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60.心は成長をはじめたから

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 番、番、番……と繰り返された言葉。
 相手がどの立場の人間かなど気にしていられるか。

 脇目も振らず急いでこの場から立ち去ろうと踵を返したジェラルドの歩みを止めたのは、最も近くから発せられた声だった。

「つがいはいいものです」

 少し身体を離してヴェール越しに顔を覗き込めば、ジェラルドの瞳を見詰め返すそれと目が合った。
 その瞳に込められた期待。
 ジェラルドはヴェールは上げず、布越しにセイディの額へと口付けた。
 そして屋敷ではそれが常となった声を出す。

「そうだね、セイディ。番はいいものだ」

 甘ったるいその声に、まだ側にいた王女の肩が僅かに揺れた。
 だがジェラルドもセイディも、王女の姿などその目には捉えていない。

「おかあしゃまとおとうしゃまもいっしょです」

「あぁ、二人と同じく私たちも番で仲良しだ。そうだなセイディ?」

「はい!せいでぃとるどはなかよしでしゅっ!」


 ジェラルドはまた深く両親に感謝した。
 セイディの苦手な言葉を避けるのではなく、あえて伝え続けてくれたのは、先代公爵夫妻だ。

 ジェラルドはどうしてもセイディが心を閉ざすあの瞬間が耐えられず、自分ではとても言えなかったから。
 両親が語り掛けてくれなかったら、まだセイディは番という言葉に怯え続けていただろう。

 特にこの件ではジェラルドの母シェリルが尽力した。


『おかあしゃまはおとうしゃまと番なのよ』

『セイディちゃんもジェラルドと番なの』

『番にはね、誰よりも仲良しだというとてもいい意味があるわ』

『番を悪く言った人は嘘吐きさんね。もうその人のことは忘れなさい』


 大好きなおかあしゃまの言葉であろうと、最初は固まって心の動きをぴたと止めてしまったセイディ。
 けれどもシェリルは諦めなかった。

 手を取り、時にはその膝に乗せて、あるいは時には夫であるレイモンドの膝を借りて、セイディに同じ言葉を繰り返し続けた。

 セイディの反応が少しずつ変わっていく。
 心を閉ざし切る前に、シェリルの瞳を見詰めるようになった。

 そのうちに、心を止めずに言葉を返すようになる。


『つがいはいいものですか?』

『そうよ、とてもいいものなの。嘘吐きさんは間違ったことを言っていただけ』


 その様子を見てから、アルメスタ公爵邸の使用人らも動いた。

 侍女長のソフィアから手を取られ『セイディさまは主さまの大切な番さまですね』と何度も語り掛けられて。
 侍従のトットからは『セイディさまが主さまの番さまで嬉しい限り。いえ、逆でしたね。主さまがセイディさまの番さまでよろしかったですか?おや?それとも別の方と特別な仲良しになられる方が嬉しかったでしょうか?たとえばこのトットとか?』とよく笑い掛けられ。
 料理長のルースには『主さまの番さまであり、大切な私たちのお守りすべきセイディさまに、今日の特別を』と毎度恭しくプリンを差し出され。
 庭師のまとめ役の男ヘンリーからは、『さぁ、今日も楽しく遊びましょうぞ、セイディさま。何ですと?セイディさまの番さまである主さまもご一緒なさる?ふむ、セイディさまの番さまならば仕方ないですな。それでよろしいですか、セイディさま?』とジェラルドばかりが揶揄われて。

 その他多くの使用人らも、『番』という言葉を避けず、むしろ沢山使うようにした。

 結婚も、夫婦の意味も、愛についても。
 きっとよく分かっていないセイディであるし、すっかりそれについて考えることも忘れてしまったセイディだから、そこに『番』という新たな言葉が加わっただけかもしれない。

 それでも。

 怖いものではなく『いいもの』だ。
 セイディは『番』という言葉の認識を改めた。

 だっておとうしゃまとおかあしゃまの真似をするのが大好きだから。
 そしてジェラルドが『番』と聞くと、どうしてか泣きそうな顔をして笑い掛け、そして額に口付けをしてくれるから。
 よしよしと同じく、きっとそれはご褒美。
 その後に続く甘く優しい声は、セイディの耳にはいつもとても心地好く届いた。



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