時の舟と風の手跡

ビター

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秋の章

コーヒーとカップケーキ

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 暑さ寒さも彼岸まで。九月も下旬となり、半そでよりも長袖を着ることが多くなった。
 平日の昼下がりに茉莉花は、おじいの家で風とお菓子作りをしていた。
「それでね、シングルで三位に入賞したから来月の県大会へも出場できるんだ」
「そりゃすごい。茉莉花ちゃん、大活躍だね」
 えへへ、と照れ笑いしながらボウルの中のバターを練る茉莉花のポニーテールがゆれる。今日は火曜日だ。茉莉花の学校がお休みなのは、土日で新人戦があってその代休なのだ。今日は中学のジャージ姿だ。
「ふうちゃんがこないだ作ってくれた、ケークサレ
? 美味しかった。ケーキって甘いのだけじゃないんだね」
「クレープもだろう。レタスやハムを巻いたお食事系のものがあるから」
 あ、たしかに、と茉莉花はうなずいた。
 午前中はおじいに勉強を教わり、昼食後には風とお菓子作り。充実しているなあ、と風は思いながら粉をふるう。おじいは食後のひるねだ。
 竜幸はまだ来ない。いつ来るか分からないとストレスをかけるのも、向こうの作戦なのかも知れない。
 茉莉花とは会わせたくない。竜幸に顔を覚えられるのは、安全とはいえないだろう。
「茉莉花ちゃん、今度は県大会で練習たいへんだろうし、しばらくおじいとの勉強会はお休みにしないかな」
「は? なんで、そんなこというの? わたし二年生のうちで一回でも十位以内に入ったら、スマホ買ってもらえるって約束、パパママとしたばっかりなんですけど!」
 茉莉花が目をつり上げんばかりにして、風にくってかかる。
 あまりの気迫に風は半歩後ろに下がった。
「理科で点数取れないとたいへんだもん! 部活も勉強もがんばるんだから」
 学校の先生が聞いたら、さぞかし喜ぶだろう。たとえそれが、ご褒美につられてのことだとしても。
「ちなみに二年生は何人いるのかな?」
「百二十五人」
「今までで最高の順位って?」
「六十八番!」
 理科以外の教科も勉強する必要があるだろう。本人のやる気は認めるけれど、スマホまでの道のりは遠そうだなと風は静かに思った。
 茉莉花が練ったバターに砂糖と卵を入れて混ぜる。ふるった粉を混ぜたら牛乳も少し。たねを半分に分ける。二種類作るのだ。
「チョコチップ入れていい?」
 風がうなずくと、茉莉花が止める間もなくチョコチップの小袋を全部入れた。前々から思ってはいたが、茉莉花は思い切りがいい。風は失敗しないように失敗しないようにと、結果小さくまとまってしまうが、茉莉花の行動はいつも豪快で大胆だ。
「なに?」
「何でもない。こっちはレモン風味にするよ」
 残り半分にレモンの絞り汁を入れる。甘いだけだったキッチンに爽やかな香りがひとすじ流れる。
 たねをそれぞれ六個の紙カップに分けいれる。レモン風味にはレモンピールを乗せる。
 天板に並べてオーブンへ。あとは焼き上がりを待つだけだ。
「コーヒー、飲もうか」
「うん。わたしのに牛乳たっぷり入れてね!」
 それはもはやコーヒーではないのでは。風はコーヒーメーカーに、三人分の粉を入れた。おじいもそろそろ昼寝から起こそう。
「茉莉花ちゃん、テーブルのうえ片して……」
 と声をかけて振り返ると、茉莉花の小さな悲鳴が聞こえた。
「コーヒー、俺にも」
 竜幸がいつの間にか、椅子に腰掛けテーブルに頬杖をついて右手を上げていた。
 茉莉花が走って風の後ろに隠れる。
「勝手に入らないでと」
「ここ、俺の家みたいなもんだろ? 前にも言ったけどさ」
 なんの悪びれもなく答える竜幸に、風はふるえた。凪に電話を、とエプロンのポケットからスマホを取り出し風は父に連絡をする。
 しかし父は協力してくれるはずだった部下もろとも、出張中だった。
 通話を切って呆然とする。
「まさか、こっちの予定を……」
 竜幸は、ニヤリと笑うだけだった。茉莉花は風のシャツをつかんで背後に隠れたままだ。まずい、早く家に帰したいけれど、外にはこの間のように竜幸を乗せてきた車が待機しているだろう。運転手にまで茉莉花の顔を知られるのはよくない。
「茉莉花ちゃん、寝室のほうで待っていてくれないかな。すぐ済ませるから」
「すぐに済むよ、風がサインすれば。美津子おばさんのとこの、孫? ずいぶん美人さんだね。初めまして、俺は君のお母さんの従兄の竜幸、よろしく」
 茉莉花はぎくしゃくとお辞儀をすると、寝室のほうへと早足で移動する。
 不意に寝室の引戸が開いて、顔を出したおじいと茉莉花が入れ替わる。そこで待ってなさい、とおじいは茉莉花に声をかけて扉を閉めた。
「また懲りずに来たのか」
「この間は、話が進まなかったからね。書類、作ってきた。サインして判子を押すだけで大金が手元にくるんだけど。風、サインして」
 さも当然と言うように、竜幸は書類をテーブルに広げた。薄いグリーンのサングラスの奥の瞳は笑っていない。風は心臓が暴れ出さないよう、ゆっくりと息を吐き、息を吸った。
「先日、断りましたよね。ここは売ることも貸すこともしません」
 風とおじいは、竜幸の向かい側に座った。
「風、ここは本来うちの父親が相続してもおかしくなかったんだ。長男だったんだから。そしたら、ここは俺のものも同然じゃないか。いきなり寄こせなんていってない、俺は紳士だ」
「竜幸さんは二年前に相続放棄していますよね。あなたは、合意したはずですよ」
 もしかして、以前のような古い家のままだったら、竜幸は口を出さなかったのかもしれない。まさか、無職の風が家をリノベーションするとは思わなかっただろう。
「それに、ここはリノベのときに減築したから一人で住むには広いし家族で住むには狭い、中途半端の広さでしょう。借り手だってつくとは思えない」
「そんなの、分からないよ。たとえば退職した独り者には暮らし安いと思うけどな。幹線からほどよく離れていて静かだ。それに、内装だって趣味がいいと思う。悪くない」
 竜幸の方が余裕がある。風は思うように話が進まず、気持ちが焦った。茉莉花のこともある。早く終わらせたいのに。すると、おじいが長い溜息の後に口を開いた。
「竜幸、おまえがここに執着してみせるのは、わたしへの嫌がらせだろう」
「何をおっしゃいますか」
 竜幸は足を組むと、鼻でおじいを笑った。
「ここに住んでいたお前たち一家は、結局うまくいかなかった。わたしは、家族をうまくまとめられなかった。学生結婚なんて、認めなければよかった」
 風は思わずおじいの顔を見た。竜幸の両親が学生結婚だったと、初めて聞いたのだ。
「そうなると、俺は生まれてこなけりゃよかったってことですか?」
 竜幸が唇をゆがめておじいを睨む。
「そうだな。わかっているだろう。詐欺まがいのことばかり繰り返すおまえは、親戚の鼻つまみ者だ」
 だんっ、とテーブルを両手で叩いて竜幸は椅子を蹴倒し立ち上がった。
「どうしてそうなったと思う。責任は、あんたにもあるだろう。俺たち家族はここを追い出されてから、喧嘩ばかりだった」
「追い出したわけじゃないし、大学の中退を決めたのは、竜吾とお前の母親だ。わたしにもまだ養育すべき子どもが二人いた」
 つまりは最初こそ同居していた二組の世帯は、経済的なことがあって、同居を解消したということか。もしかして、気の強い祖母の寿ひさが嫁とそりが合わなかったことも要因だろうかと風は考えた。
「そんなのが言い訳になるか。あんたは家族を守れなかったんだ。そのせいで俺がどれだけ惨めな思いをしたかわかるか」
 竜幸は舌鋒を緩めない。
「着るものは、洗濯が行き届いてないか、小さいかどちらかだった。アパートに帰ればいつも一人だった。おやじと二人で夕飯を食べたことなんて、ほとんどない。仕事ばかりしていたからな」
「だから、それで高校もろくに卒業できないほど学校をさぼってた理由にはならんぞ。はては、就職もせず三十過ぎても喧嘩ばかりだ。そんなだから……」
 激高していたおじいの顔から、すっと怒りが抜けた。それは竜幸も同じだった。
「だから、おやじが事故で亡くなったとでもいうのか」
「ちがうのか」
 風は不意に理解した。ここにいるのは、父親を亡くした子供と、子どもを失くした父親なのだと。
「おじい……」
「わたしが至らなかったのは、本当のことだ。それは、わびる。ただ、それと風を困らせるのは別だろう。だから、この通りだ」
 おじいは、竜幸に頭を下げた。その姿をなかば呆然と竜幸は見下ろしている。
「わたしは、百年を生きた。自分のしでかした不始末を思い返さない日はない。家族を幸せにもできず、妻も子どもたちも先に失い、訪ねる友もいない。なにもできなかった、自分の人生は無意味だったと思い知る。百年も。これは罰だ」
 竜幸の目が見開いたのが、グラス越しにも分かった。おじいの体が、ぶるぶると震えて椅子から落ちそうになるのを風は支えた。
「竜幸さん、提案があります。おじいが生きているうちは、ここに住まわせてください」
「なにをいう、風。ここはお前の家だ」
 たしかに、土地も建物も風のものなのだ。ただ、竜幸はそれを頭で理解していても感情が許さないのだろう。
「おじいが亡くなったら、ここはあなたに売ります。譲りませんよ、売ります」
 しっかりしてるな、と竜幸が皮肉そうに笑う。
「だから、それまではおじいが静かに暮らせるよう、あなたも約束してください」
 お願いします、と風もまた竜幸に頭をさげた。
「帰る。不毛な話し合いにこれ以上時間を取られたくない。それに、こんな甘ったるいにおいがするなかで、いつまでも言い争いしてるのも、バカみたいだ」
 いつの間にか、カップケーキが焼けて甘い香りがリビングにも満ちていた。
 竜幸は書類を乱暴にまとめると、立ち上がった。
「風、約束を忘れるなよ」
 すると、寝室の引戸が開いて茉莉花が飛び出してきた。
「おじい、ふうちゃん!」
 両目に涙をためて、茉莉花はおじいにしがみついた。
「ふうちゃん、ここからいなくなるの? おじい、死んじゃいや。わたし、いっしょうけんめい勉強するから、ふうちゃんのお手伝いもするから」
「だいじょうぶ、今すぐのことじゃないよ」
 風は優しく話しかけたが、今すぐではないがいつか必ずやってくることなのだ。
 たぶん、茉莉花にはそこまでの実感はないと思う。それがまだ救いでもある。風は、オーブンからカップケーキを出した。チョコもレモンも、どちらもきれいに焼けていた。
「じゃあな、俺は帰るぞ」
 玄関に向かう竜幸に茉莉花が声をかけた。
「これ、ふうちゃんと作ったの。食べてください。おなかがへると、怒りっぽくなるっていつもママが言ってるから」
 涙を袖口で吹きながら茉莉花が差し出すカップケーキは、水蒸気で入れられたビニール袋が白く曇っていた。
「たまになら来てもいいですよ」
 茉莉花の後ろから風が竜幸に話しかけた。口をへの字に曲げたまま、竜幸は首を少し傾けた。
「年に一回くらいなら、歓迎します」
「そりゃ、すごい歓待だな」
 竜幸はリビングと玄関を仕切る柱に手を添えて、ふと視線を手もとに移した。それから、柱をなぞるようにして手を下ろし、しばし動きを止めた。
「コーヒーもどうぞ」
 紙コップに入れたコーヒーを竜幸に差し出すと、我に返ったようにして靴を履いた。
「じゃあな」
 最後の言葉はとても小さく聞こえた。
 竜幸が去った後、風は竜幸が触れていた柱をよく見てみた。それは古い部材で前の家からそのまま使った柱だった。
 柱には、横に何本も線が刻まれていた。振り返るとおじいは、目元をぬぐっていた。
 竜幸は、おじいの初孫だった。みずから名前をつけるほど大切な……。
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