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昨夜から律が詩織に対して感じるモヤモヤした感情は、どう振り切ろうとしても消えなかった。
昨日のエアコン問答のことといい、今日のこの送迎といい、彼の有無を言わさない強引さ、尊大ともいえる態度は、律の心にいくつもの小さなひっかき傷を残していた。
だから今だって、こうして車で送ってもらっていても素直に感謝の気持ちがわかない。
送ってもらうことに対する礼儀的な謝意を伝え終えてしまうと、他にしゃべることも思いつかなかった。
しゃべりたい気分でもない。
少しの間、窓の外へと顔を向けてから、律はバッグの中身を点検し始める。
こんなことをしたところで、忘れ物なんてないのは分かっている。
最低限、スマホと財布さえ持っていれば、一日くらいどうとでもなる。
ただ、しゃべらない口実が欲しいだけだ。
「そんなに走って出勤したかったのか?」
黙りこくってバッグをあさっている律をちらりと見て、機嫌を損ねていることを察したのか、詩織が問う。
「別にそういうわけじゃ…ただ、私は大丈夫ですって言ったのに…」
彼が片眉を大げさにつり上げた。
「まさか元マラソン選手か?それは悪かった。君が過去の戦績について、ちらりとでも話してくれていれば手を振って送り出したが」
律の足を一瞥して、詩織はまたフロントガラスに顔を向ける。
「それに、たとえ長距離ランナーでもその靴で走るのは賢明とは言えない」
「足に覚えはないですが、車を出してもらうほどではなかったです。三上さんにもご迷惑だったでしょうし」
「気にするな。君には姉弟共々世話になってる。それに俺は、家事よりも送迎の方が得意だ」
彼はにっこりと笑みを向けた。
たったそれだけのことなのに、胸のわだかまりが一瞬消えそうになり、律は慌てて視線を外の景色に逃がす。
“にっこり”されただけで、何もかも水に流すわけにはいかない。
駅のロータリ―に入ると、詩織は駅の入口近くに車を停車させた。
モヤモヤした気持ちはまだ完全には消えないけれど、車を降りる前に律は改めて彼に礼を言う。
「ありがとうございました、助かりました」
車内からひらひらと手を振る彼に慌ただしく会釈すると、足早に構内のエスカレーターに向かう。
急いで改札を抜けてホームに下りると、予定通りの電車が停車していた。
滑り込むように乗車して、肩で息をしながら呼吸を整える。
なんだかんだありながら間に合ったのは、彼のおかげかもしれない。
*
新しい仕事先が決まったのは、律がその日の単発の仕事を終えた後だった。
百貨店のテナントの一つに入っている洋菓子店の販売員だ。
もともと接客の仕事は好きだし、勤務先も今の家からそれほど遠くない。
給料は…まぁまぁだけど。
採用の電話を切ると、律は体の力を抜くようにほっと息をつく。
とりあえず一つ、目下の問題が解決した。
心が軽くなったことで、意識は今日の夕飯に向かう。
由紀奈は明日の夜まで帰ってこないし、今日は詩織も確実に帰ってこないだろう。
自分一人のために料理をする気力は、今日はもうない。
一日限定で入った今日の仕事は、当初聞いていたよりもハードなもので、寝足りない律にはかなり堪えた。
おまけに社員は誰もかれもが横柄で、仕事場の雰囲気も常にギスギスした空気が漂っていて、たった一日だけなのに仕事が終わる頃には、思いのほか消耗した。
そんな一日を気力だけで何とか乗り切って、もう余力はない。
冷蔵庫にいくつか残り物があるはずだから、それらで適当に間に合わせればいい。
昨日のエアコン問答のことといい、今日のこの送迎といい、彼の有無を言わさない強引さ、尊大ともいえる態度は、律の心にいくつもの小さなひっかき傷を残していた。
だから今だって、こうして車で送ってもらっていても素直に感謝の気持ちがわかない。
送ってもらうことに対する礼儀的な謝意を伝え終えてしまうと、他にしゃべることも思いつかなかった。
しゃべりたい気分でもない。
少しの間、窓の外へと顔を向けてから、律はバッグの中身を点検し始める。
こんなことをしたところで、忘れ物なんてないのは分かっている。
最低限、スマホと財布さえ持っていれば、一日くらいどうとでもなる。
ただ、しゃべらない口実が欲しいだけだ。
「そんなに走って出勤したかったのか?」
黙りこくってバッグをあさっている律をちらりと見て、機嫌を損ねていることを察したのか、詩織が問う。
「別にそういうわけじゃ…ただ、私は大丈夫ですって言ったのに…」
彼が片眉を大げさにつり上げた。
「まさか元マラソン選手か?それは悪かった。君が過去の戦績について、ちらりとでも話してくれていれば手を振って送り出したが」
律の足を一瞥して、詩織はまたフロントガラスに顔を向ける。
「それに、たとえ長距離ランナーでもその靴で走るのは賢明とは言えない」
「足に覚えはないですが、車を出してもらうほどではなかったです。三上さんにもご迷惑だったでしょうし」
「気にするな。君には姉弟共々世話になってる。それに俺は、家事よりも送迎の方が得意だ」
彼はにっこりと笑みを向けた。
たったそれだけのことなのに、胸のわだかまりが一瞬消えそうになり、律は慌てて視線を外の景色に逃がす。
“にっこり”されただけで、何もかも水に流すわけにはいかない。
駅のロータリ―に入ると、詩織は駅の入口近くに車を停車させた。
モヤモヤした気持ちはまだ完全には消えないけれど、車を降りる前に律は改めて彼に礼を言う。
「ありがとうございました、助かりました」
車内からひらひらと手を振る彼に慌ただしく会釈すると、足早に構内のエスカレーターに向かう。
急いで改札を抜けてホームに下りると、予定通りの電車が停車していた。
滑り込むように乗車して、肩で息をしながら呼吸を整える。
なんだかんだありながら間に合ったのは、彼のおかげかもしれない。
*
新しい仕事先が決まったのは、律がその日の単発の仕事を終えた後だった。
百貨店のテナントの一つに入っている洋菓子店の販売員だ。
もともと接客の仕事は好きだし、勤務先も今の家からそれほど遠くない。
給料は…まぁまぁだけど。
採用の電話を切ると、律は体の力を抜くようにほっと息をつく。
とりあえず一つ、目下の問題が解決した。
心が軽くなったことで、意識は今日の夕飯に向かう。
由紀奈は明日の夜まで帰ってこないし、今日は詩織も確実に帰ってこないだろう。
自分一人のために料理をする気力は、今日はもうない。
一日限定で入った今日の仕事は、当初聞いていたよりもハードなもので、寝足りない律にはかなり堪えた。
おまけに社員は誰もかれもが横柄で、仕事場の雰囲気も常にギスギスした空気が漂っていて、たった一日だけなのに仕事が終わる頃には、思いのほか消耗した。
そんな一日を気力だけで何とか乗り切って、もう余力はない。
冷蔵庫にいくつか残り物があるはずだから、それらで適当に間に合わせればいい。
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