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このバーに足を踏み入れたのはずいぶん久しぶりだ。
三カ月くらいだろうか。それなのに、まるで遠い昔に思えた。
真と付き合っていた時、律はよくこの店に連れてこられた。
彼の家の最寄り駅のすぐそばという立地と、値段の割にボリュームのある料理(味はそれほどではないけれど)、それが真がここをとりわけ気に入っている理由だった。
久しぶり、とバーの店主に声をかけられる。
二言三言、挨拶がてら話をすると、店の奥の席から顔を出した真が、律を手招いた。
歩くたびにやけに大きな軋み音をたてる板張りの床の上を、律はゆっくり進んでいく。
「久しぶり」
互いにぎこちなく微笑して、そう口にする。
座るよう促され、律は真の向かいの席に腰を下ろした。
「飲み物どうする?」
差し出されたメニュー表を見てみるけれど、最後に来た時とそっくり同じだ。
店のメニュー表なんてそうそう変わるものではないと分かっているけれど、別れて三カ月会わなかったことが幻みたいに思える。
「じゃあ…モヒート」
律が小さな声で答えると、
「そうだと思ってた」
真が頬を緩める。
二人の間の固い空気が少し和んだような気がした。
この店で律がいつも頼んでいたのはモヒートだ。
その習性で今日も同じものを選んだ。
真もいつも通りジン・トニックだ。
「元気だったか?」
問われて、律は改めてまじまじと真の顔を見た。
よく知っている顔のはずなのに、見知らぬ人間のような、どこか不思議な感覚を覚える。
「うん、まぁ…」
浮気されて捨てられた相手に、息災を尋ねられるのは変な感じだ。
なんと答えればいいのか束の間迷った末に、出てきたのは曖昧な頷きだけだった。
体は病とは無縁だったけれど、精神面でいえば全く元気ではなかった。
こと、別れた直後は人生でこれほど涙を流したことはないくらい、大泣きした。
涙が枯れてからは、彼からの連絡を待つ日々が続いた。
少し前までそれを、癖のように繰り返していたけれど…
律は気づく。
最近は、真のことを思い出さなくなっていた。
環境が変わったからかもしれない。
由紀奈の誘いで三上家に越したし、新しい仕事も始めた。
時折ふと真のことを思い出すことがあっても、以前のように感情が荒れることはなくなっていた。
縋るように連絡を待ち続けることも。
もちろん、完全に立ち直ったわけではないけれど、少しずつでも傷はふさがりつつあるようだ。
「…本当に悪かったと思ってる」
ぽつりぽつりと、互いに近況と恋人時代の思い出を話していたところへ、不意に真が切り出した。
「俺が馬鹿だった。あんなことするなんて…」
頭を垂れる真を、律は戸惑ったまま見つめる。
彼がこんな風に謝るのは初めてのことだった。
「今更こんなこと言うのは身勝手だって分かってる。だけど、もし許してもらえるなら…やり直したい」
律は言葉を探すが、何も思い浮かばない。
「律?」
「あ、うん…」
名前を呼ばれ、かろうじて返事をする。
「悪い、困らせるつもりはなかったんだ。ただ、俺の気持ちを伝えておきたくて…もちろん自分勝手だってことも理解してる。それでも、お前じゃなきゃダメなんだって気づいたんだ」
ずっと待ちわびていたはずの言葉だった。
それなのに、心に嬉しい気持ちはない。
反応を窺うような視線を感じ、律は取り繕うように唇だけで笑みを作る。
一カ月前までは、ずっと待っていた真からの連絡も、最近ではほとんど気にしなくなっていた。
いつの頃からか、終わりを受け入れていたのだ。
「返事は今すぐじゃなくていいんだ。ただ、嫌じゃないならまた二人で会ってほしい」
混乱しながらも、請われるままにその申し出を承諾した。
少し前までは彼が戻ってくることをあんなに強く望んでいたし、それが現実になったのだ。
頷くのが当然だった。
それなのに、結婚まで考えていた彼を前にしても、今は驚くほど何も感じない。
その温度差に戸惑う。
久しぶりに会ったというのに、心が無いみたいに何も響かないのは…きっとブランクのせいだろう。
あるいは、最後の記憶がとても嫌な思い出だから。
何回か会えば、きっと前みたいに好きになるはず。
そう自分に言い聞かせながら、律は真との次の約束を交わした。
三カ月くらいだろうか。それなのに、まるで遠い昔に思えた。
真と付き合っていた時、律はよくこの店に連れてこられた。
彼の家の最寄り駅のすぐそばという立地と、値段の割にボリュームのある料理(味はそれほどではないけれど)、それが真がここをとりわけ気に入っている理由だった。
久しぶり、とバーの店主に声をかけられる。
二言三言、挨拶がてら話をすると、店の奥の席から顔を出した真が、律を手招いた。
歩くたびにやけに大きな軋み音をたてる板張りの床の上を、律はゆっくり進んでいく。
「久しぶり」
互いにぎこちなく微笑して、そう口にする。
座るよう促され、律は真の向かいの席に腰を下ろした。
「飲み物どうする?」
差し出されたメニュー表を見てみるけれど、最後に来た時とそっくり同じだ。
店のメニュー表なんてそうそう変わるものではないと分かっているけれど、別れて三カ月会わなかったことが幻みたいに思える。
「じゃあ…モヒート」
律が小さな声で答えると、
「そうだと思ってた」
真が頬を緩める。
二人の間の固い空気が少し和んだような気がした。
この店で律がいつも頼んでいたのはモヒートだ。
その習性で今日も同じものを選んだ。
真もいつも通りジン・トニックだ。
「元気だったか?」
問われて、律は改めてまじまじと真の顔を見た。
よく知っている顔のはずなのに、見知らぬ人間のような、どこか不思議な感覚を覚える。
「うん、まぁ…」
浮気されて捨てられた相手に、息災を尋ねられるのは変な感じだ。
なんと答えればいいのか束の間迷った末に、出てきたのは曖昧な頷きだけだった。
体は病とは無縁だったけれど、精神面でいえば全く元気ではなかった。
こと、別れた直後は人生でこれほど涙を流したことはないくらい、大泣きした。
涙が枯れてからは、彼からの連絡を待つ日々が続いた。
少し前までそれを、癖のように繰り返していたけれど…
律は気づく。
最近は、真のことを思い出さなくなっていた。
環境が変わったからかもしれない。
由紀奈の誘いで三上家に越したし、新しい仕事も始めた。
時折ふと真のことを思い出すことがあっても、以前のように感情が荒れることはなくなっていた。
縋るように連絡を待ち続けることも。
もちろん、完全に立ち直ったわけではないけれど、少しずつでも傷はふさがりつつあるようだ。
「…本当に悪かったと思ってる」
ぽつりぽつりと、互いに近況と恋人時代の思い出を話していたところへ、不意に真が切り出した。
「俺が馬鹿だった。あんなことするなんて…」
頭を垂れる真を、律は戸惑ったまま見つめる。
彼がこんな風に謝るのは初めてのことだった。
「今更こんなこと言うのは身勝手だって分かってる。だけど、もし許してもらえるなら…やり直したい」
律は言葉を探すが、何も思い浮かばない。
「律?」
「あ、うん…」
名前を呼ばれ、かろうじて返事をする。
「悪い、困らせるつもりはなかったんだ。ただ、俺の気持ちを伝えておきたくて…もちろん自分勝手だってことも理解してる。それでも、お前じゃなきゃダメなんだって気づいたんだ」
ずっと待ちわびていたはずの言葉だった。
それなのに、心に嬉しい気持ちはない。
反応を窺うような視線を感じ、律は取り繕うように唇だけで笑みを作る。
一カ月前までは、ずっと待っていた真からの連絡も、最近ではほとんど気にしなくなっていた。
いつの頃からか、終わりを受け入れていたのだ。
「返事は今すぐじゃなくていいんだ。ただ、嫌じゃないならまた二人で会ってほしい」
混乱しながらも、請われるままにその申し出を承諾した。
少し前までは彼が戻ってくることをあんなに強く望んでいたし、それが現実になったのだ。
頷くのが当然だった。
それなのに、結婚まで考えていた彼を前にしても、今は驚くほど何も感じない。
その温度差に戸惑う。
久しぶりに会ったというのに、心が無いみたいに何も響かないのは…きっとブランクのせいだろう。
あるいは、最後の記憶がとても嫌な思い出だから。
何回か会えば、きっと前みたいに好きになるはず。
そう自分に言い聞かせながら、律は真との次の約束を交わした。
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