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28.その言葉

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 末樹が試験真っ只中な頃、玖馬のスマートフォンに着信があった。よく画面も見ずに応答した玖馬は、聞こえてきた声に思わず背筋をピンとさせた。

「玖馬君?ごめんね、今大丈夫?」

 來樹だった。

「來樹さん!全然大丈夫です!」

 玖馬は読んでいた進路に関する本を机に投げるように置くと、どたどたしながらベッドを背もたれにして床に座った。

 その際、思わず傍にあったクッションを手に取り抱きしめた。

「あ、そういえば末樹先輩、今日試験ですよね?」

 玖馬は思いついた言葉をそのまま口にした。

「うん、そうだよ。もう出かけちゃったけど」

 來樹は電話口で少し笑いながら答えた。

「そうなんですね…!」

 玖馬は耳に入ってくる微かな笑い声が愛おしくて、無意識のうちに顔が緩んだ。

「あ、それでね玖馬君、この前玖馬君が見てみたいって言ってた、職業に関する資料を見つけたから、それを伝えたくて」

 來樹は気を取り直すように続けた。

「え!?早速ですか!?」
「うん。早く見せてあげたくて」

 來樹が言っているのは、年始に玖馬と会ったときに話していた、様々な専門職に関する資料のことだった。
 専門職を目指している來樹から話を聞いていた玖馬は、自分の将来も何かしらの専門職に就いてみたいと興味を抱き、資料を見てみたいと言っていたのだった。

「ありがとうございます!」

 玖馬は、誰もいない部屋の中で頭を下げた。

「でさ、もし今日時間があるなら、玖馬君のところ行こうかなって思って」
「え!?」

 來樹の提案に、玖馬はドキッとした。

「俺もこれから忙しくなりそうだし、渡せるときに渡したいなって」
「…は、はい!俺は全然大丈夫ですが…!」

 玖馬は焦りながら言った。その表情は、全くもって大丈夫そうではなかったが、声だけは取り繕っていた。

「良かった」
「あ、そしたら…」

 どこで落ち合おうかと聞こうとした玖馬を、來樹の声が遮った。

「玖馬君、今自分の家にいる?」
「えっ、そうです…」
「わざわざ出てきてもらうの悪いから、そっち行ってもいい?」

 來樹の言葉に、玖馬は一瞬固まった。來樹が、自分の部屋に来ようとしている。

「…え?」

 思わず聞き返してしまった。

「玖馬君の家が大丈夫ならで、いいんだけど。あ、でもお邪魔かな?」

 來樹は控えめに聞いてきた。

「あの、俺んち…だ、大丈夫ですよ」

 玖馬は高まる緊張を隠しながら冷静なふりをして言葉を発した。

「今、みんな出かけてるんで、全然大丈夫です」
「そうなの?良かった。それじゃあ、これからそっち行くね」

 來樹はほっとした声を出すと、玖馬の住所を再確認して電話を切った。
 以前、家庭教師で来てもらったことはあるが、來樹が訪ねてくるのはそれ以来だ。

「…どうしよ」

 玖馬はスマートフォンを力なく床に落とすと、放心状態で部屋を見回した。

「と、とりあえず片付け…!」

 抱きしめていたクッションをベッドの上に置くと、慌てて立ち上がり、散らかっている机の上を整理し始めた。普段そこまで部屋を荒らしているわけではないが、來樹が来るとなると話は違ってくる。
 玖馬は目に着いた気になる箇所をひたすら片付け、本棚に並んでいる少女漫画を隠すように本を並べ直した。

「よし…」

 窓を開けて換気を始めた玖馬は、一通り綺麗になった部屋に満足し、得意げな顔で鏡を見た。

「…うわ」

 そこでぼさぼさになっている自分の髪の毛に気付き、急いで髪を整えた。
 準備を終え、そわそわして落ち着かなくなってきた玖馬は、窓の外を見て、深呼吸を繰り返した。
 そうこうしているうちに、來樹が玖馬の家にやってきた。

「突然ごめんね。お邪魔します」

 來樹は玄関で玖馬に迎え入れられると、着ていた暖かそうなコートを脱ぎながら、玖馬の後に続いて部屋に向かった。

「久しぶりだなぁ」

 家庭教師をしていた頃を思い出して嬉しそうな顔をしている來樹を見て、玖馬は思わず息を呑んだ。何度見ても、その顔が好きだった。

「寒かったですよね。すみません、あんま暖かくなくてこの部屋」

 先ほどまで換気で窓を開けていた室内は、ほのかに暖かさを感じられる程度だった。

「ははは、大丈夫だよ。ほらこれ」

 來樹はそう言って玖馬に資料を渡した。

「ありがとうございます」

 玖馬はそれを受け取ると、嬉しそうに笑った。來樹が自分の部屋にいるという事実だけでも、玖馬はもうただただ嬉しかった。

「参考になるといいけど」
「絶対なります!」

 玖馬は資料を大事そうに抱えると、そのまま机の上に置いた。

「それにしても、玖馬君の部屋は綺麗だね」

 來樹は感心したような声で言った。

「前に来た時もそうだったけど、玖馬君は偉いね」
「そんなことないっス。…あ、來樹さんこちらにどうぞ」

 玖馬はベッドの前に置いてあるローテーブルの前に來樹を座るように促した。

「すみません、ソファとかなくて」
「あはは、気にしないで」

 來樹は玖馬に言われた場所に座ると、背もたれ代わりのベッドに背を預けて一息ついた。

「はー、疲れた」
「…來樹さん、今日もバイトとかでした?」

 玖馬は目を閉じて顔を上げる來樹を気遣うように見た。

「うん。今日は朝一で入ってて。末樹よりも早く出かけたから、末樹に直接頑張れって言えなかったよ。メッセージは送ったけど、ちゃんと見てくれたのかな」

 來樹は参った表情をして玖馬の方を見た。

「そうなんですね。すみません、それなのにわざわざ…」
「俺が来たくて来たんだから、いいんだよ」

 玖馬がしゅんとした表情になると、來樹は優しく笑いかけた。

「…来たくて…?」

 玖馬は何気なく繰り返した。

「うん。なんか玖馬君に会いたくて」

 來樹は穏やかな眼差しで玖馬を見た。

「俺に…?」
「玖馬君に合うと、元気出るから」

 玖馬のぽかんとした表情に向かって、來樹は玖馬の目を覗き込むようにして見た。
 上目遣いで見られた玖馬は、少しだけたじろいだ。的に打ち込まれた矢のように、心が揺れた。

「だから俺の勝手みたいなものだから、気にしなくていいんだよ」

 來樹は玖馬から顔を離すと、朗らかに笑った。

「……はい」

 玖馬はどぎまぎしたまま床を見た。來樹の雰囲気に、いつもよりも色気を感じ、どうしてよいか分からなくなってきた。


「玖馬君、俺ね、きっと玖馬君が思うような人じゃないよ」
「…?」

 來樹がぽつりと話し始めた。

「もう伊鶴さんからも聞いてるのかな?俺、ほんと優柔不断で、どうしようもない奴なんだ。みんな優しいって言ってくれるけど、そうじゃなくて、本当はただ臆病なだけ」

 來樹はちらりと玖馬の方を見た。玖馬は來樹の言葉を一言も聞き漏らさないというような姿勢で、真剣な顔をしていた。

「玖馬君も前に学祭で会った女の子いたよね?あの子みたいに、俺に気を持ってくれる子もいるけど、みんな俺のことはそこまで深く見ないから、表面だけを見て、好きだって言ってくれる子に、俺はどうしていいか分からなくて、ただ付き合うとかじゃなければ一緒に出掛けたりすることも断らないで、ずるずると引っ張っていっちゃうんだ。伊鶴さんにもやめろって言われてるけど、なかなか、怖くて…」 

 淡々と語る來樹の横顔を、玖馬は黙って見ていた。前に伊鶴から聞いていたのは、こういうことだったのだろうか。

「みんなが望む俺の姿を取り繕っているうちに、だんだん何が何だか分からなくなってきて。一部の人と一緒にいる時しか、気が休まらなかった。好きとか嫌いとか、もうそんな感情もどうでもよくなってさ。もういいやって、俺はこのままでって思ってた。…玖馬君が、俺を見てくれてることを知るまで」
「…え?」

 玖馬は、突然出て来た自分の名前に、思わず声が漏れた。

「玖馬君が、コーヒー店に来てくれて、毎日頑張って苦手を克服していく姿を見てさ、なんだか可愛くて。一生懸命に自分を生きていこうとする玖馬君が、本当に羨ましかった。一直線で、優しくて、でも、勿論まだまだぐらついちゃうこともあって。それでも、つらい時も、いつも笑顔を見せようとしてくれて」

 玖馬は來樹の話を聞いているうちに顔が赤くなってきた。次第に、恥ずかしくて俯いていった。

「そんな玖馬君に会うのが楽しくて、気付いたら、もう投げやりになってくすぶっていた気持ちが少しずつ晴れてきた。玖馬君が俺のこと真っ直ぐ見ると、俺は嬉しくて、心が軽くなる。玖馬君の気持ちが、いつも俺を支えてくれてる。もし、玖馬君が苦しんでいるのなら、そこから早く解放させたい。玖馬君のどんな感情も、俺は守っていきたい。それに気付いたとき、玖馬君に会いたくて、その笑顔が見たくなった。だからね、玖馬君、俺は自分の勝手でここまで来たんだよ。玖馬君と、ちゃんと話をしたくて」

 玖馬は、來樹の話が終わると、顔を上げて來樹を見た。大好きな來樹の優しい眼差しが、玖馬だけに向けられていた。心臓を打つ鼓動が早くなり、その音は耳まで聞こえてきた。
 全身が熱くなり、玖馬は汗ばんだ手をそっと隠すようにズボンで拭いた。

「玖馬君」

 來樹の自分を呼ぶ声に、玖馬は緩んでいく自分の表情を誤魔化そうと唇を噛んだ。

「はい」

 耳まで熱くなっていた。きっともう、來樹にも真っ赤な耳が見えていることだろう。

「ねぇ玖馬君、これは俺の我儘なんだけどさ」
「はい」

 玖馬は返事をするだけで精一杯だった。來樹が話していた玖馬という人物は、本当に自分のことで合っているのだろうか。

「ちゃんと、聞きたいんだ。玖馬君の口から」

 戸惑う玖馬を包み込むような、來樹のこれまでないくらいに優しすぎる声色に、玖馬の涙腺は限界を迎えていた。來樹が見ているのは、紛れもない自分だった。少しずつ、涙が溢れてきた。

「あ、すみません…あの…」

 玖馬は涙を止めようと試みたが、それは出来そうになかった。緊張が解けていこうとしている心は、もうその緩みを抑えることが出来なかった。

「あの…えっと…うっ」

 玖馬は手で涙を拭きながら、來樹の顔を上目で見た。

「玖馬君、聞かせてくれる…?」

 來樹は崩れ切った顔で自分を見る玖馬を見て、少しだけ顔を近づけて愛おしそうに微笑んだ。

「…はい…えっと…うぅ…」

 玖馬は涙を拭いながら、頑張って言葉を出そうとしていた。もう完全に涙は止まらずに流れ続けていた。

「お、俺、俺は……」
「うん」

 來樹は、少しずつ言葉を発する玖馬に、優しく頷いた。

「俺は、…その…ずっと…ずっと……」
「うん」
「……來樹さんの、ことが…、來樹、さんが…」
「うん」
「……大好き、です……」

 玖馬がそこまで言うと、來樹は玖馬の頭を優しく両腕で包み込みこんで自分の顔の横まで引き寄せ抱きしめた。

「やっと言えたね」

 來樹はそう言うと、玖馬の頭を軽くポンポンと叩いた。玖馬は、一瞬、抱き寄せられたことに驚いていたが、すぐに小さく頷くと、來樹の肩に顔をうずめ、その背中に腕を回して抱きしめた。

「俺、どんな來樹さんでも大好きです。色んな來樹さんのことが知りたい…。來樹さん、俺、こんなのだけど、それでも、來樹さんの支えになりたいです…これからも…」
「ふふふ」

 來樹は嬉しそうに笑うと、泣きながら言葉に詰まりつつも懸命に話す玖馬の頭を撫で、しばらくすると一度自分の身体から玖馬を離した。玖馬は少しだけ落ち着きを取り戻してきていたが、まだしっかりとは言葉を出せないようだった。目を真っ赤にして、來樹のことは直視できていなかった。
 來樹は、そんな玖馬の唇に、少し下の方から顔を寄せてキスをした。

「…!?」

 玖馬は突然の出来事に驚き、目を丸くしていた。もうほんの少しの距離もないところに、目を閉じた來樹の長い睫毛が見えた。身体の底から再び熱が上がってきた。

「…ん」

 來樹は息を漏らして唇を離した。玖馬は離れていく來樹の顔を、ただただ呆気に取られて見ていた。

「…はは、玖馬君、目が真っ赤だよ。痛くない?大丈夫?」

 來樹は、既に熱に侵されそうな玖馬の、涙で腫れてきた目を見た。

「痛くないです、…全然、平気です」

 玖馬は顔を左右にぶんぶんと振った。実際、腫れた目元は熱く、少し痛かったが、そんなことはどうでもよかった。
 來樹はまだ止まらない玖馬の涙を拭おうと、そばにあったタオルで玖馬の頬を優しく拭いた。

「ははは、我慢しないの」

 來樹の笑顔に、玖馬は胸がきゅんとした。まだ、來樹が玖馬の気持ちを受け入れてくれたことについての実感がなかった。そんな幸運、信じていいのだろうか。それでも、目の前にいるこの人は、こんなにも穏やかな表情で自分のことを見てくれている。それは確かなことだった。

「…來樹さん……もう一回」

 玖馬は、まだ涙が止まらないことを少し恥ずかしく思いながらも、涙が流れる度、來樹がそれを拭ってくれることが嬉しかった。

「ん?何?」

 來樹は涙を拭う手を止め、甘い瞳を玖馬に向けた。玖馬は、その甘さに照れながらも、しばらくの間をおいて口を開いた。

「………………………キス、したいです」

 玖馬の恥ずかしそうな表情に、來樹は目を細めて微笑んだ。そして玖馬の頬の表面にタオルを滑らせながら、その手を玖馬の耳の後ろまで回した。

「ん、おいで」

 再び両手で玖馬の頭を包み込むようにすると、玖馬の肩に腕を軽く乗せ、來樹は玖馬より少しだけ顔を下げた。そして見上げるようにして、玖馬の真っ赤になった顔を見た。

「…!」

 その挑発的な危険な誘いに、玖馬に緊張が走った。キスなんて、自分からしたことなどない。むしろさっきのが初めてだったのに。
 玖馬は戸惑いながらも、覚悟を決めてぎゅっと目を閉じると、來樹の顔に近づいた。しっかり目を瞑った玖馬とは対照的に、來樹は目を開けたまま、ぎこちない玖馬のキスを受け止め、そっと目を閉じた。その時、微かに來樹の口角が緩んだ。
 來樹の柔らかい唇から伝わる温もりに、玖馬は緊張の糸が、完全に解けていくようだった。ずっと棘が引っかかっていた胸の痛みから、ようやく解放されていく感覚だった。心が解放され、これまでにない幸福感に満ち溢れる玖馬の目元は、まだ涙が光っていた。

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