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第三章 逆乱
幕引きの王
しおりを挟むとんだ失態だ、とジヴは苦い味を噛みしめる。
(この野営地にレイゼル・ネフスキーが寄宿していることを見逃していたとは)
コギト犬たちはあっという間にジヴを取り囲んだ。そして息の合ったコンビネーションでジヴに波状攻撃をしかけてくる。訓練された犬は普通の犬とはまるで別の生き物と言ってもいい。ジヴの超人的とも言える動態視力と反応速度でも複数から成る四足動物の攻撃には対応できない。
首筋を狙って飛び掛かってくる一頭はフェイントだ。しかし陽動だと決めて放っておけばそのまま喉笛を噛み千切られるだろう。
(どれもが本命でどれもがフェイントか。厄介だな)
ジヴの鉄拳は犬を殴りつけるが、その間に別の牙にふくらはぎを抉り取られる。改めて見れば、人間の身体は急所だらけだ。そして犬たちから見れば大きすぎる的だ。どこかを守ろうとすればどこかが手薄になる。
それでもジヴは奮闘した。
つむじ風のように剛腕を振い続け、犬たちを寄せ付けない。遠巻きにそれを眺めるのはナドアの連中だ。ウェスの相棒スタンは騒ぎに加わろうとするラトナーカルを押しとどめていた。
(よし、上出来だ、あんな猿にまで出張ってこられちゃ面倒だからな)
白い狼レイゼルは真正面に立ってピンで壁に留めるような視線でジヴを見据えた。
(よせよ、そんなおっかねえ眼で見るんじゃねえ)
恐ろしいフットワークで犬たちは縦横無尽に駆け巡った。
犬たちの動線は無限のヴァリエーションでジヴを絡めとる。どこへ逃れても牙に行き当たる、不可能な迷路に迷いこんだみたいだ。
おまけに暑さを差っ引いてもスタミナはジヴの何十倍もあるはずだ。どうあがいても長期戦になれば勝ち目はない。
(ほらまた、脇腹をやられた。動脈は無事か?)
だんだんと意識が遠のいていく。
(こりゃあ、死ぬな)
ジヴは静かに思う。恐怖はない。生きる価値のある人生を生きたという充足感があった。
――それでも。
(まだ、だ)
この見世物のような戦いで倒れるわけにはいかなかった。この悪趣味なショーにナドアの民はこぞって集まりはじめていた。彼らに正義がないわけではなかったが、悪評高いネイロパの付き人がひどい目に合うことには何がしかの正当性があると考えていた。
この状況はジヴに奴隷だった頃を思い出させた。
こうして獣と奴隷を戦わせる見世物なら南部では珍しくはなかった。残虐な金持ちどもの慰み者にされるのはごめんだ。犬に引き裂かれた奴隷の死体は堆肥溜めに投げ捨てられてそれまでだ。
「犬ども。殺すなら殺してみやがれ! 両手両足をもがれても、いや、たとえ死体になっても、おまえらを噛み殺してやる!」
服も皮膚もぼろぼろのジヴが絶叫した。呪いと言ってもいい言葉を吐き出した時、自分が何者かわかった気がした。
倒れるまで戦い続ける、それが自分だ。ガラッドなら土下座してでも許しを乞うだろう。それがあの人の強さなら、ジヴの強さは別のところにある。奴隷の命は脳や心臓にあるわけじゃない。
――労働と闘争とで傷ついたこの拳が。
(これが僕の命だ)
「そこまでだ!」
レイゼルが命じた。犬たちは流れるように引き下がる。
そこに立っているのは巨大な歯車に巻き込まれたような、ひとりの人間だったものの成れの果て。かろうじて立っているのが奇跡と言ってもいい。
「なぜ、腰のナイフを抜かなかった?」
レイゼルが怪訝な顔つきで訊く。
「信用できるのは拳《こいつ》だけなんだ」
強がってら、とジヴは思う。確かにそうだ。なぜ、ナイフであの犬どもを切り裂かなかったのか。そうすれば自分が倒れても,二、三頭なら道連れにできたに違いない。
――おまえはワンコロを殺そうとしたから嫌いなんだよね。
ジヴの耳の奥に小石のように残る少年の声。
(まさか、冗談だろ)
ウェスの言葉がジヴにナイフを使わせなかったのか。だとしたら、ヤキが回ったとしか言いようがない。命のかかった局面、しかも天然の武器ともいえる鋭い牙で向かってくる相手に素手で立ち向かうとは。ガラッドが聞いたらさぞかし面白がるだろう。
「どうやら」とレイゼルは言った。「遠間から矢で狙うだけの臆病者ではなさそうだ」
「あんたも、犬をけしかけて傍観決め込むだけの卑怯者じゃないだろ?」
満身創痍のくせにジヴはレイゼルを挑発した。
いつもの計算高いジヴではない。勝ち取ったなけなしの矜持を――いや、そんな立派なものではない。ただ、人間であること。たったそれだけを守るために戦ってきた、ひとりの男がそこにいた。
「こいよ。北の白狼」
「ああ、私も実は拳《コレ》が一番得意なんだ」
そう吐き捨てて、レイゼルは鞭と背に負った鉄斧をベルトごと外した。
小柄なジヴは息も絶え絶えで持ち前のスピードの半分は死んでいる。だが、気迫はレイゼルにも負けていない。
二人は相焦がれる恋人同士のように歩みより――そして真正面からの火花を散らすような打ち合いをはじめた。
「すげえ」スタンは瞬きもできず、呼吸も忘れた。
それはあまりに原始的な闘争の姿だった。血と汗は砂に吸い込まれていく。折れた歯は砂漠と同じく白く、もともとそこに属していたように見える。
レイゼルは両の腕でジヴを捕まえると連打を浴びることを意に介さず、みぞおちに強烈な膝蹴りを叩き込んだ。胃が裏返ったような衝撃を受けてジヴはうずくまり、パンと干し肉だったものを吐き出した。
うずくまったジヴは砂を投げつける。が、それは功を奏さない。
「愚かな。風向きを考えろ」
投げつけた砂はそのままジヴのもとへ吹き戻される。
しかし、それもジヴの計算通りだった。砂は目潰しではなく、自分の姿を隠すためのものだった。ジヴは派手に立てた砂煙に紛れてレイゼルの背後に回りこもうとする。足は死んでいるが、まさに獣のように這い回ることで、持ち前のスピードを取り戻す。
(背後から組み付いて締め落としてやる)
勝機が見えたとジヴが思ったのも束の間、振り向きざまの裏拳がジヴのこめかみに叩き込まれる。
(化け物め。動物じみた勘だ――)
脳震盪によって世界が傾いた。ブラックアウト寸前の奇妙にも美しいシュールな光景。ナドアの民のさんざめく声が聞こえる。まるでカーニヴァルだ。ジヴは前のめりに顔から砂に突っ込む。
「もう、やめておけ十分だ」
レイゼルはジヴを傲然と見下ろす。
(やめろ、そんなふうに見るんじゃねえ)
立ち上がり、ぶるぶると頭を振って、両手で頬を叩くと気休め程度意識がはっきりした。何発も殴られたまぶたがはれ上がってきて視界が急激に狭くなる。口の中は砂と血の味でいっぱいだ。
「負けねえ」ジヴはうわごとのように呟いた。
「これ以上やれば死ぬぞ」
「だったら?」
「なぜそこまで? あのガラッドという男のためか。奴が貴様に何をもたらした? 奴が王になったら何を成すというのだ?」
「ガラッドさんが王になったら……か。僕は大臣さ。ハーレムだって作る」
「下らぬな」
「――そして、すべての奴隷を解放する。こいつも下らないかい?」
レイゼルは初めて眼の前の男を見るような、そんな眼になった。
「貴様は元奴隷か」
「そうだ。歌を歌うのさ。昨日の痛みを忘れるため、今日の痛みをごまかすため、明日の痛みをやり過ごすため。歌は最高の鎮痛剤《ペインキラー》だ」
「その眼を知っているぞ。虐げられた者、それでも屈しない者。肌の色は違うが、同じ眼だ」
「なぜ元奴隷なんかが玉座を追うのかって思ってるな。鳥でも天使でもない。地上に縛られながら、あんなふうに自由なモノが他にあるか? 領地も国境線もおかまいなしにどこへでも行けるアレがおまえらにはどう見える?」
「……」
「さあ、続けようぜ。お客さん方、見世物が好きなら見ていけよ! 死ぬまで戦いを止めない奴隷に皆さん喝采を。それから知るがいい。おまえらとて……」とジヴは言いかけてやめる。
「まぁいい」そしてふてぶてしい態度で切ないメロディーをハミングをする。
ガラッドのような野太くよく響く声ではない、むしろ繊細でかすれがちで儚げな音色。それは何も語らない。求め続けた自由の他は。
「続けるというのなら、異存はない」レイゼルも覚悟を決めたようだ。殺す覚悟を。
悠然とレイゼルはジヴの髪をつかみ上げ、右手を振り上げる。ジヴは眼を閉じようともせず、薄ら笑いを浮かべている。
「やめろ!」
そこへ二人をまとめて轢き殺す勢いで光走船《ルカ》が割り込んでくる。もちろん乗っているのはウェスとスタン、それにラトナーカルだ。
まさに振り下ろされようとしていたレイゼルの拳は止まらず、身を乗り出したスタンの顔面をまともに殴りつける。ラトナがしがみついていたというのにスタンはゆうに2スローも吹っ飛んだ。
「邪魔をするな」とレイゼルが冷たい声音で言うが、内心はどうだかわからない。殺す覚悟を決めたからといって殺したいとは限らない。
「ここまでだ。子供も見ている前で凄惨な処刑を行うのかい?」
鼻血をぬぐいながらスタンは首を振った。
そうだ、やめときな、とクローパが口添えする。犬たちまでそれに賛同するように吠えるものだから、レイゼルも苦笑せざるを得ない。
「わかった。ここまでだ。だが、覚えておけ、奴隷だろうが王族だろうが、私の征く道を邪魔するのなら容赦はしない」
聞こえていたのかいないのか、ジヴは棒切れのように倒れて転がった。
ウェスは場をとりなすように手を振った。
何度も宙返りをするラトナのアクションも場を和ませる効果があった。たったそれだけで凄惨な私闘が、楽しい余興の出し物のように思えてくるから不思議だ。
子供たちが、声を上げ、飛び跳ねる。本当にサーカスか大道芸さながらの楽しさ。
「ちっ、やってらんねぇ。これじゃマジで見世物だぜ」
ジヴがそう言って仰向けになった時、ウェスが大道芸の興行主よろしく演説をぶった。
「犬を殺さなかった南の奴隷に皆さん拍手を。奴隷を殺さなかった北の領主に口笛を。そして盛大な喝采は、北と南をともに解き放つスタン・キュラムに。〈不可分の一者〉はすべてを生かし、そして殺す」
立ち去りかけたレイゼルも振り向いた。
続けてウェスは言った。
「こいつが王になれば、この国に貧乏くじを引くやつはいなくなる」
「やめろ、ウェス。滅多なことを言うんじゃねえ!」
スタンが必死に止めようとするがウェスの悪ノリは止まらない。
「だってさ、スタン、もしおまえが王様になったらそうするだろう?」
「ならねえよ、そんなもん」
「もしもの話さ」
「面白い……聞かせろ、本当におまえはそうするのか」
全身血だらけのジヴが言うのを黙殺することはできず、スタンは渋々答えた。
「かもな」とうとうスタンはそれを口にした。「……でも、奴隷を解放したとしても、王や貴族がいる限り、身分が残る。階級が残る。それじゃ面白くない」
「だとしたら?」とジヴ。
「だったらそれも無くそう。俺が王になったら、王家も領地もなくす、すべてを無くしたら最後に返上しようと思う。王の座を」
スタンは天より戴いたものを地に還す身振りをした。そしてジヴたちの血がしみ込んだ砂を握りしめるとそれを風に解き放った。
レイゼルが眼を剥いて詰め寄る。
「お前は三千年続いたシェストラ王国を終わらせようというのか」
それはあまりに子供じみた理想論に見えた。北の領主という地位を持っているレイゼルにはある意味挑戦的な意見でもあった。
「ああ、だから俺を王なんかにさせないでくれよな」
とスタンが弱気に漏らした時、またもやウェスが躍り出た。
「言祝《ことほ》げ、幕引きの王スタン・キュラムのいと短き御代を!」
それはローデファイ語での言挙げであった。
学んだばかりのナドアの聖句の韻律をとっさに応用し、自分の言葉に置き換えた、それは天才的な閃きの産物だった。
ウェスにしてみれば、かじったばかりの言語の知識をちょっとばかり披露してみたかっただけだったかもしれない。ナドアの民には耳に馴染んだリズムであり、心地よさとともに言葉は細胞に染み渡った。
クローパが言うように声に、文字に、言葉に、言霊というものが宿るなら、そこにはそれがあった。空気を震わせ、意味を、そして意味さえ超えたものを伝達する力。
ウェスはウェス自身が信じていなかった力を実感した。
そう、ほんのちょっとばかりの出来心。いつもの遊びの一環だったに違いない。
しかし、この時ばかりは、それは――あまりにも絶大な効果を及ぼしたのだった。
――言祝《ことほ》げ、幕引きの王スタン・キュラムのいと短き御代を!
ナドアの民が一斉に唱和したのだ。まるで地鳴りのように。
「言祝《ことほ》げ、幕引きの王スタン・キュラムのいと短き御代を!」
ウェスは繰り返した。
さっきより強く、激しくアジテートする。
――言祝《ことほ》げ、幕引きの王スタン・キュラムのいと短き御代を!
ウェスは恭しくスタンに跪く。
するとなんでも真似するラトナーカルが同じ格好をしてみせた。
次には、ラトナーカルのことが大好きな子供たちが同じ仕草を模倣した。
さらに続いたのはナドアの女。異言使いの巫女たちは半ばトランス状態になる。
そして、ついには残るナドアの民が引き込まれるように膝をついた。
――言祝《ことほ》げ、幕引きの王スタン・キュラムのいと短き御代を!
波が引くように――あるいは押し寄せるように?――ナドアの民すべてがスタンに拝跪したのだった。
芝居がかった悪ふざけにすぎなかったものが、次第に厳粛なムードを帯びていく。まるでそれは真実の王の戴冠の儀のようにすら見えた。
――言祝《ことほ》げ、幕引きの王スタン・キュラムのいと短き御代を!
野営地において、レイゼルとジヴ、そしてネイロパだけが、それに加わらなかった。
後にダーシュワイはこう語ることになる。
「ありゃなんだったんだろうな。まるで磁石に吸い寄せられるみたいに勝手に体が動いたんだ。あのガキが、スタンのやつが、この命をまるごと賭けて忠誠を尽くすべき相手みたいに思えたんだ。嘘じゃないぜ」
その時、クローパは涙を流しながら、息子に言った。
「おまえは担ぎ上げる人間を間違えたね。本当に本当にバカな息子さ」
ジヴは抜けるような空を見上げながら語りかける。
「ガラッドさん、やってられません、レイゼルとの命がけの喧嘩がただの前座にされちまった。あのガキどもときたら、あんたでも飼い慣らせないよ」
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