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第1章

3 カミル、脱獄の手引きを受け青年に出会う

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 一体、何が起こったのだろう。
 いくら思い出そうとしても、甘い匂いを嗅いでから父の遺体を見るまでの出来事は自分の頭の中に存在していない。
 服がゴワついていた。父の血にまみれたまま、カミルは問答無用で逮捕され、この石牢にぶちこまれたのだ。乾ききっていない血のせいで、カミルが寄りかかった壁は赤く汚れる。
 こんな最悪のことが、他にあるだろうか。
 私は父を殺していない。それははっきりしているのに、記憶はない。父の血の匂いに吐きそうだった。
 同僚の騎士たちだって、私と父との関係が良好であったことは知っている。誰でもいい、こんなことはおかしいと弁明してくれるはずだ。そのはずなんだ。
 夜明けが近いらしく、小窓の外はうすい紫色になっていた。
 いつもなら夜勤明けの解放感とともに見つめる美しい色なのに、今のカミルにとっては絶望の色でしかない。
 石牢に放り込まれた時、将軍の息子であるイゴルが鉄格子の向こうで冷たく言った。
「自分の父を殺すような男には、誰も同情するまいて。日暮れには首を斬る。それまでに知っていることを話せば、まぁ、家族と最期の別れの時間ぐらいは与えてやってもよいがな」
 高慢なイゴルめ。奴は、それこそ親の七光りでのし上がった男で、とにかく嫌われていた。
 地位もはっきりしない。将軍代理、ということのようだが、権限のあるなし関係なく、事件捜査や王宮警備に口を出してきているのは知っていた。
 ごつい体格のわりに筋肉は見掛け倒しで、剣の腕はたいしたことがないのは有名だ。子どもの頃から残酷ないじめが好きで、学問所で一緒に勉強していた頃から、カミルは大嫌いだった。
 まぁ……今は、嫌いだの好きだの言っていられる場合ではない。
 石牢の中でひとり父の血と汚名にまみれ、今日の終わりに自分は奴に殺される。
 最悪だ。最悪の時間というのは、最悪だから最悪なんだ。
 それにしても、この出来事は何か大きな陰謀の一部であるような気がする。カミルは考え続けていた。
 詰め所での父は、明らかに何かをカミルに忠告しようとしていた。こうなることを予見していたのだと思う。
『どのようなことにも、くじけず対処するように』
 あの言葉は父が最後に自分に残してくれたものだった。
 父上。あなたが私の手で殺されるなんて、絶対にあり得ないのに。こんな、こんなことにも、私はくじけるわけにはいかないのだろうか。
 顔を覆って、カミルは嗚咽をこらえた。優しく厳しかった父には、二度と会うことはできない。しかもそれが自分のせいだとされている。
 カミルの声を聞いてくれる存在は何もない。
 父を殺したのは、イゴルなのだろうか。カミルは漠然と思った。公正な取り調べも裁判もなしに、たった一日で処刑するなんて、誰から見てもおかしい。そこまで処刑を急ぐということは、カミルに何か話されては困ることがあるということだ。
 あの甘い匂いは何だったのだろう。それに、近衛騎士団長である父を殺した真犯人の動機は何だろう。
 いくら考えても、こんな石牢の中では証言集めも何もできない。
 最悪だ。
 首を吊りたい気分になってきた時、コン、と微かな音が牢に響いた。
 のろのろと顔を上げる。
 再び、コンという音がする。
 小窓の方から音がしている気がして、カミルは視線を向けた。
 紫色の空を背景にして、黒いフードをかぶった人影が、こちらを覗き込んでいた。
 目は影になっていて見えないが、その人物はそっと人差し指を唇の前で立てた。静かに、という唇の動きが見える。
 人物は、胸元から短剣を出した。黒い石が刃に埋め込んである。それが鉄格子に当てられると、鉄の棒はチーズのように切れた。
 驚いて固まったまま、カミルは人物が窓の鉄格子をすべて外すのを見ていた。
 この石牢、魔法対策はしていないのか?
 呆れた警備体制だなと思いつつ、カミルはどう反応したものか迷ってしまった。
 たとえ冤罪で公正な裁判が受けられなくても、犯罪の容疑をかけられた状態で脱獄するのは、カミルの感覚としては良くない気がする。かえって自分が罪を犯したことを認めてしまう態度ではないかとも思う。
 どうするか考えあぐねているうちに、人物は鉄格子を外し終え、細い縄梯子をぱらりと落とした。
 助けてくれるつもりなのはわかるが……誰だ? 目的は?
 牢を出たところでイゴルの嫌味な笑いと鉢合わせするのも御免だし、奴の正当性を認めるのも許し難い。
 動くのをためらっているカミルに、人物は溜息をついてフードを後ろに下げた。顔が見える。
 知っている顔に、カミルは目を見張った。
 兄、コンラートの従者だ。理解すると、カミルは牢の入り口へ顔を向けた。いつの間にか、見張りがいない。従者の方へ顔を戻すと、彼はわかっているという表情で頷いた。
 手筈は整っているらしい。カミルは立ち上がると静かに縄梯子に近づき、音を立てないよう細心の注意を払って壁を上り始めた。途中で手を伸ばすと、従者が引っ張り上げてくれる。
 外へ出ると、爽やかな朝の匂いがした。瑞々しい初夏の草に朝露が光っている。
 従者は再び人差し指を唇に当ててから、カミルを先導して動き始めた。
 身を屈めたまま、城壁に沿って進んでいく。角の向こうをのぞきこんでから、従者は進行方向を指差した。
 カミルは頷き、身を屈めて芝生を突っ切る。行き着いた先の小部屋に2人で飛び込むと、従者はほっと息を吐いた。
 そこは物置だった。掃除道具が乱雑に突っ込まれている。雑巾やら何やらの棚の隅から、従者はフードのついた大きなマントを引っ張り出した。濃い藍色はカミルにも見覚えがある。
 差し出され、カミルはそれを羽織る。なるほど、血まみれの服では見つかった時に言い訳もできない。
 カミルがフードをかぶったのを確認すると、従者は小部屋のドアを開けた。
 向こうでは、王宮で働く庭師や掃除人たちが忙しく動き回っていた。仕事の準備でバタバタしている。かなりの者が、制服の上に藍色のマントを羽織っていた。水をはじくウールのマントは、外仕事をする時に着るものなのだ。
 2人は彼らの支度部屋を抜けた。廊下を進めば、裏の通用口までもうすぐだ。
 その通用口の近くを、使用人ではない男がふらふら歩いているのに、カミルは気づいた。どうも具合が悪いようで、壁に手をつき青白い顔をしている。
 男はまだ若かった。すっきりした輪郭の、美しい顔をしている。ふっくらと色づいた唇からは、柔らかい溜息が漏れていた。着ているのは粗末なチュニックだが、おかげで若枝のような肢体が強調されている。
 だが何よりもカミルの意識を吸い寄せたのは、その目だった。
 美しい緑色をした目は、深い森の奥に湧く泉のようだった。澄みきった水面に若葉と木漏れ日を映した泉だ。それがどういうわけか、満々と潤みほろほろ涙をこぼしている。
 その青年はカミルの前でへたりこんだ。うずくまり嗚咽を漏らしながら、手の平で頬をこする。しかし、いくらこすっても頬は赤くならず、それどころか顔色はどんどん悪くなっているようにカミルには見えた。
 こんなに心が痛めつけられているような様子なのに、誰も手を差し伸べないのか。王宮の使用人たちは自分の仕事で忙しく行き来しているのに、青年に気づく気配は微塵もない。
 カミルは思わず立ち止まった。身をよじるような悲しみが、青年から直接伝わってくる気がしたのだ。
 その感情は、今の自分とどこか似通っているようにカミルには思えた。こんなに辛いのに、誰ひとり自分を見る者はいない。こんなに悲しいのに、誰ひとり自分の声を聞く者はいない。胸を締め上げられるような孤独に襲われ、カミルはじっと青年を見つめた。
 緑の目をした青年が、ふと顔を上げる。
 カミルと青年との目が合った。驚いたように青年の目が見開かれる。
 ああ……きれいな目だ。何か考えるより先に手を差し伸べ、カミルは言った。
「何があった? そなたの目に悲しみは相応しくない。よければ……」
 乱暴に腕を掴まれ、カミルは我に返った。従者が焦った声で囁く。
「何をなさっているんです。ご自分が今どんな状況か、おわかりでしょう。急いで!」
 カミルは青年の方に向きなおった。
「すまない。私も今は一刻を争う事態なのだ。申し訳ないが」
「行きますよ!」
 仕方ない。従者に急かされ、カミルは青年に軽く一礼をすると、さっと踵を返した。すがるような青年の視線を背中に感じる。
 力になりたい。だが今は無理なのだ。すまない。
 通用口から抜ける時に、カミルは横目で青年を見た。青年はさっきの場所にとどまったまま、カミルのことをまだ見つめている。戸を抜け青年が見えなくなると、カミルの胸に痛みが走った。助けることなど今の自分は無理なのに、半端に声をかけてしまうとは。
 父への想いと、青年への申し訳なさ。潰されそうな気持ちを背負ったまま、カミルは城を脱出した。

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