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第六章:金曜、それぞれの思惑、それぞれの決意

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「酒井さん、すっかり説得が上手くなりましたね、はい」
 桜田門前、十二時三十分。警視庁の駐車場で熊川警部補をキザシから降ろし、再発進して内堀通り外回りに合流してから、蒲田は酒井に言った。
「なんだよ、批判か?」
「いえ、すごいなと思ってます、本当です、はい」
 口元を緩めながら蒲田が言う。多分、本心なのはそうなのだろう。とはいえ、誰かに面と向かってそう言われると面映おもはゆいし、ましてやそれが年下の、立場上は部下だとしたら。
「なに、蒲田君の真似をしているだけさ」
 半ば以上本気で、酒井はそう思っている。蒲田は、交渉事が上手い。相手の心の隙を突くのが上手い、と言うべきか。正直、酒井はそう言うのは苦手としていたが、田舎の駐在所ならともかく、都心の警察庁本庁勤務ではそうも行かない。
「いやいや、何をおっしゃいますやらです、はい」
 蒲田は軽口で返す。この半年でこの若い部下、ただし分調班の仕事としては実務経験は酒井より長い蒲田とはすっかり打ち解けたと思っている、この程度の軽口を叩ける程度には。
 そして。幸か不幸か、さっきまで熊川警部補が居たせいだろう、酒井の胸中の焦り、焦燥感が、多少なりとも和らいでいる。恐らく、熊川を通じて八課に事情を説明して説得し、協力を得るチャンスを得た事で負担が減ったのだろう。
 説得。連絡係がいまいちつかみ所のない熊川警部補だと一抹の不安はあるが、とりあえずああ言っておけば八課はこっちの要請に乗ってくれるだろう。各方面の圧力に辟易しているのであれば、そこいら辺を出し抜く機会とあれば見逃すまい。
 俺もすっかりこすっからくなったな。酒井は自嘲気味に口元を緩め、禁煙の車内でも咥えてるだけならいいだろうと内ポケットの煙草を出そうとして、さっき最後の一本を落っことしたことを思い出す。
「……しまった」
「どうかしましたか?」
「いや、煙草切らしてた」
「じゃあ、どっかコンビニ寄って、ついでに昼飯買っていきましょう、はい」
 半蔵門交差点を左折して国道二十号甲州街道に入りながら、蒲田が提案した。

 それは、本当に突然だった。
 折れかけた自分の心の中に閉じこもりかけていた青葉五月あおばさつきの背後で、けたたましい音を立てて何かが崩れ、安っぽい古いリノリュームの床にぶち当たった。
 その大音響に、全くもって不意を突かれた五月は掛け値無しに心臓が止まるほど驚き、不自由な状態の体が椅子から十センチは飛び上がった。
 叫ばなかったのは奇跡だったが、もしかしたら悲鳴が可聴域を超えてしまっていたのかも知れない。
 破裂しそうな心臓の動悸を抑えつつ、恐る恐る振り向いた五月の目に映ったのは、最前まで座っていたはずのパイプ椅子から転げ落ち、床に変な格好で横たわるエータの姿だった。

 今、エータの中には北条柾木は入っていないし、自律状態で起動しているわけでもない。ほぼ完全に停止していて、体のどこにも力が入っていない。
 五月はその事を知っているから、最初は力の抜けているエータが自然にパイプ椅子から滑り落ちたのだと思った。だが、すぐに何かがおかしいと気付く。
 ただ滑り落ちただけなら、椅子の前側か左右どちらか、すぐ近くに落ちているだろう。しかし、今エータは、倒れた椅子から五十センチは離れた、向かって左側に倒れている。頭の位置だけなら、椅子から一メートルは離れているだろう。滑り落ちたにしては、離れすぎている。
 五月は、ゆっくりと立ち上がり、エータに近づく。確かめる必要がある、何が起きたのかは分からないが。もし、エータに何かが起こっていて、それが張果ちょうかを利するような事なら、出来れば防ぎたい。
 そう思ってエータに近づき、自分に近い足下から顔までゆっくりと視線を移動させていった五月は、ぎくりとして動きを止めた。
 エータの目が、開いていた。

 エータの目が閉じているのは、エータが運び込まれた時から気付いていたし、その後何度も確かめた。張果や葉法善ようほうぜん、あるいは自分がエータを起動しようとして色々試した結果、何らかの変化があったとしたら、目が開く可能性は非常に高いからだ。だが、これまで一度もエータは目を開かなかった。勿論、目以外の体のどの部分も、ピクリとも動かなかった。
 だが、今、瞼が開いている。床に落ちた衝撃によるものかも知れない、如何にエータが傑作とは言え、作り物のオートマータには違いないのだから。だが、そうでないとしたら?
 万に一つ、いや百万に一つもあり得ないかも知れないと思いつつ、エータに何かが起こっているかも知れない可能性を考えて、五月はエータの顔に自分の顔を寄せた。
 その時。エータの目が、こちらを見た。

 咄嗟に、五月は自由になる右手をエータの背中に回して抱きついた。茉茉モモを抱いている左手は動かない、動かせないから、エータを起こそうとすればこうして抱き寄せるしかない、そう見える事を期待して。
 部屋中の人形の目からエータの目元が見えないように自分の頭で隠しつつ、部屋中の人形に聞こえないよう、本当に本当に小さな声で、五月はエータの耳に口を寄せ、囁いた。
「柾木君?柾木君なのね?」
 エータの頬は、五月のよく知る北条柾木の生気が宿っていた。五月は、その事を敏感に感じ取り、さらに呟く。
「柾木君……よかった……お願い、助けて……」
 五月は、エータを強く抱いた。強く抱いて、気付く。
 もう、エータからは柾木の生気は感じ取れなかった。
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