10 / 73
聖女選定
恐怖
しおりを挟む
「これは無意味な行為ではありません。女神の祝福を受けた者──つまり私が聖女に選ばれし巫女の額に口づけると、そこに百合の文様が浮かびあがります。この印によって巫女は聖女となるのです」
極めて機械的に宣うエルゲンの表情をセレーネはぼんやりと見つめた。
(儀式……なんだもの。仕方ないって我慢するべきだって、分かっているけど……でも)
嫌だと思ってしまうのは仕方のないことだ。大好きな人が、例え儀式だろうと何だろうと他の女の額に口づけを落とすところなんて見たくはない。そう言葉にしようとして、出来なくて、セレーネは俯いてシーツを絞るように握り込んだ。
「……っ」
「あなたに何も告げずに、式典に参加するのか否か、問うことが出来ませんでした。どうか、許してください」
エルゲンはセレーネの腰を抱き寄せて、彼女の頬や唇、額、そして手の甲に口づけを落としていく。久しぶりに訪れた甘やかな時間。けれどセレーネにはそんな時間を楽しむ余裕など微塵もなかった。
初めて、恐ろしいと思った。
エルゲンが自分とは違う、誰か他の女に口づけている。そんな光景を何もせずにただじっと眺めている自分自身の心がどんな風に醜く荒れるのか。自分自身への恐怖。そして顔すら知らない女への嫉妬。心が何か大きなものに当たって歪な形に曲がってしまうのではないか。そんな予感が、雨が降る前の生温く誇り臭い風のようにセレーネをぞっとさせる。
「怖いわ……私、ものすごく怖い顔をすると思うの」
「……セレーネ」
「でも、でも。参加しないのも嫌よ。逃げるみたいで嫌なの。私はあなたの奥さんなんだもの。堂々としていたいわ」
「はい」
真剣な眼差しで見つめてくるエルゲンの頬をそっと撫でると、ひんやりと冷たい。花の咲き誇る季節とはいえ、空気は冷えて、風は穏やかとは言い難い。そんな中で、彼は式典のために粉骨砕身準備に取り組んでいるのだ。そんな彼の50年に一度の大きな儀式に取り組む厳かな姿を、見たくないと思わないはずもない。
「儀式の時になったら、あなただけを見ていることにするわ」
「……私も心の中でずっとあなたを想っていますよ」
やんわりと笑んで、エルゲンはゆっくりとセレーネの頭を撫でた。慈しむようなその仕草。彼から向けられる眼差し。それらを享受している間は、ほんの少しだけ落ち着くことが出来る。
エルゲンは忙しいはずなのに、その日の夜はずっとセレーネの傍に寄り添っていた。優しいぬくもりに包まれながら、セレーネは1つのことを決める。
エルゲンが聖女様の額に口づける瞬間は、絶対に見ない。
それが唯一、心を平常に保つ方法だ。
セレーネは、熱量をもった感情の熱で膨れ上がる心を握りつぶすかのように、心臓の上でぎゅっと手を握りしめた。
極めて機械的に宣うエルゲンの表情をセレーネはぼんやりと見つめた。
(儀式……なんだもの。仕方ないって我慢するべきだって、分かっているけど……でも)
嫌だと思ってしまうのは仕方のないことだ。大好きな人が、例え儀式だろうと何だろうと他の女の額に口づけを落とすところなんて見たくはない。そう言葉にしようとして、出来なくて、セレーネは俯いてシーツを絞るように握り込んだ。
「……っ」
「あなたに何も告げずに、式典に参加するのか否か、問うことが出来ませんでした。どうか、許してください」
エルゲンはセレーネの腰を抱き寄せて、彼女の頬や唇、額、そして手の甲に口づけを落としていく。久しぶりに訪れた甘やかな時間。けれどセレーネにはそんな時間を楽しむ余裕など微塵もなかった。
初めて、恐ろしいと思った。
エルゲンが自分とは違う、誰か他の女に口づけている。そんな光景を何もせずにただじっと眺めている自分自身の心がどんな風に醜く荒れるのか。自分自身への恐怖。そして顔すら知らない女への嫉妬。心が何か大きなものに当たって歪な形に曲がってしまうのではないか。そんな予感が、雨が降る前の生温く誇り臭い風のようにセレーネをぞっとさせる。
「怖いわ……私、ものすごく怖い顔をすると思うの」
「……セレーネ」
「でも、でも。参加しないのも嫌よ。逃げるみたいで嫌なの。私はあなたの奥さんなんだもの。堂々としていたいわ」
「はい」
真剣な眼差しで見つめてくるエルゲンの頬をそっと撫でると、ひんやりと冷たい。花の咲き誇る季節とはいえ、空気は冷えて、風は穏やかとは言い難い。そんな中で、彼は式典のために粉骨砕身準備に取り組んでいるのだ。そんな彼の50年に一度の大きな儀式に取り組む厳かな姿を、見たくないと思わないはずもない。
「儀式の時になったら、あなただけを見ていることにするわ」
「……私も心の中でずっとあなたを想っていますよ」
やんわりと笑んで、エルゲンはゆっくりとセレーネの頭を撫でた。慈しむようなその仕草。彼から向けられる眼差し。それらを享受している間は、ほんの少しだけ落ち着くことが出来る。
エルゲンは忙しいはずなのに、その日の夜はずっとセレーネの傍に寄り添っていた。優しいぬくもりに包まれながら、セレーネは1つのことを決める。
エルゲンが聖女様の額に口づける瞬間は、絶対に見ない。
それが唯一、心を平常に保つ方法だ。
セレーネは、熱量をもった感情の熱で膨れ上がる心を握りつぶすかのように、心臓の上でぎゅっと手を握りしめた。
21
お気に入りに追加
4,781
あなたにおすすめの小説
御機嫌ようそしてさようなら ~王太子妃の選んだ最悪の結末
Hinaki
恋愛
令嬢の名はエリザベス。
生まれた瞬間より両親達が創る公爵邸と言う名の箱庭の中で生きていた。
全てがその箱庭の中でなされ、そして彼女は箱庭より外へは出される事はなかった。
ただ一つ月に一度彼女を訪ねる5歳年上の少年を除いては……。
時は流れエリザベスが15歳の乙女へと成長し未来の王太子妃として半年後の結婚を控えたある日に彼女を包み込んでいた世界は崩壊していく。
ゆるふわ設定の短編です。
完結済みなので予約投稿しています。
【本編完結】さようなら、そしてどうかお幸せに ~彼女の選んだ決断
Hinaki
ファンタジー
16歳の侯爵令嬢エルネスティーネには結婚目前に控えた婚約者がいる。
23歳の公爵家当主ジークヴァルト。
年上の婚約者には気付けば幼いエルネスティーネよりも年齢も近く、彼女よりも女性らしい色香を纏った女友達が常にジークヴァルトの傍にいた。
ただの女友達だと彼は言う。
だが偶然エルネスティーネは知ってしまった。
彼らが友人ではなく想い合う関係である事を……。
また政略目的で結ばれたエルネスティーネを疎ましく思っていると、ジークヴァルトは恋人へ告げていた。
エルネスティーネとジークヴァルトの婚姻は王命。
覆す事は出来ない。
溝が深まりつつも結婚二日前に侯爵邸へ呼び出されたエルネスティーネ。
そこで彼女は彼の私室……寝室より聞こえてくるのは悍ましい獣にも似た二人の声。
二人がいた場所は二日後には夫婦となるであろうエルネスティーネとジークヴァルトの為の寝室。
これ見よがしに少し開け放たれた扉より垣間見える寝台で絡み合う二人の姿と勝ち誇る彼女の艶笑。
エルネスティーネは限界だった。
一晩悩んだ結果彼女の選んだ道は翌日愛するジークヴァルトへ晴れやかな笑顔で挨拶すると共にバルコニーより身を投げる事。
初めて愛した男を憎らしく思う以上に彼を心から愛していた。
だから愛する男の前で死を選ぶ。
永遠に私を忘れないで、でも愛する貴方には幸せになって欲しい。
矛盾した想いを抱え彼女は今――――。
長い間スランプ状態でしたが自分の中の性と生、人間と神、ずっと前からもやもやしていたものが一応の答えを導き出し、この物語を始める事にしました。
センシティブな所へ触れるかもしれません。
これはあくまで私の考え、思想なのでそこの所はどうかご容赦して下さいませ。
【完結】どうやら私は婚約破棄されるそうです。その前に舞台から消えたいと思います
りまり
恋愛
私の名前はアリスと言います。
伯爵家の娘ですが、今度妹ができるそうです。
母を亡くしてはや五年私も十歳になりましたし、いい加減お父様にもと思った時に後妻さんがいらっしゃったのです。
その方にも九歳になる娘がいるのですがとてもかわいいのです。
でもその方たちの名前を聞いた時ショックでした。
毎日見る夢に出てくる方だったのです。
今日も旦那は愛人に尽くしている~なら私もいいわよね?~
コトミ
恋愛
結婚した夫には愛人がいた。辺境伯の令嬢であったビオラには男兄弟がおらず、子爵家のカールを婿として屋敷に向かい入れた。半年の間は良かったが、それから事態は急速に悪化していく。伯爵であり、領地も統治している夫に平民の愛人がいて、屋敷の隣にその愛人のための別棟まで作って愛人に尽くす。こんなことを我慢できる夫人は私以外に何人いるのかしら。そんな考えを巡らせながら、ビオラは毎日夫の代わりに領地の仕事をこなしていた。毎晩夫のカールは愛人の元へ通っている。その間ビオラは休む暇なく仕事をこなした。ビオラがカールに反論してもカールは「君も愛人を作ればいいじゃないか」の一点張り。我慢の限界になったビオラはずっと大切にしてきた屋敷を飛び出した。
そしてその飛び出した先で出会った人とは?
(できる限り毎日投稿を頑張ります。誤字脱字、世界観、ストーリー構成、などなどはゆるゆるです)
hotランキング1位入りしました。ありがとうございます
家出した伯爵令嬢【完結済】
弓立歩
恋愛
薬学に長けた家に生まれた伯爵令嬢のカノン。病弱だった第2王子との7年の婚約の結果は何と婚約破棄だった!これまでの尽力に対して、実家も含めあまりにもつらい仕打ちにとうとうカノンは家を出る決意をする。
番外編において暴力的なシーン等もありますので一応R15が付いています
6/21完結。今後の更新は予定しておりません。また、本編は60000字と少しで柔らかい表現で出来ております
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
寡黙な貴方は今も彼女を想う
MOMO-tank
恋愛
婚約者以外の女性に夢中になり、婚約者を蔑ろにしたうえ婚約破棄した。
ーーそんな過去を持つ私の旦那様は、今もなお後悔し続け、元婚約者を想っている。
シドニーは王宮で側妃付きの侍女として働く18歳の子爵令嬢。見た目が色っぽいシドニーは文官にしつこくされているところを眼光鋭い年上の騎士に助けられる。その男性とは辺境で騎士として12年、数々の武勲をあげ一代限りの男爵位を授かったクライブ・ノックスだった。二人はこの時を境に会えば挨拶を交わすようになり、いつしか婚約話が持ち上がり結婚する。
言葉少ないながらも彼の優しさに幸せを感じていたある日、クライブの元婚約者で現在は未亡人となった美しく儚げなステラ・コンウォール前伯爵夫人と夜会で再会する。
※設定はゆるいです。
※溺愛タグ追加しました。
見捨てられたのは私
梅雨の人
恋愛
急に振り出した雨の中、目の前のお二人は急ぎ足でこちらを振り返ることもなくどんどん私から離れていきます。
ただ三人で、いいえ、二人と一人で歩いていただけでございました。
ぽつぽつと振り出した雨は勢いを増してきましたのに、あなたの妻である私は一人取り残されてもそこからしばらく動くことができないのはどうしてなのでしょうか。いつものこと、いつものことなのに、いつまでたっても惨めで悲しくなるのです。
何度悲しい思いをしても、それでもあなたをお慕いしてまいりましたが、さすがにもうあきらめようかと思っております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる