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第三章:予兆と岐路の火曜日

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「お疲れ様でした~」
 新宿歌舞伎町二丁目、深夜営業も行う小料理屋に近い形態のスナック「轆轤ろくろ」の営業はまだまだこれからだが、最近バイトに入った青葉五月あおばさつきは「若い子は終電前に帰れ」というママの方針により、ママから借り物の黄八丈の小袖を私服に着替え、ママと常連に声をかけて手を振りつつ店を出る。
 仕事の合間に呑んだビールで気持ち火照った頬に、師走の冷たい夜風が心地よい。足取り軽く東京メトロ大江戸線東新宿駅に向かう。今日のバイトも、気持ちよく終わった、はずだった。
 車椅子に乗った、その老人が現れるまでは。

「また、仕事を頼みたいのだが、よろしいかな?」
 老人が口を開く。声に、今ひとつ昨日までの張りがない。老人の後ろに、車椅子を押す大柄の男。その後ろに、さらに二人の人影が見える。
「……申し訳ないですが、お断りさせて下さい。このお金もお返しします」
 きっぱりと断り、五月はハンドバッグから封筒を取り出す。
「そこを何とか頼めませんかな。なに、金なら充分に」
「お金の問題ではないので。失礼します」
 切り上げて逃げるが勝ち。五月はそう判断し、相手の言葉を遮り、きびすを返そうとする。背筋に冷たい物を感じながら。
「残念だ、手荒なことはしたくなかったのだが」

 老人のその言葉をきっかけに、大男の後ろに居た二人が飛び出す。平日の夜半前の中途半端な時間、人通りは少ないとは言え皆無ではない。あまりにも大胆な行動に、五月は、その二人に何らかの認識を阻害する呪がかけられていることを確信する。咄嗟に、手に持っていた封筒の頭をその二人に向けて大きく振る。中身の1万円札と、1万円札に紛れ込ませた数枚の霊符ふだが飛び散る。
オン 金剛怖畏尊バザラバイラバ 薩婆訶ソワカ!」
 切り札の一つだったが、出し惜しみは危険。そう判断した五月は短期決戦を狙って真言マントラを唱える。舞い散った霊符が反応し、霊符が囲む空間に囚われた二人の動きが瞬間、停まる。
 その隙を逃さず、五月は手近な向かって右側の男の眉間を、今時珍しい人民帽の下に見える符籙ふだごと、右手のリストバンドに仕込んだ暗器、峨嵋刺がびしで貫く。
「唵!」
 発勁と共に念を発すると、そのまま身を翻し、引き抜いた峨嵋刺の裏拳で左側の男の眉間も突き、
「唵!」
 もう一度、念を込めて勁を発する。
 くたり。糸が切れたからくり人形のように、二人の男が崩れ落ちる。二人の額から符籙が剥がれ、ひらりと翻ったところで五月の峨嵋刺、丸棒ではなく扁平な菱形断面に刃付けをされたむしろ短剣とも言えるそれが、空中で符籙を切り裂く。
赶屍術ガンシーシュー?ですか?」
 五月は、アスファルトの上に倒れた、今時人民服を着た二人分の死体を見下ろしてつぶやくように言う。
「お止めになった方が良いかと思います」
「……素晴らしい。思った以上だ」
 懐から何かを取り出しながら、老人は抑えきれない興奮の載った声色で言う。
「これなら、充分に釣りが来るというものだ」
「……お話しが噛み合いませんね……」
 向こうは、何か隠し球を持っている。それも、かなりヤバイ奴。五月は、今すぐ全力の一発をかまして逃げる、それしか無いと判断する。
 ハンドバッグから霊符を抜き出し、投げる。即座に、真言を唱える。
オン 金剛火バザラナラ 薩婆訶ソワカ!」

 五月は、確かに真言を唱えたはずだった。
 だが、同時に、五月は見た。
 老人が、懐から出した、二の腕の長さ程の大きさの人形に、千枚通しのようなものを軽く突き立てるのを。
 五月は見た。真言によって霊符が発動する直前、霊符が粉々に切り裂かれるのを。
 五月の記憶は、そこで途切れた。

「まだ帰ってなかったか……」
 残業をこなしてからの帰宅後、酒井は隣室に明かりが灯っていないのを見て、つぶやく。
 バイトの上がり時間によっては、五月は終電を逃して朝帰りになる事もさほど珍しくはない。それを知っている酒井だから、今日、まだ帰ってきていないことも、残念に思いつつも特に心配はしていなかった。
 酒井は、出来れば少し、五月と呑みたいと思っていた。自分が、学歴に嫉妬するような、そんなちっぽけな男である事を自覚し、またそれが嫌で、それを誰かに吐き出したいのだということも自覚していた。もっとも、その相手が若い未婚の女性であることには全く疑問を持たない位に、五月と呑むことになじんでいることは自覚していなかったが。
 明日、改めてまた誘ってみよう。酒井は、ただそう思い、今夜はもう休むことにした。
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