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第3章
その7
しおりを挟む「佳乃さんは、前田藩で一番美しい人だった。容姿だけじゃない。心も美しかった。凛とした佇まい。それに賢い女性だったんだ」
真正面を向いている要は、遠く煌めく水面を眩しそうに双眸を瞬かせる。その横顔を紫音は黙って見つめた。
「家老の三女ということもあって、藩内の嫡男がこぞって嫁に欲しがった。かく言う私もその一人でね。ま、まんまと振られたわけだけど……。優しく思いやりのある、でもこうと決めたらひるまない強い人でもあったな。隼のこともね、自分から迫ったんだよ」
「え?」
「そうだ。そこのところは紫音さんと同じだ。半ば押しかけ女房かな」
ちらりと紫音の方に顔を向けて要が笑った。
「まあ……そうでしたか」
それは意外にも思えたが、必然でもあった。隼は色事についてはまるで自信がない男だった。己がいかに魅力的な人物かわかっていない。整った顔立ちなだけでない。口数少なくとも、男でも女でもつい惹かれてしまうような素直な本質が漏れ出ている。過去を隠していたとしても、それが悪いことではないと信じられる奇妙な信頼があった。
だから、それほどに美しい人を嫁にもらうのは、周りが頑張らないと無理だ。そうわかっていた佳乃が、自ら動いたんだろう。
――――相当、ハヤさんに惚れてたんだろうな。わからなくもないけど……。
そしてもう一つ。この要なる人物も、佳乃に惚れていたのだ。恐らく真剣に。幼馴染に思い人を取られて、心中は複雑だったことだろう。
「あいつらしいよ。それでこんな美人に押しかけられるんだから羨ましい」
「あら……冗談でも嬉しいです。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。今日はもう、この辺りが限界か。
「一条様は江戸詰めでいらっしゃるんですか?」
だが再び矛先を変えてみる。
「ええ。半年ほど前に。それで……ずっと音沙汰のなかった隼の行き先を探して……。実は道場でも開いてるんだとばかり思ってたんだけどね……あいつの腕は凄まじいから」
それは紫音も知っている。と言っても、実際に見たのはあの、深夜の稽古だけだが。それだけでも恐ろしいほどの使い手であることはすぐに理解できた。
「そうでしたか。良くおわかりになりましたね」
実際、隼はバレるなんて思ってなかったんじゃないだろうか。だから、要が訪ねたときに狼狽えていたのだ。
「偶然だよ。あいつが懇意にしてる駒井仁三郎氏は、私の父の古い友人なんだ。それで訪ねていってわかった。駒井さん自身は前田藩にいたころ、隼のこと知らなかったんだ。だから、私も駒井さんにはあいつと幼馴染だなんて言ってなかった」
『同郷の若いのが、教えてくれていてね。もう閉めようかと思っていたから助かったよ』
その同郷の若いのが隼と知った時はさすがに驚いた。けれど、敢えて知ってる者、友人だとは話さなかった。言うと色々複雑になるのを要は避けたのだ。
「ああ、なるほど。世間は狭いですね」
駒井が江戸に出てきたのは、隼や要が生まれる前の話だ。一条の父親は、駒井が郷里を捨ててからも親交があったのだろうが、隼のことを知らなくても不思議じゃない。
その要の父親も、もう既にこの世にはない。それとも、駒井は隼のことを知っていたのだろうか。けれど、知らないふりをして援助した。
――――まあ、そういうこともあるかもな。
紫音はそこには深く突っ込むことはせず、先を急いだ。もうそろそろこの会談も終わりにしないといけない。
「よく訪ねてくださいました。主人もきっと喜んでいると思います」
実を言うと、そうでもなかったのだが、そこはこう言うべきだろう。
「そうかな……。私は半年前にあいつの居所を知りながらも、ずっと訪ねなかった。歓迎されないだろうと思っていたからだ……」
要は少し首を垂れ、幾分小さくなった声で応じた。
「歓迎されない……ワケがあるのでしょうか」
じっと地面を見つめる要。そして徐に立ち上がると、腰に二刀を納めた。
「勝手に思ってるだけかもしれないな。もし出来れば、そこのところも隼に聞いてもらえないか? その答えに応じて、再度訪問するか決めよう」
「え……そんな……責任重大だわ……」
困惑した表情を見せ、紫音も立ち上がった。
「ま、本気にされずとも……。今日は楽しませてもらいました。それでは……」
紫音が何かを応じようとするのも待たず、要は踵を返し、すたすたと来た道を戻っていく。その後ろ姿はあっという間に小さくなった。多分、話し過ぎたと思っているのだ。逃げるように去って行く背中を見つめながら、紫音は小さく息を一つ吐いた。
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