとえに他者の安寧を求め、他人が祝福されることを願う、純粋な善意のそれであると、ペーター少尉には感じられた。
自分もまた『意識』のみの存在に限りなく近いからこそ、それを感じ取れたのだろうと、ペーター少尉は頭の片隅で理解した。
だからこそ、ペーター少尉は、その声に耳を傾け、その祈りが終わるまで、声をかけるのを控えていたのだった。
――……汝、迷い子、神の嬰児よ、何か求めるところがおありか?――
唐突に、その『意識』は、ペーター少尉に向けて、そう言い放つ。綺麗な標準英語で。
――何なりと、話して楽になるのであれば、聞いて進ぜましょう。いずれ遠からず神の御許に召すこの身なれば、門外不出の秘密であろうとも、決して他言などは……――
――あなたは、一体……――
つい、聞き返してしまったペーター少尉に、その『意識』は答える。
――愚生、既に名前は体と共に捨てておりますれば、名乗るべきものの無いただの『魂』に過ぎません。そして貴方も、ここに居る他の『魂』も、上下分け隔て無くいずれは神の御許に召すさだめのもの。この世の理の『真』を求め、人の体を捨てたものなれば……――
――いや、私は……私は、そうではありません、私は……――
目も見えず、何の感覚もない闇の中でさえ強い重圧と共に迫ってきたその言葉に、ペーター少尉はやっとの思いでそれだけ言って返す。
――私は……望んでこうなったわけでは……――
闇の中で、確かにその『意識』は、『魂』は、するりと身を引いた、そんな感覚を、ペーター少尉は感じた。
――……お話ください、迷い子、子羊よ。貴方の懺悔、迷い、告白、全てを、愚生が受け止めて神の御許に届けましょう――
聞き覚えのある声で、感じた事のある優しさと慈悲に溢れた重圧で、その『魂』はペーター少尉に寄り添った。
ペーター少尉は、話した。自分の身に起こった洗いざらいを。
その『魂』は、話を聞き、憤る。
――……何という……ここに居るものは皆、自ら望んで体を離れ、真理に至ろうとした者のはず……――
憤り、そして、その『魂』は、泣いた。
――……なんという……不如意に体を離れるとは……お辛かったでしょう……――
嗚咽混じりの『魂の慟哭』が、ペーター少尉にも伝わってくる。
伝わってきて、そして。
――……ですが!もはや事ここに至り、貴方も、もちろん愚生も、いやさ、ここに居る全ての者が、肉体に戻る事など、もはや有り得ません!そのような事を望むものはここにはおらず、そしてそのような事を成す術もまた存在しません!――
その『魂』は、慟哭から歓喜へ、瞬きする間もなく、変化した。
ああ、ダメだ。ペーター少尉は、理解した。この『魂』は話しが出来ると思ったのは、間違いだったのだ、と。
いや、話しは出来る。出来るが、一方通行、こちらの話しは理解されず、ただ一方的に、あちらの言いたい事だけを主張する。
――なればこそ!さあ、貴方も!我らと共に、神の御許に召すその日を心静かに待ちましょう!信ずる神が違おうとも、そのいずれの神も、幻夢郷の彼方、遥か遠くにして未知なる地、カダスにおわしますのです!さあ!手に手をとって、この生のその先、未知なるカダスに召される日を、共に!安らかに!待ちましょぉうう!――
これこそが、狂気。これこそが、信仰の行き着く果ての、さらにその先なのだ。ペーター少尉は、思う。そうでなければ。そのようにならなければ。この、漆黒で、平静で、ゆらぎの一つも無い安寧な領域で、意識を保ち続ける事など出来なかったのだろう、と。
狂わなければ、正気を保てなかったのだ、と。
そして。恐らくは。多少なりとも。
自分も既に、そこに足を踏み入れているに違いないのだ、とも。
「ところでさぁ」
山の端に日が落ち、気温も照度も急速に下がりつつある中。
ユモを背中に乗せた雪風は、小走りに雪渓を駆け下りながら、聞いた。
「アンスヴァルト、だっけ?初めて聞いたわよ、それ。いつの間に決めたのよ?」
「ここ来る前」
何でもない事のように、ユモは答える。
「アサ神の、だっけ?アサ神って、北欧の、アスガルドの、あれ?」
「知っているのね?ユキ?北欧神話の事」
「そりゃまあ……」
ちょっと、雪風は言葉を濁す。
「……オタクの、基礎知識だし……」
「『Answald』、名前としてはそこまで珍しくもないわ」
ユモは、楽しそうに、言う。
「帰ったら、ママに手伝って貰って、コレに『人工人格』を載せるの。ママはね、『人工人格』を無機物に載せて僕とするのが得意なのよ」
ユモは、嬉しそうに微笑む。
「あたしのお婆ちゃんは自動人形を作るのが得意だったんだって。だから、あたしはその両方を極めるの。これは、その第一歩」
言って、ユモは、雪風の首筋に抱きつき、鬣に顔を埋める。
「成功したら、あんたにプレゼントしてあげる。Gew71の扱いはあんたの方が断然上手いし、あたしには鉄砲は似合わないから」
「へへえ?」
雪風は、流し目で背中のユモを見て、笑う。
「そいつは楽しみだわ。期待してるわよ」
「任せなさい!」
ユモは、身を起こす。
「あたしは、大魔女、リュールカ・ツマンスカヤの娘、一番弟子。魔女、ユモ・タンカ・ツマンスカヤよ!」
「魔女見習い、でしょ?」
「うさい!……うひゃ!」
『都』を守るU字谷の崖の上から、予告抜きで跳躍した雪風の背中で、ユモは必死にその背中にしがみついた。
きっかけは、『ペーター・メークヴーディヒリーベの肉体』が睡眠状態になった事だった。
それまでは、歪んだ視野、歪んだ聴覚であっても、曲がりなりにも情報として、感覚としての入力があったのだが、肉体が目を閉じ、就寝してしまうと、当然の事ながら視覚情報は漆黒に塗りつぶされ、聴覚情報も聴覚の下限未満の雑音だけになってしまった。
その途端、ペーター少尉の意識は、不快で不安定な浮揚感と、まるで世界から隔離されたかのような孤独感にさいなまれ、まるで無限の井戸を落下していくかのような錯覚、恐怖にとらわれた。
思わず叫びだしそうになるのを必死でこらえたペーター少尉は、必死に考えを巡らせ、そしてすぐに、救いようのない一つの推論にたどり着いた。
曰く。これで終わりではない、今はまだ、見えない、聞こえないだけで、感覚そのものは繋がっているが、先ほどの王子の言葉が確かであれば、いずれその感覚すらも断ち切られ、正真正銘の闇と静寂の中に放置されてしまうのだ、と。
何故なら。王子は言ったではないか。
『転送の副作用として、情報が逆流する』のだと。
ならば。
情報の転送が終了したら。
きっと、この、肉体との接続は、失われてしまうのだろう。
それは……その虚無感、恐怖に、一体私は耐えられるのだろうか?
いっそ、自分も眠ってしまおうか。
ペーター少尉は、そうも考えてみた。
だが、出来なかった。
なんとなれば、そもそも全く眠気を感じていないのもその理由だが、ペーター少尉は、ある考えから目を逸らすことが出来なくなっていた。
それはつまり。
今、自分が――比喩的な意味で――目を閉じてしまったら、果たして自分は、二度と目を醒まさないのではないだろうか、という、えもいわれぬ不安感、否定のしようが無い、否定しようと思うほどにつのる恐怖感であった。
そして、ペーター少尉は、悟った。
自分の周りに幾人も居る『意識』、一人の例外もなく、大なり小なり気が触れてしまっているそれは、つまり、そういう事なのだ、と。
耐えられないのだ。ヒトの意識は、そのような不安、虚無感に、耐える術を持たないのだ。
そして。
私の、私達の脳をこうして肉体から切り離し、しかし生かしたまま保存する術を持つ何者か、恐らくはあの『ピンク色の、鉤爪と、渦を巻くような頭を持った何か』、ああ、それこそが『マイゴウ』、王子の言う英智を授けるもの、『ユッグゴトフ由来の菌類』、それに違いないのだろうけれど、そのもの達は知らないし、考えたこともないのだろう。
ヒトが、このような扱いに耐えられないという事を。
そして。さらに。
ペーター少尉は、気付く。
その『ユッグゴトフ由来の菌類』と同じように私の、私達の脳を扱う王子、貴き宝珠、彼もまた、『ユッグゴトフ由来の菌類』と同じ思考、同じ感性を持ち合わせているのだろう事に。
必死に、ペーター少尉は、油断すると四散し霧散しそうになる意識を、自我を保とうとした。
回りの『意識』に声をかけ、そうすることで自分もまた独立した一つの『意識』であることを確認しようとした。
しかしながら、回りの『意識』のほぼ全てはチベット人のそれであり、ただでさえ片言のペーター少尉のチベット語では方言などもあって通じづらい事に加えて、多かれ少なかれ『気が触れている』彼らは、全くもって自分の事にしか興味が無いようで、ペーター少尉の呼びかけにまともな返事が返ってきたことは皆無であった。
ただ一つの、例外を除いては。
その例外は、ブツブツと常に英語で賛美歌ないしは聖書の一節を呟き、チベット語で経を唱え、まれにラテン語で神を称える言葉を唱えていた。
英語はともかく、チベット語もラテン語も堪能とは言い切れないペーター少尉であったが、その意味するところは明確に理解出来た。
神を称えるその言葉の合間に、ペーター少尉の知らない神の名が含まれている事も。
――ああ……せいせいした……サンタ・マリーア……ああ……疲れたな……もう、さようならです……サンタ・マリーア・慈母観世音菩薩……ク・バウ、クババ……いあ、しゅぶ・にぐらあと……――
度々、その声は、そのような一節を繰り返していた。
それは、賛美歌に続く神への祈りのようであり、神の名を騙る邪神への礼賛でもあるように、ペーター少尉には聞こえた。
――いあ、いあ、しゅぶ・にぐらあと、ぐららがあ、ぐららがあ。漆黒の森の強き象よ、高き頂の尊き黒山羊よ、ぐららがあ、悪を成さず、求めるところは少なく、孤独に歩め……――
歌い上げるようなその言葉は、神か、あるいは悪魔か、いずれ人外のそれに訴えるようでありつつも、己に言い聞かせているように、ペーター少尉には思えた。
――いあ、しゅぶ・にぐらあと、西王母、王母娘娘、我は願い訴えます、普く民草に祝福を、普く地上に平穏を……――
それは、その他の『意識』とは全く別の、ひとえに他者の安寧を求め、他人が祝福されることを願う、純粋な善意のそれであると、ペーター少尉には感じられた。
自分もまた『意識』のみの存在に限りなく近いからこそ、それを感じ取れたのだろうと、ペーター少尉は頭の片隅で理解した。
だからこそ、ペーター少尉は、その声に耳を傾け、その祈りが終わるまで、声をかけるのを控えていたのだった。
――……汝、迷い子、神の嬰児よ、何か求めるところがおありか?――
唐突に、その『意識』は、ペーター少尉に向けて、そう言い放つ。綺麗な標準英語で。
――何なりと、話して楽になるのであれば、聞いて進ぜましょう。いずれ遠からず神の御許に召すこの身なれば、門外不出の秘密であろうとも、決して他言などは……――
――あなたは、一体……――
つい、聞き返してしまったペーター少尉に、その『意識』は答える。
――愚生、既に名前は体と共に捨てておりますれば、名乗るべきものの無いただの『魂』に過ぎません。そして貴方も、ここに居る他の『魂』も、上下分け隔て無くいずれは神の御許に召すさだめのもの。この世の理の『真』を求め、人の体を捨てたものなれば……――
――いや、私は……私は、そうではありません、私は……――
目も見えず、何の感覚もない闇の中でさえ強い重圧と共に迫ってきたその言葉に、ペーター少尉はやっとの思いでそれだけ言って返す。
――私は……望んでこうなったわけでは……――
闇の中で、確かにその『意識』は、『魂』は、するりと身を引いた、そんな感覚を、ペーター少尉は感じた。
――……お話ください、迷い子、子羊よ。貴方の懺悔、迷い、告白、全てを、愚生が受け止めて神の御許に届けましょう――
聞き覚えのある声で、感じた事のある優しさと慈悲に溢れた重圧で、その『魂』はペーター少尉に寄り添った。
ペーター少尉は、話した。自分の身に起こった洗いざらいを。
その『魂』は、話を聞き、憤る。
――……何という……ここに居るものは皆、自ら望んで体を離れ、真理に至ろうとした者のはず……――
憤り、そして、その『魂』は、泣いた。
――……なんという……不如意に体を離れるとは……お辛かったでしょう……――
嗚咽混じりの『魂の慟哭』が、ペーター少尉にも伝わってくる。
伝わってきて、そして。
――……ですが!もはや事ここに至り、貴方も、もちろん愚生も、いやさ、ここに居る全ての者が、肉体に戻る事など、もはや有り得ません!そのような事を望むものはここにはおらず、そしてそのような事を成す術もまた存在しません!――
その『魂』は、慟哭から歓喜へ、瞬きする間もなく、変化した。
ああ、ダメだ。ペーター少尉は、理解した。この『魂』は話しが出来ると思ったのは、間違いだったのだ、と。
いや、話しは出来る。出来るが、一方通行、こちらの話しは理解されず、ただ一方的に、あちらの言いたい事だけを主張する。
――なればこそ!さあ、貴方も!我らと共に、神の御許に召すその日を心静かに待ちましょう!信ずる神が違おうとも、そのいずれの神も、幻夢郷の彼方、遥か遠くにして未知なる地、カダスにおわしますのです!さあ!手に手をとって、この生のその先、未知なるカダスに召される日を、共に!安らかに!待ちましょぉうう!――
これこそが、狂気。これこそが、信仰の行き着く果ての、さらにその先なのだ。ペーター少尉は、思う。そうでなければ。そのようにならなければ。この、漆黒で、平静で、ゆらぎの一つも無い安寧な領域で、意識を保ち続ける事など出来なかったのだろう、と。
狂わなければ、正気を保てなかったのだ、と。
そして。恐らくは。多少なりとも。
自分も既に、そこに足を踏み入れているに違いないのだ、とも。
「ところでさぁ」
山の端に日が落ち、気温も照度も急速に下がりつつある中。
ユモを背中に乗せた雪風は、小走りに雪渓を駆け下りながら、聞いた。
「アンスヴァルト、だっけ?初めて聞いたわよ、それ。いつの間に決めたのよ?」
「ここ来る前」
何でもない事のように、ユモは答える。
「アサ神の、だっけ?アサ神って、北欧の、アスガルドの、あれ?」
「知っているのね?ユキ?北欧神話の事」
「そりゃまあ……」
ちょっと、雪風は言葉を濁す。
「……オタクの、基礎知識だし……」
「『Answald』、名前としてはそこまで珍しくもないわ」
ユモは、楽しそうに、言う。
「帰ったら、ママに手伝って貰って、コレに『人工人格』を載せるの。ママはね、『人工人格』を無機物に載せて僕とするのが得意なのよ」
ユモは、嬉しそうに微笑む。
「あたしのお婆ちゃんは自動人形を作るのが得意だったんだって。だから、あたしはその両方を極めるの。これは、その第一歩」
言って、ユモは、雪風の首筋に抱きつき、鬣に顔を埋める。
「成功したら、あんたにプレゼントしてあげる。Gew71の扱いはあんたの方が断然上手いし、あたしには鉄砲は似合わないから」
「へへえ?」
雪風は、流し目で背中のユモを見て、笑う。
「そいつは楽しみだわ。期待してるわよ」
「任せなさい!」
ユモは、身を起こす。
「あたしは、大魔女、リュールカ・ツマンスカヤの娘、一番弟子。魔女、ユモ・タンカ・ツマンスカヤよ!」
「魔女見習い、でしょ?」
「うさい!……うひゃ!」
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