29 / 141
第三章:予兆と岐路の火曜日
028
しおりを挟む
「お疲れ様でした~」
新宿歌舞伎町二丁目、深夜営業も行う小料理屋に近い形態のスナック「轆轤」の営業はまだまだこれからだが、最近バイトに入った青葉五月は「若い子は終電前に帰れ」というママの方針により、ママから借り物の黄八丈の小袖を私服に着替え、ママと常連に声をかけて手を振りつつ店を出る。
仕事の合間に呑んだビールで気持ち火照った頬に、師走の冷たい夜風が心地よい。足取り軽く東京メトロ大江戸線東新宿駅に向かう。今日のバイトも、気持ちよく終わった、はずだった。
車椅子に乗った、その老人が現れるまでは。
「また、仕事を頼みたいのだが、よろしいかな?」
老人が口を開く。声に、今ひとつ昨日までの張りがない。老人の後ろに、車椅子を押す大柄の男。その後ろに、さらに二人の人影が見える。
「……申し訳ないですが、お断りさせて下さい。このお金もお返しします」
きっぱりと断り、五月はハンドバッグから封筒を取り出す。
「そこを何とか頼めませんかな。なに、金なら充分に」
「お金の問題ではないので。失礼します」
切り上げて逃げるが勝ち。五月はそう判断し、相手の言葉を遮り、きびすを返そうとする。背筋に冷たい物を感じながら。
「残念だ、手荒なことはしたくなかったのだが」
老人のその言葉をきっかけに、大男の後ろに居た二人が飛び出す。平日の夜半前の中途半端な時間、人通りは少ないとは言え皆無ではない。あまりにも大胆な行動に、五月は、その二人に何らかの認識を阻害する呪がかけられていることを確信する。咄嗟に、手に持っていた封筒の頭をその二人に向けて大きく振る。中身の1万円札と、1万円札に紛れ込ませた数枚の霊符が飛び散る。
「唵 金剛怖畏尊 薩婆訶!」
切り札の一つだったが、出し惜しみは危険。そう判断した五月は短期決戦を狙って真言を唱える。舞い散った霊符が反応し、霊符が囲む空間に囚われた二人の動きが瞬間、停まる。
その隙を逃さず、五月は手近な向かって右側の男の眉間を、今時珍しい人民帽の下に見える符籙ごと、右手のリストバンドに仕込んだ暗器、峨嵋刺で貫く。
「唵!」
発勁と共に念を発すると、そのまま身を翻し、引き抜いた峨嵋刺の裏拳で左側の男の眉間も突き、
「唵!」
もう一度、念を込めて勁を発する。
くたり。糸が切れたからくり人形のように、二人の男が崩れ落ちる。二人の額から符籙が剥がれ、ひらりと翻ったところで五月の峨嵋刺、丸棒ではなく扁平な菱形断面に刃付けをされたむしろ短剣とも言えるそれが、空中で符籙を切り裂く。
「赶屍術?ですか?」
五月は、アスファルトの上に倒れた、今時人民服を着た二人分の死体を見下ろしてつぶやくように言う。
「お止めになった方が良いかと思います」
「……素晴らしい。思った以上だ」
懐から何かを取り出しながら、老人は抑えきれない興奮の載った声色で言う。
「これなら、充分に釣りが来るというものだ」
「……お話しが噛み合いませんね……」
向こうは、何か隠し球を持っている。それも、かなりヤバイ奴。五月は、今すぐ全力の一発をかまして逃げる、それしか無いと判断する。
ハンドバッグから霊符を抜き出し、投げる。即座に、真言を唱える。
「唵 金剛火 薩婆訶!」
五月は、確かに真言を唱えたはずだった。
だが、同時に、五月は見た。
老人が、懐から出した、二の腕の長さ程の大きさの人形に、千枚通しのようなものを軽く突き立てるのを。
五月は見た。真言によって霊符が発動する直前、霊符が粉々に切り裂かれるのを。
五月の記憶は、そこで途切れた。
「まだ帰ってなかったか……」
残業をこなしてからの帰宅後、酒井は隣室に明かりが灯っていないのを見て、つぶやく。
バイトの上がり時間によっては、五月は終電を逃して朝帰りになる事もさほど珍しくはない。それを知っている酒井だから、今日、まだ帰ってきていないことも、残念に思いつつも特に心配はしていなかった。
酒井は、出来れば少し、五月と呑みたいと思っていた。自分が、学歴に嫉妬するような、そんなちっぽけな男である事を自覚し、またそれが嫌で、それを誰かに吐き出したいのだということも自覚していた。もっとも、その相手が若い未婚の女性であることには全く疑問を持たない位に、五月と呑むことになじんでいることは自覚していなかったが。
明日、改めてまた誘ってみよう。酒井は、ただそう思い、今夜はもう休むことにした。
新宿歌舞伎町二丁目、深夜営業も行う小料理屋に近い形態のスナック「轆轤」の営業はまだまだこれからだが、最近バイトに入った青葉五月は「若い子は終電前に帰れ」というママの方針により、ママから借り物の黄八丈の小袖を私服に着替え、ママと常連に声をかけて手を振りつつ店を出る。
仕事の合間に呑んだビールで気持ち火照った頬に、師走の冷たい夜風が心地よい。足取り軽く東京メトロ大江戸線東新宿駅に向かう。今日のバイトも、気持ちよく終わった、はずだった。
車椅子に乗った、その老人が現れるまでは。
「また、仕事を頼みたいのだが、よろしいかな?」
老人が口を開く。声に、今ひとつ昨日までの張りがない。老人の後ろに、車椅子を押す大柄の男。その後ろに、さらに二人の人影が見える。
「……申し訳ないですが、お断りさせて下さい。このお金もお返しします」
きっぱりと断り、五月はハンドバッグから封筒を取り出す。
「そこを何とか頼めませんかな。なに、金なら充分に」
「お金の問題ではないので。失礼します」
切り上げて逃げるが勝ち。五月はそう判断し、相手の言葉を遮り、きびすを返そうとする。背筋に冷たい物を感じながら。
「残念だ、手荒なことはしたくなかったのだが」
老人のその言葉をきっかけに、大男の後ろに居た二人が飛び出す。平日の夜半前の中途半端な時間、人通りは少ないとは言え皆無ではない。あまりにも大胆な行動に、五月は、その二人に何らかの認識を阻害する呪がかけられていることを確信する。咄嗟に、手に持っていた封筒の頭をその二人に向けて大きく振る。中身の1万円札と、1万円札に紛れ込ませた数枚の霊符が飛び散る。
「唵 金剛怖畏尊 薩婆訶!」
切り札の一つだったが、出し惜しみは危険。そう判断した五月は短期決戦を狙って真言を唱える。舞い散った霊符が反応し、霊符が囲む空間に囚われた二人の動きが瞬間、停まる。
その隙を逃さず、五月は手近な向かって右側の男の眉間を、今時珍しい人民帽の下に見える符籙ごと、右手のリストバンドに仕込んだ暗器、峨嵋刺で貫く。
「唵!」
発勁と共に念を発すると、そのまま身を翻し、引き抜いた峨嵋刺の裏拳で左側の男の眉間も突き、
「唵!」
もう一度、念を込めて勁を発する。
くたり。糸が切れたからくり人形のように、二人の男が崩れ落ちる。二人の額から符籙が剥がれ、ひらりと翻ったところで五月の峨嵋刺、丸棒ではなく扁平な菱形断面に刃付けをされたむしろ短剣とも言えるそれが、空中で符籙を切り裂く。
「赶屍術?ですか?」
五月は、アスファルトの上に倒れた、今時人民服を着た二人分の死体を見下ろしてつぶやくように言う。
「お止めになった方が良いかと思います」
「……素晴らしい。思った以上だ」
懐から何かを取り出しながら、老人は抑えきれない興奮の載った声色で言う。
「これなら、充分に釣りが来るというものだ」
「……お話しが噛み合いませんね……」
向こうは、何か隠し球を持っている。それも、かなりヤバイ奴。五月は、今すぐ全力の一発をかまして逃げる、それしか無いと判断する。
ハンドバッグから霊符を抜き出し、投げる。即座に、真言を唱える。
「唵 金剛火 薩婆訶!」
五月は、確かに真言を唱えたはずだった。
だが、同時に、五月は見た。
老人が、懐から出した、二の腕の長さ程の大きさの人形に、千枚通しのようなものを軽く突き立てるのを。
五月は見た。真言によって霊符が発動する直前、霊符が粉々に切り裂かれるのを。
五月の記憶は、そこで途切れた。
「まだ帰ってなかったか……」
残業をこなしてからの帰宅後、酒井は隣室に明かりが灯っていないのを見て、つぶやく。
バイトの上がり時間によっては、五月は終電を逃して朝帰りになる事もさほど珍しくはない。それを知っている酒井だから、今日、まだ帰ってきていないことも、残念に思いつつも特に心配はしていなかった。
酒井は、出来れば少し、五月と呑みたいと思っていた。自分が、学歴に嫉妬するような、そんなちっぽけな男である事を自覚し、またそれが嫌で、それを誰かに吐き出したいのだということも自覚していた。もっとも、その相手が若い未婚の女性であることには全く疑問を持たない位に、五月と呑むことになじんでいることは自覚していなかったが。
明日、改めてまた誘ってみよう。酒井は、ただそう思い、今夜はもう休むことにした。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
虐げられた令嬢、ペネロペの場合
キムラましゅろう
ファンタジー
ペネロペは世に言う虐げられた令嬢だ。
幼い頃に母を亡くし、突然やってきた継母とその後生まれた異母妹にこき使われる毎日。
父は無関心。洋服は使用人と同じくお仕着せしか持っていない。
まぁ元々婚約者はいないから異母妹に横取りされる事はないけれど。
可哀想なペネロペ。でもきっといつか、彼女にもここから救い出してくれる運命の王子様が……なんて現れるわけないし、現れなくてもいいとペネロペは思っていた。何故なら彼女はちっとも困っていなかったから。
1話完結のショートショートです。
虐げられた令嬢達も裏でちゃっかり仕返しをしていて欲しい……
という願望から生まれたお話です。
ゆるゆる設定なのでゆるゆるとお読みいただければ幸いです。
R15は念のため。
〈完結〉妹に婚約者を獲られた私は実家に居ても何なので、帝都でドレスを作ります。
江戸川ばた散歩
ファンタジー
「私」テンダー・ウッドマンズ伯爵令嬢は両親から婚約者を妹に渡せ、と言われる。
了承した彼女は帝都でドレスメーカーの独立工房をやっている叔母のもとに行くことにする。
テンダーがあっさりと了承し、家を離れるのには理由があった。
それは三つ下の妹が生まれて以来の両親の扱いの差だった。
やがてテンダーは叔母のもとで服飾を学び、ついには?
100話まではヒロインのテンダー視点、幕間と101話以降は俯瞰視点となります。
200話で完結しました。
今回はあとがきは無しです。
【本編完結】さようなら、そしてどうかお幸せに ~彼女の選んだ決断
Hinaki
ファンタジー
16歳の侯爵令嬢エルネスティーネには結婚目前に控えた婚約者がいる。
23歳の公爵家当主ジークヴァルト。
年上の婚約者には気付けば幼いエルネスティーネよりも年齢も近く、彼女よりも女性らしい色香を纏った女友達が常にジークヴァルトの傍にいた。
ただの女友達だと彼は言う。
だが偶然エルネスティーネは知ってしまった。
彼らが友人ではなく想い合う関係である事を……。
また政略目的で結ばれたエルネスティーネを疎ましく思っていると、ジークヴァルトは恋人へ告げていた。
エルネスティーネとジークヴァルトの婚姻は王命。
覆す事は出来ない。
溝が深まりつつも結婚二日前に侯爵邸へ呼び出されたエルネスティーネ。
そこで彼女は彼の私室……寝室より聞こえてくるのは悍ましい獣にも似た二人の声。
二人がいた場所は二日後には夫婦となるであろうエルネスティーネとジークヴァルトの為の寝室。
これ見よがしに少し開け放たれた扉より垣間見える寝台で絡み合う二人の姿と勝ち誇る彼女の艶笑。
エルネスティーネは限界だった。
一晩悩んだ結果彼女の選んだ道は翌日愛するジークヴァルトへ晴れやかな笑顔で挨拶すると共にバルコニーより身を投げる事。
初めて愛した男を憎らしく思う以上に彼を心から愛していた。
だから愛する男の前で死を選ぶ。
永遠に私を忘れないで、でも愛する貴方には幸せになって欲しい。
矛盾した想いを抱え彼女は今――――。
長い間スランプ状態でしたが自分の中の性と生、人間と神、ずっと前からもやもやしていたものが一応の答えを導き出し、この物語を始める事にしました。
センシティブな所へ触れるかもしれません。
これはあくまで私の考え、思想なのでそこの所はどうかご容赦して下さいませ。
【完結】私だけが知らない
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
【完結】言いたいことがあるなら言ってみろ、と言われたので遠慮なく言ってみた
杜野秋人
ファンタジー
社交シーズン最後の大晩餐会と舞踏会。そのさなか、第三王子が突然、婚約者である伯爵家令嬢に婚約破棄を突き付けた。
なんでも、伯爵家令嬢が婚約者の地位を笠に着て、第三王子の寵愛する子爵家令嬢を虐めていたというのだ。
婚約者は否定するも、他にも次々と証言や証人が出てきて黙り込み俯いてしまう。
勝ち誇った王子は、最後にこう宣言した。
「そなたにも言い分はあろう。私は寛大だから弁明の機会をくれてやる。言いたいことがあるなら言ってみろ」
その一言が、自らの破滅を呼ぶことになるなど、この時彼はまだ気付いていなかった⸺!
◆例によって設定ナシの即興作品です。なので主人公の伯爵家令嬢以外に固有名詞はありません。頭カラッポにしてゆるっとお楽しみ下さい。
婚約破棄ものですが恋愛はありません。もちろん元サヤもナシです。
◆全6話、約15000字程度でサラッと読めます。1日1話ずつ更新。
◆この物語はアルファポリスのほか、小説家になろうでも公開します。
◆9/29、HOTランキング入り!お読み頂きありがとうございます!
10/1、HOTランキング最高6位、人気ランキング11位、ファンタジーランキング1位!24h.pt瞬間最大11万4000pt!いずれも自己ベスト!ありがとうございます!
冷宮の人形姫
りーさん
ファンタジー
冷宮に閉じ込められて育てられた姫がいた。父親である皇帝には関心を持たれず、少しの使用人と母親と共に育ってきた。
幼少の頃からの虐待により、感情を表に出せなくなった姫は、5歳になった時に母親が亡くなった。そんな時、皇帝が姫を迎えに来た。
※すみません、完全にファンタジーになりそうなので、ファンタジーにしますね。
※皇帝のミドルネームを、イント→レントに変えます。(第一皇妃のミドルネームと被りそうなので)
そして、レンド→レクトに変えます。(皇帝のミドルネームと似てしまうため)変わってないよというところがあれば教えてください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる