なりゆきの同居人

七月きゅう

文字の大きさ
上 下
42 / 113

#42

しおりを挟む
 このバーに足を踏み入れたのはずいぶん久しぶりだ。
三カ月くらいだろうか。それなのに、まるで遠い昔に思えた。
しんと付き合っていた時、律はよくこの店に連れてこられた。

 彼の家の最寄り駅のすぐそばという立地と、値段の割にボリュームのある料理(味はそれほどではないけれど)、それが真がここをとりわけ気に入っている理由だった。
久しぶり、とバーの店主に声をかけられる。
二言三言、挨拶がてら話をすると、店の奥の席から顔を出した真が、律を手招いた。
歩くたびにやけに大きな軋み音をたてる板張りの床の上を、律はゆっくり進んでいく。

「久しぶり」
互いにぎこちなく微笑して、そう口にする。
座るよう促され、律は真の向かいの席に腰を下ろした。
「飲み物どうする?」

差し出されたメニュー表を見てみるけれど、最後に来た時とそっくり同じだ。
店のメニュー表なんてそうそう変わるものではないと分かっているけれど、別れて三カ月会わなかったことが幻みたいに思える。

「じゃあ…モヒート」
律が小さな声で答えると、
「そうだと思ってた」
真が頬を緩める。
二人の間の固い空気が少し和んだような気がした。

 この店で律がいつも頼んでいたのはモヒートだ。
その習性で今日も同じものを選んだ。
真もいつも通りジン・トニックだ。
「元気だったか?」

問われて、律は改めてまじまじと真の顔を見た。
よく知っている顔のはずなのに、見知らぬ人間のような、どこか不思議な感覚を覚える。
「うん、まぁ…」
浮気されて捨てられた相手に、息災を尋ねられるのは変な感じだ。

なんと答えればいいのか束の間迷った末に、出てきたのは曖昧な頷きだけだった。
体は病とは無縁だったけれど、精神面でいえば全く元気ではなかった。
こと、別れた直後は人生でこれほど涙を流したことはないくらい、大泣きした。
涙が枯れてからは、彼からの連絡を待つ日々が続いた。

少し前までそれを、癖のように繰り返していたけれど…
律は気づく。
最近は、真のことを思い出さなくなっていた。
環境が変わったからかもしれない。

由紀奈の誘いで三上家に越したし、新しい仕事も始めた。
時折ふと真のことを思い出すことがあっても、以前のように感情が荒れることはなくなっていた。
縋るように連絡を待ち続けることも。
もちろん、完全に立ち直ったわけではないけれど、少しずつでも傷はふさがりつつあるようだ。

「…本当に悪かったと思ってる」
ぽつりぽつりと、互いに近況と恋人時代の思い出を話していたところへ、不意に真が切り出した。
「俺が馬鹿だった。あんなことするなんて…」
頭を垂れる真を、律は戸惑ったまま見つめる。
彼がこんな風に謝るのは初めてのことだった。

「今更こんなこと言うのは身勝手だって分かってる。だけど、もし許してもらえるなら…やり直したい」
律は言葉を探すが、何も思い浮かばない。
「律?」
「あ、うん…」
名前を呼ばれ、かろうじて返事をする。

「悪い、困らせるつもりはなかったんだ。ただ、俺の気持ちを伝えておきたくて…もちろん自分勝手だってことも理解してる。それでも、お前じゃなきゃダメなんだって気づいたんだ」
ずっと待ちわびていたはずの言葉だった。
それなのに、心に嬉しい気持ちはない。

反応を窺うような視線を感じ、律は取り繕うように唇だけで笑みを作る。
一カ月前までは、ずっと待っていた真からの連絡も、最近ではほとんど気にしなくなっていた。
いつの頃からか、終わりを受け入れていたのだ。

「返事は今すぐじゃなくていいんだ。ただ、嫌じゃないならまた二人で会ってほしい」
混乱しながらも、請われるままにその申し出を承諾した。
少し前までは彼が戻ってくることをあんなに強く望んでいたし、それが現実になったのだ。
頷くのが当然だった。

それなのに、結婚まで考えていた彼を前にしても、今は驚くほど何も感じない。
その温度差に戸惑う。
久しぶりに会ったというのに、心が無いみたいに何も響かないのは…きっとブランクのせいだろう。

あるいは、最後の記憶がとても嫌な思い出だから。
何回か会えば、きっと前みたいに好きになるはず。
そう自分に言い聞かせながら、律は真との次の約束を交わした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

運命の歯車が壊れるとき

和泉鷹央
恋愛
 戦争に行くから、君とは結婚できない。  恋人にそう告げられた時、子爵令嬢ジゼルは運命の歯車が傾いで壊れていく音を、耳にした。    他の投稿サイトでも掲載しております。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます

おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。 if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります) ※こちらの作品カクヨムにも掲載します

形だけの正妃

杉本凪咲
恋愛
第二王子の正妃に選ばれた伯爵令嬢ローズ。 しかし数日後、側妃として王宮にやってきたオレンダに、王子は夢中になってしまう。 ローズは形だけの正妃となるが……

夫の不貞現場を目撃してしまいました

秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。 何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。 そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。 なろう様でも掲載しております。

政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。

処理中です...