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第80話 交換条件
しおりを挟む洗面所の前で苦しそうに胸をトントン叩く晄矢さんの背後に迫った。
「大丈夫?」
背中をさすってやると、ゼーゼー言いながら、頷いた。
「ああ、大丈夫。ふえー死ぬかと思ったよ」
「はい、お水」
「お、ありがと」
ペットボトルの蓋を取ると、ごくごくと喉を鳴らして飲む。喉仏が上下するのを僕はつと見惚れてしまった。
「あのさ……晄矢さん、なんであんなに驚いたん? 榊教授の名前出しただけで」
ようやく落ち着いた様子の晄矢さんにもう一度問いかけた。今度は絶対逃がさない。
「え? いや、まあ驚いたけど。息するのと同時に肉が入っちゃって。それだけだよ」
「へええ」
めっちゃ嘘っぽい。
「榊教授。なんか……言ってた?」
「ああ。僕が想像もしてなかったことを教えてくれた」
「え……ああ、そうなんだ……なん……」
なんだよ、全く口が軽いっ。と小声で毒づいたのはばっちり聞こえた。
「で? どういうこと? 教授によると、僕のこと前々から知ってたみたいだけど? どっかで会ったことあったっけ?」
教授によるとバイト先で会ったとのことだ。僕は覚えちゃいないけど。
「あれ? 覚えてないかな。まあ、あの時は大人数だったし……俺もラフな格好してたから。ほら、涼のバイト先『紅の舞』」
それは僕がクビになった居酒屋だ。でも、そんなの調べてればすぐわかるよね。
「覚えてない……」
「じゃあ、ほら。そん時俺らは酔っぱらって大騒ぎしちゃってさ。涼が手際よく捌いたんだよ。それは覚えてない? 俺は感心したんだ」
酔っ払いを捌いた? そんなことは……数知れずあるよ。彼らは上機嫌で何とも思わないだろうけど、他のお客さんに迷惑なんだ(僕らはもちろん大迷惑)。
でも、いい気分なのを邪魔されたくなくて、下手に注意なんかしたら乱闘になっちゃう。僕らは培った経験値でそれを上手く抑える。別に僕が特別なんかじゃない。
「そのあたりのこと、詳しく知りたい?」
「知りたいよ。僕は教授の推薦だからって、晄矢さんのこと信頼したんだし」
「でも、教授と懇意だったのは本当だったから、それはそれでよくない?」
いや、違うだろっ! 全然良くないよっ!
「わかった、わかった。その辺の話ちゃんとするよ」
僕の不満が分かったのか、晄矢さんは降参するように両手を上げた。
「うん……そうして欲しい」
「なら、今晩泊まっていけよ」
「え? いや、それは」
「もうみんなのところに戻らないと。それにこんなところでは話せないよ。な? いいだろ?」
晄矢さんは僕の肩を抱いて囁くように言う。耳に息がかかってまた鼓動がうるさくなる。泊まるって……あのダブルベッドで寝るってことだよな。
「晄矢様、相模原様、大丈夫ですか?」
三条さんの声だ。僕らはさっと離れる。
「ああ、大丈夫。今行くから」
わざと大声で応じる晄矢さん。僕はその顔をじろっと睨んでみた。
「わかった。でも、絶対教えてよ」
「了解。約束する」
でもそんなのお構いなし。口角をついっと上げて、何やらよからぬことを考えていそうだ。僕は不安と……期待が同時に胸の中で沸き起こった。
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