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苔岩と女の人
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苔むす岩の上にあぐらをかいて静かに瞑想する少年がいた。
ときおり鳥が飛んできて彼の周りでぶーんとうなるハエを飲み込んでいく。
少年はじっと目を閉じたまま微動だにせず、木の枝で休んでいる鳥のチチチという鳴き声に耳を傾けていた。
ある日のこと、いつも通りの修行の時間、少年が指定席の苔岩に陣取り静かに座っていると、小さな鳥の羽ばたきが聞こえてきた。
おや、今日は可愛らしい音がするぞ。
少年がちらりと片目だけ開いて見てみると、なんとまあ小柄で美しい羽を持った鳥ではないか。
この辺りでは見かけないやつだ。
少年がうむむと口をもごもごさせながら鳥の名前を思い出しているとき、今度は鳥ではなく人の声がした。
それも女の人の。
――もし、あなた、
少年はしばし黙していた。
師匠から聞いたことがある。これが山に迷った者を襲い喰らうという山姥の変化した姿ではあるまいな?
――もし……
か細い女の人の声は少年の耳へ甘くささやいてきた。
少年は不覚にも心が揺らいでしまったが、我慢、我慢、と自分に言い聞かせて両目をぎゅっと閉じて耐えていた。女の人はしきりに少年へ訴えていたが、やがてあきらめたとみえる、衣擦れの音がして石ころを踏んで去っていく草履の音が遠ざかっていった。
……ふう。
少年はまだ目を閉じていたが、山姥と思しき悪女が去っていったことに安堵していた。
あれがもし、妖ではなく本物の人間であったとしても、だ。このような孤独な山に女ひとりで入ってくるなんて、なんて命知らずなのだろう。そのようなことをする人がいるはずない、と心に言い聞かせた。
少年は気を取り直して深呼吸した。邪念を消してしまわなければ。腹の鳴る音を無視して日が暮れるまで瞑想にふけっていた。
暮れになり、少年はやっと目を開けた。
ふわりと花の匂いがする。
この時間に咲く花があったかな、と思いながら振り返ると、あろうことか昼間の女の人が苔岩のすぐ近くで横座りになっているではないか。
えっっ
少年は驚いて飛び上がった。強靭な精神を身につける修行をしていたはずが、なにも成果がない。それも仕方のないこと。彼にとって生まれて初めてのできごとなのだから。
あの、お嬢さん……
少年はついに心折れて女の人に声をかけてしまった。思えばこれが彼の受難の始まりである。修行が足りなかったと後悔するのは後の話。
女の人は頭に巻いていた手ぬぐいをほどき、ふっくらした白い顔を見せた。
ああ、もしも彼女の正体が山姥だとしても、今この瞬間だけは幸せな気持ちでありたい。
少年は胸がざわざわするのを抑えるのに必死だった。おどおどしている少年を見て、女の人はにこりと笑ってみせた。つややかな黒髪がひとふさ、肩をすべり落ちる。着物はあまり上等ではないがしっかりした仕立てのものだ。
よかったあ。やっと私を見てくださった。
軽やかな声、まろやかなほほ笑みに少年はぴゅんと心が吹き飛んでしまった。
ときおり鳥が飛んできて彼の周りでぶーんとうなるハエを飲み込んでいく。
少年はじっと目を閉じたまま微動だにせず、木の枝で休んでいる鳥のチチチという鳴き声に耳を傾けていた。
ある日のこと、いつも通りの修行の時間、少年が指定席の苔岩に陣取り静かに座っていると、小さな鳥の羽ばたきが聞こえてきた。
おや、今日は可愛らしい音がするぞ。
少年がちらりと片目だけ開いて見てみると、なんとまあ小柄で美しい羽を持った鳥ではないか。
この辺りでは見かけないやつだ。
少年がうむむと口をもごもごさせながら鳥の名前を思い出しているとき、今度は鳥ではなく人の声がした。
それも女の人の。
――もし、あなた、
少年はしばし黙していた。
師匠から聞いたことがある。これが山に迷った者を襲い喰らうという山姥の変化した姿ではあるまいな?
――もし……
か細い女の人の声は少年の耳へ甘くささやいてきた。
少年は不覚にも心が揺らいでしまったが、我慢、我慢、と自分に言い聞かせて両目をぎゅっと閉じて耐えていた。女の人はしきりに少年へ訴えていたが、やがてあきらめたとみえる、衣擦れの音がして石ころを踏んで去っていく草履の音が遠ざかっていった。
……ふう。
少年はまだ目を閉じていたが、山姥と思しき悪女が去っていったことに安堵していた。
あれがもし、妖ではなく本物の人間であったとしても、だ。このような孤独な山に女ひとりで入ってくるなんて、なんて命知らずなのだろう。そのようなことをする人がいるはずない、と心に言い聞かせた。
少年は気を取り直して深呼吸した。邪念を消してしまわなければ。腹の鳴る音を無視して日が暮れるまで瞑想にふけっていた。
暮れになり、少年はやっと目を開けた。
ふわりと花の匂いがする。
この時間に咲く花があったかな、と思いながら振り返ると、あろうことか昼間の女の人が苔岩のすぐ近くで横座りになっているではないか。
えっっ
少年は驚いて飛び上がった。強靭な精神を身につける修行をしていたはずが、なにも成果がない。それも仕方のないこと。彼にとって生まれて初めてのできごとなのだから。
あの、お嬢さん……
少年はついに心折れて女の人に声をかけてしまった。思えばこれが彼の受難の始まりである。修行が足りなかったと後悔するのは後の話。
女の人は頭に巻いていた手ぬぐいをほどき、ふっくらした白い顔を見せた。
ああ、もしも彼女の正体が山姥だとしても、今この瞬間だけは幸せな気持ちでありたい。
少年は胸がざわざわするのを抑えるのに必死だった。おどおどしている少年を見て、女の人はにこりと笑ってみせた。つややかな黒髪がひとふさ、肩をすべり落ちる。着物はあまり上等ではないがしっかりした仕立てのものだ。
よかったあ。やっと私を見てくださった。
軽やかな声、まろやかなほほ笑みに少年はぴゅんと心が吹き飛んでしまった。
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