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第2部

第87話 カニの身

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 カニの身がほぐれ、お腹にいい感じに収まると、親父はボソボソと佐山に話しかけ始めた。席の右側では母と澪がおしゃべりに興じ、左側では男性陣がお通夜みたいな会話風景。温度差甚だしい。

「仕事のほうはどうなんだね。その、生活に困るようなことはないのか?」
「はい。倫がマネージャーになってくれてから、本当に順調で。今度のアルバムも予想以上に好評です」

 全く失礼な質問しやがる。僕がイライラしている横で、佐山は丁寧に相手してくれてる。ほんと、親父のやろう、トイレに呼び出してやりたいよっ。

「またライブとか……やるのかね? その、洋子さんが観に出掛けて、良かったって言うから」

 洋子とは母親の名前。さん付けするのがウチのルールだけど、理由は知らない。

「はい。具体的にはまだですが、来年また新譜を出したタイミングで周りたいと思っています。東海地方にも行きますので、ぜひ観にいらしてください」

 佐山は親父の杯に冷酒を注ぐ。会社員経験ゼロなのに、めっちゃ気を使ってるのがわかって、僕はものすごく申し訳なかった。

「親父、手酌で飲めよ。佐山もそんなことしなくていいから」
「たまには注いでもらうのも気分いいんだよっ。おまえは相変わらず気が利かんな」
「なっ……」
「俺、まだ父親が生きてた時、よくこうしてたんだ。俺ってお父さんっ子だったから、なんだか懐かしくてさ。好きでやってんだから気にしなくていい」
「佐山……」

 なんだよもう。おまえ、ズル過ぎるよ。佐山の父親は、こいつが高校生の頃亡くなった。奥さん(つまり佐山の母親)が男と出て行った後も、佐山達兄弟を懸命に育てていた。
 うまく行かなくなった日々にも、家族三人、こうして晩酌をしていたのかもしれない。

「倫、なに泣いてんだよ。ほら、涙拭け」

 驚いた佐山が僕にハンカチを渡してくれた。ほんとだ。なんで泣いてんだろ。色々お兄さんから聞いた話なんかを思い出してしまって、涙腺が緩んだのかな。腹立てたり泣いたり、感情のふり幅が半端なくて追っつかない。

 なんだか不思議な空気が流れた。僕の家族は、佐山のことを僕の恋人でミュージシャンであること以外は知らない。僕だって、こいつの過去はつい最近聞いたばかりなんだから当たり前だけど。
 デザートの夕張メロンアイスが出てきたころには、一触即発だった空気は穏やかなものに変わっていた。

「佐山君、この後、二人で飲まないか」
「はいっ。喜んで」
「え、なにそれ。親父っ、佐山に……」
「おまえは黙ってろ。彼とゆっくり話したいんだよ。おまえはそこの二人の相手でもしてろ」

 全ての料理を完食した後、親父が佐山にそんなことを提案した。いやいや、黙ってられないよ。慌てる僕に、佐山がすっと手を握ってきた。もちろんテーブルの下で見られないようにだ。

「心配ないから。お母さんや澪ちゃんをホテルに送ってやれよ。そこでまた飲みなおしてもいいし。俺もお父さ……市原さんともう少し話したい。俺たちの宿で待っててくれ」

 大きな手が僕の手だけじゃなく、心まで掴む。さっきのカニみたいに僕はほぐされていくよ。優しい瞳が僕を包んでる。このままおまえの唇に直行したい。



 身を千切られる思いで僕は佐山を見送った。だけど、おまえのこと信じている。きっと大丈夫だと、根拠のない安心感もあった。

「お兄ちゃん、心配でしょう」
「うるさいな。誰のせいだよ、こうなったの」
「佐山さんなら大丈夫よ。ほら、行きたいカフェあるのよね。ね、澪」

 どこか自信満々な女性陣に背中を押され、僕はSNSで有名なお洒落カフェに連行された。



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