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第四章-月齢27.5-
第4章 第56話
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その岩窟は、元々はこの寺院の本堂であり、御本尊はここに収められていたのだそうです。その頃は寺院とは名ばかりの、同じような岩窟に修行僧がこもる修行場に過ぎなかったとも聞きます。
時代が下って寺院としての体裁が整った後、御本尊はそちらに新しく作られた本堂に移され、ここは蔵書の書庫として再利用される事になったらしいと、寺院の経営の立て直しに奔走する中で、拙僧は他の僧や土地の老人から聞いていました。
岩窟の入り口の扉は古い大きな南京錠で閉め切られていましたが、鍵のありかはわかっていましたし、実際その時拙僧はその鍵を持っていました。しかし、拙僧が来てからだけでおよそ一ヶ月、色々な話を総合すると先代の僧正が亡くなってからの半年どころか、もう何年もこの岩窟の鍵は開けられた事が無かったそうで、鍵を回すのもいくらか渋かったのを覚えています。何しろ今ではこの岩窟には、読めなくなったり、使わなくなった経文や書簡を収めておくだけの役割しかなく、頻繁に開け閉めするようなものではなかったのだそうです。
その岩窟の扉の錠、錆でも湧いているのか微妙に渋いその錠を、鍵を折らないよう用心しながら回して解錠し、拙僧は閂を外しました。
少々驚いた事に、錠前がそのような状態であったにも関わらず、いかにも丈夫そうな分厚い木の扉はいとも軽く動き、蝶番は嫌な軋み一つたてる事なく、閂を外したその動きだけで、観音開きにわずかに開いてみせたのです。まるで、中にある何かを、拙僧に気取らせたい、そんな意思を持っているかのように。
そして拙僧は、その薄く開いた扉の隙間から流れ出した芳香を嗅いで、思い出したのです。
それは、ヒマラヤを越えて以来もう何年も嗅いでいない、爽やかでありながらどこか背徳的な、水タバコとシナモンと、そしてそれらを包み込む、濃厚に甘い蜂蜜の香り。かつて何度かその匂いを嗅ぎ、その度に知らない価値観に打ちのめされた、彼女が常に纏っている香り。女神とも元君とも呼ばれる、得体の知れない彼女、『赤の女王』の纏う香りそのものであり、そしてその事を、数年ぶりに拙僧は思い出したのです。
英領インド帝国の我らが教会の告解室で別れて以降、思い出す事もないほど時間も距離も隔てたこの地、チベット国の東の果てで。
その時の拙僧の気持ちが、お分かりになりますでしょうか?この扉を開けてしまったら、もう二度と戻れない、どこに戻るというのか、どこから戻るというのか、それすら明らかではありませんが、とにかく、何か越えてはならない一線を越えてしまう、そんな予感。体の中心が冷えきり、身が縮み上がるような緊張。
そして、そんな恐れを、恐怖を感じている拙僧の体を、両手を叱咤激励し、さあ開けろ今開けろと鼓舞する、わずかに脊椎より後ろから流れ込む熱量。
その時の拙僧は、きっと激しく息を荒げていたでしょう。喉は渇き、瞬きすることを忘れた目も渇き、震え、強ばった指は扉の取っ手を握ることもままならない、しかし、ここで止める、全てを御破算にしてなかったことにする、そんな選択肢は全く思いもしない、拙僧はきっと衝動に突き動かされ、ただひたすらに破滅に突き進む、そんな愚者に等しい存在であったのでしょう。
拙僧の手が扉の把手を握った時、その把手の冷たさが、ほんのわずか、拙僧の正気を取り戻してくれました。有り得ベからざる事に、この扉の向こうには、居るはずのない人が居る、その事を冷静さをほんのわずか取りもどした頭の片隅に置きながらも、しかし拙僧の手は、観音開きの扉をゆっくりと引き開ける動きを止めることはありませんでした。
扉の向こうは漆黒の暗闇と言っても過言ではありませんでした。そして、開け放った扉の奥から、漆黒の暗闇のその底から、あの香りが、甘美で背徳的なその方向が拙僧を誘うのです。
拙僧はその誘いに抗うことなど思いもせず、一度足下に置いた灯油ランプをかざして、一歩、扉の中に踏み込みました。
最初、拙僧はそれを、黒檀から削り出された仏像だと、妖艶な魅力をたたえる、赤い薄衣を纏った観音菩薩の像だと思いました。しどけなく木箱にもたれかかり、手に持った書物に視線を落とすその観音像が、ゆっくりと視線をこちらに上げて、微笑んで魅せるまでは。
「……貴方のお探しものは、これかしら?」
彼女は、そう言って手に持っていた本を拙僧に差し出しました。
拙僧は、しかし、動けませんでした。分かってはいました、彼女がここに居るであろう事は。水タバコとシナモンと蜂蜜の香り、その香りを嗅いだ瞬間から、拙僧は確信していました。
しかしながら、今、目の前に居る彼女は、拙僧の想像を、理解を、遙かに超えた『何か』でした。
拙僧は、ただひたすら、圧倒されていたのです。ほの暗い灯油ランプの頼りない明かりの中でも神々しさを失わない彼女の肢体に。暗闇の中でもそれとわかる、慈愛に満ちつつも妖艶なその微笑みに。耳から入り、脳の聴覚野を痺れさせ、それでは飽き足らずに脳神経の全てを麻痺させる、その声に。それら全てを合わせて一つに練り上げた『赤の女王』、この神秘の谷に君臨し、しかし何らの統治も行わない『元君』、『西瑶聖母』『西王母』そのお方そのものの存在に。
「あら、どうしてしまったのかしら?」
『元君』は、身動きもままならない拙僧の近くに寄って、耳元で囁きました。
「……よくぞここまで。もはや恐れるものも、怖がることも、何もありませんよ、私の嬰児。あの日、貴方は私を見た。縁が出来た。言葉を交わし、縁は深まった。そして……」
『元君』の手が、拙僧に触れました。まったくもって力の入っていないその手に、拙僧はしかし抗うことが出来ず、跪き、拙僧は『元君』と殆ど同じ視線の高さとなりました。そして……ああ、そうです。そのようにしておいてから、『元君』は拙僧に、口付けたのです。
「……今、貴方と私はこうして交わった。なんて素晴らしいのかしら」
少女のように、本当に嬉しそうに相好を崩しながら、『元君』は言うのです。
「縁が深まっていたから、薄ぼんやりではありましたが、私にはここに居る貴方が見えていました。深く交わった今、私にはもっとはっきりと、貴方が見える……」
拙僧の手をとって、『元君』はその手に先ほどまで読んでいた書物を載せました。
「……人の体を受肉した私に見えるのは、ほんのちょっとだけだけれども。さあ、貴方はその本を手に入れるため、ここまでやって来た。その本の残りだけでなく、ここには様々な本が眠っています。どれでも好きなものをお読みなさい。そして、もっと沢山読みたくなったら、私の元にいらっしゃいな。私の嬰児、きっとあなたはここだけでは満足できないから、私の元に来るでしょう。そう、私にはそれが見える。だから」
拙僧の頬をするりとひと撫でしてから、『元君』は扉の外に出ました。
「だから、貴方は好きな時に、私を訪ねていらっしゃいな。私の、かわいい嬰児……」
後を追うことも、立ち上がることすらかなわず、拙僧はただ首を大きく回して、視界の隅に『元君』の姿を捉えていました。
その姿が、ふと、闇に溶け込むように、あるいは風に流された囲炉裏の灰のように、ふっとかき消えました。
「……新たな僧正様がいらしたのは、それからおよそ半年後の事です。拙僧は、元々は『玄君七章秘経』に関する調査を終えればラサに帰還するつもりでした。しかし、年長の僧の多くが寺院を去り、残された若い沙弥達では日々のお務めもままならない状態で、拙僧は既にこの一月あまり、寺の経営と沙弥の指導に深く関わっておりました。故に、拙僧はナルブ閣下にお願いし、ラサへ送る公文章のついでに、事情を説明し、拙僧はもうしばらくこの地に留まりたい旨のお願いをしたためた文をラサの本山に届けていただけるよう託しました。返信は思いの外早く届き、拙僧はこの地に留まることを快諾いただきました。
拙僧にとって、これは本当に僥倖でした。なんとなれば、寺院を立て直すことやりがいを感じ始めていたのも確かなのですが、それ以上に、件の岩窟に『玄君七章秘経』を筆頭に貴重な所蔵がいくつもあり、お勤めの合間にこれらの解読と翻訳を行うのが日課になっていたのですから……そうです。正直に申し上げましょう。拙僧は、その作業が楽しくて仕方がなかったのです」
モーセス・グースは、軽く振り返って、本棚の一角を右手で示す。
「あそこに、拙僧が写本した一連の書簡が収まっています。ご興味がおありでしたら、後ほどご覧下さい。ああ、大丈夫です、サンスクリット語だけでなく、拙僧が携わった分については、英語版も用意してあります」
「それはありがたい」
オーガスト・モーリー軍医中佐は、モーセスの示した本棚から視線を戻し、言う。
「ミスタ・グース、やはり貴方は、師範とお呼びするのが相応しいようです」
「ありがとうございます」
モーセス・グースは、オーガストに笑みを返す。
「さて、その写本ですが、一つだけ、オリジナルと違う箇所があるのです。今ここにオリジナルは無いので、比較は出来ないのですが……」
「意図的に、改竄したという事ですか?」
モーセスの言葉に、ペーター・メークヴーディヒリーベ少尉が聞き返す。
「然り。改竄ではなく、書き写さなかった、という事ですが」
「……公にするのは躊躇われる、そういう内容という事ですか?」
ペーター少尉が、質問を重ねる。モーセスは、微笑みつつ、首を横に振る。
「そうではありません。この都の『図書室』に所蔵するにあたって、意味がない文章だったという事なのです」
怪訝そうな顔でモーセスの答えの意味を考えているペーター少尉とオーガストに、一呼吸置いてから、モーセスはタネ明かしをする。
「……『玄君七章秘経』の最終巻、第七巻の巻末に、このような走り書きがありました。『我、西王母の谷にて、西瑶聖母よりこの書を賜る』と……つまるところ、寺院に納められていた『玄君七章秘経』も何方かの手による写本であり、それはこの『図書館』から持ち出された、『元君』の手によって。そういう事です。ですから、今再びこの『図書館』に所蔵される新しい写本については、その一文は必要がない、そういう事です」
何かを思い出すように、含み笑いするように目を細めて、モーセスは言葉を続けた。
時代が下って寺院としての体裁が整った後、御本尊はそちらに新しく作られた本堂に移され、ここは蔵書の書庫として再利用される事になったらしいと、寺院の経営の立て直しに奔走する中で、拙僧は他の僧や土地の老人から聞いていました。
岩窟の入り口の扉は古い大きな南京錠で閉め切られていましたが、鍵のありかはわかっていましたし、実際その時拙僧はその鍵を持っていました。しかし、拙僧が来てからだけでおよそ一ヶ月、色々な話を総合すると先代の僧正が亡くなってからの半年どころか、もう何年もこの岩窟の鍵は開けられた事が無かったそうで、鍵を回すのもいくらか渋かったのを覚えています。何しろ今ではこの岩窟には、読めなくなったり、使わなくなった経文や書簡を収めておくだけの役割しかなく、頻繁に開け閉めするようなものではなかったのだそうです。
その岩窟の扉の錠、錆でも湧いているのか微妙に渋いその錠を、鍵を折らないよう用心しながら回して解錠し、拙僧は閂を外しました。
少々驚いた事に、錠前がそのような状態であったにも関わらず、いかにも丈夫そうな分厚い木の扉はいとも軽く動き、蝶番は嫌な軋み一つたてる事なく、閂を外したその動きだけで、観音開きにわずかに開いてみせたのです。まるで、中にある何かを、拙僧に気取らせたい、そんな意思を持っているかのように。
そして拙僧は、その薄く開いた扉の隙間から流れ出した芳香を嗅いで、思い出したのです。
それは、ヒマラヤを越えて以来もう何年も嗅いでいない、爽やかでありながらどこか背徳的な、水タバコとシナモンと、そしてそれらを包み込む、濃厚に甘い蜂蜜の香り。かつて何度かその匂いを嗅ぎ、その度に知らない価値観に打ちのめされた、彼女が常に纏っている香り。女神とも元君とも呼ばれる、得体の知れない彼女、『赤の女王』の纏う香りそのものであり、そしてその事を、数年ぶりに拙僧は思い出したのです。
英領インド帝国の我らが教会の告解室で別れて以降、思い出す事もないほど時間も距離も隔てたこの地、チベット国の東の果てで。
その時の拙僧の気持ちが、お分かりになりますでしょうか?この扉を開けてしまったら、もう二度と戻れない、どこに戻るというのか、どこから戻るというのか、それすら明らかではありませんが、とにかく、何か越えてはならない一線を越えてしまう、そんな予感。体の中心が冷えきり、身が縮み上がるような緊張。
そして、そんな恐れを、恐怖を感じている拙僧の体を、両手を叱咤激励し、さあ開けろ今開けろと鼓舞する、わずかに脊椎より後ろから流れ込む熱量。
その時の拙僧は、きっと激しく息を荒げていたでしょう。喉は渇き、瞬きすることを忘れた目も渇き、震え、強ばった指は扉の取っ手を握ることもままならない、しかし、ここで止める、全てを御破算にしてなかったことにする、そんな選択肢は全く思いもしない、拙僧はきっと衝動に突き動かされ、ただひたすらに破滅に突き進む、そんな愚者に等しい存在であったのでしょう。
拙僧の手が扉の把手を握った時、その把手の冷たさが、ほんのわずか、拙僧の正気を取り戻してくれました。有り得ベからざる事に、この扉の向こうには、居るはずのない人が居る、その事を冷静さをほんのわずか取りもどした頭の片隅に置きながらも、しかし拙僧の手は、観音開きの扉をゆっくりと引き開ける動きを止めることはありませんでした。
扉の向こうは漆黒の暗闇と言っても過言ではありませんでした。そして、開け放った扉の奥から、漆黒の暗闇のその底から、あの香りが、甘美で背徳的なその方向が拙僧を誘うのです。
拙僧はその誘いに抗うことなど思いもせず、一度足下に置いた灯油ランプをかざして、一歩、扉の中に踏み込みました。
最初、拙僧はそれを、黒檀から削り出された仏像だと、妖艶な魅力をたたえる、赤い薄衣を纏った観音菩薩の像だと思いました。しどけなく木箱にもたれかかり、手に持った書物に視線を落とすその観音像が、ゆっくりと視線をこちらに上げて、微笑んで魅せるまでは。
「……貴方のお探しものは、これかしら?」
彼女は、そう言って手に持っていた本を拙僧に差し出しました。
拙僧は、しかし、動けませんでした。分かってはいました、彼女がここに居るであろう事は。水タバコとシナモンと蜂蜜の香り、その香りを嗅いだ瞬間から、拙僧は確信していました。
しかしながら、今、目の前に居る彼女は、拙僧の想像を、理解を、遙かに超えた『何か』でした。
拙僧は、ただひたすら、圧倒されていたのです。ほの暗い灯油ランプの頼りない明かりの中でも神々しさを失わない彼女の肢体に。暗闇の中でもそれとわかる、慈愛に満ちつつも妖艶なその微笑みに。耳から入り、脳の聴覚野を痺れさせ、それでは飽き足らずに脳神経の全てを麻痺させる、その声に。それら全てを合わせて一つに練り上げた『赤の女王』、この神秘の谷に君臨し、しかし何らの統治も行わない『元君』、『西瑶聖母』『西王母』そのお方そのものの存在に。
「あら、どうしてしまったのかしら?」
『元君』は、身動きもままならない拙僧の近くに寄って、耳元で囁きました。
「……よくぞここまで。もはや恐れるものも、怖がることも、何もありませんよ、私の嬰児。あの日、貴方は私を見た。縁が出来た。言葉を交わし、縁は深まった。そして……」
『元君』の手が、拙僧に触れました。まったくもって力の入っていないその手に、拙僧はしかし抗うことが出来ず、跪き、拙僧は『元君』と殆ど同じ視線の高さとなりました。そして……ああ、そうです。そのようにしておいてから、『元君』は拙僧に、口付けたのです。
「……今、貴方と私はこうして交わった。なんて素晴らしいのかしら」
少女のように、本当に嬉しそうに相好を崩しながら、『元君』は言うのです。
「縁が深まっていたから、薄ぼんやりではありましたが、私にはここに居る貴方が見えていました。深く交わった今、私にはもっとはっきりと、貴方が見える……」
拙僧の手をとって、『元君』はその手に先ほどまで読んでいた書物を載せました。
「……人の体を受肉した私に見えるのは、ほんのちょっとだけだけれども。さあ、貴方はその本を手に入れるため、ここまでやって来た。その本の残りだけでなく、ここには様々な本が眠っています。どれでも好きなものをお読みなさい。そして、もっと沢山読みたくなったら、私の元にいらっしゃいな。私の嬰児、きっとあなたはここだけでは満足できないから、私の元に来るでしょう。そう、私にはそれが見える。だから」
拙僧の頬をするりとひと撫でしてから、『元君』は扉の外に出ました。
「だから、貴方は好きな時に、私を訪ねていらっしゃいな。私の、かわいい嬰児……」
後を追うことも、立ち上がることすらかなわず、拙僧はただ首を大きく回して、視界の隅に『元君』の姿を捉えていました。
その姿が、ふと、闇に溶け込むように、あるいは風に流された囲炉裏の灰のように、ふっとかき消えました。
「……新たな僧正様がいらしたのは、それからおよそ半年後の事です。拙僧は、元々は『玄君七章秘経』に関する調査を終えればラサに帰還するつもりでした。しかし、年長の僧の多くが寺院を去り、残された若い沙弥達では日々のお務めもままならない状態で、拙僧は既にこの一月あまり、寺の経営と沙弥の指導に深く関わっておりました。故に、拙僧はナルブ閣下にお願いし、ラサへ送る公文章のついでに、事情を説明し、拙僧はもうしばらくこの地に留まりたい旨のお願いをしたためた文をラサの本山に届けていただけるよう託しました。返信は思いの外早く届き、拙僧はこの地に留まることを快諾いただきました。
拙僧にとって、これは本当に僥倖でした。なんとなれば、寺院を立て直すことやりがいを感じ始めていたのも確かなのですが、それ以上に、件の岩窟に『玄君七章秘経』を筆頭に貴重な所蔵がいくつもあり、お勤めの合間にこれらの解読と翻訳を行うのが日課になっていたのですから……そうです。正直に申し上げましょう。拙僧は、その作業が楽しくて仕方がなかったのです」
モーセス・グースは、軽く振り返って、本棚の一角を右手で示す。
「あそこに、拙僧が写本した一連の書簡が収まっています。ご興味がおありでしたら、後ほどご覧下さい。ああ、大丈夫です、サンスクリット語だけでなく、拙僧が携わった分については、英語版も用意してあります」
「それはありがたい」
オーガスト・モーリー軍医中佐は、モーセスの示した本棚から視線を戻し、言う。
「ミスタ・グース、やはり貴方は、師範とお呼びするのが相応しいようです」
「ありがとうございます」
モーセス・グースは、オーガストに笑みを返す。
「さて、その写本ですが、一つだけ、オリジナルと違う箇所があるのです。今ここにオリジナルは無いので、比較は出来ないのですが……」
「意図的に、改竄したという事ですか?」
モーセスの言葉に、ペーター・メークヴーディヒリーベ少尉が聞き返す。
「然り。改竄ではなく、書き写さなかった、という事ですが」
「……公にするのは躊躇われる、そういう内容という事ですか?」
ペーター少尉が、質問を重ねる。モーセスは、微笑みつつ、首を横に振る。
「そうではありません。この都の『図書室』に所蔵するにあたって、意味がない文章だったという事なのです」
怪訝そうな顔でモーセスの答えの意味を考えているペーター少尉とオーガストに、一呼吸置いてから、モーセスはタネ明かしをする。
「……『玄君七章秘経』の最終巻、第七巻の巻末に、このような走り書きがありました。『我、西王母の谷にて、西瑶聖母よりこの書を賜る』と……つまるところ、寺院に納められていた『玄君七章秘経』も何方かの手による写本であり、それはこの『図書館』から持ち出された、『元君』の手によって。そういう事です。ですから、今再びこの『図書館』に所蔵される新しい写本については、その一文は必要がない、そういう事です」
何かを思い出すように、含み笑いするように目を細めて、モーセスは言葉を続けた。
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