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第53話 スリリング

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『その場の勢いでいけますもんね』

 いつだったか、神崎さんがそう言ったのを思い出した。神崎さんは『手っ取り早い』のはあまり好きではないのか、初めての時以外は、自分のマンションやホテルといった場所を選んでいた。
 勢いしかない九条さんとはそこが少し違う。僕は……すみません、どっちも好きです。

 けど、今日は手っ取り早く勢いで僕を抱きたくなったようだ。それが彼の結論だとすると、僕はこれに抗うか流されるかで答えになる。

「私は、構いませんから」

 個室の壁を背にする僕、神崎さんは肘を壁につけ、目と鼻の距離まで迫ってきた。影になって表情はわからないけど、口角がすいっと上がってる。
 ここで、僕が両手を彼の胸に立て、まるで猫が抱かれるのを嫌がるように突っぱねたら。神崎さんはどうするだろうか。

 それでも勢いに任せるかもしれない。でも、それはあまりにも狡いよな。これはどっちも確信犯だ。
 僕は神崎さんの首の後ろに腕を絡め、体を寄せた。彼の心臓の音と自分のが呼応してシンクロする。神崎さんの両腕も僕の背中で交わった。

「いいんだね」

 僕が答えるより前に、キスが降って来た。最初は耳、それから頬、最後に唇に。追ってきた右手で後頭部を抑えられ、息をつくのも許されない。熱くて深い口づけを交わしながら、器用にウェアを脱ぎ捨てた。




 手っ取り早いはずの行為だったけど、神崎さんは時間をかけ、じっくりと僕を抱き満足させてくれた。
 その日は午後も余裕があったのか、僕らはちょっと遅めのランチに出かけた。

「これからはあまり、ジムで仲良くしない方がよさそうですね」

 器用にパスタをスプーンの上で巻きながら、神崎さんが言う。さっきまで仕事の話に終始してたけど、それで終わりには出来なかったか。

「いいんですか……なんか、隠れてコソコソ」
「いいじゃないですか。それもスリリングだっ」

 声は小さいけど、間髪入れず応えたそれには嬉々とするものを感じてしまった。

「あ、はい……」
「私は端から、鮎川さんが彼と別れたとは思ってませんでしたから。実際そうでしょ?」

 僕は傍らに置かれたグラスを取って、水をごくりと飲む。

「うん。その通りです」

 そうか……薄々感じてたけど、神崎さんは浮気全然平気の人なんだ。むしろ、そっちの方が燃えるとか? まさかね。

「でも、鮎川さんを独占したい気持ちはもちろんあります。いつかは私のところに来てくれると信じてますからね」

 僕は改めて神崎さんの表情を見る。両方の口角を上げながら、綺麗な琥珀色の瞳はきらりと輝いている。まるで獲物を見つめるように。僕の背筋がビビッと震えたのは、僕が獲物なのに他ならない。

「彼に負けるとは思ってませんから」

 目を伏せ、再びスプーンをくるくるしながら呟いた。神崎さんの嫉妬心や自尊心、それに競争意識等々。複雑に絡み合っている心内が垣間見れた瞬間だった。



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