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願い事

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寝台に横にはなったが、体は疲れているのに頭は冴え殆ど眠れずに夜が明けた。


ラヴィは洗面台に移動し冷たい水で何度も顔を洗いながら鏡に映る自分の顔を眺める。ここに来た当初は顎あたりの長さだった群青色の髪は背中の真ん中あたりまで伸びていた。その髪に彩られる紫色と黄緑色の左右違う瞳。ロイが美しいと言ってくれてから自分の瞳を嫌悪しなくなった。ラヴィは鏡の中の自分自身を見つめながら、暫くその場に立っていた。

その日の任務を夕方前に終えラヴィが屋敷に戻った時、ロイやスーリの気配は既になかった。心に僅かな喪失感を抱えて、自室に戻ったラヴィは備え付けのシンプルな作りの机に向かい、スーリ宛に手紙を書いておく。彼に何も言わずに決行することに少しの罪悪感が湧きながらも退く気はなかったので先日のナリエとの話から一通りそのまま、身勝手に動くことの謝罪を書き、スーリの部屋のドアの隙間から便箋に書いた手紙を滑り込ませた。

部屋に戻り机の上にある二つ折されたもう一つの便箋に目を向ける。何となく書いてみたかっただけで渡すつもりもない。いつか機会があるならもう少し文章を学んで上手に書ければ良い。

その後軽く食事をして身支度をする。真っ黒な上下の服と同色のローブに着替えてから、机上に置いてある漆黒の帯状のものを手に取る。いつも肌身離さず、洗うのも全て自分でやっていたロイからもらった大切な眼帯は今夜は付けない。それを手首に反対の手と口を使ってきつく縛る。まるでお守りのように。

目を閉じて深呼吸し屋敷内の気配を感じながら、徐々に自分の気配を消していく。気配に敏感な工作員に勘付かれたらおしまいだ。巡回する工作員の位置を把握しながら彼等の監視の目を掻い潜り、屋敷を抜け出した。日が変わるまでおよそ二刻。雲で少し陰る月を眺めてからラヴィは軽やかな足取りで駆け、目的地に向かっていった。


(指示もなく勝手に動くことで、信用を失うかもしれない)


それでもという気持ちが勝り、所詮独りよがりだとしてもラヴィはこの選択をとることにした。人通りの多い場所よりも雑木林が蔓延る場所を選びながら走り抜く。街灯も少なく暗闇に包まれた道や木々の間は夜目の効くラヴィには大した障害にもならず、軽快に走り抜けながら漆黒の服の胸元の中で微かに揺れる巾着袋を押さえた。


(攻撃を受けても、この薬で一時的になんとかなる)


任務に就くようになってから一年が過ぎた頃、一度だけ不覚を取り相手に追い詰められたことがある。ラヴィよりもひとまわりも大きいのに敏捷さも兼ね揃えた厄介な同業の相手だった。元々体を酷使し、生きるために何でも口にしていたことが功を奏していたのか、毒薬類には耐性があり、訓練の一つであった毒慣らしではそう苦労しなかった。

だがその相手から毒が塗布されたナイフで腕を僅かに斬られた時、今までにない毒の類だったらしく急に力が入らなくなり膝をついてしまったのだ。ラヴィが完全に動けなくなったと思い込み相手が隙を見せた時、咄嗟に緊急時用にもらっていた黒の錠剤を口に放り込み噛み砕いた。

刹那、心身の底から無理矢理上乗せされたかのような漲る力が沸き起こり、体を瞬時に回転させて相手の足に打撃をおくり、躓いたところを持っていた毒針で昏倒させ難を逃れたのだ。任務を終え戻る最中も、周りの動き、異常に働く頭の中が過敏に捉えて全てが煩わしい位に神経が鋭敏になるくらい、一粒の錠剤のその効果に驚いたものだ。

既に何度かその黒い錠剤を服用しているスーリの話だと、使用したあとの副作用はそこそこきついらしいと聞いていた。ラヴィも服用した後はどっと倦怠感を感じ、重ねて受けた毒の作用もあって翌日は丸一日使い物にならなかったくらいだった。


(でも大量に摂取すると最悪記憶障害や錯乱、死亡の可能性もある)


アルディス相手にどれだけできるかは関わりがないから定かではないが、副作用を懸念して使用しない選択はない。それから半刻ほど走り続け、街灯が多い場所が見えてくると少し遠くにパジェスとは正反対の要塞のような大きな屋敷、アルディスの根城を確認した。

気配を消したまま更に近づき屋敷を巡回する鈍色に包まれた人間が徘徊しているのが目に入り、並木道の近くの死角になる茂みに潜んだ。巾着袋から黒い錠剤を数粒、取り出しやすいローブの内ポケットに閉まった。続いて足周りに忍ばせた手に収まる長さの細長い針状の飛び道具を抜き、息を整える。

上を向き雲に少し隠れた月の位置を確認して日が変わるまで半刻を切るくらいだろう。ラヴィは目を閉じて今までを振り返る。


一般的にみればラヴィの人生は良いものではなくナリエの言うように可哀想だといわれる類のものなのかもしれない。だがそれが常だったラヴィからしたらスーリやユーリと共にスラム街で共に暮らし、ロイと出会ったことはそう悪いものでも哀れなものでもないのだと思うのだ。

身も心も汚し汚され諸々汚れきっているが、それでも新しい感情を覚えその先にある純粋に誰かを想う気持ち。周りの環境が過ごしづらいことはあっても一息つける決まった寝床と食事がある。充分ではないか。それを幸せだと一つの理由でも良いのではないか。少なくとも生まれも育ちにも沢山恵まれているのに、笑顔で人を貶めるナリエの歪な表情と感情を持つようになるくらいなら今の自分の方がましとさえ感じる。

今回のラヴィの勝手な行動で責められるどころか粛清対象になるかもしれない。しかし心の奥底でどうしても今この時に動かなければ、後悔する気がしてならない。何故そう思うのかどうしてなのかラヴィの頭の中では解決しきれていない。

ならば思うがままに遂行することを選ぶ。色々な出来事があった全てを踏まえてラヴィは自分自身で決めてこの行動に移す。


(私が自分で決めた。行動しない選択肢はない。この責任はどうあっても自分でとる)


全神経を集中して研ぎ澄ませる。過去の自分の経験と知識、自分の判断と直感を信じて。ラヴィは目を静かに開いて内ポケットから黒の錠剤を取り出し口に入れた。


その直後、アルディスの屋敷からどん、という何かが破壊される音、数か所から同時に聞こえる人の怒号と断末魔、窓が割られる音が一斉に耳に入ってきた。


「襲撃だー!!!!!」
「頭領とラウロ様に報告!!!」


アルディスの工作員らしき叫び声が次々に耳に届く。スーリ曰く、アルディスはパジェスのような少数精鋭のように各々の能力に秀でているわけではないが、人数がとにかく多い。しかし側近と呼ばれる人物はずば抜けた能力の持ち主らしい。

ラヴィは感覚を集中させながら口で転がしていた錠剤を噛み砕いた。

じわりと苦みが広がった直後、全身の神経がぶわりと覚醒し、各場所の争いの人数すら把握できそうだ。


(初っ端から躓くわけにはいかない。ここからは持久戦だ)


深呼吸を一つして襲撃されている物々しい屋敷を見据え、ラヴィは裏門の方へ走り出した。任務では常時片目で動いていたので、両目に入ってくる景色の情報が広範囲で頭の中を駆け巡り、格段に動きやすい。
ステップを踏み、閉まっている裏門近くの壁を音を立てずに蹴って登る。裏門入口付近には斬撃音が飛び交う数名の漆黒のパジェス工作員と、その倍以上はいる鈍色服達。ラヴィは鈍色服に向けて麻痺毒の飛び道具を数人の首元や手足に放ち、昏倒か動きを制限させた状態を一瞬見て確認し、爆破され破壊した窓があっただろう壁から侵入した。

そこからは気配を消していても何人もの鈍色服と遭遇すれば戦闘になる。いくらラヴィが覚醒状態で敏捷な動きをしていても数には勝てず、飛び道具で仕留めながらも腕や足に傷が徐々に増え、蹴飛ばされた腹部や脇腹への攻撃を受けながらも残りの一人を仕留め終えたラヴィは口に錠剤を入れて廊下へ出た。



「あれ」


廊下の先には数人の鈍色服とすらりと背が高く、濃紺の軍服を身に纏った細身の青年が立っていた。その顔を見たラヴィは瞬きをひとつした。


「君は…あの時の子かな?情報と違って綺麗なオッドアイだね」


屋敷内で蔓延る喧騒からは想像できない穏やかな声色の彼は、あの公園で出会った青年だった。


「ラウロ様!こいつはまさか…」
「うん。頭領が欲しがっているオッドアイの子だね。あの阿婆擦れお嬢様が囀ったことは本当だったみたいだ。やれやれ、醜い嫉妬からの悪気のない無邪気な行動がパジェスを巣食ってるなんて」


優しい声とは裏腹に物騒な言葉を羅列するのを聞きながらも、ラヴィは潜めてはいるが相当な手練れの気配が滲み出ている彼に驚く。公園での彼の気配は全く読めなかった。


(ラウロ…段違いの能力だ。この人が恐らく側近)


周りにいるガタイの良い男たちに比べると、まるで人の良い青年にしか見えない。だが奥底に感じている気配はロイに匹敵するかもしれない。これを公園で会った時は隠していたのか。両目の状態で覚醒していても勝てそうにない相手にラヴィは肌がざわめく。


(囀っていた…?パジェスを巣食う?)


ラウロが言っていた言葉。ラヴィの目のことを話した相手は誰だろう。鈍色服から追われた経験からラヴィの存在は知っているはずだが、あの時はロイが全部処理したといっていたのだ。どこから漏れた?
阿婆擦れは女を示すことが多い。パジェスに居てラヴィを陥れる理由を持つお嬢様と呼ばれる人物。


ナリエだ。


ナリエはパジェスを裏切っていたということか?
オッドアイの自分の情報をアルディスに流した。
ラヴィが邪魔だったから。

確執がある敵と知っているのに?
ラヴィのせいで?
たったそれだけのために?

理解し難い彼女の思考にラヴィは戸惑ったが、今はそれどころではない。


「僕は頭領のとこに行かなきゃだから、この子の捕獲よろしく。多少の怪我は致し方ないけど顔は傷つけないでね、女の子だし」


捕まえておけという言葉にそぐわない軽やかな口調だ。正真正銘アルディスの人間なのだ。あの公園のことを思い出すと僅かに喪失感を覚えたが、ラヴィはそれを打ち消して彼をみつめる。


「させない。貫くものがある」


彼が覚えているか分からないが、己を貫ければ良いねという言葉。ラヴィは今それを実行しているのだ。ラウロは少し目を丸くさせた後、ふっと細めた。


「そう。じゃあまたあとで」


あの時に会ったままの穏やかな表情で微笑んだラウロは廊下の奥へ向かっていき、その場所には数名の鈍色服が立ち並び、いつの間にかラヴィの背後にもいて囲まれていた。


(ここで捕まるわけにはいかない)


前後合わせて10名ほどの相手にラヴィは急に両手をだらんと落とし、無防備な姿になる。


(思い…願い。――――そう。願うことは一つ)


怪訝な表情をしながらも数名がこちらに寄ってきた時、ラヴィは口の中の物を噛み砕いた。ざっと感覚が先程よりも更に鮮明になり、ラヴィは瞬時にローブに両手を突っ込み走り出し、踊るように壁を蹴って体を回転させながら近距離専用の毒の塗られた小型ナイフを巧みに操作して、歩いてきていた二人を立て続けに斬りつけた。傷から毒が瞬時に体内に廻り、どっと音を立てて倒れた仲間に後方にいた奴らは憤怒の激怒した。


「このくそガキが!」
「手こずらせやがって!!」


前後から彼等が一斉に襲いかかるのを、少し緩やかな動作に見えているラヴィは確実に一人一人仕留めていった。


(願うことは)


その後も次から次へと湧いてくる相手に段々を息は切れていく。


(一緒が良い。少しでも近くて…滅多に会えなくても我慢するから)


倒しながら階下に進むと、数名を一人で対応して苦戦するキスラを見つけ、飛び道具を数人に放ち、彼が何か叫んで呼ぶのを無視して階段を昇っていく。


「オッドアイだ!気色悪い小娘が!」
「下でこいつに何人もやられてる。悍ましいガキが!!」
「捕まえろ!殺さなければ何でも良い!」


上から怒号を飛ばして攻撃してくる鈍色服を避けたり仕留めたりしながら二階に上がったところで轟音が鳴り響く。小型手榴弾を得意とするレビンお手製のものの音だ。そこにいた彼は片手をだらりとさせていて負傷している。奥から着弾を免れた数名がレビンに襲いかかろうとし、ラヴィはローブから錠剤を数粒口の中に放り込み、一粒噛み砕いた瞬間頭に激痛が奔った。思わず片目を閉じながらも小型ナイフで手前にいた一人の首を掻き切り、血飛沫を浴びたローブをはためかせながらまるで円舞のように自由自在に壁と床を使い靭やかに跳躍し、避け、仕留めていった。


(黒いのを助けて鈍色を…倒、す…?)


ここでラヴィに変化が訪れる。割れるような頭痛に始まり、感覚が更に剥き出しにされたようにびりびりと身体中が漲るのを超えて悲鳴を上げているように感じてくる。相手への攻撃も一撃でその生命を奪い取るような急所を完全に狙った非情なものに切り替わっていた。リミッターが外れたように傷つけて倒れていく相手に何一つの感情も動かない。

能面なのに爛々と鈍く輝く紫と黄緑の瞳を見た何人かが、「ひっ…」と声を漏らし慄いた。


またしても奥から鈍色服が湧いてきて、そちらに目を向けた瞬間、シュッと後方から何かが投げられ、その後の爆音により多分味方の一人が投げたのだと顔を腕で覆いながら理解する。振り向くと怪我をして座り込んでいる彼は何故か目を見開いて驚いている。


(漆黒色の服だから…味方?)


ラヴィは微かに首を傾げていると、階下から違う漆黒服の一人が駆け上ってきた。


「レビン!―――っ。お前…」


もう一人もラヴィを見て驚愕の表情を浮かべている。


この時のラヴィは、端正だが無表情の小柄な女が自分の流した血や相手の返り血でローブ滴らせ、顔や手にも血が飛び散り、鈍く光るオッドアイの瞳でどこも見ていないような禍々しくも美しい表裏一体のような姿だった。何かを言う漆黒服達に見向きもせずラヴィは更に上に上がっていった。





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