67 / 91
華は根に、鳥は古巣に帰る
67
しおりを挟む
後宮の中庭。
霧雨の降りしきる中、美琳は青い葉をつけた一本の桃の木を見上げていた。すると息せき切った声に後ろから呼ばれる。
「はぁ、こちらに、はぁ、いらしたのですね。美琳様」
「……静端」
生気のない顔で静端に振り向く美琳。その姿からはゾッとする寒さが漂い、一瞬、静端の足を竦ませた。が、すぐに気を取り戻すと美琳の隣に立つ。
「夜風はお体に良くありません。こちらをお召しください」
と言って静端が美琳の肩に上着を掛けようとする。しかし彼女は身を捩って拒絶した。
「いらないわ」
「そんな訳には「いいの」
美琳はじっと静端の目を見据える。
「貴女も気づいているんでしょう? この体には何も起こらないのを」
刹那、静端の顔に沈痛な表情が見え隠れする。それに対し、美琳はフッと笑みを零す。
「そうよね、そういう反応が正しいのよね。文生も本当は気味悪がっていたってことよね……」
「……それとこれとは別でございます。后である美琳様がそのような薄着で過ごすのは「后?」
美琳は一笑する。
「そんなの……もうどうだっていいわ。文生が私を裏切ったんだから。私だって文生のために頑張るのは止める」
「そのようなこと、仰らないでくださいませ。王の御立場もお考えくだされば……」
「じゃあ私が悪いって言うの⁈」
「ッ!」
金切り声で叫ぶ美琳に、静端の息が詰まる。
「后になるまでは待ってくれたのに! 何十年でも愛すって言ったのに!」
美琳の顔を大粒の涙が伝っていく。
「長い? たったの五年じゃない! それすら待てないなら初めから言わないでよ‼」
静端の耳を美琳の絶叫がつんざいた。
不意に雨足が強くなり始めた。木々は風に揺さぶられ、頼りにしていた月明かりは雲に覆われる。闇夜に覆われた静端の目には何も見えなくなる…………はずなのに。
美琳の姿だけは仄かに光って見えた。彼女の、月光を吸い込んだようなその佇まいには神々しさがあり、また同時に、今すぐにでも消えていきそうな危うさもあった。
「美琳様……」
静端の睫毛を雨粒が滴り落ちる。それを彼女は袖で拭うと、持ってきた上着を腕に掛け、美琳の真っ青な手を手繰り寄せる。
「美琳様。美琳様。こちらを見てくださいませ」
「…………」
その呼びかけに美琳は応えない。次第に美琳の手から体温が奪われていく。
「せめて、お耳だけ貸してください」
静端は温めるように彼女の手を摩る。
「人の一生というのは短いのですよ、美琳様。貴女様はおそらく……長く、永く、生きてこられたのですね。故に私共の感覚を理解することが出来ないのでございましょう?」
「…………」
「けれど、それは私たち人間同士でもよく起こることなんでございますよ」
「……それって?」
ここにきてやっと美琳は返事をする。すると静端は慈愛に満ちた笑みで美琳を見つめる。
「共感のことでございますよ」
「共感……」
「ええ、共感です。私はありきたりなことしか言えませんが……」
美琳も静端を見つめ返す。
「人は、真に他者を知ることは出来ないのです。心の内を覗き見ることは不可能ですからね」
「心の……内……」
「美琳様も、私が今何を考えながら話しているのか分からないでしょう?」
「うん…………なんて考えているの?」
「〝腰痛にこの雨は堪える〟ですわ」
「!」
一瞬、美琳は目を見開く。が、すぐに小さく笑う。
「ふふ……そんな真面目に話しているのに?」
静端の目にも笑い皺が浮かぶ。
「ね? 聞いてみないと分からないものでございましょう?」
「……あ」
美琳は震える右手で口を押さえる。静端は両手で彼女の左手を握り直した。
「時として人は、言っていることと、思っていることが違うというのが起こり得る生き物です。王も、御心では思っていることは異なるのかもしれません」
「ッ……! じゃあ文生も「されど」
動き出そうとした美琳を、静端が強い力で引き留める。
「言った言葉が事実であるのも、また人間なのです」
「それは、どういう……」
「そのままの意味ですよ。言わなかった感情は、共感してもらおうと思っていないものなのです。それについて……他人は簡単には触れてはいけないんですよ」
美琳の頬を雨粒が叩く。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「そうですね……それは誰しも悩んでいることなんじゃないでしょうか? 自分はこれを聞きたい。けれど相手に訊ねてもいいのか。どこまで踏み込んでいいのか。その言葉の裏に何かあるんじゃないのか? そんなことを思い悩みながら人と接していくんだと思います」
静端の皺の目立つ手が美琳のシミ一つない頬に触れる。
「それは美琳様も分かっていらっしゃるのではありませんか? でなければ、戦場であのように称賛されることはないと私は思いますが」
美琳は頬に添えられている手にすり寄る。
「……文生ならどうするのかな、って考えてしてたの」
「そうでございましたか。とても素晴らしい心掛けでございましたね」
「でも「それで良いのでございます」
にこ、と静端が微笑む。
「誰かのためを思ってすることは悪ではございません。そうやって相手の気持ちを想像して、何か行動することで、相手からも何かしらの反応をいただけるのです。そうしてこちらも相手の気持ちを推し量るのです」
二度、美琳は瞬く。
「たしかに王はお変わりになられました。けれどそれは、一心に民と……美琳様のことを想ってのことだと私は思っています」
「……!」
「戦の折に美琳様がいないという理由で王としての職務を蔑ろにしてしまっては、貴女様が非難の的になったことでしょう。それだけは避けたかったのでございましょう」
「そう、なのね……文生……ごめんなさい……文生」
ぽろぽろと零れた美琳の涙は、雨に混じって溶けていく。静端はその涙を指で拭いてやる。
「……さあ。そろそろ戻りましょう。謝罪の言葉は王に仰らなければ意味はありませんよ。それに……美琳様は大丈夫でも、私が風邪を引いてしまいますわ」
そう言って静端は美琳の肩を抱く。
「ふふ。そうね、それはいけないわね」
美琳は彼女の手にそっと手を重ねると、後宮へと足を向けた。
連れ添って歩く二人。彼女たちは共に穏やかな表情をしていた。
だが静端は一人別のことに思い馳せていた。
(王の御心に美琳様への愛情があることは間違いないでしょう。けれどあれは……御尊顔に手を上げてしまったことは、王でも庇い立て出来ないでしょう)
静端は美琳の肩を摩る。
(本来なら極刑にされる行い。絞首刑にされてもおかしくありませんが……死なぬ体の貴女様にどんな刑が言い渡されるのか)
ぶるり、と静端は身震いするのであった。
霧雨の降りしきる中、美琳は青い葉をつけた一本の桃の木を見上げていた。すると息せき切った声に後ろから呼ばれる。
「はぁ、こちらに、はぁ、いらしたのですね。美琳様」
「……静端」
生気のない顔で静端に振り向く美琳。その姿からはゾッとする寒さが漂い、一瞬、静端の足を竦ませた。が、すぐに気を取り戻すと美琳の隣に立つ。
「夜風はお体に良くありません。こちらをお召しください」
と言って静端が美琳の肩に上着を掛けようとする。しかし彼女は身を捩って拒絶した。
「いらないわ」
「そんな訳には「いいの」
美琳はじっと静端の目を見据える。
「貴女も気づいているんでしょう? この体には何も起こらないのを」
刹那、静端の顔に沈痛な表情が見え隠れする。それに対し、美琳はフッと笑みを零す。
「そうよね、そういう反応が正しいのよね。文生も本当は気味悪がっていたってことよね……」
「……それとこれとは別でございます。后である美琳様がそのような薄着で過ごすのは「后?」
美琳は一笑する。
「そんなの……もうどうだっていいわ。文生が私を裏切ったんだから。私だって文生のために頑張るのは止める」
「そのようなこと、仰らないでくださいませ。王の御立場もお考えくだされば……」
「じゃあ私が悪いって言うの⁈」
「ッ!」
金切り声で叫ぶ美琳に、静端の息が詰まる。
「后になるまでは待ってくれたのに! 何十年でも愛すって言ったのに!」
美琳の顔を大粒の涙が伝っていく。
「長い? たったの五年じゃない! それすら待てないなら初めから言わないでよ‼」
静端の耳を美琳の絶叫がつんざいた。
不意に雨足が強くなり始めた。木々は風に揺さぶられ、頼りにしていた月明かりは雲に覆われる。闇夜に覆われた静端の目には何も見えなくなる…………はずなのに。
美琳の姿だけは仄かに光って見えた。彼女の、月光を吸い込んだようなその佇まいには神々しさがあり、また同時に、今すぐにでも消えていきそうな危うさもあった。
「美琳様……」
静端の睫毛を雨粒が滴り落ちる。それを彼女は袖で拭うと、持ってきた上着を腕に掛け、美琳の真っ青な手を手繰り寄せる。
「美琳様。美琳様。こちらを見てくださいませ」
「…………」
その呼びかけに美琳は応えない。次第に美琳の手から体温が奪われていく。
「せめて、お耳だけ貸してください」
静端は温めるように彼女の手を摩る。
「人の一生というのは短いのですよ、美琳様。貴女様はおそらく……長く、永く、生きてこられたのですね。故に私共の感覚を理解することが出来ないのでございましょう?」
「…………」
「けれど、それは私たち人間同士でもよく起こることなんでございますよ」
「……それって?」
ここにきてやっと美琳は返事をする。すると静端は慈愛に満ちた笑みで美琳を見つめる。
「共感のことでございますよ」
「共感……」
「ええ、共感です。私はありきたりなことしか言えませんが……」
美琳も静端を見つめ返す。
「人は、真に他者を知ることは出来ないのです。心の内を覗き見ることは不可能ですからね」
「心の……内……」
「美琳様も、私が今何を考えながら話しているのか分からないでしょう?」
「うん…………なんて考えているの?」
「〝腰痛にこの雨は堪える〟ですわ」
「!」
一瞬、美琳は目を見開く。が、すぐに小さく笑う。
「ふふ……そんな真面目に話しているのに?」
静端の目にも笑い皺が浮かぶ。
「ね? 聞いてみないと分からないものでございましょう?」
「……あ」
美琳は震える右手で口を押さえる。静端は両手で彼女の左手を握り直した。
「時として人は、言っていることと、思っていることが違うというのが起こり得る生き物です。王も、御心では思っていることは異なるのかもしれません」
「ッ……! じゃあ文生も「されど」
動き出そうとした美琳を、静端が強い力で引き留める。
「言った言葉が事実であるのも、また人間なのです」
「それは、どういう……」
「そのままの意味ですよ。言わなかった感情は、共感してもらおうと思っていないものなのです。それについて……他人は簡単には触れてはいけないんですよ」
美琳の頬を雨粒が叩く。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「そうですね……それは誰しも悩んでいることなんじゃないでしょうか? 自分はこれを聞きたい。けれど相手に訊ねてもいいのか。どこまで踏み込んでいいのか。その言葉の裏に何かあるんじゃないのか? そんなことを思い悩みながら人と接していくんだと思います」
静端の皺の目立つ手が美琳のシミ一つない頬に触れる。
「それは美琳様も分かっていらっしゃるのではありませんか? でなければ、戦場であのように称賛されることはないと私は思いますが」
美琳は頬に添えられている手にすり寄る。
「……文生ならどうするのかな、って考えてしてたの」
「そうでございましたか。とても素晴らしい心掛けでございましたね」
「でも「それで良いのでございます」
にこ、と静端が微笑む。
「誰かのためを思ってすることは悪ではございません。そうやって相手の気持ちを想像して、何か行動することで、相手からも何かしらの反応をいただけるのです。そうしてこちらも相手の気持ちを推し量るのです」
二度、美琳は瞬く。
「たしかに王はお変わりになられました。けれどそれは、一心に民と……美琳様のことを想ってのことだと私は思っています」
「……!」
「戦の折に美琳様がいないという理由で王としての職務を蔑ろにしてしまっては、貴女様が非難の的になったことでしょう。それだけは避けたかったのでございましょう」
「そう、なのね……文生……ごめんなさい……文生」
ぽろぽろと零れた美琳の涙は、雨に混じって溶けていく。静端はその涙を指で拭いてやる。
「……さあ。そろそろ戻りましょう。謝罪の言葉は王に仰らなければ意味はありませんよ。それに……美琳様は大丈夫でも、私が風邪を引いてしまいますわ」
そう言って静端は美琳の肩を抱く。
「ふふ。そうね、それはいけないわね」
美琳は彼女の手にそっと手を重ねると、後宮へと足を向けた。
連れ添って歩く二人。彼女たちは共に穏やかな表情をしていた。
だが静端は一人別のことに思い馳せていた。
(王の御心に美琳様への愛情があることは間違いないでしょう。けれどあれは……御尊顔に手を上げてしまったことは、王でも庇い立て出来ないでしょう)
静端は美琳の肩を摩る。
(本来なら極刑にされる行い。絞首刑にされてもおかしくありませんが……死なぬ体の貴女様にどんな刑が言い渡されるのか)
ぶるり、と静端は身震いするのであった。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
30歳処女、不老不死になりました
折原さゆみ
ライト文芸
女性は、30歳の誕生日を迎えるまでに男性との性行為がなければ、不老不死の身体へと変化する。下腹部に不老不死となった証として、深紅の文様が浮かび上がる。それ以降、不老不死となった女性は、その姿から老化することはない。致命傷の怪我や病気にかかって死ぬことはない。自殺しようと試みても、失敗する。
不老不死からの解放の条件は一つだけ。異性との性交渉。つまり、一度でも性行為をすることで、下腹部の文様は消え、そこからは通常の体質に戻ることができる。
栄枝実乃梨(さかえみのり)は、不老不死となった。30歳を越え、すでに100歳を越得ても、30歳の姿を保ったまま生き続けている。
あるとき、不老不死の女性を標的とした連続殺人事件が起こる。実乃梨も不老不死のため、標的となることは確実だった。そのため、会社から護衛をつけるよう言い渡される。
そこから、実乃梨の平穏で退屈な人生が変わり始める。
犯人との邂逅で、実乃梨は不老不死の抱える問題に直面するが、彼女はどうやってその問題を解決するのだろうか。
※エブリスタでも投稿中です。
ダレカノセカイ
MY
ファンタジー
新道千。高校2年生。
次に目を覚ますとそこは――。
この物語は俺が元いた居場所……いや元いた世界へ帰る為の戦いから始まる話である。
――――――――――――――――――
ご感想などありましたら、お待ちしております(^^)
by MY
とべない天狗とひなの旅
ちはやれいめい
歴史・時代
人間嫌いで悪行の限りを尽してきた天狗、フェノエレーゼ。
主君サルタヒコの怒りを買い、翼を封じられ人里に落とされてしまう。
「心から人間に寄り添い助けろ。これ以上悪さをすると天狗に戻れなくなるぞ」
とべなくなったフェノエレーゼの事情を知って、人里の童女ヒナが、旅についてきた。
人間嫌いの偏屈天狗と、天真爛漫な幼女。
翼を取り戻すため善行を積む旅、はじまりはじまり。
絵・文 ちはやれいめい
https://mypage.syosetu.com/487329/
フェノエレーゼデザイン トトさん
https://mypage.syosetu.com/432625/
【連載版】婚約破棄ならお早めに
ひよこ1号
恋愛
学園に入学したら婚約者の王太子に「真実の愛」が現れた!待ってましたわ!でも待って?証拠を集めてからじゃないと動けませんわよね?我慢我慢。そして、1年。やっと、やっと開放される日が来ましたわー! という公爵令嬢オリゼーの奮闘。そして、婚約者達を蔑ろにした男達の転落人生。※自業自得のざまあ成分多めの為、苦手な方はお気をつけて!※視点変更あるので、嫌いな方はお気をつけて!※短編版に加筆したのが1話と2話で、新規は3話目からです。※15話完結です(番外編は蛇足&オマケ)
【完結済】病弱な姉に婚約者を寝取られたので、我慢するのをやめる事にしました。
夜乃トバリ
恋愛
シシュリカ・レーンには姉がいる。儚げで美しい姉――病弱で、家族に愛される姉、使用人に慕われる聖女のような姉がいる――。
優しい優しいエウリカは、私が家族に可愛がられそうになるとすぐに体調を崩す。
今までは、気のせいだと思っていた。あんな場面を見るまでは……。
※他の作品と書き方が違います※
『メリヌの結末』と言う、おまけの話(補足)を追加しました。この後、当日中に『レウリオ』を投稿予定です。一時的に完結から外れますが、本日中に完結設定に戻します。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる