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二羽は木陰で羽を休める
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満月が中天に昇る。
闇夜は朧に照らされて、都城は眠りに落ちていく。喧騒は夢へと溶けていき、後に残るは静寂ばかりである。
けれど王宮だけは、まだ爛々と目を輝かせていた。
後宮への輿入れを終えた美琳は、寝間着を身に着け、松明の灯された寝室で床に座っていた。
丁寧に仕立てられた紅い絹の寝間着は柔らかく肌に吸い付くようである。
同じ絹織物でも、輿入れで何重にも重ね着させられたものは重さしか感じなかった。反してそれは、優しく美琳の体を包んでくれた。
一方木製の床は、美琳の体をしっかりと受け止めていた。麻の敷き布と違って肌の温もりを逃さず、底冷えする床から体温を奪われるのを妨げてくれた。
美琳は部屋の中をきょろきょろと見回し、そわそわと落ち着きがない。
村では勿論、兵舎でも見たことのないものが部屋に溢れている。
きっと今のこの贅沢な状況は誰もが羨むだろう。だのに、美琳はどことなく居心地の悪さが感ぜられた。
「美琳様。失礼致します」
「あッ、はい!」
部屋の間仕切り布の向こうから声を掛けられる。
布が捲られると、小綺麗な身なりの三十中頃の女性が現れた。
「お初にお目にかかります。静端と申します。これから美琳様の部屋付きとなりますので、以後お見知りおきくださいませ」
静端は胸の前で拱手をすると、軽く膝を曲げて俯く。
それに対して美琳はどう返せば正解なのか分からなかった。
「えっと、分かりました……?」
と、尋ねるように返すことしか出来なかった。
静端は、にこ、と微笑んで美琳の言葉を受け流し、そのまま彼女の傍に寄って囁く。
「美琳様、本日はこちらに御渡りになるとのことでございます」
「おわたり……?」
つと、美琳の目が上を向く。そしてそのまま黒目が泳ぎ出す。
「王が美琳様の部屋へいらっしゃる、という意味でございますよ」
静端は丁寧に言葉の意味を教える。その言にはかすかに嘲りの響きが含まれている気がした。
「それって……!」
だが美琳はそんなことを気に留めない。
ぱぁッと顔を明るくして期待に胸を膨らませる。と、部屋の外から“御渡りでございます”と聞こえてきた。
「それでは美琳様。王がいらした後、私は裏に控えさせていただきます。何かございましたらお呼びください」
静端が部屋の隅をちらりと振り返る。
「え……?」
「私含め、侍女たちはすべて記録しております。くれぐれも、言動にはお気を付けくださいませ」
そう言った静端は、物音一つ立てずに美琳の後ろに移動する。そして戸口に向かって頭を垂れ、拱手の姿勢で訪問者を待つのであった。
部屋に繋がる間仕切り布が、丁寧に、丁寧に、捲り上げられる。
これから通る人物に布が触れてしまわぬよう、限界まで持ち上げるために。
来訪を告げるその物音に美琳は顔を向ける。
視線の先には数人の侍女と、黄色の寝間着を着た文生がいた。
輪の中心にいる彼は緊張した面持ちだ。それでいて、喜びを隠そうと口を噛み締めているのが窺えた。
「ウェンッ……!」
美琳は満面の笑顔で声を零した。が、すぐに噤んで立ち上がり、床に膝を突ける。
そして顔の前でぎこちない拱手をしつつ、腰を折って頭を垂れる。じっと床を見つめて、侍女たちがその場を離れていく音に耳をそばだてた。
付き従っていた侍女たちは静端と同じように、するすると流れるような衣擦れの音だけを残して去っていった。
やっと二人だけの空間となった。
美琳はそれを感じたが、辞儀を崩すことをしない。
“――――王からの御許しをいただくまで顔を上げてはいけません”
そう浩源から厳しく躾けられた。
“王とは軽々しく話しかけてはいけない御方なのです。私たちが話すに値する存在である、と様々な形式を経て証明しないといけないんですよ”
浩源は優しい声色で続けた。
“でも貴女ならきっとすぐに…………”
「面を上げよ」
文生の声に美琳は勢いよく顔を上げる。
刹那、二人の目線が絡まり交錯する。
報告会から一か月。離別してから二年と数か月。
やっと……二人は本当の再会を果たせた。
美琳は喜びのあまり文生に飛びつこうと両腕を広げた。
少女の無邪気な笑顔は、王の仮面を被った文生を解きほぐす。
文生も彼女の抱擁に応えようと両腕を広げた。が、不意に動きが止まり、美琳の両手はやり場を失う。
「……文生?」
美琳は怪訝そうに文生を見上げる。
「えっと、その……」
口籠りながら文生は美琳から目を逸らす。正確に言えば、美琳の体から。
美琳は小首を傾げて文生の言葉を待つ。その姿は小鳥の姿を想起させ、彼女の瞳は愛らしく瞬いていた。
ごくり、と文生は生唾を飲むと、美琳にバレないように横目で盗み見た。
美琳の黒く艶やかな髪は左肩で緩く結ばれていて、首の細さを際立たせている。
紅色で薄地の寝間着は、美琳の白く滑らかな肌をなぞって彼女の体を如実に描く。
未成熟な骨格はその時期特有の危うさがあり、けれどわずかに膨らんでいる女らしい肉付きは蠱惑的に文生の目を刺激した。
村での美琳、兵としての美琳。
そのどちらとも違っていて、それでいて初めて会った頃と変わらない見目。
その瑞々しい一輪の華に、文生は見惚れ、頬を赤く染めた。同時に美琳の中に遠い過去を見つけた。
「全部、君が頑張ってくれたおかげだよ。これからもよろしくね?」
文生が美琳の両手を握る。
「急にどうしたの?……でもそう言ってもらえて嬉しいわ!」
今度こそ美琳は文生の体に抱きつく。
すると寝間着に焚き染められた香の匂いが鼻を掠めた。
瞬間、文生の体温が一気に上がる。
以前よりも華奢になったように思える体。首筋をくすぐるように触れる髪の毛。背中に回る両腕の温かさ。
彼女のすべてが愛おしさに包まれていた。
文生は力強く抱き締め返すと、そのままゆっくりと床へ押し倒すのであった。
闇夜は朧に照らされて、都城は眠りに落ちていく。喧騒は夢へと溶けていき、後に残るは静寂ばかりである。
けれど王宮だけは、まだ爛々と目を輝かせていた。
後宮への輿入れを終えた美琳は、寝間着を身に着け、松明の灯された寝室で床に座っていた。
丁寧に仕立てられた紅い絹の寝間着は柔らかく肌に吸い付くようである。
同じ絹織物でも、輿入れで何重にも重ね着させられたものは重さしか感じなかった。反してそれは、優しく美琳の体を包んでくれた。
一方木製の床は、美琳の体をしっかりと受け止めていた。麻の敷き布と違って肌の温もりを逃さず、底冷えする床から体温を奪われるのを妨げてくれた。
美琳は部屋の中をきょろきょろと見回し、そわそわと落ち着きがない。
村では勿論、兵舎でも見たことのないものが部屋に溢れている。
きっと今のこの贅沢な状況は誰もが羨むだろう。だのに、美琳はどことなく居心地の悪さが感ぜられた。
「美琳様。失礼致します」
「あッ、はい!」
部屋の間仕切り布の向こうから声を掛けられる。
布が捲られると、小綺麗な身なりの三十中頃の女性が現れた。
「お初にお目にかかります。静端と申します。これから美琳様の部屋付きとなりますので、以後お見知りおきくださいませ」
静端は胸の前で拱手をすると、軽く膝を曲げて俯く。
それに対して美琳はどう返せば正解なのか分からなかった。
「えっと、分かりました……?」
と、尋ねるように返すことしか出来なかった。
静端は、にこ、と微笑んで美琳の言葉を受け流し、そのまま彼女の傍に寄って囁く。
「美琳様、本日はこちらに御渡りになるとのことでございます」
「おわたり……?」
つと、美琳の目が上を向く。そしてそのまま黒目が泳ぎ出す。
「王が美琳様の部屋へいらっしゃる、という意味でございますよ」
静端は丁寧に言葉の意味を教える。その言にはかすかに嘲りの響きが含まれている気がした。
「それって……!」
だが美琳はそんなことを気に留めない。
ぱぁッと顔を明るくして期待に胸を膨らませる。と、部屋の外から“御渡りでございます”と聞こえてきた。
「それでは美琳様。王がいらした後、私は裏に控えさせていただきます。何かございましたらお呼びください」
静端が部屋の隅をちらりと振り返る。
「え……?」
「私含め、侍女たちはすべて記録しております。くれぐれも、言動にはお気を付けくださいませ」
そう言った静端は、物音一つ立てずに美琳の後ろに移動する。そして戸口に向かって頭を垂れ、拱手の姿勢で訪問者を待つのであった。
部屋に繋がる間仕切り布が、丁寧に、丁寧に、捲り上げられる。
これから通る人物に布が触れてしまわぬよう、限界まで持ち上げるために。
来訪を告げるその物音に美琳は顔を向ける。
視線の先には数人の侍女と、黄色の寝間着を着た文生がいた。
輪の中心にいる彼は緊張した面持ちだ。それでいて、喜びを隠そうと口を噛み締めているのが窺えた。
「ウェンッ……!」
美琳は満面の笑顔で声を零した。が、すぐに噤んで立ち上がり、床に膝を突ける。
そして顔の前でぎこちない拱手をしつつ、腰を折って頭を垂れる。じっと床を見つめて、侍女たちがその場を離れていく音に耳をそばだてた。
付き従っていた侍女たちは静端と同じように、するすると流れるような衣擦れの音だけを残して去っていった。
やっと二人だけの空間となった。
美琳はそれを感じたが、辞儀を崩すことをしない。
“――――王からの御許しをいただくまで顔を上げてはいけません”
そう浩源から厳しく躾けられた。
“王とは軽々しく話しかけてはいけない御方なのです。私たちが話すに値する存在である、と様々な形式を経て証明しないといけないんですよ”
浩源は優しい声色で続けた。
“でも貴女ならきっとすぐに…………”
「面を上げよ」
文生の声に美琳は勢いよく顔を上げる。
刹那、二人の目線が絡まり交錯する。
報告会から一か月。離別してから二年と数か月。
やっと……二人は本当の再会を果たせた。
美琳は喜びのあまり文生に飛びつこうと両腕を広げた。
少女の無邪気な笑顔は、王の仮面を被った文生を解きほぐす。
文生も彼女の抱擁に応えようと両腕を広げた。が、不意に動きが止まり、美琳の両手はやり場を失う。
「……文生?」
美琳は怪訝そうに文生を見上げる。
「えっと、その……」
口籠りながら文生は美琳から目を逸らす。正確に言えば、美琳の体から。
美琳は小首を傾げて文生の言葉を待つ。その姿は小鳥の姿を想起させ、彼女の瞳は愛らしく瞬いていた。
ごくり、と文生は生唾を飲むと、美琳にバレないように横目で盗み見た。
美琳の黒く艶やかな髪は左肩で緩く結ばれていて、首の細さを際立たせている。
紅色で薄地の寝間着は、美琳の白く滑らかな肌をなぞって彼女の体を如実に描く。
未成熟な骨格はその時期特有の危うさがあり、けれどわずかに膨らんでいる女らしい肉付きは蠱惑的に文生の目を刺激した。
村での美琳、兵としての美琳。
そのどちらとも違っていて、それでいて初めて会った頃と変わらない見目。
その瑞々しい一輪の華に、文生は見惚れ、頬を赤く染めた。同時に美琳の中に遠い過去を見つけた。
「全部、君が頑張ってくれたおかげだよ。これからもよろしくね?」
文生が美琳の両手を握る。
「急にどうしたの?……でもそう言ってもらえて嬉しいわ!」
今度こそ美琳は文生の体に抱きつく。
すると寝間着に焚き染められた香の匂いが鼻を掠めた。
瞬間、文生の体温が一気に上がる。
以前よりも華奢になったように思える体。首筋をくすぐるように触れる髪の毛。背中に回る両腕の温かさ。
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