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46 【2年前】(23)
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最上階へ連れてこられ、ドアを入ったところでレンは手錠を外された。洗面所で念入りに手を洗わされ、リビング・ダイニングの広い空間に入ると、タカトオはレンを促した。
「座りなさい」
落ち着かない空間だった。示されたのはダイニングテーブルの椅子で、そこから見えるキッチンはきちんと整理され、曇りひとつなく磨き上げられている。調味料やスパイスらしきものが、すべて同じ大きさと形の容器に入れられ、ラベルを貼られ、薬品のように並べられていた。不規則な形のものは一切存在せず塵ひとつない空間は、どこか生活感がない。なのにタカトオはくつろいだ様子で電気ケトルに水を入れた。
「紅茶でいいかね。最近手に入れたダージリンがあるので、それを淹れよう」
正直、ダージリンがどういうものなのかレンにはわからなかった。南では、紅茶の種類なんて誰も知らなかった。ティーバッグが手に入ると、飲みたいと思う者同士で回し飲みをしていた。これは好き。これは自分には合わない。砂糖を入れたらもっとおいしいかな。そういう他愛のない会話が事務室で交わされ、ほのぼのとした空気が流れていた。
タカトオはレンの返事を聞く前に高価そうな茶器を並べ、四角い缶を取り出し、タイマーを置く。
興味が持てず、レンはリビングを見渡した。
タカトオが根城にしているマンション最上階は広かった。開放的なリビングの隅には大きなスピーカーがあり、オーディオ機器の横の棚にCDやレコードがきっちり並んでいる。陽射しが射し込む明るい部屋で、測ったように真ん中に黒いソファーが置かれていた。正直、ろくに生活基盤さえ戻っていないこの地域で、戦前と同等、あるいはそれ以上の生活を送っていること自体が胡散臭い。
人々に嫌がられている男が、異様に明るく清潔で整理された場所に住んでいる。誰かと穏やかに話し慕われるサキは、暗い闇の奥で本を読み、適当に置いたベッドでくしゃくしゃの毛布にくるまっている。
「どうだ? 南の生活は居心地がよかったか?」
タカトオの質問に、レンはそちらを向いた。沸騰したお湯をティーポットに注ぎながら、タカトオはこちらをチラリと見る。
「……別に」
「ずいぶん気に入ったようだな」
どうしてそういうことを決めつけるように判断できるのだろうか。それに、気に入ったかどうかなんて、こいつには関係ないだろう。タカトオの話し方は、昔から一々カンに障る。
ティーポットにカバーをかぶせ、タイマーをセットしたタカトオは、ポケットから何かを取り出し、テーブルにコトリと置いた。
何だろう? 見ればそれは指輪だった。白金の指輪が2つ、小さなカラビナで雑に繋がれている。
「これが何かわかるかね?」
「……指輪」
含み笑いと共に、タカトオはそれをポケットにしまい直した。
「死してなお、2人は永遠に一緒だ。ロマンティックだと思わんかね? 薫が私の所へやってきた理由はこれだよ」
タイマーが鳴り、タカトオはカップを温めていたお湯を捨て紅茶を注いだ。香りが漂っていたが、レンはどことなくそれが鼻につき、顔をしかめた。指輪が気になる。どういういきさつでタカトオが持っているのか。さっきのやり取りから察するに、サキの両親の指輪ではないのか。
タカトオは紅茶を注ぐと、カップをひとつ、レンの前に置いた。
「飲みなさい」
砂糖を入れない方がおいしいのかどうか、ということ以前に、そういった質問が許されない雰囲気が、レンをイラつかせる。
黙ったまま、レンはしばらく紅茶を眺め、それからタカトオを見上げた。
「水がいい」
バカにするように鼻で笑ったタカトオは、レンを無視して座ると、自分の紅茶に口をつけた。
「くだらない反抗だ。飲みたければ冷蔵庫にある」
頭にきたレンは、勢いよく立ち上がるとキッチンに向かった。棚から高そうなタンブラーを取り出し、流しで水を入れる。戻ってきて、それを乱暴にテーブルに置くと、レンはガタンと音を立てて椅子に座った。
「本当に、行儀が悪いな。テーブルに水滴を落とさないようにしろ」
無視して水を飲み、音を立ててテーブルに戻すと水滴が散った。タカトオが呆れた顔をし、レンはそれに内心満足した。
「どうでもいいけど……サキさんは南に返せよ。オレは……ここに残っても仕方ないけど」
「ほう? 薫を庇うのか」
ふざけんな。そう仕向けたくせに。もう一口、水を口に含んだ時、タカトオが紅茶のカップ越しにレンを見た。
「薫とはもう寝たのか?」
ぶっと水を噴き出す。テーブルにパタパタっと水が散る。タカトオは傍らのティッシュを取り、嫌そうな顔でそれを拭いた。
「あんたに関係ないだろ」
「大いに関係がある。お前のように教養も学歴もなく、生きる目標も信念もないような出来損ないに、私が役に立つ場所を与えてやっているのだ。その体で薫を虜にしろ。お前を信用すれば、奴はお前にペンダントの在り処を漏らすだろう。私に報告すれば、薫と一緒にどこへでも消えていい」
「あの人とは寝ない」
「なぜだ? 薫もお前に惚れられて、まんざらでもないのではないか? あいつはお前を大事にするだろう。まぁ誤解はしない方がいいがな」
「誤解?」
この男と会話しているとイライラする。自分がサキに心が引き寄せられること、それ自体を汚されている気になる。話しちゃだめだ。そう思うのに、タカトオの言葉の端々に引っかかるものがあって、レンは立ち上がることができなかった。
しかも、タカトオはサキを名前で呼んでいる。サキの嫌そうな反応を見てからは、さらに強調するように名前を使う。
「薫がお前に惚れたような反応をしても、信用はしないことだ。私はわざと薫の元に、何も言わずにお前を放り込んだ。お前はあいつの弟代わりというわけだ」
眉間に皺を寄せて、レンは水を飲んだ。聞きたくない。でも聞きたい。その態度を見ながら、タカトオは続けた。
「あいつに弟がいたという話は聞いているのか?」
「……」
「聞いたのか。あいつは本当に弟をかわいがっていた。よく面倒を見ていた。亡くした時はさぞ辛かったろうな。それ以来、あいつは年下を無条件で守るんだ。お前のような出来損ないぐらいが、薫にはちょうどいい。危なっかしい愚かな人間に、あいつは強烈に庇護欲をかきたてられる」
サキさんは起きただろうか。自分がいないことに気づいたら、どんなことを考えるだろう。自分はタカトオの言う通り、愚かな人間だった。サキを危険にさらすようなヘマをやったのは事実だ。言い逃れはできなかった。
物事はタカトオの思った通りに進んでいる。これ以上、自分の行動を読まれるのは嫌だ。
レンはひどく疲れた気分だった。ペンダントはどうなるんだろう。エトウはどう行動するんだろうか。考えなければならないことはたくさんあった。何よりも、痛めつけられたサキがどうなったのかが心配だ。
「そうだな……怜、薫に弟のことを聞いてみるがいい。両親のことも。そうすれば、今回あいつが簡単に境界線を越えた理由がわかるだろう」
そういうことは、サキさんが話す気になってからでいい。レンは思った。それより……思い切って、自分がタカトオの息子であることを告白しておいた方がいいかもしれない。タカトオは、自分と薫が本格的に情を交わしてしまったら、レンが息子だという事実をサキに暴露する気じゃないか。
告白するのは、ひどく勇気がいる。自分はどこまでも、目の前で涼しい顔をして紅茶を飲んでいる男の息子だ。そのことを知った時のサキの顔を想像すると、とても怖い。それでも、サキに言って自分は彼から距離を取るべきなのだ。
かといって、自分の気持ちをタカトオに知られるわけにもいかない。どうするか……。
「オレは、別にサキさんのことを好きなわけじゃない。どうせあんたの息子なんだ。こっちに残る。サキさんのことは勝手にやってくれ」
ニヤニヤ笑ってタカトオは答えた。
「そうはいかない。お前は今、あくまでもサキの配下だ。この建物の中は自由に移動していい。食事やリネン類の管理をしている者に聞いて、必要な物を調達し、薫の面倒を見ろ。応急手当もお前がするんだ。お前が面倒を見ない限り、薫はあの部屋で食事も何もなしに床に転がって死ぬだけだ」
眉間に皺を寄せたまま、レンは溜息をついた。
「期待しているぞ。どうせお前が役に立つのは、薫の夜の相手ぐらいだからな」
サキの手錠の鍵がカタンとテーブルに置かれる。心底楽しそうに微笑むタカトオを睨みながら、レンはタンブラーをわざと倒した。残っていた水がテーブルに広がっていく。タカトオがタオルに手を伸ばすのを放っておいて立ち上がる。鍵を手に、椅子をそのままにして部屋を出ようとした時、タカトオが後ろで呟くのが聞こえた。
「本当に……使えん子だ」
クソが。
レンは靴を履くと入口を出て、ドアを力一杯叩きつけた。
「座りなさい」
落ち着かない空間だった。示されたのはダイニングテーブルの椅子で、そこから見えるキッチンはきちんと整理され、曇りひとつなく磨き上げられている。調味料やスパイスらしきものが、すべて同じ大きさと形の容器に入れられ、ラベルを貼られ、薬品のように並べられていた。不規則な形のものは一切存在せず塵ひとつない空間は、どこか生活感がない。なのにタカトオはくつろいだ様子で電気ケトルに水を入れた。
「紅茶でいいかね。最近手に入れたダージリンがあるので、それを淹れよう」
正直、ダージリンがどういうものなのかレンにはわからなかった。南では、紅茶の種類なんて誰も知らなかった。ティーバッグが手に入ると、飲みたいと思う者同士で回し飲みをしていた。これは好き。これは自分には合わない。砂糖を入れたらもっとおいしいかな。そういう他愛のない会話が事務室で交わされ、ほのぼのとした空気が流れていた。
タカトオはレンの返事を聞く前に高価そうな茶器を並べ、四角い缶を取り出し、タイマーを置く。
興味が持てず、レンはリビングを見渡した。
タカトオが根城にしているマンション最上階は広かった。開放的なリビングの隅には大きなスピーカーがあり、オーディオ機器の横の棚にCDやレコードがきっちり並んでいる。陽射しが射し込む明るい部屋で、測ったように真ん中に黒いソファーが置かれていた。正直、ろくに生活基盤さえ戻っていないこの地域で、戦前と同等、あるいはそれ以上の生活を送っていること自体が胡散臭い。
人々に嫌がられている男が、異様に明るく清潔で整理された場所に住んでいる。誰かと穏やかに話し慕われるサキは、暗い闇の奥で本を読み、適当に置いたベッドでくしゃくしゃの毛布にくるまっている。
「どうだ? 南の生活は居心地がよかったか?」
タカトオの質問に、レンはそちらを向いた。沸騰したお湯をティーポットに注ぎながら、タカトオはこちらをチラリと見る。
「……別に」
「ずいぶん気に入ったようだな」
どうしてそういうことを決めつけるように判断できるのだろうか。それに、気に入ったかどうかなんて、こいつには関係ないだろう。タカトオの話し方は、昔から一々カンに障る。
ティーポットにカバーをかぶせ、タイマーをセットしたタカトオは、ポケットから何かを取り出し、テーブルにコトリと置いた。
何だろう? 見ればそれは指輪だった。白金の指輪が2つ、小さなカラビナで雑に繋がれている。
「これが何かわかるかね?」
「……指輪」
含み笑いと共に、タカトオはそれをポケットにしまい直した。
「死してなお、2人は永遠に一緒だ。ロマンティックだと思わんかね? 薫が私の所へやってきた理由はこれだよ」
タイマーが鳴り、タカトオはカップを温めていたお湯を捨て紅茶を注いだ。香りが漂っていたが、レンはどことなくそれが鼻につき、顔をしかめた。指輪が気になる。どういういきさつでタカトオが持っているのか。さっきのやり取りから察するに、サキの両親の指輪ではないのか。
タカトオは紅茶を注ぐと、カップをひとつ、レンの前に置いた。
「飲みなさい」
砂糖を入れない方がおいしいのかどうか、ということ以前に、そういった質問が許されない雰囲気が、レンをイラつかせる。
黙ったまま、レンはしばらく紅茶を眺め、それからタカトオを見上げた。
「水がいい」
バカにするように鼻で笑ったタカトオは、レンを無視して座ると、自分の紅茶に口をつけた。
「くだらない反抗だ。飲みたければ冷蔵庫にある」
頭にきたレンは、勢いよく立ち上がるとキッチンに向かった。棚から高そうなタンブラーを取り出し、流しで水を入れる。戻ってきて、それを乱暴にテーブルに置くと、レンはガタンと音を立てて椅子に座った。
「本当に、行儀が悪いな。テーブルに水滴を落とさないようにしろ」
無視して水を飲み、音を立ててテーブルに戻すと水滴が散った。タカトオが呆れた顔をし、レンはそれに内心満足した。
「どうでもいいけど……サキさんは南に返せよ。オレは……ここに残っても仕方ないけど」
「ほう? 薫を庇うのか」
ふざけんな。そう仕向けたくせに。もう一口、水を口に含んだ時、タカトオが紅茶のカップ越しにレンを見た。
「薫とはもう寝たのか?」
ぶっと水を噴き出す。テーブルにパタパタっと水が散る。タカトオは傍らのティッシュを取り、嫌そうな顔でそれを拭いた。
「あんたに関係ないだろ」
「大いに関係がある。お前のように教養も学歴もなく、生きる目標も信念もないような出来損ないに、私が役に立つ場所を与えてやっているのだ。その体で薫を虜にしろ。お前を信用すれば、奴はお前にペンダントの在り処を漏らすだろう。私に報告すれば、薫と一緒にどこへでも消えていい」
「あの人とは寝ない」
「なぜだ? 薫もお前に惚れられて、まんざらでもないのではないか? あいつはお前を大事にするだろう。まぁ誤解はしない方がいいがな」
「誤解?」
この男と会話しているとイライラする。自分がサキに心が引き寄せられること、それ自体を汚されている気になる。話しちゃだめだ。そう思うのに、タカトオの言葉の端々に引っかかるものがあって、レンは立ち上がることができなかった。
しかも、タカトオはサキを名前で呼んでいる。サキの嫌そうな反応を見てからは、さらに強調するように名前を使う。
「薫がお前に惚れたような反応をしても、信用はしないことだ。私はわざと薫の元に、何も言わずにお前を放り込んだ。お前はあいつの弟代わりというわけだ」
眉間に皺を寄せて、レンは水を飲んだ。聞きたくない。でも聞きたい。その態度を見ながら、タカトオは続けた。
「あいつに弟がいたという話は聞いているのか?」
「……」
「聞いたのか。あいつは本当に弟をかわいがっていた。よく面倒を見ていた。亡くした時はさぞ辛かったろうな。それ以来、あいつは年下を無条件で守るんだ。お前のような出来損ないぐらいが、薫にはちょうどいい。危なっかしい愚かな人間に、あいつは強烈に庇護欲をかきたてられる」
サキさんは起きただろうか。自分がいないことに気づいたら、どんなことを考えるだろう。自分はタカトオの言う通り、愚かな人間だった。サキを危険にさらすようなヘマをやったのは事実だ。言い逃れはできなかった。
物事はタカトオの思った通りに進んでいる。これ以上、自分の行動を読まれるのは嫌だ。
レンはひどく疲れた気分だった。ペンダントはどうなるんだろう。エトウはどう行動するんだろうか。考えなければならないことはたくさんあった。何よりも、痛めつけられたサキがどうなったのかが心配だ。
「そうだな……怜、薫に弟のことを聞いてみるがいい。両親のことも。そうすれば、今回あいつが簡単に境界線を越えた理由がわかるだろう」
そういうことは、サキさんが話す気になってからでいい。レンは思った。それより……思い切って、自分がタカトオの息子であることを告白しておいた方がいいかもしれない。タカトオは、自分と薫が本格的に情を交わしてしまったら、レンが息子だという事実をサキに暴露する気じゃないか。
告白するのは、ひどく勇気がいる。自分はどこまでも、目の前で涼しい顔をして紅茶を飲んでいる男の息子だ。そのことを知った時のサキの顔を想像すると、とても怖い。それでも、サキに言って自分は彼から距離を取るべきなのだ。
かといって、自分の気持ちをタカトオに知られるわけにもいかない。どうするか……。
「オレは、別にサキさんのことを好きなわけじゃない。どうせあんたの息子なんだ。こっちに残る。サキさんのことは勝手にやってくれ」
ニヤニヤ笑ってタカトオは答えた。
「そうはいかない。お前は今、あくまでもサキの配下だ。この建物の中は自由に移動していい。食事やリネン類の管理をしている者に聞いて、必要な物を調達し、薫の面倒を見ろ。応急手当もお前がするんだ。お前が面倒を見ない限り、薫はあの部屋で食事も何もなしに床に転がって死ぬだけだ」
眉間に皺を寄せたまま、レンは溜息をついた。
「期待しているぞ。どうせお前が役に立つのは、薫の夜の相手ぐらいだからな」
サキの手錠の鍵がカタンとテーブルに置かれる。心底楽しそうに微笑むタカトオを睨みながら、レンはタンブラーをわざと倒した。残っていた水がテーブルに広がっていく。タカトオがタオルに手を伸ばすのを放っておいて立ち上がる。鍵を手に、椅子をそのままにして部屋を出ようとした時、タカトオが後ろで呟くのが聞こえた。
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