上 下
4 / 39

開幕④・魔王は侍女に感謝する

しおりを挟む
 アーデルハイドは静かに窓の外を眺める。日射しが降り注いで彼女の身体はほのかに温められていく。窓を開けて風を感じたかったものの季節はまだ温かくなり始めたばかり。上着や毛布がしまってある衣装棚との往復は今の自分には無理だと早々に諦めた。
 これまで彼女にとって硝子を隔てた外は別世界。部屋に閉じ込められた籠の鳥でしかなかった彼女にとって外はただ見つめるしかなかった。それが今や手を伸ばせば届きそうな所まで近づいてきている。胸が高鳴るのを感じずにはいられなかった。

 静かにカップを口に運んで鮮やかな橙色をした紅茶を飲んでいると、静寂に包まれた部屋の中に廊下側の扉がノックされる音が響き渡った。

「失礼します」

 そして扉の外からはアーデルハイドがここ数年一番慣れ親しんだ声が耳に届く。

「うむ、入るがよい」

 部屋の主の許しを得て扉が重厚に開かれていく。廊下より姿を現したのは水差しを手にした侍女だった。彼女は部屋に入るなり優雅に茶を満喫するアーデルハイドを目にして……、

「お……お嬢様……?」

 息を飲んで水差しを取り落とす。硝子の入れ物は割れずに絨毯の上で転がり、入っていた水がこぼれて広がっていった。

「どうしたのだパトリシア、そんなに驚いて」

 パトリシアと呼ばれた侍女は落とした水差しには目もくれずにただ茫然と立ち尽くす。そして目を何度も擦って再びアーデルハイドを見つめる。それでも彼女が目にした光景は決して変わらず。パトリシアは口元を手で押さえて身体をよろめかせ、瞳を潤ませた。

「お嬢様……お身体の調子はよろしいのですか……?」
「今日はすこぶる調子が良いのだ。このように自分の足で寝具から抜け出せるほどにな」

 そんなパトリシアに向けてアーデルハイドは笑いかけてやった。魔王が色濃く反映された現在のアーデルハイドはようやくパトリシアの気が動転する様子に納得がいった。そう言えばこの数年ほど自力で起きた試しがなかったな、と。
 パトリシアは瞳を揺らし、大粒の涙を零れ落としていく。

「お嬢様……回復なさったのですね……!」
「うむ、色々と心配をかけたな。そなたの長きに渡る忠義、わたしは嬉しく思うぞ」

 アーデルハイドは両腕をパトリシアの方へと広げてみせる。感極まったパトリシアはたまらずに駆け出し、アーデルハイドの胸へと飛び込んだ。泣き崩れる侍女の頭をアーデルハイドは優しくなでる。自然と彼女の口は微笑みを浮かべていた。
 ようやく正気に戻ったパトリシアは床が真正面に見える程に頭を下げて自分の主人に謝る。アーデルハイドはそれを寛大に赦し、従者にテーブルの相席に座るよう促した。パトリシアはその前にこぼした水を片付けると深々と頭を垂れた。

「私めは嬉しゅうございます。神様に縋ってもお嬢様はもう快方に向かわないと思っていましたので」
「神はわたしに試練ばかり与えおったが、代わりに酔狂な提案を持ちかけた者がおってな」
「もしや、どなたかがお嬢様を治療なさったのですか? もしそうでしたら心よりお礼を申し上げないと」
「何、慈悲を貰ったわけでもない。ある一種の契約を持ちかけられたのでな」
「契約、ですか?」

 雑巾で絨毯に沁み込んだ水を掃除していたパトリシアは首を傾げた。公爵令嬢とはいえ病弱で表舞台に姿を見せないアーデルハイドについてはほとんど社交界に知れ渡っていない。婚約者すら足が遠のいている有様で誰が主に話を持ちかけたのか、と思ってくれていると侍女の反応を受け取ったアーデルハイドは満足そうに微笑を湛える。

「そなたもわたし達貴族の子が高等教育を受ける事は知っているだろう?」
「はい。神聖帝国内の貴族方の子息、息女が集う帝国学園ですね」
「その学園に入学するようにと言われた」
「学園に、でございますか。確かにお嬢様はもうじき学園に行かねばならない年齢ですが……」
「体調が芳しくないからと諦めておったが、その者はどうしてもわたしを学園に通わせたいらしい」

 その者とは余に他ならぬがな! とアーデルハイドは心の中で威張った。ただ今の自分が魔王であるとまだ己の侍女に明かす気は無かった。正体が明かされる展開は予言の書でも後半の方。物語が始まってもいない今はその時期ではなかった。

「あの、その救い主様はどうしてお嬢様に手を差し伸べられたのでしょうか?」
「大義を成す為、とだけ今は申しておこう」

 その大義とは悪役令嬢として正々堂々舞台に立つ事。予言の書の顛末を覆してメインヒロインなる存在の好きにはさせない事を指す。これはパトリシアには不必要な情報だと判断して口にしなかった。目の前の侍女は事情を知っていようがそうでなかろうが忠誠に揺るぎないから。

「そこでだ。わたしには早々にやらねばならぬ事柄が沢山あるぞ」
「私に出来る事がございましたら何なりとお申し付け下さい」
「ではな、そなたは現状のわたしを見てどのように思う?」
「病弱でありながらもなおお美しゅうございます」
「世辞は良い。見てみよこの枝のようなか細い腕と脚を。この有様では外を出歩くなど到底かなわぬであろうな」
「……確かに正直申し上げまして、痩せすぎと思います」

 寝具より窓際のテーブル席に移動出来たのも身体強化魔法で補助したからであり、本来長年に渡りほとんど動かせていなかった身体は衰えに衰えている。まずは日常生活に支障が出ない程度には筋力と体力を取り戻す必要があった。

「まずは食から変えねばならぬか。無理にでも肉を取って養わねばならぬ」
「では本日の昼食より献立を変えるよう料理人には伝えます」
「それから今のわたしに合う服や靴、装飾品が足りぬな」
「……仰る通りかと」

 悪役令嬢に相応しく贅沢三昧、と口走る気はアーデルハイドには無かった。それ以前に長年部屋からも出ていなかったせいで公の場に姿を見せる為の正装どころか部屋着すら無い始末なのだ。さすがに普段愛用している寝巻ではどうしようもない。

「直ちに手配頂くよう奥様にお伝えいたします」
「パトリシアよ。その件だがわたしが学園に行けるまで回復したと家族には知られたくない。しばしの間黙っていてもらえぬか?」
「えっ? どうしてですか? 旦那様も奥方様もお嬢様の回復を待ち望んでおられました。お伝えしないわけにはまいりません」
「理由は追って話す。頼む、この通りだ」

 アーデルハイドは据わったままでパトリシアに頭を下げた。まさか仕える主から頼まれてしまい、パトリシアは少しの間慌てふためいてしまう。けれど程なく彼女は落ち着きを取り戻し、優雅に一礼してみせる。

「畏まりました。お嬢様の思うがままに」
「頼む。わたしの服飾や装飾はわたし自身が使わずじまいだった貯蓄を使うがよい。それとわたしの学園入学に関する手続きを進めるのだ」
「お言葉ですが諸手続きに関しては私の及ぶものではございません」
「屋敷の執事に対応してもらえば問題ない」

 他にもアーデルハイドは肌の手入れや髪質の改善をパトリシアと相談した。更に現在の情勢についてを調べるよう命じ、一旦下がる許しを与える。
 スカートのすそを摘まみ上げてお辞儀したパトリシアは踵を返して部屋の出入り口へと足を進めていき……、

「そう言えばパトリシアよ。そなたがわたしに仕えるようになってから何年が経つ?」

 アーデルハイドからの唐突な質問に引き留められた。パトリシアはその場で反転して自分の従う主に身体を向ける。はしたなくメイド服のスカートが浮かないよう静かに。

「私が公爵家にお仕えするようになってからもそれほど年月は経っておりません。おそらくは三、四年ほどかと」
「なんと、たったそれだけであったか。ううむ、どうも幼少の頃よりそなたと共にあったような気がしてならぬなぁ」

 と語ったもののそれには半分以上アーデルハイドの願望も含まれていた。何故なら、婚約者どころか家族や使用人からも疎遠になっていた彼女にとって唯一長い間時間を共にした相手がパトリシアのみだったから。
 アーデルハイドが狭い世界においてなお人らしくあれたのは、献身的に尽くす従者がいたからに他ならなかった。魔王と一体化した今でもその恩義は忘れられない。そして彼女の心がアーデルハイドの心を優しく温めるのだ。

「そなたには苦労ばかりかけたな。許せとは言わぬ」
「そんな、とんでもございません」
「しかし今日よりはわたしこそが主役として大衆の視線を集めるであろうな! いかに他の有象無象の輩が舞台上に躍り出ようとすぐさま霞むに違いないぞ!」
「ふふっ、では私はお嬢様にずっと付き従えるよう頑張らねばいけませんね」

 主と従者の二人が笑う。輝き始めた未来へと想いを馳せて。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された侯爵令嬢は、元婚約者の側妃にされる前に悪役令嬢推しの美形従者に隣国へ連れ去られます

葵 遥菜
恋愛
アナベル・ハワード侯爵令嬢は婚約者のイーサン王太子殿下を心から慕い、彼の伴侶になるための勉強にできる限りの時間を費やしていた。二人の仲は順調で、結婚の日取りも決まっていた。 しかし、王立学園に入学したのち、イーサン王太子は真実の愛を見つけたようだった。 お相手はエリーナ・カートレット男爵令嬢。 二人は相思相愛のようなので、アナベルは将来王妃となったのち、彼女が側妃として召し上げられることになるだろうと覚悟した。 「悪役令嬢、アナベル・ハワード! あなたにイーサン様は渡さない――!」 アナベルはエリーナから「悪」だと断じられたことで、自分の存在が二人の邪魔であることを再認識し、エリーナが王妃になる道はないのかと探り始める――。 「エリーナ様を王妃に据えるにはどうしたらいいのかしらね、エリオット?」 「一つだけ方法がございます。それをお教えする代わりに、私と約束をしてください」 「どんな約束でも守るわ」 「もし……万が一、王太子殿下がアナベル様との『婚約を破棄する』とおっしゃったら、私と一緒に隣国ガルディニアへ逃げてください」 これは、悪役令嬢を溺愛する従者が合法的に推しを手に入れる物語である。 ※タイトル通りのご都合主義なお話です。 ※他サイトにも投稿しています。

どうやら私は乙女ゲームの聖女に転生した・・・らしい

白雪の雫
恋愛
「マリーローズ!ガニメデス王国が認めた聖女であるライムミントに対して罵詈雑言を浴びせただけではなく、命まで奪おうとしたそうだな!お前のような女を妃に迎える訳にはいかないし、王妃になるなど民は納得せぬだろう!マリーローズ、お前との婚約を破棄する!」 女の脳裡に過るのは婚約者に対して断言した金髪碧眼の男性及び緑とか青とかの髪のイケメン達に守られる一人の美少女。 「この場面って確か王太子による婚約者の断罪から王太子妃誕生へと続くシーン・・・だっけ?」 どうやら私は【聖なる恋】という18禁な乙女ゲームの世界に転生した聖女・・・らしい。 らしい。と思うのはヒロインのライムミントがオッドアイの超美少女だった事だけは覚えているが、ゲームの内容を余り覚えていないからだ。 「ゲームのタイトルは【聖なる恋】だけどさ・・・・・・要するにこのゲームのストーリーを一言で言い表すとしたら、ヒロインが婚約者のいる男に言い寄る→でもって赤とか緑とかがヒロインを暴行したとか言いがかりをつけて婚約者を断罪する→ヒロインは攻略対象者達に囲まれて逆ハーを作るんだよね~」 色々思うところはあるが転生しちゃったものは仕方ない。 幸いな事に今の自分はまだ五歳にもなっていない子供。 見た目は楚々とした美少女なヒロイン、中身はオタクで柔道や空手などの有段者なバツイチシンママがビッチエンドを回避するため、またゴリマッチョな旦那を捕まえるべく動いていく。 試験勉強の息抜きで書いたダイジェストみたいな話なのでガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義です。 ヒロインと悪役令嬢sideがあります。

ぽっちゃりな私は妹に婚約者を取られましたが、嫁ぎ先での溺愛がとまりません~冷酷な伯爵様とは誰のこと?~

柊木 ひなき
恋愛
「メリーナ、お前との婚約を破棄する!」夜会の最中に婚約者の第一王子から婚約破棄を告げられ、妹からは馬鹿にされ、貴族達の笑い者になった。 その時、思い出したのだ。(私の前世、美容部員だった!)この体型、ドレス、確かにやばい!  この世界の美の基準は、スリム体型が前提。まずはダイエットを……え、もう次の結婚? お相手は、超絶美形の伯爵様!? からの溺愛!? なんで!? ※シリアス展開もわりとあります。

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

王子好きすぎ拗らせ転生悪役令嬢は、王子の溺愛に気づかない

エヌ
恋愛
私の前世の記憶によると、どうやら私は悪役令嬢ポジションにいるらしい 最後はもしかしたら全財産を失ってどこかに飛ばされるかもしれない。 でも大好きな王子には、幸せになってほしいと思う。

私の婚約者は6人目の攻略対象者でした

みかん桜(蜜柑桜)
恋愛
王立学園の入学式。主人公のクラウディアは婚約者と共に講堂に向かっていた。 すると「きゃあ!」と、私達の行く手を阻むように、髪色がピンクの女生徒が転けた。『バターン』って効果音が聞こえてきそうな見事な転け方で。 そういえば前世、異世界を舞台にした物語のヒロインはピンク色が定番だった。 確か…入学式の日に学園で迷って攻略対象者に助けられたり、攻略対象者とぶつかって転けてしまったところを手を貸してもらったり…っていうのが定番の出会いイベントよね。 って……えっ!? ここってもしかして乙女ゲームの世界なの!?  ヒロイン登場に驚きつつも、婚約者と共に無意識に攻略対象者のフラグを折っていたクラウディア。 そんなクラウディアが幸せになる話。 ※本編完結済※番外編更新中

転生者はチートな悪役令嬢になりました〜私を死なせた貴方を許しません〜

みおな
恋愛
 私が転生したのは、乙女ゲームの世界でした。何ですか?このライトノベル的な展開は。  しかも、転生先の悪役令嬢は公爵家の婚約者に冤罪をかけられて、処刑されてるじゃないですか。  冗談は顔だけにして下さい。元々、好きでもなかった婚約者に、何で殺されなきゃならないんですか!  わかりました。私が転生したのは、この悪役令嬢を「救う」ためなんですね?  それなら、ついでに公爵家との婚約も回避しましょう。おまけで貴方にも仕返しさせていただきますね?

【完結】ヤンデレ設定の義弟を手塩にかけたら、シスコン大魔法士に育ちました!?

三月よる
恋愛
14歳の誕生日、ピフラは自分が乙女ゲーム「LOVE/HEART(ラブハート)」通称「ラブハ」の悪役である事に気がついた。シナリオ通りなら、ピフラは義弟ガルムの心を病ませ、ヤンデレ化した彼に殺されてしまう運命。生き残りのため、ピフラはガルムのヤンデレ化を防止すべく、彼を手塩にかけて育てる事を決意する。その後、メイドに命を狙われる事件がありながらも、良好な関係を築いてきた2人。 そして10年後。シスコンに育ったガルムに、ピフラは婚活を邪魔されていた。姉離れのためにガルムを結婚させようと、ピフラは相手のヒロインを探すことに。そんなある日、ピフラは謎の美丈夫ウォラクに出会った。彼はガルムと同じ赤い瞳をしていた。そこで「赤目」と「悪魔と黒魔法士」の秘密の相関関係を聞かされる。その秘密が過去のメイド事件と重なり、ピフラはガルムに疑心を抱き始めた。一方、ピフラを監視していたガルムは自分以外の赤目と接触したピフラを監禁して──?

処理中です...