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本編

本編ー4

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『お前、今までモンスターと戦った経験あるか?』

 その言葉の本当の意味を理解した時には、焼け付くような痛みがミナギの脳を焼き、死の恐怖と絶望が体を縛り上げていた。

    ◇   ◆   ◇

 森の中を、ナギトが疾走する。背後に迫る複数の足音を聞きながら素早く木々の間をすり抜け、倒木を軽く飛び越え、片足で着地――すると同時、その場でくるり反転。

「オスクロ・フレチャ、っと」

 左手の親指と人差し指を伸ばし、銃を模して構えたナギトの声が響くと同時、ナギトの周囲に現れる数十本の黒い矢。それらは空を切り裂き的確に飛んで行く。
 自分達目掛けて飛来する黒い闇の矢を見て、瞬時に一本の大きな角と小さな二本の角の、合計三本の角を持った体長五十センチ程のクエルノ・ラビット角ウサギ達はダンッと強く地面を蹴り回避行動を取る。それぞれバラバラに、右に、左に、後ろに、真上に。同じ方向に跳んだら危ない。そう判断する知能はあるらしい。
 真っ直ぐ飛来する闇の矢を前に、クエルノ・ラビット達の回避行動は正しく見えた――が、闇の矢、オスクロ・フレチャを放ったナギトの顔に焦りの色はない。
 銃のように構えていた左手をぐっと顔の前で握り締め、パッと開く。
 すると、ナギトの手の動きに合わせ、放たれたオスクロ・フレチャは突如方向転換。真っ直ぐに飛んでいた筈が、散開したクエルノ・ラビット達を追って空中で急激に方向を変える。
 あ、と気付いた時には、クエルノ・ラビット達はそれぞれ数本のオスクロ・フレチャに貫かれ、絶命。貫かれた状態のまま、ドサドサと地面の上に落下。その数、四。

「よっし。ゆーづー、四体倒した。今ので合計何体行ったー?」
≪四体?じゃあ、全部で十二かな?≫
「クエストは十五体討伐だったか?んじゃ、後三体だな。解体して討伐証明のでかい角取るから、ゆづ達は周囲の警戒とついでの薬草採取しとけー?」

 はーい、とパルス・ウォークス越しに返されるユヅキの声を聞きながら、ナギトはレッグバッグの腰ベルトに取り付けていたホルダーから、モンスター解体用のダガーを取り出す。
 クエルノ・ラビットの前にしゃがむと、長く伸びたスカイグレーのナギトの髪が、身体の前に零れ落ちる。そのまま解体用ダガーを使っていたら、うっかり自分の髪まで切りそうで。チッとナギトが小さく舌打ちをしたのは、仕方ない。
 解体用ダガーを地面に突き刺し、大雑把に長く伸びた後ろ髪を纏め、レッグバッグタイプのアイテムバックから取り出したヘアゴムで結ぶ。
 雑に纏めたせいで、お世辞にも綺麗に纏まっているとは言い難いけれど、ナギトはそんな事を気にする男でもなく。戦う前に結っておけば良かったなんて、ため息を吐くだけ。
 気を取り直し、慣れた様子でさっさと解体していくナギトの耳に届く、ミナギの声。

≪ねぇ、ナギトさん。突っ込んだら負けだってオレもわかってんだけど、突っ込んでいい?≫
「ん、どーぞ」

 クエルノ・ラビットの解体を進めるナギトの耳に、パルス・ウォークス越しに響くミナギの声。
 それは物凄く苦々しい声で、今ミナギがどんな顔をしているのか、手に取るようにわかった。
 突っ込んだら負けだとわかっていても、どうしても突っ込まずにはいられない。そう言う気質なのは仕方ないが、苦労するタイプだとも思う。まあナギトからしてみれば、それが面白くて楽しいから良いのだけれど。

≪アンタって攻撃魔法士だったっけ?≫
「いや?魔法剣士」
≪その割にはアンタ、この討伐クエスト始まってから一回も剣使ってないよね≫
「クエルノ・ラビット程度にヴェルメリオ使うの勿体ないだろ」

 沈黙。ナギトの一言に返されるのは沈黙。と言うか、恐らく絶句。
 返す言葉を失い、ただただ沈黙するミナギは、きっと今頃頭を抱えている事だろう。色々言いたい事はあるけれど、でも上手く言えなくて。両手で頭を抱え、ガシガシと衝動に任せて掻き毟る。そんな状態。
 何も言えなくなったミナギの代わりに、話を聞いていたユヅキが声を立てて笑っているのが聞こえた。
 だがしかし、ミナギの言い分もわかる。Eランクの討伐クエスト、クエルノ・ラビット十五体の討伐が始まってから、まだ一度もナギトは自分の剣でもある魔剣の精霊、ヴェルメリオを使っていない。全て攻撃魔法だけで倒していて、ミナギが攻撃魔法士なのかと尋ねる気持ちも、わからなくもない。
 反面、クエルノ・ラビットにヴェルメリオを使うのが勿体ないと言うナギトの言い分も、わかるわけで。
 ミナギだって、もし自分がヴェルメリオを使って戦う魔法剣士で、攻撃魔法も使えて、クエルノ・ラビットと戦う事があったとして。ヴェルメリオを使うかと訊かれたら、返事に窮する。
 使うのが勿体ないと言うよりも、その程度のモンスターに使いたくないと言うのが正直な本音。

≪ってかそれよりっ!!さっきの何?!≫

 話題が変わった。返す言葉を失くしたせいか、ミナギが急に話題を変えて来た。
 それに自然とナギトの片方の口角が上がってしまうのは、仕方ない。もし今のナギトの笑顔をミナギが見れば、性格が悪いだのなんだのと言っているところだが、幸か不幸か近くにミナギは居ない。
 楽しそうに意地悪な笑みを浮かべながら、解体を進めて行く。

「さっきのってなーにー」
≪さっきのはさっきの!オスクロ・フレチャって、闇の矢でしょ?!オレ、『真っ直ぐ飛ぶ六本前後の闇の矢』って闇魔法関連の本で見たんだけど!ナギトさんのは本数もおかしいし、途中で軌道変更してたよね?!そんな事出来るの!?≫
「出来るから出来る。教科書とか本に載ってるのは、あくまでも基礎的な使い方だ。慣れればフレチャの数は増える。軌道変更は……うちの親父の特技だな」

 内心、ミナギの驚き方が新鮮だと思うのはここだけの話。昔はナギトも今のミナギのように、あれこれと驚いていた気もするが、もうどうだったか覚えていない。
 鮮明に覚えているのは、どちらかと言えば魔法の事よりもユヅキに関わる事だった。多分。

 初めてユヅキが精霊術を使ったのは、ユヅキが二歳、ナギトが五歳の事。
 公園の砂場で遊んでいる時、突然ユヅキが歌い始めて――今思えばそれは、精霊の言葉を話している時だとわかるが、当時は何事かと驚いたものだ。瞬く間に出来上がる精巧な砂の家は、芸術と言っても過言ではないレベルだった。

 もう十数年も前の話なのに、あの時どんな天気で自分達がどんな服装だったかはっきり覚えている。
 自分の両親やユヅキの両親から聞いた限りだと、それ以前から、たまに一人できゃっきゃと笑ったり、泣いていても機嫌が良くなったり、何かをじっと見つめていたり、捕まえようとしていたりと、不思議な言動は多かったらしい。
 今になってみれば、未契約の精霊に話しかけられ、ご機嫌を取られ、その姿を目で追い捕まえようとしていたのだと、説明がつくけれど。

≪ナギトパパね、魔法を飛ばした後にえいって動かすの得意なんだよ≫
≪えぇ……?どうやってんの…?オレあんなの見たの初めてなんだけど……≫
≪うーんとねぇ……。ナギトパパは、『ぎゅっとしてパッとやったらパーッとなって、ぐるっとやったらぐいーって行ける』って言ってたよ≫
≪説明ヘタ過ぎか?≫

 ナギトが幼い頃の記憶を思い出している間に、ユヅキが魔法の軌道変更に関してナギトの父親がどう語っていたか説明してくれていた。まあ説明とは言っても、説明のせの字にもならない超感覚的な話だったけれど。
 失礼な物言いではあるけれど、思わずミナギがそう言ってしまう気持ちもわかる。
 息子であるナギトだって、実際にあの説明を聞いた時に同じセリフを父親に対して言っていたから。思い切り顔を顰めながら。

「親父はそう言う意味では天才だよ、才能がある。難しい魔法も、魔法の軌道変更も、『なんとなくこうしたら出来るかなと思った』なんて感覚で出来るタイプだからな。まっ、人に教えるのもハイパー天才的にヘタだったけどなっ!!」

 説明が下手過ぎてそれだけ苦労したかなんて、とても簡単には語り尽くせない。
 ついさっき簡単に使っていたオスクロ・フレチャだって、ナギトの父親はパパっとしてポイッとやればひゅーんて出るなんて語っていて、幼心にこれは駄目だと本気で呆れ、魔法の教本を読んで自力で覚えたくらいだ。
 父親が壊滅的な説明下手のせいで、人に説明する時はわかりやすく説明出来るようになろう、とナギトが考えるようになったきっかけでもある。
 考えるようになったからと言っても、実際に説明がわかりやすく出来るかどうかは、人によりけり。そう言う意味ではナギトは、父親には似なかった。幸運にも。

「結界術だって、何度も使って慣れてくもんなんじゃないのか?四角結界クアドリラテロ・バレッラは安定させんの難しいって言ってただろ」
≪それは……そう、だけど。流石に限度ってもんがあると思う。ナギトさんは数十本出してたじゃん≫
「文句はうちのパパとママに言ってー。アイツ等バチクソスパルタなんだもん。二歳の子どもにおもちゃがわりに木剣渡したくらいだぞ?魔法使えるってわかったらそりゃもー凄かった」

 魔法の扱い方を一歩間違えれば、魔法を使った本人やその周囲の人も危険に晒すからと、基礎中の基礎から両親に叩き込まれた。保有する魔法属性が闇だけだと知った後は、更に魔法の訓練のスパルタ具合は跳ね上がった。本当に、容赦のない人達だった。それだけ大事な訓練だった事は当然、ナギトもわかっているけれど。
 説明下手な父親のせいで、余計な労力がかかってしまったのは、今だから言える話か。
 そんな話をしている間にモンスターの解体を終わらせ、討伐証明であるクエルノ・ラビットの大きな角を、レッグバッグタイプのアイテムバックの中へ。
 討伐証明とは別に、クエルノ・ラビットの持つ小さな角も、アイテムバックの中へ入れて行く。素材として自分達で使ったり、購買で売ったりと、色々出来るから。

「解体終わった、そっちに行くから待ってろ」
≪はーい≫
≪薬草でも採取しながら待ってる≫

 ホルダーに解体用ダガーを戻し、立ち上がる。ついでに髪を纏めていたヘアゴムを外そうとして、手を止める。
 まだモンスターと戦う可能性がある事を考えれば、このままが良いか。
 だが流石に、そろそろ髪がうっとうしくなって来た。短くしたい。でもそれが出来るなら苦労しない。嗚呼もう鬱陶しいとため息を吐いて、ようやくナギトはユヅキ達と合流する為に歩き出す。
 正直な話、物足りない。この討伐クエストを受ける時、自分でもわかっていた事だけれど。どうせ戦うなら強力なモンスターと戦いたいと思ってしまうのは、ナギトも相応に強いからこそ。
 右手に、目を落とす。中指に着けたソキウスの指輪に意識を集中させれば、僅かに指輪が光る。その光は指輪からふわりと離れ、小さな鳥の姿となって、飛び始める。ナギトから見て斜め右を向いたまま。
 その方角に対となるソキウスの指輪を持つユヅキが居ると、示しているのだ。

「ちょっと強いモンスター出てこんかなー」
≪止めて、そう言う事言うとホントに出て来るんだから≫
「その時はゆづに守ってもらってー。ゆづ、お前ナイフ持って来てんだろ?」
≪うん!ある!スティレットとリング・ダガー二つ持ってる!≫
≪待って?なんでユヅキさん、三本もそんなん持ってんの?≫
≪「必要だから?」≫

 綺麗にナギトとユヅキの声が重なり異口同音。
 間髪入れずに返って来たその声に、ミナギはえぇ、と困惑するばかり。今日も本当に二人は仲が良い。幼馴染だとしても、ここまで綺麗に異口同音出来るものだろうか。否絶対、この二人が特殊なだけな気がする。

「うちのおかんの教育方針。『後衛でも接近戦に対応出来る実力つけとけ』ってな」
≪えぇ……?後衛なのに?≫

 ドン引きしながらミナギは語るが、ナギトやユヅキが語る理由は理に適っていた。
 前衛が全ての敵を防げる筈もなく、時には横や後ろから挟み撃ちをされる場合もある。その時、後衛の術師や魔法銃士だからと接近戦が出来なければ、魔法を使う暇なくただただやられるだけ。だからこそ、回避行動は大前提として、ある程度自分を守る為の対応力をつける必要――と言うのが、ナギトの母の言い分らしい。
 魔法剣士と魔法銃士のたった二人だけのパーティだからこそ、そう言う考えに至ったそうだ。

≪他の職業の人誘ったり、他のパーティに誘われたりしなかったの?≫
「めっちゃ誘われまくったらしいけど、断ったって。色々たいぎかったからって」
≪たいぎい……?この場合は、めんどくさい?≫
≪うん。二人が学園内でも有名だったし、そのパーティ入れば自分も有名になるだろーみたいな。後は、難しいクエスト報酬目当てとか?≫

 どこにでもそう言うせこい奴は居るものだ。
 特に学生時代なら、クエスト達成報酬は勿論だが、学園内での有名になるのは大きなメリットになる。実際ナギトとユヅキのパーティに加入した事で、一気にミナギは他の学科だけでなく、上級生達にも名前を知られるようになった。
 同じセニオル家の人間からは、更に風当たりと陰口が酷くなった。まあ、気にしていないけれど。
 とは言え、ナギトの両親も紆余曲折あって二人で組む事になったらしいが、話が長くなるそうなので、また今度と言われた。

「そろそろ合流するか、ら……あぁ?」

 ふいに、ナギトの声が途切れた。眉を顰め、森の中をぐるり見回す。
 完全にさっきの自分の言葉がきっかけになったとは思っていないが、嫌な予感がする。ざわざわと肌がざわついて、落ち着かない。
 この感覚を、よく知っている、ナギトは。幼い頃からスパルタで両親が受けたクエストに引き摺り回されていたからこそ、嫌と言う程に身に染みていた。無視をしては駄目だ、これだけは。
 息を浅く吸って、一気に吐く。この魔法は集中力が必要で疲れるが、使わない理由にはならない。

「オスクロ・ブスカル」

 小さい声で詠唱をした後片足を上げ、爪先でトンッとナギトが地面を蹴る。すると、その位置を中心として波紋の如く広がる、闇の捜索魔法。
 影響範囲は、パーティ専用アイテムの魔法道具、パルス・ウォークスの範囲外よりも広い、大体四〇〇から五〇〇メートル。
 ただし、日中である今は、影になっている範囲しか捜索出来ず、しかもあくまでも捜索魔法であり索敵魔法ではない為、日陰になっている部分に居る生物全てに反応してしまうところが困りものか。
 この場所が森の中で良かった。日影が多い。その分、生物の反応も多くて疲れるが。

「ゆづ、日陰に居るか?」
≪居る。ちょっと歩くね≫

 ナギトが発動した、闇の捜索魔法。その影響下の中に、とことこと歩く反応がある。ユヅキの反応はこれ、と記憶。日陰に居るかと訊いただけでユヅキが必要な行動をとったのは、ナギトが使った魔法、オスクロ・ブスカルがどんなものか、理解しているから。
 恐らくユヅキの傍にはアルバとセラータも居るのだろうが、精霊だからこそ、闇の捜索魔法ではわからない。
 精霊術に捜索魔法があったとして、精霊の位置も把握出来るのだろうか、なんて。仮にそうだとしたら、もっと集中力が必要になるし、疲れるだろうな、なんて。余計な事を考えてしまうのは、ナギトが研究者だから。

「ミナギ、お前は?俺のオスクロ・フレチャが見えたんなら、近いよな?」
≪え、もう移動したけど……。泉の近くの薬草?みたいなの、チビ達が教えてくれて……≫
「日陰に入れ!それならまだお前の位置がわかる!ゆづ!アルバと光の精霊をミナギのトコに!泉が近くにあるなら水の精霊にも頼め!」
≪ちょっと、何?もしかして、さっきアンタがちょっと強いモンスターが出て来ないかなとか言ったから来るとか言わないよね?!≫
「そうだったら一週間メシ奢る!」

 パーティを組んでから初めて聞く、緊迫感の強いナギトの声。流石に冗談を言ってる場合ではないと、ミナギも判断。
 すぐにナギトの言う日陰に移動しようと立ち上がりかけて、ぱしゃんっと水面が波立つ音に、中途半端な体勢で、動きを止めるミナギ。泉は、薬草採取をしていたミナギから見て、左斜め前、数メートル離れた位置にある。外周は、およそ二〇〇メートル程か。
 一瞬モンスターかもと緊張したミナギだが、杞憂に終わる。
 水面を波立たせたのは、精霊だった。恐らく、指示を受けたユヅキが呼んだ、目の前にある泉を司る水の精霊。
 人間で言えば大体一八歳くらいの見た目で、精霊に性別はないが、どちらかと言えば女性っぽく見える。穏やかな笑みを唇に乗せて、緩く癖の付いた短い髪が、まるで流水の如く揺れていた。
 ミナギと目が合うと、唇に乗せた笑みはそのままに、右手を胸に当て、緩やかに頭を下げて。昔絵本で見た、騎士の礼を彷彿とさせる姿だった。
 その他にも、数名の大小様々な水の精霊達が笑顔を見せたり、愛想良く手を振ったりと色々な姿をみせている。

「良かった、精霊か……」

 ホッと息を吐いた事で、数秒、ミナギの緊張と集中力が途切れた。
 結果的にそれは、周囲への警戒心も、途切れさせる事になって。たかが数秒、されど数秒。その数秒が、外壁に守られていない外での命取りになってしまう事を、ミナギはまだ知らなかった。
 モンスターに関する本を読んで、理解したつもりでいたけれど。あくまでも頭で理解したつもりで居て、本当の意味で理解していなかったのだと、痛感する。

 全身を燃やす、焼け付くような痛みと、眼前にまで迫った死をもって。

 途切れたミナギの緊張と集中力が戻ったのは、いつも傍に居る五人の小さな精霊達の内の一人、地の精霊が、目の前で何度もジャンプしながら両手を振っているのが見えた時だ。
 口をパクパクと開け閉めしているが、何も聞こえない。が、必死なその様子に、自分の置かれた状況を思い出す。
 ハッとミナギが周囲を見回した時にはもう、対処するには全てが遅かった。
 泉を司る水の精霊達が、即座に水を操って大きな水の球を作り出し、ミナギを包み込む。その表情は険しく、先程まで唇に乗せていた穏やかな笑みはない。

「え、な」

 何が起きて、と続く筈だったミナギの言葉は、背後から響いた咆哮に呑み込まれ、かき消された。
 身が竦みあがる鋭い咆哮に、弾かれたように振り返ったミナギは、見た。

 ギラリ、太陽の光を浴びて光る、何かを。

 それはミナギを護る為に泉の水の精霊達が作り出した水球を貫き、切り裂く。ほんの僅か、ミナギの左頬を浅く傷付けながら。
 傷としてはほんの数センチと浅く、放っておけばすぐに血が止まるくらいの切り傷。
 だが、傷を負った瞬間には鋭い痛みが走り、反射的にミナギは左手で傷口を押さえる。手の平に感じたぬるりと濡れた感触に、何が起こったのか頭で考える必要はなかった。モンスターだ。
 背後でズダンッと、重たい何かが着地する音が聞こえて。ビクッとミナギの方が跳ねたのは、恐怖から。血の気が下がる。息が上がる。ドクドクと心臓が早鐘を打つ。必死に息を整えようとして、でも難しくて、浅い呼吸を繰り返しながら振り返ったミナギは――見た。
 自分を守る水球で僅かに歪む視界で確かに、はっきりと。

 長い牙を剥き出しにして唸り声を上げる、獣型のモンスターの姿を。

 体長は大体二メートル前後。金に近い黄色の体毛を持ち、瞳は真紅。長さ三十センチ程の牙と、出したり引っ込めたり出来る、長く湾曲した黒いかぎ爪を持ち、ナギトが両腕で抱えられるかどうかと言う程がっしりとした体躯に一メートル程の長い尾を持つモンスター。ガアアアッと苛立ちに上がる咆哮は、恐らくミナギを仕留める邪魔をされたから。
 間違いない。あの左前足のかぎ爪が、ミナギの左頬を切ったのだ。
 そしてミナギは、距離にして十数メートル先に立つモンスターに、見覚えがあった。討伐クエストを受けると言われ、最低限、ナギト達の足を引っ張らないようにと知識として頭に叩き込んだモンスターの特徴から導き出される名前は――たった一頭でも危険度Bランクに属するモンスター。

ネグロ・トルエノ・ティグレ黒雷の虎!」

 ちゃんと声が出ていたのかどうか、ミナギにはわからなかった。でも声が出ている事を願った。離れた場所に居るナギトやユヅキに、パルス・ウォークスを使い、今自分の目の前で何が起こっているか伝えるには、十分だったから。

 ネグロ・トルエノ・ティグレの最初の一撃を防げたのは、一見すればただの水球が、実は激しい水流と水圧を持っていた結果らしい。
 だから攻撃の狙いが逸れて、ミナギくんのほっぺが浅く切れるだけで済んだんだと思う、と言うのは、ネグロ・トルエノ・ティグレを倒した後に語られたユヅキ言葉。

 こんな場所には居ない筈だとか、もし水の精霊達の水球がなければ確実に死んでいただとか、色々な思考がミナギの頭を駆け巡る。
 その間もネグロ・トルエノ・ティグレは真っ直ぐにミナギを睨み付けていて、完全に獲物として認識されてしまったらしい事は、見てわかった。
 逃げなきゃ、逃げなきゃ死ぬ。頭ではわかっているのに、身体が動かない。
 恐怖に支配された体で、けれど、それでもモンスターの名前を叫ぶ事が出来たのは奇跡的だった。後からナギトに、よくやったと褒められるくらいには。

≪ネグロ・トルエノ・ティグレェ?!なんっでそんなヤツがココにいんだよ!≫
≪ミナギくん待っててね!すぐに行くから!!≫

 パルス・ウォークス越しに響くナギトとユヅキの声が、随分と奥の方から聞こえて来る。いつもならもっと近くに、すぐ傍に居るように聞こえるのに。
 目が、ネグロ・トルエノ・ティグレから離れない。離せない。
 泉の水の精霊が作り出された水球で護られているのに、護られている筈なのに、ネグロ・トルエノ・ティグレに殺されるイメージがミナギの頭に浮かぶ。あの長い牙で噛み砕かれるのか、それともあのかぎ爪で切り裂かれるのか、はたまたあの体躯の突進を受けて吹っ飛ばされるか。
 おかしい、自分はこんなに想像力豊かじゃなかった筈なのに、なんて。色々な死のイメージが浮かぶ自分自身を、どこか遠くで呆れながら見ているもうひとりの自分が居るのを自覚していた、ミナギは。
 一歩、足を踏み鳴らすようにして、ネグロ・トルエノ・ティグレが前に踏み出す。
 わざとだ。わざとミナギに圧を掛ける為に、踏み鳴らしたのだ。

「……っ!」

 再度ビクッと、ミナギの体が震える。怖い。
 ナギトは、ユヅキはどこに居る。前にナギトが教えてくれた、見守り役の教師はどこだ。学園からここまで徒歩で一時間程度。まだ教師が見守り役で居る範囲内の筈だ、ナギトはそう言っていた。
 五人の小さな精霊達が、泉の水の精霊達が、必死に何かを訴えている気がした。目を向ける余裕なんてないけれど。
 真っ直ぐにミナギを見据えるネグロ・トルエノ・ティグレが、低く構える。獲物に跳びかかる前動作――では、ない。

 金に近い黄色の体毛に、ぶわりと浮かぶ、縦に何本も走る黒い稲妻のような模様。
 と同時に、パリパリと音を立ててネグロ・トルエノ・ティグレの周囲の空気に走る、何本もの黒い稲光。

 次に何が起きるか、ミナギは知識として知っていた。最悪だ。泉の水の精霊達が作った水球が、どこまで耐えてくれるのか。否それ以前に、次に来る攻撃がミナギの予想通りだとしたら、水の精霊達が作り出した水球は、相性が悪いのではないだろうか。
 しかしだからと言って、この水球から一歩でも出れば、ずたずたに引き裂かれる未来は見えていて。
 嗚呼もうどうしようと考えている間に、ネグロ・トルエノ・ティグレのチャージは終了していた。
 ネグロ・トルエノ・ティグレの体が、一度深く沈む。
 大きく頭を揺らしたかと思えば、次の瞬間思い切りのけぞり、空に向かって吼え上げた。同時にネグロ・トルエノ・ティグレを中心にして発生した黒い雷が、地面から空に向かって、駆け上がるようにして発生。
 上空で一つに収束した黒い雷は、ミナギを守る水球目掛けて、空中を走る。それは瞬き二つ、三つ分程度の間。

「やっば、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

 焦りにミナギが呟くのと、黒い雷が水球に衝突するのは、ほぼ同時。
 水球に護られていた事が仇となった。黒い雷は水球の上を走り、内側で護られているミナギの体を貫く。逃げようとも、周囲から次々に襲い掛かる黒い雷に、その場に縫い留められる。体を貫く雷撃に、ただただ濁った苦痛の声を上げるしかない。
 苦しみに上がるミナギの声に、泉の水の精霊達が慌てて水球を弾き飛ばす。黒い雷を、消し飛ばすように。
 だがそれはつまり、生身のミナギの体がネグロ・トルエノ・ティグレの前に晒されるわけで。
 咆哮が上がる。歓喜の咆哮が。やっと獲物を手に入れられると、ネグロ・トルエノ・ティグレが喜んでいる。
 黒い雷を放った事で、その体からは黒い稲妻のような模様が消えていた。あの模様は、ネグロ・トルエノ・ティグレの使う魔法のような技の一つで、前動作として体毛に黒い稲妻のような模様が浮かぶのが特徴だった。わかっていたのに、何も出来なかった。

「っづ!……く、くそ……っ」

 雷撃から解放されたものの、それでも体へのダメージは消えない。両足でしっかりと立っている事も出来ず、がくりと膝が折れ、泉の傍らに体の右側を下にして倒れ込むミナギ。
 必死に立ち上がろうとするが、体が痺れて動けない。
 逃げる以前に、立ち上がる事も出来ないミナギに出来る事は、ネグロ・トルエノ・ティグレを睨み返すくらいか。まだ睨み返すだけの余裕があるのか、唯一出来る精一杯の強がりか――恐らく後者。
 しかしネグロ・トルエノ・ティグレにそんな睨みが通用する筈もなく。自分に対して抵抗する力がないと読んだネグロ・トルエノ・ティグレが強く地面を蹴り、突進。

 その瞬間、ミナギの周囲から音が消えた。
 時の流れも変わり、全てのものの動きが遅くなって、何が起きているのか、全てを見渡せるようになっていた。

 十数メートル離れていた距離を埋めようと、全力でネグロ・トルエノ・ティグレが駆けて来るのが見えた。ゆっくり、ゆっくりと。
 がぱり、大きくネグロ・トルエノ・ティグレが口を開く。咬み付くつもりなのは、わかった。
 わかったところで、痺れが取れないミナギの体が動く筈もなく。左手を地面について起き上がろうとするも、上手く力が入らず、ずるり、手が滑る。体の右側を下にして横向きだったミナギの体が、うつ伏せに変わる。強めに打ち付けた顎が痛い。
 ネグロ・トルエノ・ティグレとミナギの距離が、十メートルを切る。時間にして恐らく、後数秒の余裕しかない。
 仮に何かの奇跡が起きてミナギが起き上がれたとしても、全力で走ってもネグロ・トルエノ・ティグレから逃げ切れる可能性はほぼなし。

「終わったぁ、これ……」

 やっとの思いで吐き出した声は、震えていた。諦めにも似た気持ちが、ミナギの思考を塗り潰していた。ナギトさんだったら一瞬で倒せるのかな、だとか。ユヅキさんならどうやって戦うのかな、だとか。場違いな思考がミナギの頭で渦を巻く。
 それが現実逃避だと理解するには、この時のミナギには難しかった。
 諦めた方が良いのかな、なんて思っていた矢先、バッとミナギの前に立ち塞がる、小さな五人の精霊達。小さな背中には、ミナギを護ると言う強い意志が見えた。だが、大きさが違い過ぎる。
 大きなその口にぱっくりと食べられる未来しか想像出来ない。

 精霊がモンスターに喰われてしまうのか、わからないけれど。
 喰われて欲しくない、とは思う。

 ふ、と。突然ミナギの体が軽くなる。否正確には、体から痺れが消えた。どうして、と理由を考える余裕は――ない。
 とにかく逃げる。死にたくない。その思いで片手をついて、上半身を起こす。が、やはりネグロ・トルエノ・ティグレの方が早い、何倍も。

 その距離、五メートルを切った。

 後一歩、二歩ネグロ・トルエノ・ティグレが踏み込めば咬み付かれる未来が、簡単に想像出来て。恐怖に染まる思考が最悪ばかりを想定する。
 それでも、小さな体で必死に自分を護ろうとする五人の精霊達の存在に背を押されるように、反射的にミナギは動いていた。頭で考えたわけではない。体が、勝手に動いていた。
 右手を地面について上半身を支え、左手をネグロ・トルエノ・ティグレに向けて伸ばす。

トリアングロ・バレッラ三角結界!!」

 一秒にも満たない刹那、間に合った。
 ネグロ・トルエノ・ティグレの顔の前に現れる、半透明の三角形の結界。一辺が六十センチある、三角形の結界は、ネグロ・トルエノ・ティグレの突進を止めるには十分な強度を保っていた。一瞬で張った結界にしては、上出来だろう。
 全力の突進を受けた直後、ミナギの張った結界はいくらかたわんでいたものの、それでも破壊される事無く存在し続けていた。

 だが、三角形の結界だからこその弊害も、あった。

 振り上げられた、ネグロ・トルエノ・ティグレの右前脚。ゆっくりと振り上げられた右前脚の黒い爪がギラリ、光る。
 もし結界が、三角形ではなく四角形であれば、どうなっていたか。
 考えるまでもない。次に来る攻撃は、確実に防げていた筈だ。

「い゛!」

 ネグロ・トルエノ・ティグレとミナギの距離は、一メートルにも満たなかった。それがそもそもの原因だった。真っ直ぐに振り下ろされたネグロ・トルエノ・ティグレの右前脚の爪が、制服をいとも簡単に貫きミナギの左肩に突き刺さる。一本、二本、三本と、ゆっくり。
 突き刺さった瞬間、消えていた音が戻って来る。痛みが一瞬で左肩から脳に駆け上がり、時の流れが戻って来た。
 抵抗出来ず、ネグロ・トルエノ・ティグレの前脚が下りるのに合わせて、引っ張られるようにしてミナギの上半身も地面にうつ伏せに叩き付けられた。
 くぐもった悲鳴が、ミナギの口から零れる。激痛のせいか、結界を支える集中力が消えて、トリアングロ・バレッラも消える。
 地面に叩き付けられた影響で、左肩に突き刺さったネグロ・トルエノ・ティグレの爪が、角度を変えて更に深く突き刺さって来る。焼け付くような痛みが脳を焼く。血がだくだくと溢れているのがわかる。黒雷に体を貫かれた時以上の濁った悲鳴が、ミナギの喉から上がる。
 小さな五人の精霊達や、泉の水の精霊達が、なんとかミナギを助けようと力を使うが、力及ばず。ネグロ・トルエノ・ティグレを倒すには、決定的に力が足りない。
 勝利を確信したネグロ・トルエノ・ティグレが、空に向かって張り上げる、歓喜の咆哮。
 必死にもがくも、深く突き刺さった爪から逃れる事は出来ず、むしろ苦痛は増すばかり。もし爪が抜けたとしても、痛みでまともに動く事は出来ないだろう。
 ミナギの頭の中に、ある考えが浮かぶ。

 死ぬ。
 今日ここで、自分は死ぬ。

 自分を護ってくれる水の精霊達の水球の護りはない。水の精霊達はまともにネグロ・トルエノ・ティグレを退ける力はない。肩に爪が突き刺さった状態で結界術を使っても、何の意味も持たない。

『お前、今までモンスターと戦った経験あるか?』

 ふと、ミナギの頭の中で、ナギトの言葉が蘇る。
 あれは確か、どの討伐クエストを受けるか、クエストボードの前に立った時に訊かれた言葉だ。勿論ミナギはないと答えた。ナギトやユヅキと違って、実戦経験はおろか、魔法に対する知識もなく、触れる事すらなかったから。まるで別の世界の話のようだ、魔法も、モンスターと戦う事も。
 そう言えば、ないと答えた時、二人は眉間に皺を寄せて顔を見合わせていた。これはまずいなと、無言のままに見つめ合う二人の顔には、そう書かれている気がした。
 当時、どうしてそんな顔をするのかとミナギは理解出来なかった。そもそもパーティに勧誘された時点で、実戦の経験不足な事は伝えてあるし、知識だって薄い事も伝えてあったから。
 だが今なら、わかる。二人が気にしていたのは、モンスターと戦う時に感じる恐怖心に、ミナギ自身が打ち勝てるかどうかを気にしていたのだ。恐怖心と同時に――痛みや、自分に死が迫った時の絶望に、耐えられるかどうか。多分だけど。
 痛みや恐怖とは違う理由で、涙が溢れる。ミナギの瞳から。どうしようもない自身の無力さに、ボロボロと涙が溢れる。
 もっと自分に出来る事を考えていれば良かった、討伐クエストを受けるまで一週間も余裕があったのに、なんて。本当今更な話。ちゃんと勉強をした、授業にも出た。けれど、結局実戦には敵わない。
 次はもっと上手くやれるようにもっと――と考えて、この状況下で、次を考えている自分に泣きながら笑っているミナギ。
 死の恐怖を前にして、おかしくなってしまったらしい。
 そんなミナギにトドメを刺すべく、ネグロ・トルエノ・ティグレが動く。ミナギの頭を丸齧りしようとしているのか、再度口をがぱりと開け、迫る。
 激痛に薄れる意識の中、せめて一瞬で殺してくれとすら願うミナギだが。

 はいそうですかと、彼女達が許す筈もない。

「ミナギくんから離れろっ!!」
「……は?」

 鋭く聞き覚えのあり過ぎる声が響いたかと思えば、次の瞬間にはネグロ・トルエノ・ティグレの悲鳴が響いて。ミナギは思わず数秒痛みを忘れ、間の抜けた声を出していた。
 悲鳴。そう、悲鳴だった。間違いなくネグロ・トルエノ・ティグレは悲鳴を上げていた。痛みを訴える、悲鳴を。
 ミナギの左肩に深く突き刺さっていた爪が、左右に揺れながら抜けて行く。
 激痛にミナギが悲鳴を上げたのは、仕方ない。むしろ当然の話。反射的に右手で左肩を押さえるが、血が勢い良く吹き出す。痛みに呻き体を丸めながら、なんとか顔を上げて、やっとミナギは見た。泣いていたせいで視界は歪んでいて、はっきりとではないけれど。
 ネグロ・トルエノ・ティグレの左の首筋に、体当たりをするような形でダガーを突き刺して居たのは――。

「ユヅキ、さ……っ!?」
「ミナギくん、無事だね?!まだ生きてるね!?偉いね!よく頑張ったね!!」

 満面の笑みを見せて褒めてくれるのは良い。褒めてくれるのは良いけれど、状況が状況のせいで、素直に喜べない。
 でも、確かな事が、一つだけ。助かった、その事実だけは、変わらない。
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