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25.過去の盲目
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二時間が過ぎた頃、集中力が切れてきた玖馬は、玖馬の解いた問題を読んでいる伊鶴をちらりと見た。
物静かな伊鶴は、その集中した表情から、端正な顔立ちをより凛々しくさせていた。
「なんだ、疲れたのか?」
見られていることに気づいた伊鶴は、玖馬に視線を合わせた。
「え…あの、はい」
玖馬は思わずそう答えた。突然伊鶴に見られて、緊張してしまった。
「少し休むか」
伊鶴はそう言うと、立ち上がってカウンターに向かい、何かをオーダーした。玖馬はその間、広げていたテキストを少し片づけた。
「ほら、お腹空いただろ」
戻ってきた伊鶴の手は、たくさんの焼き立てのパンが入ったバスケットを持っていた。
「苦手なのあったら残して」
「ありがとうございます!俺、なんでも食べれます!」
玖馬は目を輝かせた。伊鶴のこういうところは憎めなかった。
「はは、やっぱりそうなんだ」
伊鶴はそう言って笑うと、自分は手元にあるコーヒーを飲んだ。
「なんですかそれ」
「クマ君は素直で好き嫌いがなくて、いい子だなーって」
「えっと、それって、嫌味って言うんですか?」
「まさか。褒めてるんだよ」
「…ほんとかなぁ」
伊鶴の言うことが信じられない玖馬は、パンを手に取りながら首を傾げた。
「ほんとだって。信用ないなぁ、僕」
「だって伊鶴さんのこと、俺もよく知りませんし」
「まぁそっか。そりゃ正しい」
伊鶴は感心したように言った。
「じゃあクマ君は俺のことどう思ってる?」
頬杖をついて、伊鶴は少し前のめりになって玖馬を見た。
「どうって…」
玖馬は意表を突かれた顔をして少し考えた。
「よく分からなくて怖いっす」
「ははは、怖いんだ」
伊鶴は楽しそうに笑った。
「あと…嫉妬するっス」
「嫉妬?」
ぼそっと吐いた玖馬の本音に、伊鶴はぽかんとした顔をした。
「そうっスよ…だって、來樹さん、すごい信頼あるじゃないですか」
「僕に?」
「他に誰が?」
玖馬はピンと来ていない顔をしている伊鶴を見て、鬱陶しそうな顔をした。
「もう、知ってるくせに止めてくださいよ」
「はは、ごめんごめん。でも嫉妬してるとは知らなかったな」
伊鶴は驚いた表情をしながらも、どこか嬉しそうだった。
「俺も、來樹さんの頼りになるような人間になりたいっス。」
「ってことは、裏を返せば僕に憧れてるのかな?」
「はぁ?」
玖馬は呆れた顔をして伊鶴を見た。
「ん?違う?」
伊鶴はその反応を見て、また笑って見せた。
「違うとは言い切れないっスけど!…はぁ」
玖馬は大きく息を吐いた。やはりこの人には敵わないようだ。
「嬉しいなぁ」
伊鶴は正反対に、嬉しそうな表情をしていた。
「クマ君は頼れる大人になりたいのか。來樹のためにも」
「そうっスよ…。笑われても構わないっス」
玖馬はふてくされながらもパンをもう一つ取った。
「笑わないよ」
伊鶴はこれまでにない優しい声で言った。玖馬は聞きなれないその声に、思わず警戒した。
「でもクマ君。頼りになるから、好きになるのは違うよ」
「…」
「頼られたい気持ちは分かるし、いいと思うけど、それだけじゃない。どんなにぽんこつな奴だって、好きになるときは好きになるんだよ」
伊鶴は自分を警戒している玖馬を見て微笑んだ。
「でも、ま、頼りになる男は格好いいしね」
「…それ、遠回しに自分のこと言ってます?」
「クマ君は厳しいなぁー」
伊鶴は身体を後ろに倒し、背もたれに身を預けた。
「…俺、まだ理想には程遠いっす。焦るつもりもないっスけど、ただ…」
「ただ?」
「伊鶴さんに、認めて欲しいんです」
「認める?」
伊鶴は身体を起こした。
「俺の、來樹さんへの気持ちを…」
玖馬は恥ずかしそうに俯いた。言ったはいいものの、いざ言葉に出してみると後悔の念に襲われた。伊鶴は、一体何を思うのだろうか。
「あー、はは、そっか、そうだな」
伊鶴は、この前のことを思い出したのか、困ったように笑った。
「あの時は悪かったな。でも、脅すつもりでもなんでもないんだ」
伊鶴は目を伏せて、穏やかに言った。玖馬は少しだけ顔を上げ、伊鶴をそーっと見た。伊鶴はそんな玖馬を見て、幼子を見るように微笑んだ。
「來樹は僕に似てるから、放っておけないんだ。どうしても他人事とは思えなくて、つい過保護になるんだよな」
「伊鶴さんと來樹さんが似てる?」
「そ。まぁ、昔の僕と似てるってところかな」
「…」
「なんだその目は」
伊鶴は玖馬の疑い深い目を見てけらけらと笑った。
「僕、自分のことをこういうのはあまり好きじゃないんだけど…、ほら、この見た目だから、結構モテるんだよね」
「言い切りましたね」
「まぁまぁ」
伊鶴は、照れることも謙遜することもなく話を続けた。
「それでね、結構苦労したんだ。嫌味に聞こえるだろうけど、無条件にモテるのも、なかなか大変なことだってあるんだよ。僕は特に、人を傷つけるのが怖くていい顔ばっかりしてたから、勘違いさせてしまうことも多くて、逆に人を傷つけていることに気づかなかった。性別とか関係なく、勝手に嫉妬されたり…僕のせいで周りの人間関係を壊してしまいかねなかった。僕が、嫌われるのを嫌がっていた自分勝手な我儘のせいで、中途半端に愛想ばかり振りまいて、僕はいつだって自分に好意を抱いてくれる人の気持ちを真摯に受け止めることが出来ていなかったんだ」
伊鶴は、難しい顔をして話を聞いている玖馬に目を合わせた。
「來樹はね、そんな自分に見えたんだ」
「來樹さん、も…?」
玖馬はごくりと息を呑んだ。真剣に話を聞いているようだ。
「そう。バイト先で知り合った來樹だけど、結構彼も人の好意に苦労しているみたいだったから、どうしても気になって」
「でも、伊鶴さん、俺は、人に好かれるのは悪いことだとは思わないっス。人の気持ちって本当によく分からないけど、好意的にそれを自分に向けてくれるのって、本当に有難いことだって思うし、それに、傷つけたくないって思うのは、おかしなことじゃないっス」
「うん。そう思うよ」
「じゃあ、伊鶴さんは、何を恐れているんですか?來樹さんを、何かから守りたいんですよね?」
玖馬は真剣な眼差しで伊鶴に詰め寄った。
「…僕ね、今はむやみやたらに人にいい顔するの、やめてるんだ。どうしてか分かる?」
伊鶴は玖馬の真剣な眼差しを受け入れた。玖馬は伊鶴の問いに、首を傾げた。
「僕のせいで、一人の命が消えかけたんだ」
伊鶴の言葉に、玖馬は口を開けたまま黙った。
「数年前、僕に好意を寄せてくれた人がいたんだ。その人は、僕の高校の友人で、そこまで親しいわけじゃなかったけど、真面目で優しい奴だった。僕はその人の好意に、ずっと気づかないふりをしてた。嫌いだったわけじゃないけど、その人自身が、僕に対する気持ちに戸惑っているようだったから、そっとしておいてあげたくて」
「…それって…」
「そうだよ。その人は、僕と同じ、“男”だった」
伊鶴はあっさりとした声で言った。伊鶴自身には、あまり性別にこだわりはないようだった。
「だからかな。彼はいつも僕から少し距離を置いていて、でも、僕と話すときはすごく楽しそうだったから、僕自身、彼のことがだんだん気になっていった。僕はそれまでもあんまり、性別とか気にしてこなかったしね」
伊鶴は玖馬を見て昔を懐かしむように笑った。
「それで、僕から彼にだんだん近づいていったけど、同時に僕は、他に好意を寄せてくれる人に対しても、同じように優しく接していたし、その親しさを隠さなかった。まぁ傍から見たらチャラい奴だよな」
「…俺は知らないんで」
玖馬は伊鶴に自虐に対して背筋を伸ばして否定した。
「彼もそれを気にしていないふりをしてくれていたし、僕に苦言を言うこともなかった。付き合っていたわけでもなかったしね。でも結果的に、僕は彼の気持ちを弄んでいたようになってしまったんだと思う。そんなつもりはなくて、僕も彼が好きだったけど…まぁ、そんなことは、伝わるはずはなかったよな」
伊鶴は顔を苦しそうにしかめた。後悔しているようだ。
「彼は僕に対する自分の気持ちと、僕の不誠実さに耐え切れず、大量に薬を飲んで精神を安定させようとして、病院に運ばれた。僕は、病室で眠る彼を見て、自分の愚かさにようやく気づいたんだ」
伊鶴はそこまで話すと、目を伏せ、拳を握り締めた。
玖馬は、伊鶴のことをただただ見ていた。伊鶴の苦しい気持ちが伝わってくるようで、玖馬は胸が痛んだ。
「だから、來樹のことを放っておけなかった。來樹は僕なんかよりも器用な人間だけど、僕よりもずっと優しくて、それでいて、危なっかしい。余計なお世話だって思うだろうけど、來樹本人だけじゃなくて、周りの人間も、守りたくなってしまっていた。…クマ君には迷惑な正義だよな」
「そんなことないです!」
玖馬は、思わず大きな声が出たので、慌てて口を押さえた。伊鶴は少し驚いた顔をして玖馬を見た。
「すみません…。あの、その、俺の方こそ、何にも知らずに威嚇ばっかりして、愚かですよ!」
「クマ君?」
伊鶴は玖馬の目が潤んでいることに気づいた。
「俺、伊鶴さんは俺の邪魔ばっかりして楽しんでいるのかと…その、俺からしてみたら、伊鶴さん格好いいし、完璧な人にしか見えなくて、それで、その、來樹さんとどういう関係なのかってことばっかり気になっちゃって、伊鶴さんのこと、もっとちゃんと知って、向き合おうとしていなかったと思うんです」
玖馬は目元を拭った。
「だから俺、伊鶴さんにもそういう理由があったんだって知って、本当、自分が恥ずかしいっス」
「クマ君が僕のことそう思うのは当然だって。クマ君が悪いわけじゃないよ」
伊鶴は優しく諭すように言った。
「僕自身、自分の過去にとらわれすぎているところもあるからさ」
「いや、伊鶴さんは間違ってないと思います。…來樹さん、必ず俺の知らない所で、俺には全然分からない悩みとかあるんです。でも伊鶴さんはそれにちゃんと応えてるっス。きっかけは何だろうと、それは確実に來樹さんの救いになってるはずです」
玖馬は少しだけ泣いた目を輝かせ、伊鶴を尊敬するように見た。
「俺には到底できないっス。來樹さんを全方面から守りたいっスけど、俺には、まだ、未熟すぎるから…」
「クマ君…」
伊鶴は玖馬の曇りのない無垢な瞳を見て、数秒の間止まっていた。
「…本当に、きみは…」
そして呆れたような、それでも嬉しいようなため息を吐くと、敵わないな、と笑った。
「?」
玖馬は伊鶴の笑みを見て、ぽかんとした表情を浮かべた。
「クマ君は、本当に來樹のことが好きなんだね」
そう言う伊鶴の声は、これまでとは違い、嫌味のない暖かい声だった。
「はい!もう誤魔化すつもりもないっスよ」
玖馬は無邪気に笑うと、何かを思い出したように肩を上げた。
「あの、差し支えなければ…」
「なに?」
「その、その人とは、その後…」
玖馬は恐る恐る聞いた。
「ああ、倒れた後は、僕の方が距離を置いてしまって、会っていないよ。ただ一言だけ、謝って、それっきりだよ。…合わせる顔がなくて」
伊鶴の眼差しは哀しそうだった。
「…また、会いたいっスか?」
「…もし、許されるなら、会ってみたいかな」
伊鶴はぼそっとそう言うと、目を閉じた。彼のことを思い出しているのだろうか。
「……へへ」
玖馬はそんな伊鶴を見て嬉しそうに頬を緩めた。伊鶴は目を開けると、惚けている玖馬の顔を見てニヤリと笑った。
「ほら、勉強再開するぞ」
「唐突っすね!」
「ここからは本気出してくからな」
伊鶴のきらりと光った目に、玖馬は慌てて背筋を伸ばし、姿勢を正した。
物静かな伊鶴は、その集中した表情から、端正な顔立ちをより凛々しくさせていた。
「なんだ、疲れたのか?」
見られていることに気づいた伊鶴は、玖馬に視線を合わせた。
「え…あの、はい」
玖馬は思わずそう答えた。突然伊鶴に見られて、緊張してしまった。
「少し休むか」
伊鶴はそう言うと、立ち上がってカウンターに向かい、何かをオーダーした。玖馬はその間、広げていたテキストを少し片づけた。
「ほら、お腹空いただろ」
戻ってきた伊鶴の手は、たくさんの焼き立てのパンが入ったバスケットを持っていた。
「苦手なのあったら残して」
「ありがとうございます!俺、なんでも食べれます!」
玖馬は目を輝かせた。伊鶴のこういうところは憎めなかった。
「はは、やっぱりそうなんだ」
伊鶴はそう言って笑うと、自分は手元にあるコーヒーを飲んだ。
「なんですかそれ」
「クマ君は素直で好き嫌いがなくて、いい子だなーって」
「えっと、それって、嫌味って言うんですか?」
「まさか。褒めてるんだよ」
「…ほんとかなぁ」
伊鶴の言うことが信じられない玖馬は、パンを手に取りながら首を傾げた。
「ほんとだって。信用ないなぁ、僕」
「だって伊鶴さんのこと、俺もよく知りませんし」
「まぁそっか。そりゃ正しい」
伊鶴は感心したように言った。
「じゃあクマ君は俺のことどう思ってる?」
頬杖をついて、伊鶴は少し前のめりになって玖馬を見た。
「どうって…」
玖馬は意表を突かれた顔をして少し考えた。
「よく分からなくて怖いっす」
「ははは、怖いんだ」
伊鶴は楽しそうに笑った。
「あと…嫉妬するっス」
「嫉妬?」
ぼそっと吐いた玖馬の本音に、伊鶴はぽかんとした顔をした。
「そうっスよ…だって、來樹さん、すごい信頼あるじゃないですか」
「僕に?」
「他に誰が?」
玖馬はピンと来ていない顔をしている伊鶴を見て、鬱陶しそうな顔をした。
「もう、知ってるくせに止めてくださいよ」
「はは、ごめんごめん。でも嫉妬してるとは知らなかったな」
伊鶴は驚いた表情をしながらも、どこか嬉しそうだった。
「俺も、來樹さんの頼りになるような人間になりたいっス。」
「ってことは、裏を返せば僕に憧れてるのかな?」
「はぁ?」
玖馬は呆れた顔をして伊鶴を見た。
「ん?違う?」
伊鶴はその反応を見て、また笑って見せた。
「違うとは言い切れないっスけど!…はぁ」
玖馬は大きく息を吐いた。やはりこの人には敵わないようだ。
「嬉しいなぁ」
伊鶴は正反対に、嬉しそうな表情をしていた。
「クマ君は頼れる大人になりたいのか。來樹のためにも」
「そうっスよ…。笑われても構わないっス」
玖馬はふてくされながらもパンをもう一つ取った。
「笑わないよ」
伊鶴はこれまでにない優しい声で言った。玖馬は聞きなれないその声に、思わず警戒した。
「でもクマ君。頼りになるから、好きになるのは違うよ」
「…」
「頼られたい気持ちは分かるし、いいと思うけど、それだけじゃない。どんなにぽんこつな奴だって、好きになるときは好きになるんだよ」
伊鶴は自分を警戒している玖馬を見て微笑んだ。
「でも、ま、頼りになる男は格好いいしね」
「…それ、遠回しに自分のこと言ってます?」
「クマ君は厳しいなぁー」
伊鶴は身体を後ろに倒し、背もたれに身を預けた。
「…俺、まだ理想には程遠いっす。焦るつもりもないっスけど、ただ…」
「ただ?」
「伊鶴さんに、認めて欲しいんです」
「認める?」
伊鶴は身体を起こした。
「俺の、來樹さんへの気持ちを…」
玖馬は恥ずかしそうに俯いた。言ったはいいものの、いざ言葉に出してみると後悔の念に襲われた。伊鶴は、一体何を思うのだろうか。
「あー、はは、そっか、そうだな」
伊鶴は、この前のことを思い出したのか、困ったように笑った。
「あの時は悪かったな。でも、脅すつもりでもなんでもないんだ」
伊鶴は目を伏せて、穏やかに言った。玖馬は少しだけ顔を上げ、伊鶴をそーっと見た。伊鶴はそんな玖馬を見て、幼子を見るように微笑んだ。
「來樹は僕に似てるから、放っておけないんだ。どうしても他人事とは思えなくて、つい過保護になるんだよな」
「伊鶴さんと來樹さんが似てる?」
「そ。まぁ、昔の僕と似てるってところかな」
「…」
「なんだその目は」
伊鶴は玖馬の疑い深い目を見てけらけらと笑った。
「僕、自分のことをこういうのはあまり好きじゃないんだけど…、ほら、この見た目だから、結構モテるんだよね」
「言い切りましたね」
「まぁまぁ」
伊鶴は、照れることも謙遜することもなく話を続けた。
「それでね、結構苦労したんだ。嫌味に聞こえるだろうけど、無条件にモテるのも、なかなか大変なことだってあるんだよ。僕は特に、人を傷つけるのが怖くていい顔ばっかりしてたから、勘違いさせてしまうことも多くて、逆に人を傷つけていることに気づかなかった。性別とか関係なく、勝手に嫉妬されたり…僕のせいで周りの人間関係を壊してしまいかねなかった。僕が、嫌われるのを嫌がっていた自分勝手な我儘のせいで、中途半端に愛想ばかり振りまいて、僕はいつだって自分に好意を抱いてくれる人の気持ちを真摯に受け止めることが出来ていなかったんだ」
伊鶴は、難しい顔をして話を聞いている玖馬に目を合わせた。
「來樹はね、そんな自分に見えたんだ」
「來樹さん、も…?」
玖馬はごくりと息を呑んだ。真剣に話を聞いているようだ。
「そう。バイト先で知り合った來樹だけど、結構彼も人の好意に苦労しているみたいだったから、どうしても気になって」
「でも、伊鶴さん、俺は、人に好かれるのは悪いことだとは思わないっス。人の気持ちって本当によく分からないけど、好意的にそれを自分に向けてくれるのって、本当に有難いことだって思うし、それに、傷つけたくないって思うのは、おかしなことじゃないっス」
「うん。そう思うよ」
「じゃあ、伊鶴さんは、何を恐れているんですか?來樹さんを、何かから守りたいんですよね?」
玖馬は真剣な眼差しで伊鶴に詰め寄った。
「…僕ね、今はむやみやたらに人にいい顔するの、やめてるんだ。どうしてか分かる?」
伊鶴は玖馬の真剣な眼差しを受け入れた。玖馬は伊鶴の問いに、首を傾げた。
「僕のせいで、一人の命が消えかけたんだ」
伊鶴の言葉に、玖馬は口を開けたまま黙った。
「数年前、僕に好意を寄せてくれた人がいたんだ。その人は、僕の高校の友人で、そこまで親しいわけじゃなかったけど、真面目で優しい奴だった。僕はその人の好意に、ずっと気づかないふりをしてた。嫌いだったわけじゃないけど、その人自身が、僕に対する気持ちに戸惑っているようだったから、そっとしておいてあげたくて」
「…それって…」
「そうだよ。その人は、僕と同じ、“男”だった」
伊鶴はあっさりとした声で言った。伊鶴自身には、あまり性別にこだわりはないようだった。
「だからかな。彼はいつも僕から少し距離を置いていて、でも、僕と話すときはすごく楽しそうだったから、僕自身、彼のことがだんだん気になっていった。僕はそれまでもあんまり、性別とか気にしてこなかったしね」
伊鶴は玖馬を見て昔を懐かしむように笑った。
「それで、僕から彼にだんだん近づいていったけど、同時に僕は、他に好意を寄せてくれる人に対しても、同じように優しく接していたし、その親しさを隠さなかった。まぁ傍から見たらチャラい奴だよな」
「…俺は知らないんで」
玖馬は伊鶴に自虐に対して背筋を伸ばして否定した。
「彼もそれを気にしていないふりをしてくれていたし、僕に苦言を言うこともなかった。付き合っていたわけでもなかったしね。でも結果的に、僕は彼の気持ちを弄んでいたようになってしまったんだと思う。そんなつもりはなくて、僕も彼が好きだったけど…まぁ、そんなことは、伝わるはずはなかったよな」
伊鶴は顔を苦しそうにしかめた。後悔しているようだ。
「彼は僕に対する自分の気持ちと、僕の不誠実さに耐え切れず、大量に薬を飲んで精神を安定させようとして、病院に運ばれた。僕は、病室で眠る彼を見て、自分の愚かさにようやく気づいたんだ」
伊鶴はそこまで話すと、目を伏せ、拳を握り締めた。
玖馬は、伊鶴のことをただただ見ていた。伊鶴の苦しい気持ちが伝わってくるようで、玖馬は胸が痛んだ。
「だから、來樹のことを放っておけなかった。來樹は僕なんかよりも器用な人間だけど、僕よりもずっと優しくて、それでいて、危なっかしい。余計なお世話だって思うだろうけど、來樹本人だけじゃなくて、周りの人間も、守りたくなってしまっていた。…クマ君には迷惑な正義だよな」
「そんなことないです!」
玖馬は、思わず大きな声が出たので、慌てて口を押さえた。伊鶴は少し驚いた顔をして玖馬を見た。
「すみません…。あの、その、俺の方こそ、何にも知らずに威嚇ばっかりして、愚かですよ!」
「クマ君?」
伊鶴は玖馬の目が潤んでいることに気づいた。
「俺、伊鶴さんは俺の邪魔ばっかりして楽しんでいるのかと…その、俺からしてみたら、伊鶴さん格好いいし、完璧な人にしか見えなくて、それで、その、來樹さんとどういう関係なのかってことばっかり気になっちゃって、伊鶴さんのこと、もっとちゃんと知って、向き合おうとしていなかったと思うんです」
玖馬は目元を拭った。
「だから俺、伊鶴さんにもそういう理由があったんだって知って、本当、自分が恥ずかしいっス」
「クマ君が僕のことそう思うのは当然だって。クマ君が悪いわけじゃないよ」
伊鶴は優しく諭すように言った。
「僕自身、自分の過去にとらわれすぎているところもあるからさ」
「いや、伊鶴さんは間違ってないと思います。…來樹さん、必ず俺の知らない所で、俺には全然分からない悩みとかあるんです。でも伊鶴さんはそれにちゃんと応えてるっス。きっかけは何だろうと、それは確実に來樹さんの救いになってるはずです」
玖馬は少しだけ泣いた目を輝かせ、伊鶴を尊敬するように見た。
「俺には到底できないっス。來樹さんを全方面から守りたいっスけど、俺には、まだ、未熟すぎるから…」
「クマ君…」
伊鶴は玖馬の曇りのない無垢な瞳を見て、数秒の間止まっていた。
「…本当に、きみは…」
そして呆れたような、それでも嬉しいようなため息を吐くと、敵わないな、と笑った。
「?」
玖馬は伊鶴の笑みを見て、ぽかんとした表情を浮かべた。
「クマ君は、本当に來樹のことが好きなんだね」
そう言う伊鶴の声は、これまでとは違い、嫌味のない暖かい声だった。
「はい!もう誤魔化すつもりもないっスよ」
玖馬は無邪気に笑うと、何かを思い出したように肩を上げた。
「あの、差し支えなければ…」
「なに?」
「その、その人とは、その後…」
玖馬は恐る恐る聞いた。
「ああ、倒れた後は、僕の方が距離を置いてしまって、会っていないよ。ただ一言だけ、謝って、それっきりだよ。…合わせる顔がなくて」
伊鶴の眼差しは哀しそうだった。
「…また、会いたいっスか?」
「…もし、許されるなら、会ってみたいかな」
伊鶴はぼそっとそう言うと、目を閉じた。彼のことを思い出しているのだろうか。
「……へへ」
玖馬はそんな伊鶴を見て嬉しそうに頬を緩めた。伊鶴は目を開けると、惚けている玖馬の顔を見てニヤリと笑った。
「ほら、勉強再開するぞ」
「唐突っすね!」
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