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午後遅く、レンはミヤギに指示され、書庫へ向かった。中にいるサキに頼んで一箱出してもらうためだ。リノリウムの廊下に斜めに日が射し込む、穏やかな天気だった。
サキの毎日は仕事ばかりだ。警備について事務作業について、様々なことを各チームリーダーと話し、巡回して確認する。先日の襲撃以来、サキがやることは増えていた。それでも時間を見つけては、サキは書庫の中にいた。
不思議だった。何の役にも立たないことを仕事にしている男。
闇の奥からグループ全員を統率している男。
書庫の扉は開きっぱなしだった。レンは以前教わったように、扉をコンコンとノックした。
奥から、くぐもった返事が聞こえる。
レンは黙って待っていたが、ふと思いついて書庫の中に足を踏み入れた。自分の身長より高いステンレスの書架が、ずらりと並んでいる。それは不気味な迷宮に見えた。通路の幅は1メートルもない。整然と並んでいるのは予想がつくが、どのぐらい続いているのかはわからない。ステンレスのひんやりした感覚が空気に混じり、静かだった。
かつては電気が通っていたからこそ、こうした空間は知の倉庫として成立していたのだろう。でも今は、その空間を満たす知性を理解する者は少なく、紙の匂いのする迷路を正確に目的地へ進むことができる存在は貴重になってしまった。
公立マーケットで買った、小さな懐中電灯をポケットから出すと、レンはその暗闇を照らしてみた。
少し広い真ん中の通路は、懐中電灯の光にぼんやりと浮かび上がり、両脇のステンレスが微かに光る。丸い光の外側は闇が深く、まっすぐ前を照らしても、奥は見えなかった。ステンレスの棚の側面には番号がついている。
あぁそうか……。
レンはその番号を見た。分類番号を聞いた時に、その番号がこの書庫のどの辺りにあるのかを知っていなければならない。順番に並んでいるとしても、始まりがどこで、終わりがどこなのか、迷宮の構造を知らなければ、目的地へ行くには時間がかかる。
エトウはサキ同様にこの書庫の構造を知っているということだ。どんな番号を言われても、そこへ迷わずに行くことができる。
どういう人たちなのだろう、とレンは思った。サキもエトウも、闇を自在に歩き回る力を持っている。その灯火は懐中電灯ではない。
ぼんやりと番号を見ていると、奥からサキが出てくる音がした。段ボール箱が書架にこすれる音と、静かな足音。
「サキさん」
「え? お前、移動したのか。入口に戻れるか?」
数本向こうの通路で、サキはレンの居場所が入口ではないことに、いぶかしむような声を出した。サキの場所に押し入った感覚に気まずくなり、レンは懐中電灯を動かし、自分が来た方を見た。廊下から射し込む光が見える。
「戻れます」
レンが入口の方へ戻ると同時に、サキが数本奥の通路から姿を現した。箱を持ち、細い懐中電灯を咥えている。入口まで来ると、サキは箱を床に置いて懐中電灯のスイッチを切った。
「一箱でいいか」
「ええ。……この書庫、広いんですね」
「ん? あぁ、いや、そうでもないと思うが。まぁ閉架で通路が狭いからな」
ヘイカ、という聞き慣れない言葉に、レンはサキの顔を見上げた。
きょとんとした顔だったらしい。サキはレンを見て噴き出しそうな顔になった。
「ここは最初から迷路だったのさ。本の場所を知っている司書だけが入れた。他には研究者とか、許可をもらった人だけだな」
サキがグループ以外の者から『司書』と呼ばれていることを、レンは思い出した。どこに何があるかを知っている者。
「で、サキさんは本の場所を知っているんですね」
「あぁまぁ……そうだな、ここがこうなる前に入ったことがあったから」
軽い驚きと共に、レンはサキを見た。終戦は10年前だ。最後の一撃で国の中枢が壊滅して、3年続いた戦争は終わった。つまり、少なくとも10年以上前に、サキはすでにここを歩き回っていたということになる。
「エトウさんも?」
「エトウ。あぁ翔也か。そうだな……あいつもアパートが近かったから」
そこまで言うと、サキは箱を見おろした。
「急いでるんじゃないのか?」
会話を打ち切ろうとしている。この暗闇はサキの居場所であり、迷宮の奥に何があるのかを、サキは教えるつもりがない。
「えぇ……」
曖昧に返事をしたまま、レンは動かなかった。サキが顔を上げると、視線がぶつかる。微かにサキの眉がひそめられる。レンはそれを無視して、一歩前に出た。ステンレスの棚の横に貼られた番号のプレートを指先で撫でる。
「210……ここにあるのって何ですか」
「日本の歴史だ」
「戦争前の?」
「そうだ」
サキが溜息をついた。書庫を出るつもりのないレンをうっとうしく思っているのが、肌に伝わってくる。
「サキさんは今、どこにいるんですか?」
「刑事訴訟法」
「それって何番?」
レンはサキの目を正面から見る。
「なぁ向こうで在庫を待ってるんじゃないのか?」
イラつきを押し殺した顔で、サキは髪をかき上げた。棚に寄りかかり、腕を組む。Tシャツからのぞく腕は、本を読んでいるだけにしては、きちんと筋肉がついている。
「サキさん……」
最初に体を重ねてから、もう十日は経っていた。その間、何もなかった。出会った時と変わらずにサキはレンの生活には踏み込んでこず、事務的なやりとり以外には何もない。
襲撃の興奮で一夜限りの情事には乗ったものの、結局脈なしだったということなんだろうか。レンはそう思った。それならそれでいい。どうせ、埼玉のグループを逃げ出した時点で用済みなんだ。これ以上、サキの気を引く必要はない。
それにここなら、権力者に取り入らなくても、ひどい目には合わない。自分の利害関係と保身を考えなくていいというのは、気が楽だ。この間のはただの性欲の発散だった。だからもう気にしなくていい。
レンはそうやって自分に言いきかせながら、ぐずぐずと立っていた。深入りしない方がいいと頭でわかっているのに、サキのことをもっと知りたい。サキの眼を見たい。その渇望に近い感情に、レンは戸惑っていた。そもそもあの晩だって、レンは我慢できなかったのだ。こんなふうに自分から誰かを求めたのは初めてで、レンは自分がどうしてこんなわけのわからない行動をしているのか、理解できなかった。
サキは、レンだけではなく誰にも踏み込んだ態度はとらない。常に穏やかで感じがよく、一緒に飲んだりするときも、あまり人と騒ぐことはない。この人は誰かに特別な感情を持つことがあるんだろうか。
「早く持っていけ」
レンが黙っていると、サキはそのまま書架から身を離し、レンに背を向けた。奥へ戻っていこうとしている。
「あの」
行きかけて、サキは面倒そうに振り向いた。
「あの、オレでも読めそうな本はありませんか」
何を言われているのか一瞬わからない顔をしてから、サキは体ごと向き直った。しげしげとレンを見ると、真意をうかがうように目を細める。
「本を読みたいのか?」
「えぇ。あなたはいつも本を読んでいる。どうしてなのかと思って」
「別に意味はないよ。時間つぶしだ」
「時間つぶしだとしても、読書を選んだ理由があるでしょう?」
溜息をついて、サキはレンの方へ戻ってきた。
「ここの書庫に入っているのは、どれも手軽に読めるものじゃない。向こうの広いところにも書架があるだろう? もし何か読みたかったら、あっちに残っている本の中から、薄くて面白そうなのを選ぶといい。こっちのカビくさい本なんか」
「でもあなたは、ここにある本を読んでいる」
レンが食い下がると、サキはずいと顔を近づけた。思わず一歩下がる。背中にステンレスの角が当たり、ヒヤリとした感触にレンは身をすくませた。すぐ目の前にサキの顔がある。知的で、強い意志を秘めた顔だった。
「お前が興味を持っているのは本か? 俺か?」
息を飲む。口実を許さない目だった。本を読みたければ本を読め。自分に近づくのが目的であれば、そう言え。
吐息がかかるほど近くでサキの目を見ながら、レンは答えた。
「両方です。あなたに近づきたくて……あなたが興味を持っているものに興味を持った。あなたを、この暗い書庫につなぎとめてるものって何なんだろうって」
サキは変わらず、じっとレンの目をのぞきこんでいる。心の底を見透かそうとする鋭い眼差しだった。レンはひるんだものの、負けずにそれを見つめ返した。知らぬ間に握ったステンレスの、冷ややかな感触を手の平で感じる。
無言で見つめ合ったまま、ひどく長い時間が過ぎていく。レンは答を探した。なんでもいい。何か……。
「本を読んだら、何かが変わるんだろうかって」
とっさに出た答に、レンは自分で驚いた。なぜそんなことを言ったのだろう。この世界では、本を読んだって、自分を支配している鎖を断ち切る力は手に入れられない。そのことを自分が一番よく知っているはずだったのに。
だが、その答を聞いたサキの視線が、ふと緩んだ。
「自分の周りは何も変わらない。俺はそのことを理解するために本を読んでる」
真意がわからず、レンはサキの顔を見上げた。
「それは……将来が真っ暗だってこと?」
「いいや? そういうことじゃない。お前はまだ……」
そこまで言って、サキは口を閉じた。
「まだ?」
「なんでもない」
何を呑み込んだのだろう。
じっと、サキの目を見つめる。この人のことを知りたい。謎を抱えて書庫にいる男のことを。迷路のような心の奥に、何か自分の知らない知恵を秘めている男のことを。
レンは手を伸ばし、サキのTシャツを掴んだ。彼の吐息が唇に触れる。吐息だけじゃ足りない。自分たちが数センチの距離で見つめ合っていることを意識すると、頬に熱がのぼった。サキの目から尋問の色が抜け、甘く重い欲望が瞳に翳っている。
「……本を、読みたかったら……」
サキが、喉に引っかかったような、かすれた声で言った。レンは、自分も声がうまく出せないことに、不意に気づいた。
「向こうを……探してみます」
柔らかい風が唇を掠める。どちらから。唇が交わってしまえば、それは頭に浮かばない。
レンがサキのTシャツを握りしめた時、サキの手がレンのうなじを包みこんだ。舌が絡み合うと、腰から力が抜ける。
「ん……」
くぐもった声を上げると、サキの手がレンのTシャツの下に入りこみ、撫で上げた。ざわりとした快感が全身に広がる。唇が角度を変え、より深く互いの口の中を味わう。
突然、誰かの靴音が廊下に響いた。
「お~い、どこ行った?」
はっと我に返り、2人は体を離した。廊下に向かって、レンは声を張り上げる。
「今行きます!」
焦った気持ちのまま、段ボール箱を持ち上げる。
「サキさん、ありがとうございました。本、読んでみます」
答を聞かずレンは書庫を飛び出し、廊下を走った。心臓が脈打ち、うなじが熱い。
「マスク、出してもらいました」
迎えにきていたタケに言うと、レンはそのまま追い越し、事務室へ向かった。彼の顔を見る自信はなかった。
サキの毎日は仕事ばかりだ。警備について事務作業について、様々なことを各チームリーダーと話し、巡回して確認する。先日の襲撃以来、サキがやることは増えていた。それでも時間を見つけては、サキは書庫の中にいた。
不思議だった。何の役にも立たないことを仕事にしている男。
闇の奥からグループ全員を統率している男。
書庫の扉は開きっぱなしだった。レンは以前教わったように、扉をコンコンとノックした。
奥から、くぐもった返事が聞こえる。
レンは黙って待っていたが、ふと思いついて書庫の中に足を踏み入れた。自分の身長より高いステンレスの書架が、ずらりと並んでいる。それは不気味な迷宮に見えた。通路の幅は1メートルもない。整然と並んでいるのは予想がつくが、どのぐらい続いているのかはわからない。ステンレスのひんやりした感覚が空気に混じり、静かだった。
かつては電気が通っていたからこそ、こうした空間は知の倉庫として成立していたのだろう。でも今は、その空間を満たす知性を理解する者は少なく、紙の匂いのする迷路を正確に目的地へ進むことができる存在は貴重になってしまった。
公立マーケットで買った、小さな懐中電灯をポケットから出すと、レンはその暗闇を照らしてみた。
少し広い真ん中の通路は、懐中電灯の光にぼんやりと浮かび上がり、両脇のステンレスが微かに光る。丸い光の外側は闇が深く、まっすぐ前を照らしても、奥は見えなかった。ステンレスの棚の側面には番号がついている。
あぁそうか……。
レンはその番号を見た。分類番号を聞いた時に、その番号がこの書庫のどの辺りにあるのかを知っていなければならない。順番に並んでいるとしても、始まりがどこで、終わりがどこなのか、迷宮の構造を知らなければ、目的地へ行くには時間がかかる。
エトウはサキ同様にこの書庫の構造を知っているということだ。どんな番号を言われても、そこへ迷わずに行くことができる。
どういう人たちなのだろう、とレンは思った。サキもエトウも、闇を自在に歩き回る力を持っている。その灯火は懐中電灯ではない。
ぼんやりと番号を見ていると、奥からサキが出てくる音がした。段ボール箱が書架にこすれる音と、静かな足音。
「サキさん」
「え? お前、移動したのか。入口に戻れるか?」
数本向こうの通路で、サキはレンの居場所が入口ではないことに、いぶかしむような声を出した。サキの場所に押し入った感覚に気まずくなり、レンは懐中電灯を動かし、自分が来た方を見た。廊下から射し込む光が見える。
「戻れます」
レンが入口の方へ戻ると同時に、サキが数本奥の通路から姿を現した。箱を持ち、細い懐中電灯を咥えている。入口まで来ると、サキは箱を床に置いて懐中電灯のスイッチを切った。
「一箱でいいか」
「ええ。……この書庫、広いんですね」
「ん? あぁ、いや、そうでもないと思うが。まぁ閉架で通路が狭いからな」
ヘイカ、という聞き慣れない言葉に、レンはサキの顔を見上げた。
きょとんとした顔だったらしい。サキはレンを見て噴き出しそうな顔になった。
「ここは最初から迷路だったのさ。本の場所を知っている司書だけが入れた。他には研究者とか、許可をもらった人だけだな」
サキがグループ以外の者から『司書』と呼ばれていることを、レンは思い出した。どこに何があるかを知っている者。
「で、サキさんは本の場所を知っているんですね」
「あぁまぁ……そうだな、ここがこうなる前に入ったことがあったから」
軽い驚きと共に、レンはサキを見た。終戦は10年前だ。最後の一撃で国の中枢が壊滅して、3年続いた戦争は終わった。つまり、少なくとも10年以上前に、サキはすでにここを歩き回っていたということになる。
「エトウさんも?」
「エトウ。あぁ翔也か。そうだな……あいつもアパートが近かったから」
そこまで言うと、サキは箱を見おろした。
「急いでるんじゃないのか?」
会話を打ち切ろうとしている。この暗闇はサキの居場所であり、迷宮の奥に何があるのかを、サキは教えるつもりがない。
「えぇ……」
曖昧に返事をしたまま、レンは動かなかった。サキが顔を上げると、視線がぶつかる。微かにサキの眉がひそめられる。レンはそれを無視して、一歩前に出た。ステンレスの棚の横に貼られた番号のプレートを指先で撫でる。
「210……ここにあるのって何ですか」
「日本の歴史だ」
「戦争前の?」
「そうだ」
サキが溜息をついた。書庫を出るつもりのないレンをうっとうしく思っているのが、肌に伝わってくる。
「サキさんは今、どこにいるんですか?」
「刑事訴訟法」
「それって何番?」
レンはサキの目を正面から見る。
「なぁ向こうで在庫を待ってるんじゃないのか?」
イラつきを押し殺した顔で、サキは髪をかき上げた。棚に寄りかかり、腕を組む。Tシャツからのぞく腕は、本を読んでいるだけにしては、きちんと筋肉がついている。
「サキさん……」
最初に体を重ねてから、もう十日は経っていた。その間、何もなかった。出会った時と変わらずにサキはレンの生活には踏み込んでこず、事務的なやりとり以外には何もない。
襲撃の興奮で一夜限りの情事には乗ったものの、結局脈なしだったということなんだろうか。レンはそう思った。それならそれでいい。どうせ、埼玉のグループを逃げ出した時点で用済みなんだ。これ以上、サキの気を引く必要はない。
それにここなら、権力者に取り入らなくても、ひどい目には合わない。自分の利害関係と保身を考えなくていいというのは、気が楽だ。この間のはただの性欲の発散だった。だからもう気にしなくていい。
レンはそうやって自分に言いきかせながら、ぐずぐずと立っていた。深入りしない方がいいと頭でわかっているのに、サキのことをもっと知りたい。サキの眼を見たい。その渇望に近い感情に、レンは戸惑っていた。そもそもあの晩だって、レンは我慢できなかったのだ。こんなふうに自分から誰かを求めたのは初めてで、レンは自分がどうしてこんなわけのわからない行動をしているのか、理解できなかった。
サキは、レンだけではなく誰にも踏み込んだ態度はとらない。常に穏やかで感じがよく、一緒に飲んだりするときも、あまり人と騒ぐことはない。この人は誰かに特別な感情を持つことがあるんだろうか。
「早く持っていけ」
レンが黙っていると、サキはそのまま書架から身を離し、レンに背を向けた。奥へ戻っていこうとしている。
「あの」
行きかけて、サキは面倒そうに振り向いた。
「あの、オレでも読めそうな本はありませんか」
何を言われているのか一瞬わからない顔をしてから、サキは体ごと向き直った。しげしげとレンを見ると、真意をうかがうように目を細める。
「本を読みたいのか?」
「えぇ。あなたはいつも本を読んでいる。どうしてなのかと思って」
「別に意味はないよ。時間つぶしだ」
「時間つぶしだとしても、読書を選んだ理由があるでしょう?」
溜息をついて、サキはレンの方へ戻ってきた。
「ここの書庫に入っているのは、どれも手軽に読めるものじゃない。向こうの広いところにも書架があるだろう? もし何か読みたかったら、あっちに残っている本の中から、薄くて面白そうなのを選ぶといい。こっちのカビくさい本なんか」
「でもあなたは、ここにある本を読んでいる」
レンが食い下がると、サキはずいと顔を近づけた。思わず一歩下がる。背中にステンレスの角が当たり、ヒヤリとした感触にレンは身をすくませた。すぐ目の前にサキの顔がある。知的で、強い意志を秘めた顔だった。
「お前が興味を持っているのは本か? 俺か?」
息を飲む。口実を許さない目だった。本を読みたければ本を読め。自分に近づくのが目的であれば、そう言え。
吐息がかかるほど近くでサキの目を見ながら、レンは答えた。
「両方です。あなたに近づきたくて……あなたが興味を持っているものに興味を持った。あなたを、この暗い書庫につなぎとめてるものって何なんだろうって」
サキは変わらず、じっとレンの目をのぞきこんでいる。心の底を見透かそうとする鋭い眼差しだった。レンはひるんだものの、負けずにそれを見つめ返した。知らぬ間に握ったステンレスの、冷ややかな感触を手の平で感じる。
無言で見つめ合ったまま、ひどく長い時間が過ぎていく。レンは答を探した。なんでもいい。何か……。
「本を読んだら、何かが変わるんだろうかって」
とっさに出た答に、レンは自分で驚いた。なぜそんなことを言ったのだろう。この世界では、本を読んだって、自分を支配している鎖を断ち切る力は手に入れられない。そのことを自分が一番よく知っているはずだったのに。
だが、その答を聞いたサキの視線が、ふと緩んだ。
「自分の周りは何も変わらない。俺はそのことを理解するために本を読んでる」
真意がわからず、レンはサキの顔を見上げた。
「それは……将来が真っ暗だってこと?」
「いいや? そういうことじゃない。お前はまだ……」
そこまで言って、サキは口を閉じた。
「まだ?」
「なんでもない」
何を呑み込んだのだろう。
じっと、サキの目を見つめる。この人のことを知りたい。謎を抱えて書庫にいる男のことを。迷路のような心の奥に、何か自分の知らない知恵を秘めている男のことを。
レンは手を伸ばし、サキのTシャツを掴んだ。彼の吐息が唇に触れる。吐息だけじゃ足りない。自分たちが数センチの距離で見つめ合っていることを意識すると、頬に熱がのぼった。サキの目から尋問の色が抜け、甘く重い欲望が瞳に翳っている。
「……本を、読みたかったら……」
サキが、喉に引っかかったような、かすれた声で言った。レンは、自分も声がうまく出せないことに、不意に気づいた。
「向こうを……探してみます」
柔らかい風が唇を掠める。どちらから。唇が交わってしまえば、それは頭に浮かばない。
レンがサキのTシャツを握りしめた時、サキの手がレンのうなじを包みこんだ。舌が絡み合うと、腰から力が抜ける。
「ん……」
くぐもった声を上げると、サキの手がレンのTシャツの下に入りこみ、撫で上げた。ざわりとした快感が全身に広がる。唇が角度を変え、より深く互いの口の中を味わう。
突然、誰かの靴音が廊下に響いた。
「お~い、どこ行った?」
はっと我に返り、2人は体を離した。廊下に向かって、レンは声を張り上げる。
「今行きます!」
焦った気持ちのまま、段ボール箱を持ち上げる。
「サキさん、ありがとうございました。本、読んでみます」
答を聞かずレンは書庫を飛び出し、廊下を走った。心臓が脈打ち、うなじが熱い。
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