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マンションの前まで送ってもらったときには、もう午前零時近かった。
「今日はありがとうございました」
「いや、こっちこそこんな時間までつき合わせて悪かった。俺は明日は休みだけど、雄高くんは大学だろう」
雄高は首を横に振った。したたかに酔った頭は撹拌されて、今夜の楽しかった出来事が前後関係なく浮かんでは消える。
「咲美さんの料理は美味しかったし、お二人とたくさん話せて楽しかったです。ここのところ、落ち込むことが多かったから……」
「そう言ってもらえると俺も誘ったかいがあるよ。俺たち夫婦に変にきがねする人たちが多くてな。咲美は人をもてなすのが好きなのにあまり客が来ないんだ。雄高くんは、いつでも大歓迎だよ」
雄高は無言で頷いた。誰かに受け入れてもらえるということが、雄高にとっては一番嬉しいことだからなのかも知れない。
由岐は、ハンドルにもたれて雄高に柔らかな視線を向けた。
「俺と美咲は、世間からの評価はどちらも『欠けている者同士』だろうな。女装癖の俺と、視力にハンディのある咲美と……」
「そんなことは……」
本心から否定した雄高の言葉に、由岐は軽く首をふって瞳を伏せた。
「でも、咲美がいなかったら俺なんかとうの昔にドロップアウトしていただろうな。結局、ありのままの俺を受け入れてくれる存在は咲美しかいかなったから。時々、本当は見えているんだろう、って聞きたくなることがあるよ。なにもかもお見通しの彼女といると。日常生活には不便しないほど自立してるし、きちんと仕事もしてるし」
由岐は愉快そうに笑った。雄高も、咲美と一緒にいると彼女にハンディがあることを忘れる。一度など、空をさして星座を教えてしまったこともある。あまりにも自然で、そして鋭くて。相手のことを何もかも見透かすような不思議な力をもっているような気さえするのだ。
「咲美といると俺は幸せだけど、彼女はどうかな。俺と一緒にならない方が幸せになれたかもしないと思うこともあるよ。特に、子どものことに関しては」
由岐夫婦には子どもがいない。咲美はかなり子どもが好きらしい。そのことは、雄高は由岐から何度か話をきいていた。けれど、咲美が不幸だとは雄高には思えなかった。
「でも、咲美さんは幸せそうですよ」
「そうか。俺たち夫婦には子どもはできない、絶対に。原因は俺にあるから、よけいに負い目を感じるのかもしれないな。俺は……」
由岐はハンドル掴んだ手に額をあてて、目を閉じた。雄高は、不妊のことはあまりにもデリケートな問題で、なにも言うことが出来なかった。こんなとき、どんな言葉を探しても結局はなんの慰めにもならないという虚無感にとらわれる。いくら知識を、実践としてのカウンセリングを積もうと、その場しのぎの陳腐なせりふしか吐けない。自分の無力さに気が遠くなるのだ。
なにも言えず、シートに座る雄高に由岐が眼前のマンションを見上げて言った。
「立派なところに住んでいるんだな。雄高くん、恋人は男だろう」
「えっ……」
雄高は不意を突かれてしばし呆然とした。いつもの質問者をはぐらかすための笑顔を浮かべるタイミングを完全に逸した。由岐は雄高の狼狽ぶりにほほ笑んだ。
「当たりだな。咲美の見解は外れたことがないからさ」
「咲美さんが? どうして……」
「優しすぎるってさ。元々が優しいのに、女性には特にそうするべきとでも思ってでもいるように、過剰に優しすぎる。逆から言うと、意識しないと女性にはそっけない態度しか取れないんじゃないかってさ」
雄高はいまさらながら、咲美の鋭さに驚かされた。そのせいだろうか雄高は史彦とは違って女性には言い寄られない。その点、史彦とはまるで逆だ。
「怒ったり、生の感情をぶつけるのは、そうしても許してくれる相手にだけじゃないか。それからいくと、まだまだ俺には遠慮があるみたいだな、雄高くんは」
「すみません」
「怒ったわけじゃない。雄高くんは少しばかり、人に慣れるのが遅いだけだろう。気長に待つさ。でも忘れて欲しくないな、俺も咲美も雄高くんが大好きだって事だけは」
雄高は唐突に泣きたくなった。自分は恵まれてると。困難なことも多かったが、結果として自分を理解してくれる人に囲まれている。お金では決して手に入れられないものが、形はないけれど大切なものが両手の中にたくさんある。
「ありがとうございます……由岐先生」
「いいって。雄高くんはホントに堅いな。恋人といるときもそうなのか? どんな顔して恋人を口説いたんだよ。見せてもらいたいもんだ」
由岐にからかわれ、雄高は顔を赤くした。そんな雄高を見て由岐は屈託なく笑った。ひとしきり笑った後、雄高は車から降りた。
「じゃあ、また」
「ああ」
走り去る由岐の車のテールランプが角を曲がるまで、雄高はマンションの前で見送っていた。
「大胆だな、マンションの前で浮気?」
聞き慣れた声に振り返ると、ビールの缶を手にした佐野が立っていた。雄高は頬が軽く引きつる感覚を味わった。
「……いつからストーカーになったんだ」
「会いたくて、わざわざこんな時間まで待っていたんじゃないかよ」
ふらりと佐野が動くと、酒の匂いが雄高まで届いた。素足にスニーカー、ジーンズにシャツ姿だ。川沿いの桜を見物しがてら、ついでにここまで足を延ばしただけのように感じられ、佐野の言葉から真実味は伝わらなかった。
「史彦ならいない。出張で帰るのは明日」
そうとだけ言うと、雄高は佐野を無視してエレベーターへと向かった。佐野は雄高の態度などまるで気にせず、当然といわんばかりに後をついて来る。
「誘ってるのか? 雄高、おまえの顔が見たくて来たんだよ、こっち向けよ」
雄高はなにも話したくなかった。エレベータのドアが開き、箱に乗り込むとそのまま視線をグレイの壁に固定した。佐野と二人だけの狭い空間は、一気に密度が上がったようで雄高は堅く目を閉じたまま、早く部屋に戻ることだけを考えた。
「佐野さんは史彦の友人で、俺にとっては職場の多少親しい同僚の域を出ない。こんな時間に押しかけるなんて、非常識だ。帰ってくれ」
佐野の舌打ちが聞こえたかと思うと、肩を掴まれ無理やり佐野の方を向かせられた。すぐ目の前に、苛立った佐野の顔があった。佐野は引き結んだ雄高の唇に自身を荒々しく重ねてきた。アルコールの匂いにむせ、雄高は身を強ばらせたまま目を閉じずに狭い箱の中で佐野と口づけを交わしている自分をひどく遠く感じた。
「いいだろ、もう」
六階にエレベーターが到着したことをチャイムが知らせる。雄高は佐野の胸を押しのけて、フロアに出るとそのまま部屋へと進んだ。
「雄高!」
佐野は空き缶を投げ捨て叫んだ。アルミ缶が鋭角的な音を立てコンクリートの壁と床に反響した。意のままにならない雄高の態度にかんしゃくを起こしたように、佐野の瞳は怒気を含んでいた。けれど、雄高は佐野を一瞥すると部屋の鍵を開けた。
「おやすみ」
「なんだよ、その態度は。俺が……俺がこんなに……!」
「必死なのに、か。何に対して? 佐野さん、おかしいよ。佐野さんが好きなのは、史彦だろう。だったら、俺にモーションなんかかけてないで直接あいつにあたればいいじゃないか。もしかすると、同意してくれるかも知れない……なんて、絶対に無理だと思うけどね。あいつは俺しか眼中にないから」
突然佐野は、玄関先に立つ雄高を奥に突き飛ばして部屋に侵入した。後ろ手でドアの鍵をかけると、紅潮した頬にぎらついた視線で雄高をねめつけた。
雄高は不思議となんの感情もわかなかった。ただ、身体の中を風が吹きすさぶ。雄高はだらしなく廊下に座ったまま、頬を上気させた佐野を見上げた。
「たいした自信だな。ヒコはおまえ以外絶対に相手にしないと言い切れるんだ。確かにヒコはそうらしいな。けど、男同士の恋愛感情なんか、たかだか二・三年で擦り切れるもんなんだよ。それにおまえはどうなんだ雄高。俺はおまえがヒコだけで満足していたとは、思えない」
雄高は何も答えず、よろりと立ち上がると突き当たりの扉を開けてリビングの明かりをつけた。今朝史彦と出かけたままの状態の部屋だ。雄高はこんなありふれた情景さえ懐かしく思えた。
「雄高……」
背後から抱きつき、佐野は雄高をソファに押し倒した。
「佐野」
言いかけた言葉は佐野に唇をふさがれて続かなかった。酒に酔った佐野の頬が熱ければ熱いほど、雄高の気持ちは冷めていった。
「好きなんだよ、学生のときから」
嘘だ、と雄高は胸のうちでつぶやいた。取ってつけたように、なぜ学生の時からなどど見え透いた嘘をつくのだろう。雄高はのしかかる佐野の肩を押し返した。
「俺のこと抱けるの? 男は駄目だろう」
佐野はばつの悪そうな顔をして、雄高から顔を背け小さく答えた。
「……やり方なら、調べてきた」
「図書館司書の情報収集能力を甘く見るなよ、って? 馬鹿か、あんた。やれるんならやってみれば?」
雄高はわざと佐野を煽るように言い返すと自らベルトを外しにかかった。戸惑う佐野を尻目に躊躇せずスラックスのジッパーを下げ、佐野の眼前に自身をさらした。
「できるか?」
瞬間佐野は脅えるようにそれを見たが、覚悟を決めたように雄高にふるえる手をのばした。ゆっくりと雄高は佐野の唇に飲み込まれていく。
そこからの佐野の行動は、雄高にかつての自分を思い返えさせるのに充分だった。
何も分からずに、安騎野のそれを銜えた時のことがまざまざと蘇る。ただ、口の中に押しこみ、言われるままに根元まで銜えた。先端が喉の奥にあたり、吐き気をこらえるの必死だった。
「んっ」
今の佐野はまさにその状態だった。こわごわと雄高を口にしている。佐野の口腔は冷たく感じられ、雄高は自分の感情がひどく平坦なことに気づいた。まるで、ビデオでも見ているようだ。
感じない、なにも。実感がないのだ。これが仮に史彦とのことなら、とっくにいきり立っているはずだ。雄高は呼吸ひとつ乱さず、ただ苦しげに顔を歪める佐野を冷静に観察するだけだ。舌が遠慮がちに動かされても、普段のような腰から背骨にかけてはい上がるような痺れは湧きおきる事なく、雄高は佐野の中で力をもつ様子はなかった。
「下手クソ」
佐野は頬を紅潮させ、さらに熱心に舌を動かした。添える手が細かくふるえる。と、佐野が身体をびくんとはねた。
「いった?」
佐野は雄高を離すと、床にへたりこんで放心した。少し濡れたような瞳で見返す佐野は、今まで見たどの表情よりも色気を漂わせていた。
「もう充分だろう。俺にこんな格好させて、あんたも自分の下着を汚して」
佐野は意識が舞い戻ったように、慌てて口元を拭うと雄高を睨んだ。雄高はあくまで強がろうとする佐野の顔を見ているうちに、知らぬ間に涙が頬を伝った。
「……こんなことをしても、俺は明日になれば帰ってきた史彦を、何事もなかったように迎え入れるんだ。あんたも明後日には何食わぬ顔で史彦と出かける、そうだろう?」
「なんだよ、妬いてるのか。雄高が嫉妬してるのは俺にか、それともヒコにか?」
佐野は雄高の涙に心を揺さぶられたように見えた。雄高は涙を流したままで首を横に振った。
「もう、俺に史彦を裏切らせないでくれ。恋愛感情でずたずたになるのは、一度で充分なんだ。史彦との平穏な暮らしをかき乱さないでくれ」
「自分から誘っておいて、被害者面するな。おまえだって、俺としたかったんだろう。この状況で否定するなよな。俺が好きならそう言えよ」
「そうかも知れない……」
雄高の素直な言葉に佐野が毒気を抜かれたように、雄高を見た。
「きっと酔っているからだ」
涙で佐野の姿が歪んで見える。雄高の中のなにか大切な部分が砂のように崩れていった。困惑したように、佐野が放心状態の雄高から退いた。
泣き止まない雄高を置いて、佐野は身を翻し部屋から出て行った。入って来たときと同じような勢いで。
今まで何度か史彦に秘密を作ってきた。そのたび、もう史彦を裏切るのはよそうと一旦は心に誓う。行為の後、史彦に会ったとき後ろめたさを感じるからだ。けれど、表面上はいつもとかわらない。変わらずに振る舞える自分を雄高は知っている。何事もなかったかのように史彦に接する。心の中では、俺は浮気をしたんだと叫びながら。
こんな辛い場面に出会ったとき、誰を思い出せば心が安らげるだろうかと雄高は思った。思考能力は全く働かず、雄高の頭脳は空回りした。雄高は鉄の扉が音を立てて閉じるのを聞きながら、今夜の由岐夫妻の仲睦まじい姿をなんとはなしに思い出していた。
目の見えない咲美に化粧するのは、由岐の毎朝の日課だという。視力はなくとも、咲美は由岐を支える。ベターハーフ、比翼の鳥……東西の夫婦を例える言葉。
二人の姿は遠い時代の神話のように雄高には思えた。
「今日はありがとうございました」
「いや、こっちこそこんな時間までつき合わせて悪かった。俺は明日は休みだけど、雄高くんは大学だろう」
雄高は首を横に振った。したたかに酔った頭は撹拌されて、今夜の楽しかった出来事が前後関係なく浮かんでは消える。
「咲美さんの料理は美味しかったし、お二人とたくさん話せて楽しかったです。ここのところ、落ち込むことが多かったから……」
「そう言ってもらえると俺も誘ったかいがあるよ。俺たち夫婦に変にきがねする人たちが多くてな。咲美は人をもてなすのが好きなのにあまり客が来ないんだ。雄高くんは、いつでも大歓迎だよ」
雄高は無言で頷いた。誰かに受け入れてもらえるということが、雄高にとっては一番嬉しいことだからなのかも知れない。
由岐は、ハンドルにもたれて雄高に柔らかな視線を向けた。
「俺と美咲は、世間からの評価はどちらも『欠けている者同士』だろうな。女装癖の俺と、視力にハンディのある咲美と……」
「そんなことは……」
本心から否定した雄高の言葉に、由岐は軽く首をふって瞳を伏せた。
「でも、咲美がいなかったら俺なんかとうの昔にドロップアウトしていただろうな。結局、ありのままの俺を受け入れてくれる存在は咲美しかいかなったから。時々、本当は見えているんだろう、って聞きたくなることがあるよ。なにもかもお見通しの彼女といると。日常生活には不便しないほど自立してるし、きちんと仕事もしてるし」
由岐は愉快そうに笑った。雄高も、咲美と一緒にいると彼女にハンディがあることを忘れる。一度など、空をさして星座を教えてしまったこともある。あまりにも自然で、そして鋭くて。相手のことを何もかも見透かすような不思議な力をもっているような気さえするのだ。
「咲美といると俺は幸せだけど、彼女はどうかな。俺と一緒にならない方が幸せになれたかもしないと思うこともあるよ。特に、子どものことに関しては」
由岐夫婦には子どもがいない。咲美はかなり子どもが好きらしい。そのことは、雄高は由岐から何度か話をきいていた。けれど、咲美が不幸だとは雄高には思えなかった。
「でも、咲美さんは幸せそうですよ」
「そうか。俺たち夫婦には子どもはできない、絶対に。原因は俺にあるから、よけいに負い目を感じるのかもしれないな。俺は……」
由岐はハンドル掴んだ手に額をあてて、目を閉じた。雄高は、不妊のことはあまりにもデリケートな問題で、なにも言うことが出来なかった。こんなとき、どんな言葉を探しても結局はなんの慰めにもならないという虚無感にとらわれる。いくら知識を、実践としてのカウンセリングを積もうと、その場しのぎの陳腐なせりふしか吐けない。自分の無力さに気が遠くなるのだ。
なにも言えず、シートに座る雄高に由岐が眼前のマンションを見上げて言った。
「立派なところに住んでいるんだな。雄高くん、恋人は男だろう」
「えっ……」
雄高は不意を突かれてしばし呆然とした。いつもの質問者をはぐらかすための笑顔を浮かべるタイミングを完全に逸した。由岐は雄高の狼狽ぶりにほほ笑んだ。
「当たりだな。咲美の見解は外れたことがないからさ」
「咲美さんが? どうして……」
「優しすぎるってさ。元々が優しいのに、女性には特にそうするべきとでも思ってでもいるように、過剰に優しすぎる。逆から言うと、意識しないと女性にはそっけない態度しか取れないんじゃないかってさ」
雄高はいまさらながら、咲美の鋭さに驚かされた。そのせいだろうか雄高は史彦とは違って女性には言い寄られない。その点、史彦とはまるで逆だ。
「怒ったり、生の感情をぶつけるのは、そうしても許してくれる相手にだけじゃないか。それからいくと、まだまだ俺には遠慮があるみたいだな、雄高くんは」
「すみません」
「怒ったわけじゃない。雄高くんは少しばかり、人に慣れるのが遅いだけだろう。気長に待つさ。でも忘れて欲しくないな、俺も咲美も雄高くんが大好きだって事だけは」
雄高は唐突に泣きたくなった。自分は恵まれてると。困難なことも多かったが、結果として自分を理解してくれる人に囲まれている。お金では決して手に入れられないものが、形はないけれど大切なものが両手の中にたくさんある。
「ありがとうございます……由岐先生」
「いいって。雄高くんはホントに堅いな。恋人といるときもそうなのか? どんな顔して恋人を口説いたんだよ。見せてもらいたいもんだ」
由岐にからかわれ、雄高は顔を赤くした。そんな雄高を見て由岐は屈託なく笑った。ひとしきり笑った後、雄高は車から降りた。
「じゃあ、また」
「ああ」
走り去る由岐の車のテールランプが角を曲がるまで、雄高はマンションの前で見送っていた。
「大胆だな、マンションの前で浮気?」
聞き慣れた声に振り返ると、ビールの缶を手にした佐野が立っていた。雄高は頬が軽く引きつる感覚を味わった。
「……いつからストーカーになったんだ」
「会いたくて、わざわざこんな時間まで待っていたんじゃないかよ」
ふらりと佐野が動くと、酒の匂いが雄高まで届いた。素足にスニーカー、ジーンズにシャツ姿だ。川沿いの桜を見物しがてら、ついでにここまで足を延ばしただけのように感じられ、佐野の言葉から真実味は伝わらなかった。
「史彦ならいない。出張で帰るのは明日」
そうとだけ言うと、雄高は佐野を無視してエレベーターへと向かった。佐野は雄高の態度などまるで気にせず、当然といわんばかりに後をついて来る。
「誘ってるのか? 雄高、おまえの顔が見たくて来たんだよ、こっち向けよ」
雄高はなにも話したくなかった。エレベータのドアが開き、箱に乗り込むとそのまま視線をグレイの壁に固定した。佐野と二人だけの狭い空間は、一気に密度が上がったようで雄高は堅く目を閉じたまま、早く部屋に戻ることだけを考えた。
「佐野さんは史彦の友人で、俺にとっては職場の多少親しい同僚の域を出ない。こんな時間に押しかけるなんて、非常識だ。帰ってくれ」
佐野の舌打ちが聞こえたかと思うと、肩を掴まれ無理やり佐野の方を向かせられた。すぐ目の前に、苛立った佐野の顔があった。佐野は引き結んだ雄高の唇に自身を荒々しく重ねてきた。アルコールの匂いにむせ、雄高は身を強ばらせたまま目を閉じずに狭い箱の中で佐野と口づけを交わしている自分をひどく遠く感じた。
「いいだろ、もう」
六階にエレベーターが到着したことをチャイムが知らせる。雄高は佐野の胸を押しのけて、フロアに出るとそのまま部屋へと進んだ。
「雄高!」
佐野は空き缶を投げ捨て叫んだ。アルミ缶が鋭角的な音を立てコンクリートの壁と床に反響した。意のままにならない雄高の態度にかんしゃくを起こしたように、佐野の瞳は怒気を含んでいた。けれど、雄高は佐野を一瞥すると部屋の鍵を開けた。
「おやすみ」
「なんだよ、その態度は。俺が……俺がこんなに……!」
「必死なのに、か。何に対して? 佐野さん、おかしいよ。佐野さんが好きなのは、史彦だろう。だったら、俺にモーションなんかかけてないで直接あいつにあたればいいじゃないか。もしかすると、同意してくれるかも知れない……なんて、絶対に無理だと思うけどね。あいつは俺しか眼中にないから」
突然佐野は、玄関先に立つ雄高を奥に突き飛ばして部屋に侵入した。後ろ手でドアの鍵をかけると、紅潮した頬にぎらついた視線で雄高をねめつけた。
雄高は不思議となんの感情もわかなかった。ただ、身体の中を風が吹きすさぶ。雄高はだらしなく廊下に座ったまま、頬を上気させた佐野を見上げた。
「たいした自信だな。ヒコはおまえ以外絶対に相手にしないと言い切れるんだ。確かにヒコはそうらしいな。けど、男同士の恋愛感情なんか、たかだか二・三年で擦り切れるもんなんだよ。それにおまえはどうなんだ雄高。俺はおまえがヒコだけで満足していたとは、思えない」
雄高は何も答えず、よろりと立ち上がると突き当たりの扉を開けてリビングの明かりをつけた。今朝史彦と出かけたままの状態の部屋だ。雄高はこんなありふれた情景さえ懐かしく思えた。
「雄高……」
背後から抱きつき、佐野は雄高をソファに押し倒した。
「佐野」
言いかけた言葉は佐野に唇をふさがれて続かなかった。酒に酔った佐野の頬が熱ければ熱いほど、雄高の気持ちは冷めていった。
「好きなんだよ、学生のときから」
嘘だ、と雄高は胸のうちでつぶやいた。取ってつけたように、なぜ学生の時からなどど見え透いた嘘をつくのだろう。雄高はのしかかる佐野の肩を押し返した。
「俺のこと抱けるの? 男は駄目だろう」
佐野はばつの悪そうな顔をして、雄高から顔を背け小さく答えた。
「……やり方なら、調べてきた」
「図書館司書の情報収集能力を甘く見るなよ、って? 馬鹿か、あんた。やれるんならやってみれば?」
雄高はわざと佐野を煽るように言い返すと自らベルトを外しにかかった。戸惑う佐野を尻目に躊躇せずスラックスのジッパーを下げ、佐野の眼前に自身をさらした。
「できるか?」
瞬間佐野は脅えるようにそれを見たが、覚悟を決めたように雄高にふるえる手をのばした。ゆっくりと雄高は佐野の唇に飲み込まれていく。
そこからの佐野の行動は、雄高にかつての自分を思い返えさせるのに充分だった。
何も分からずに、安騎野のそれを銜えた時のことがまざまざと蘇る。ただ、口の中に押しこみ、言われるままに根元まで銜えた。先端が喉の奥にあたり、吐き気をこらえるの必死だった。
「んっ」
今の佐野はまさにその状態だった。こわごわと雄高を口にしている。佐野の口腔は冷たく感じられ、雄高は自分の感情がひどく平坦なことに気づいた。まるで、ビデオでも見ているようだ。
感じない、なにも。実感がないのだ。これが仮に史彦とのことなら、とっくにいきり立っているはずだ。雄高は呼吸ひとつ乱さず、ただ苦しげに顔を歪める佐野を冷静に観察するだけだ。舌が遠慮がちに動かされても、普段のような腰から背骨にかけてはい上がるような痺れは湧きおきる事なく、雄高は佐野の中で力をもつ様子はなかった。
「下手クソ」
佐野は頬を紅潮させ、さらに熱心に舌を動かした。添える手が細かくふるえる。と、佐野が身体をびくんとはねた。
「いった?」
佐野は雄高を離すと、床にへたりこんで放心した。少し濡れたような瞳で見返す佐野は、今まで見たどの表情よりも色気を漂わせていた。
「もう充分だろう。俺にこんな格好させて、あんたも自分の下着を汚して」
佐野は意識が舞い戻ったように、慌てて口元を拭うと雄高を睨んだ。雄高はあくまで強がろうとする佐野の顔を見ているうちに、知らぬ間に涙が頬を伝った。
「……こんなことをしても、俺は明日になれば帰ってきた史彦を、何事もなかったように迎え入れるんだ。あんたも明後日には何食わぬ顔で史彦と出かける、そうだろう?」
「なんだよ、妬いてるのか。雄高が嫉妬してるのは俺にか、それともヒコにか?」
佐野は雄高の涙に心を揺さぶられたように見えた。雄高は涙を流したままで首を横に振った。
「もう、俺に史彦を裏切らせないでくれ。恋愛感情でずたずたになるのは、一度で充分なんだ。史彦との平穏な暮らしをかき乱さないでくれ」
「自分から誘っておいて、被害者面するな。おまえだって、俺としたかったんだろう。この状況で否定するなよな。俺が好きならそう言えよ」
「そうかも知れない……」
雄高の素直な言葉に佐野が毒気を抜かれたように、雄高を見た。
「きっと酔っているからだ」
涙で佐野の姿が歪んで見える。雄高の中のなにか大切な部分が砂のように崩れていった。困惑したように、佐野が放心状態の雄高から退いた。
泣き止まない雄高を置いて、佐野は身を翻し部屋から出て行った。入って来たときと同じような勢いで。
今まで何度か史彦に秘密を作ってきた。そのたび、もう史彦を裏切るのはよそうと一旦は心に誓う。行為の後、史彦に会ったとき後ろめたさを感じるからだ。けれど、表面上はいつもとかわらない。変わらずに振る舞える自分を雄高は知っている。何事もなかったかのように史彦に接する。心の中では、俺は浮気をしたんだと叫びながら。
こんな辛い場面に出会ったとき、誰を思い出せば心が安らげるだろうかと雄高は思った。思考能力は全く働かず、雄高の頭脳は空回りした。雄高は鉄の扉が音を立てて閉じるのを聞きながら、今夜の由岐夫妻の仲睦まじい姿をなんとはなしに思い出していた。
目の見えない咲美に化粧するのは、由岐の毎朝の日課だという。視力はなくとも、咲美は由岐を支える。ベターハーフ、比翼の鳥……東西の夫婦を例える言葉。
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