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第八章:そして日常へ
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「待たせちゃったかしら?」
カウンターのスツールに腰を下ろしながら、蘭円は隣に座る岩崎に聞いた。
新宿、歌舞伎町の目抜き通りから一歩奥まった所にある雑居ビルの五階の、小さいがちょっと小洒落たバー、「伯林」。まだ開店前、準備中の店内はカウンター以外は明かりが落とされている。
「いいえ……と言いたいところですが、多少は待ちました」
琥珀色の液体の入ったカクテルグラスを置いて、岩崎が答える。
「まあ、退屈ではありませんでしたが。ここは、私の昔の部下の店なので」
「あら、そうだったの?」
ちょっと驚いて、円はカウンターの奥のバーテンに目をやる。軽く会釈した若い――若く見えるバーテンに、円は、
「コミッサール・ドットスキーの部下だったとはね。ごめんなさいね、この間は騒がせちゃって」
いえ、お気になさらずに。グラスを磨きながらバーテンは答える。
「……懐かしい呼び名ですな」
岩崎が、皮肉げに微笑みつつ、言う。
「たまにはこっちにも顔出しなさい、マンシュタインが会いたがってたわよ」
隠語なのか渾名なのか、円は聞き慣れない名前を連発した。それには直接は答えず、ただグラスを一度目の高さまで上げた岩崎は、そのままグラスを口元に運ぶ。
「ここを見つけてきたのは蒲田ですが、蒲田はここが私の元部下の店だと知っていたわけではないでしょう。もちろん私も彼には話していません」
「蒲田君はあなたの部下じゃないの?」
「彼は、今の部下ですから」
言って、岩崎はマンハッタンを一口含んだ。
「それで?わざわざあたしを呼び出したのは?」
トマトジュースをビールで割ったレッド・アイを一口飲んでから、円は岩崎に聞く。
「一言お礼をと思いまして。うちの酒井がお世話になったようで」
「あらやだ水くさい」
「詳しい報告は週明けに聞く手はずにしてますが、お孫さん達にも大変お世話になったと一報もらってます……窮奇が出たとか?」
「本物じゃないと思うけどね」
窮奇、虎に似たその物の怪は、中国では四凶に数えられる大妖怪とされる。そんなものが、おいそれとそのへんに落ちているようではたまったものではない。
「そちらで回収を?」
「お堅い警視庁に任せられる?あんたのところも引き受けちゃくれないでしょ?」
「ごもっともです」
「うちで厳重隔離してあるわ……あたしとしちゃ、奉天事件がらみの裏話が聞けそうなのが興味深いけどね」
「それです、蒲田から連絡ありましたが、関係者が居たとか?」
「張果って仙人崩れの道士、八課で押さえてるんでしょ?関東軍と奉天軍閥の両方に通じてたらしいわ……あの時、遼東半島のあの場所に居たらしいのよ」
グラスに半分ほど残るレッド・アイを目の前にかざして、円が言葉を切る。
「その事件のことは、私は記録でしか拝見してませんが……」
「……そうだったわね、あなた、その頃は欧州で駐在武官だったっけ」
「彼も、です」
岩崎は、カウンターの奥で話の邪魔をしないように控えているバーテンをグラスで示す。
「はい。自分は、助けていただいた際、ちらりとですが蘭様のお姿を拝見しましたので、よく覚えております」
三十半ばにしか見えないそのバーテンは、外見に似つかわしい若い声で答える。
「あら。ごめんなさいね、あたし、忘れちゃってたみたい」
「無理もございません、あの時助けていただいたのは、ロシア人も含めて四、五十人は居ましたから」
「そんなに居たんだっけ?」
「はい。蘭様は、収容所を開放された後、すぐに飛び出して行かれたので覚えていらっしゃらないのでしょう」
「そうね、確かあたし、収容所のドアぶち抜いてすぐに出口確保に行ったんだっけ」
「とにかく、今、自分がここに居るのは蘭様のおかげです。改めて、お礼申し上げます」
「いいのよ……それよりも、その遼東半島のアジト、あの時は尻尾掴めなかったけど、今頃になって手がかりが出てくるとはね。さっき言ってた窮奇だけど、そこで「創ってた」のかも……」
「まさか……」
岩崎は、グラスを口から離して絶句する。
「まあ、今更の話だけどね……どうしよっかな、ある程度裏取れたら本でも書こうかしら。知られざる関東軍の陰謀、なんてどう?」
岩崎もバーテンも苦笑する。
「今度の件も、マスコミが嗅ぎつける前に適当にネタ元誤魔化してどっかにタレ込んでおくわ」
トップ屋の顔で、円が言う。マスコミに嗅ぎ回られたくない事件は、先にもっともらしい情報をタレ込んで欺瞞情報で踊らせ、真相と偽情報の区別がつかなくしてしまうのが円のいつものやり方だ。
「そちらはご自由に。むしろよろしくお願いします。本庁の刑事部にも話は通しておきますので」
「お願いするわ。ね、それより、酒井君と蒲田君の事聞かせて。訳ありなんでしょ?」
「……マスコミに売らないで下さいよ」
岩崎が、茶化す。
「やあね、仲間を売るほど、ネタに困っちゃいないわよ」
円も、軽口で返した。
「仲間、ですか?」
「そうよ、あんた達も含めて、ね」
言って、円は、レッド・アイに替えて、ウォッカベースでより強いブラッディ・マリーを注文した。
カウンターのスツールに腰を下ろしながら、蘭円は隣に座る岩崎に聞いた。
新宿、歌舞伎町の目抜き通りから一歩奥まった所にある雑居ビルの五階の、小さいがちょっと小洒落たバー、「伯林」。まだ開店前、準備中の店内はカウンター以外は明かりが落とされている。
「いいえ……と言いたいところですが、多少は待ちました」
琥珀色の液体の入ったカクテルグラスを置いて、岩崎が答える。
「まあ、退屈ではありませんでしたが。ここは、私の昔の部下の店なので」
「あら、そうだったの?」
ちょっと驚いて、円はカウンターの奥のバーテンに目をやる。軽く会釈した若い――若く見えるバーテンに、円は、
「コミッサール・ドットスキーの部下だったとはね。ごめんなさいね、この間は騒がせちゃって」
いえ、お気になさらずに。グラスを磨きながらバーテンは答える。
「……懐かしい呼び名ですな」
岩崎が、皮肉げに微笑みつつ、言う。
「たまにはこっちにも顔出しなさい、マンシュタインが会いたがってたわよ」
隠語なのか渾名なのか、円は聞き慣れない名前を連発した。それには直接は答えず、ただグラスを一度目の高さまで上げた岩崎は、そのままグラスを口元に運ぶ。
「ここを見つけてきたのは蒲田ですが、蒲田はここが私の元部下の店だと知っていたわけではないでしょう。もちろん私も彼には話していません」
「蒲田君はあなたの部下じゃないの?」
「彼は、今の部下ですから」
言って、岩崎はマンハッタンを一口含んだ。
「それで?わざわざあたしを呼び出したのは?」
トマトジュースをビールで割ったレッド・アイを一口飲んでから、円は岩崎に聞く。
「一言お礼をと思いまして。うちの酒井がお世話になったようで」
「あらやだ水くさい」
「詳しい報告は週明けに聞く手はずにしてますが、お孫さん達にも大変お世話になったと一報もらってます……窮奇が出たとか?」
「本物じゃないと思うけどね」
窮奇、虎に似たその物の怪は、中国では四凶に数えられる大妖怪とされる。そんなものが、おいそれとそのへんに落ちているようではたまったものではない。
「そちらで回収を?」
「お堅い警視庁に任せられる?あんたのところも引き受けちゃくれないでしょ?」
「ごもっともです」
「うちで厳重隔離してあるわ……あたしとしちゃ、奉天事件がらみの裏話が聞けそうなのが興味深いけどね」
「それです、蒲田から連絡ありましたが、関係者が居たとか?」
「張果って仙人崩れの道士、八課で押さえてるんでしょ?関東軍と奉天軍閥の両方に通じてたらしいわ……あの時、遼東半島のあの場所に居たらしいのよ」
グラスに半分ほど残るレッド・アイを目の前にかざして、円が言葉を切る。
「その事件のことは、私は記録でしか拝見してませんが……」
「……そうだったわね、あなた、その頃は欧州で駐在武官だったっけ」
「彼も、です」
岩崎は、カウンターの奥で話の邪魔をしないように控えているバーテンをグラスで示す。
「はい。自分は、助けていただいた際、ちらりとですが蘭様のお姿を拝見しましたので、よく覚えております」
三十半ばにしか見えないそのバーテンは、外見に似つかわしい若い声で答える。
「あら。ごめんなさいね、あたし、忘れちゃってたみたい」
「無理もございません、あの時助けていただいたのは、ロシア人も含めて四、五十人は居ましたから」
「そんなに居たんだっけ?」
「はい。蘭様は、収容所を開放された後、すぐに飛び出して行かれたので覚えていらっしゃらないのでしょう」
「そうね、確かあたし、収容所のドアぶち抜いてすぐに出口確保に行ったんだっけ」
「とにかく、今、自分がここに居るのは蘭様のおかげです。改めて、お礼申し上げます」
「いいのよ……それよりも、その遼東半島のアジト、あの時は尻尾掴めなかったけど、今頃になって手がかりが出てくるとはね。さっき言ってた窮奇だけど、そこで「創ってた」のかも……」
「まさか……」
岩崎は、グラスを口から離して絶句する。
「まあ、今更の話だけどね……どうしよっかな、ある程度裏取れたら本でも書こうかしら。知られざる関東軍の陰謀、なんてどう?」
岩崎もバーテンも苦笑する。
「今度の件も、マスコミが嗅ぎつける前に適当にネタ元誤魔化してどっかにタレ込んでおくわ」
トップ屋の顔で、円が言う。マスコミに嗅ぎ回られたくない事件は、先にもっともらしい情報をタレ込んで欺瞞情報で踊らせ、真相と偽情報の区別がつかなくしてしまうのが円のいつものやり方だ。
「そちらはご自由に。むしろよろしくお願いします。本庁の刑事部にも話は通しておきますので」
「お願いするわ。ね、それより、酒井君と蒲田君の事聞かせて。訳ありなんでしょ?」
「……マスコミに売らないで下さいよ」
岩崎が、茶化す。
「やあね、仲間を売るほど、ネタに困っちゃいないわよ」
円も、軽口で返した。
「仲間、ですか?」
「そうよ、あんた達も含めて、ね」
言って、円は、レッド・アイに替えて、ウォッカベースでより強いブラッディ・マリーを注文した。
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