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第3章 【すぐに行く】

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 目の前に見えるのは、真っ暗な海とひっそりと建つ鳥居。そばには神様が祀られているという、古い祠。
 普通だったらこんな状況、不気味に決まっている。だけどいまは普通じゃなかった。
 叔母さんの家を飛び出してしまったわたしは、もうここしか行く場所がないんだ。

「どうしよう……これから」

 ついさっきまで「甘えたくない」と思っていたのに、もうすでに心細くなっている。
 頭に浮かぶのは春輝の顔ばかり。
 抱えた膝に顔を押しつけ、波の音を聞く。ここで体を寄せ合って「いいね。雨の日も」と言った、春輝の声を思い出す。

「春輝……」

 スマホの画面をじっと見下ろす。
 春輝はもう家にいるだろう。さっき別れたばかりなのに、連絡なんかしたら迷惑だよね? 春輝のことだから、わたしのことを心配して、すぐに来てくれるかもしれない。

『おれはいつだって奈央の味方だから。なにかあったらすぐに呼んで。どこへでも助けにいくから』
「春輝のこと……頼ってもいいの?」

 ぽつりとつぶやいて、メッセージアプリを開いた。画面に指をのせ、それを引っ込め、また指をのせ……何度かそれを繰り返したあと、思い切ってメッセージを入力して送信する。

「……送っちゃった」

 すぐにスマホが震え、慌てて画面を見る。春輝からの着信だ。

「も、もしもし……」
『奈央? いまどこにいるんだよ!』

 わたしは声を詰まらせる。

『【たすけて】ってなんだよ! 大丈夫なのか?』
「びっくりさせてごめん。大丈夫だよ」

 電話の向こうで、春輝がため息をつく。それと一緒に、ガヤガヤと騒がしい音も響いてくる。
 家にいると思ったのに……違うんだろうか。

『じゃあなんで【たすけて】なんて……』

 そのとき春輝の声に、別の声が重なった。

『春輝ー、なに話してんの?』

 女の子の声。

「美鈴?」

 そう、美鈴の声だ。

「美鈴といるの?」
『え、ああ、うん』
「なんで?」

 胸の奥がざわついて、もやもやしたものがせり上がってきて、体がかあっと熱くなった。

『や、違うんだよ。さっき奈央を送ったあと、すぐに慎吾から電話があってさ』

 慎吾くんから?

『放課後、やべーやつらと一緒にいたけど大丈夫だったかって、心配されて。いま駅前にいるから来いよって誘ってくれたんだ。だから来てみたら……なぜか美鈴しかいなくて』
「なぜかってなに? おかしいじゃん。そんなの」

 自分の口調がきつくなっていることに気づく。

『そうなんだよ、おれも意味わかんなくて……』
『ねぇ、いつまで話してんのよ、春輝。早く行こうよ』

 横から割り込んでくる美鈴の声。すごく腹が立つ。

「もういいよ。変なメッセージ送っちゃってごめん。春輝を試しただけだから」
『は? 試した?』
「そう。試しただけ。ほんとにわたしが呼んだら、来てくれるのかなって思って」

 春輝が黙った。

「だからもういい。邪魔しちゃってごめんね」
『ちょっと待って! ほんとにおれ、慎吾たちもいると思って来たんだよ』
「わかってる。騙されたんでしょ? でもせっかくだから遊んであげれば? 美鈴、春輝のこと好きみたいだし」

 思ってもいないことが、すらすら口から出てくることに驚く。
 本当は、春輝と美鈴がふたりきりでいるなんて、嫌で嫌でたまらないのに。

『奈央』

 春輝が名前を呼んだ。いつもより、ずっと低い声で。

『海にいるのか?』
「え……」
『波の音が聞こえる』

 わたしはハッと前を向く。荒れた波が、岩を打ちつけている。

『おれ、いまから行くから。だからそこで待ってて』
「春輝……」
『絶対動くなよ。すぐに……』
「もういいって言ってるじゃん! 絶対来ないでよ! バカ!」

 ぷつっと電話を切った。すぐに春輝から着信があったけど、無視してバッグに押し込んだ。
 バカ。春輝のバカ。
 背中を丸め、顔を膝に押しつける。
 どうしてそんなに優しくしてくれるの? わたしなんかのどこがいいの?

『まったく可愛げがないんだから』

 可愛げがなくて、素直じゃなくて、自分にまったく自信が持てない、こんなわたしのどこがいいの?

「……っく」

 泣きたくないのに、涙が出てくる。

『奈央。泣かないで』

 春輝の声が、頭の中に聞こえてくる。
 わたし、どうしてこんなふうになっちゃったんだろう。
 春輝と出会って、自分が自分じゃないみたい。


 しばらく声を押し殺して泣いていたわたしは、遠くに聞こえるかすかな救急車の音で顔を上げた。
 真っ暗な海も、打ち寄せる波も、少し冷たい風も、さっきからなにも変わっていない。
 そして、春輝も来なかった。

 わたしはふっと息を吐く。
 さすがに春輝も怒ったんだろう。「試してる」とか「バカ!」とか言われた上に、電話を切られて、電話をかけても無視されて。
 バッグに手を伸ばし、スマホを取り出す。
 不在着信のあとにすぐ、メッセージが一件。春輝からだ。

【すぐに行く】

 嘘ばっかり、来てないじゃん。
 きっと美鈴に引き止められたんだ。春輝は優しいから断れなかったんだろう。
 もう一度膝を抱え、海を見る。

「春輝……」

 目を閉じると、春輝の笑顔が浮かんできた。
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