偽夫婦お家騒動始末記

紫紺

文字の大きさ
上 下
14 / 64
第3章

その1

しおりを挟む


 翌朝、何事もなかったように紫音は朝食の準備を始める。初秋の朝日は昇ったばかり、さすがに水が冷たく感じた。

「おはよう、紫音ちゃん。今日もいいお天気だね」

 水場で野菜を洗っている紫音にお勝が声を掛けて来た。相変わらず元気で声が大きい。

「はい、ほんとに」

 例の如く、誰得にもならないような世間話が始まる。そのうちに長屋のおかみさんたちが出揃ってくるが、さすがに朝は長話には移行しない。紫音もさっさと切り上げ小さな城へと戻っていった。

「ハヤさん、お待たせ」

 部屋では既に隼が起き、てきぱきと身支度をしている。昨夜、あんな時刻に起きだし汗を掻いて寝不足にならないのか。だが、いつもと全く変わらない肌艶で笑顔を見せた。

「ああ、腹が減ったなあ」

 そりゃ、あんなに動いたら腹も減るさ。なんて心の中で紫音は思う。口にするつもりはない。深夜の行動は、紫音には知られたくないものだとわかっている。
 紫音が隼の後をつけたのはこれが初めてではなかった。深夜は昨夜が初だったが、日中、筆学問所以外の場所に行くのに気付いてこっそりつけたことがあった。その日、隼はいつも以上に疲労した雰囲気で長屋に戻ってきた。

 ――――そろそろ探りを入れるかな。長屋の連中とも仲良くなったし。

 紫音は隼を見送るとすぐに、井戸端会議の場へと向かった。既にそこでは、汚れた子供達の着物なんかをゴシゴシ洗う女衆の姿があった。

 ――――昨日のハヤさんの着物。汗掻いてると思ったけどそうでもないんだよね。あれくらい、汗を掻くほどじゃないってことか。まあ、剣術指南の名に恥じない動きだったけど……。

 たらいと洗濯板を手に、輪の中に入る。初めは聞くだけの紫音だったが、頃合いを見計らって口を開く。ここに来て十日余り。もう自分に警戒心はないだろう。こう見えて、長屋の女たちは新参者に厳しい。だから、紫音は今までネタになることをじっと笑顔で許していた。

「おねえさん方、少し聞きたいことが」
「え、なになに? 珍しいね、自分から話を振るなんて。何でも聞いて」

 皆の目が一斉に紫音に向けられた。恥ずかしそうなふりをして(ぶりっ子を演じるのは得意だ)、おずおずと話し始める。

「あの、うちの人が来てから一年。何か、その、女の人が訪ねて来たとかないですか?」

 一瞬、みんなの動きが止まる。いやいや、何その反応。紫音は思わず息を呑む。

「ええと。そうだねえ……。そんなの見たことないよ。ねえ?」

 まずはお勝が応える。そして周りを見渡した。

「ないない。女どころか、男もないよね?」

 追随する他の女たち。みな一様に首を振った。

「なに? なんか気になることでもあったの?」
「あ、いえ……。郷を出て一年、何もなかったのかなあって……」

 照れながら言葉を繋げる紫音に、女衆は目を細める。

「いい男だもんね、紫音ちゃんの旦那。だけど少なくとも、この長屋に連れ込んだことはなかったよ」
「ウチなんか、絶対そっちの心配はしなくていいけどねえ」

 と、笑い声が溢れた。

「あ、でも……あたし……」

 この中では若い方だろうか、色目の明るい着物を纏ったやせ型の女が笑い声を遮った。

「見た事ないお侍さんがウロウロしてたの見たことがあります」
「へえ。お侍さんねえ」
「ええ。女の人ではないけど、この長屋にお侍さんが来るのは珍しいと思って」

 寺町長屋にいるのは町人ばかりで武士は隼一人。隠居で猫を飼ってる御仁はいるが、刀も髷も既になく武士とは言えないだろう。

「そうだね。浪人かい?」
「いえいえ、きちんとした身なりの御方でしたよ。上等なお着物で……綺麗なお顔でした。お一人でしたけど」

 ほおお。と女たちの目が輝く。いい男の話になると、彼女たちは腰をもぞもぞと動かしだす。なんだかそれが面白くもあり可愛かった。

「それ、いつ頃の話ですか?」

 それでもその情報は紫音にとって有益だ。すかさず問いかける。

「うーんと。春先かな。桜の頃だったかと」
「なにか話したのかい?」

 女たちはなおも食いつく。

「うふふ。もちろんですよー。どなたかお訪ねですかって聞いちゃいました」

 きゃああ、と悲鳴が上がる。さすがに手が止まった。

「そしたら、『ここは篠宮隼殿のお住まいか』って」

 ――――そうか。マジでハヤさんを訪ねてきたんだ。そいつ。

「なんて答えた?」
「もちろん、『そうですよ』って」
「で、で? どうなったの?」
「なにも。訪ねるのかなあと見てましたけど、何も言わずに立ち去られました」

 その住まいが隼のヤサだと知って、そのまま踵を返したという。なにか不自然だが、どこかで隼と会ったのかもしれない。大体、そいつはどこの誰だ。紫音は首を傾げる。

「へええ。ね、ね、紫音ちゃん。もしかして先生、両刀だったりする?」

 きゃああ。と、お勝の一言に再び女たちが叫んだ。まあ、叫ぶよな。冗談としてもあまりに面白い話だ。

「まさかっ。そ、そんなことはないですっ」

 わざと怒ったふりをして、懸命に否定してみせる。

「あははっ、冗談だよー。可愛いねえ、紫音さんは」
「揶揄わないでくださいっ」

 ぷんっと頬を膨らませる。だが、その心の内では全く違うことを考えていた。

 ――――もしもそうなら、これほど嬉しいことはないよ……。




しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

居候同心

紫紺
歴史・時代
臨時廻り同心風見壮真は実家の離れで訳あって居候中。 本日も頭の上がらない、母屋の主、筆頭与力である父親から呼び出された。 実は腕も立ち有能な同心である壮真は、通常の臨時とは違い、重要な案件を上からの密命で動く任務に就いている。 この日もまた、父親からもたらされた案件に、情報屋兼相棒の翔一郎と解決に乗り出した。 ※完結しました。

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

新撰組のものがたり

琉莉派
歴史・時代
近藤・土方ら試衛館一門は、もともと尊王攘夷の志を胸に京へ上った。 ところが京の政治状況に巻き込まれ、翻弄され、いつしか尊王攘夷派から敵対視される立場に追いやられる。 近藤は弱気に陥り、何度も「新撰組をやめたい」とお上に申し出るが、聞き入れてもらえない――。 町田市小野路町の小島邸に残る近藤勇が出した手紙の数々には、一般に鬼の局長として知られる近藤の姿とは真逆の、弱々しい一面が克明にあらわれている。 近藤はずっと、新撰組を解散して多摩に帰りたいと思っていたのだ。 最新の歴史研究で明らかになった新撰組の実相を、真正面から描きます。 主人公は土方歳三。 彼の恋と戦いの日々がメインとなります。

【淀屋橋心中】公儀御用瓦師・おとき事件帖  豪商 VS おとき VS 幕府隠密!三つ巴の闘いを制するのは誰?

海善紙葉
歴史・時代
●青春真っ盛り・話題てんこ盛り時代小説 現在、アルファポリスのみで公開中。 *️⃣表紙イラスト︰武藤 径 さん。ありがとうございます、感謝です🤗 武藤径さん https://estar.jp/users/157026694 タイトル等は紙葉が挿入しました😊 ●おとき。17歳。「世直しおとき」の異名を持つ。 ●おときの幼馴染のお民が殺された。役人は、心中事件として処理しようとするが、おときはどうしても納得できない。 お民は、大坂の豪商・淀屋辰五郎の妾になっていたという。おときは、この淀辰が怪しいとにらんで、捜査を開始。 ●一方、幕閣の柳沢吉保も、淀屋失脚を画策。実在(史実)の淀屋辰五郎没落の謎をも巻き込みながら、おときは、モン様こと「近松門左衛門」と二人で、事の真相に迫っていく。 ✳おおさか 江戸時代は「大坂」の表記。明治以降「大阪」表記に。物語では、「大坂」で統一しています。 □主な登場人物□ おとき︰主人公 お民︰おときの幼馴染 伊左次(いさじ)︰寺島家の職人頭。おときの用心棒、元武士 寺島惣右衛門︰公儀御用瓦師・寺島家の当主。おときの父。 モン様︰近松門左衛門。おときは「モン様」と呼んでいる。 久富大志郎︰23歳。大坂西町奉行所同心 分部宗一郎︰大坂城代土岐家の家臣。城代直属の市中探索目附 淀屋辰五郎︰なにわ長者と呼ばれた淀屋の五代目。淀辰と呼ばれる。 大曽根兵庫︰分部とは因縁のある武士。 福島源蔵︰江戸からやってきた侍。伊左次を仇と付け狙う。 西海屋徳右衛門︰ 清兵衛︰墨屋の職人 ゴロさん︰近松門左衛門がよく口にする謎の人物 お駒︰淀辰の妾

春雷のあと

紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。 その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。 太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……

【完結】船宿さくらの来客簿

ヲダツバサ
歴史・時代
「百万人都市江戸の中から、たった一人を探し続けてる」 深川の河岸の端にある小さな船宿、さくら。 そこで料理をふるうのは、自由に生きる事を望む少女・おタキ。 はまぐり飯に、菜の花の味噌汁。 葱タレ丼に、味噌田楽。 タケノコご飯や焼き豆腐など、彼女の作る美味しい食事が今日も客達を賑わせている。 しかし、おタキはただの料理好きではない。 彼女は店の知名度を上げ、注目される事で、探し続けている。 明暦の大火で自分を救ってくれた、命の恩人を……。 ●江戸時代が舞台です。 ●冒頭に火事の描写があります。グロ表現はありません。

処理中です...