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23.霞む香り
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「ニア? いるの?」
靴を汚さないように気をつけながら小屋の扉を開き、私は中を見渡す。
カウンターが用意されていて、本当にお店みたい。だけど、机はあまり置いていない。普段はあまり使用していないのだろう。少しだけ埃の匂いがした。
「ロミィ……?」
探していたニアはここにいた。背の高い丸テーブルの近くに立っていて、私の名前を呼ぶ。
「そうよ。そろそろ迎えが来る時間よ? もう見学は十分満足した?」
ニアに近寄り、私は微笑みかける。いい勉強になったのなら、それは何よりだと思うから。
……けど、なんだか様子がおかしい。
顔を見上げるようにしてニアを覗き込む。やっぱり、少し表情がおかしいわ。
ニアの頬はほんのりと紅潮していて、大きな瞳はとろんと溶けてしまいそうなほど柔らかくなっている。
丸いテーブルに寄りかかり、ニアはそのままぽやんと笑いかけてくる。
「あはは、ごめん、ロミィ」
「……お酒、飲んじゃったの?」
この場にグラスや瓶は何もなかったけれど、もしかしたら貯蔵庫でテディさんに勧められたんじゃないだろうか。ニアのほんわかとした声に、私は眉をひそめる。
「……ああ、そうみたい……間違えて……」
ニアは困ったように笑う。
「見学していたら、テディさんがどれでも飲んでいいよって……言ってくれて……それで、俺、間違えて、テディさんの教えてくれた棚と違うところ、飲んじゃったみたい……」
たどたどしく喋るニア。どれくらい飲んだのかな。ニアはボンボンショコラを食べすぎただけでも酔ってしまうような人なのに。
「もう、どうして間違えちゃったのよ……」
「ははは……どうしてだろ……ごめん」
「謝らなくていいの」
たぶん、集中していたのだと思う。このワイナリーで、ニアは学びを得たかったのかもしれない。
「大丈夫? ニア」
真っ直ぐ歩けるといいのだけれど。迎えの車が来るまであと少し。こんな様子のニアを見たら、一体何を思われるだろう。幸いにも今日の送迎はベラが担当してくれたけれど、誤魔化すのもきっと大変。
ニアのお父様たちはルールに厳しいから。
「大丈夫だよ、ロミィ。歩ける……」
そう言って、ニアの身体がぐらりと揺れる。
「ニア……!」
慌ててその身体を支えようとするけれど、体格差があるせいで、うまく支えられなかった。
バランスを崩しかけて、私はあと少しでこけそうなところで踏みとどまった。
「ふぅ……」
冷や汗をかいてしまった。このまま二人して倒れたら、汚れてしまう。この服を汚したら、ゾイアがまた騒ぎ出してしまう。それに私もお気に入りだから、それは避けたい。
「ニア、ごめん、ね……」
ニアの体重が少し寄りかかっていることを自覚しながら、頼りない自分のことを反省し、瞳を上げる。するとすぐそこにニアの顔が見えた。
息がかかるほどに近くて、私は思わず息を止めた。ニアの息遣いが伝わってくる。ワインの香りが漂ってきて、そのまま吸い込んでしまうとこちらまで酔いが回りそうに錯覚した。
前にクタルストンで支えてくれた時や、ダンスの時とは違う。
ニアの潤んだ瞳が目の前にあって、私を見つめている。長い睫が照明のオレンジに透かされ、柔く溶けてしまうように艶めく。
「ロミィ……」
ほんのりとアルコールを含んだ甘美な吐息が漏れると、その甘く垂れた瞳が色香を増して切なさが強調される。
「に、ニア……?」
こんなニアの表情を私は知らない。
脈の速度が高まるのを感じた。どうしよう。否応なしに意識させられる。
な、何か言って、ニア……。
そう願いながらも、私は目が離せないままじっと黙る。
高まる緊張で、心臓の音が聞こえているのではないだろうか。私を支えにしているニアの左手は、咄嗟に掴んでいた私の右腕から離れる。
こういうことが前にもあった。もう、存在しなかった過去だけれど。
私はニアの苦しそうな瞳を見て、ぐっと唇を噛む。
季節はもっと後だけれど、シナリオに操られていた時、ニアは同じように酔ってしまって、偶然来た私に手を伸ばす。
「ごめんね、ロミィ」そう言って口づけをする。きっと私と同じように悪魔に囁かれて、ニアも抵抗できないのに。
苦しそうに、そして悔しそうに泣いていた。
その時も、ニアの瞳は近くにあった。こんな風に、すぐ触れられるところに。
ニアの左手は私の髪にそっと触れ、ほんの少し指先が頬に当たる。
「……ぅ」
思わず声が出てしまった。あんなことを思い出していたから、気づかぬうちに勝手に神経が研ぎ澄まされてしまった。恥ずかしい。ただ指が触れただけなのに。
無意識に赤くなる頬を見られたくなくて、私は視線を下げた。ニアの視線が毒のように感情を痺れさせる。
今のニアはその時のことを覚えていない。そもそもあり得なかったことになっているのだけれど。……でも。
所詮はシナリオだから、感覚など薄れてしまってはいるけれど、あの時のニアのキスを、私はまだ忘れていない。私の記憶の中には存在してしまうのだ。
こんな状況にならなければ、きっと平気だった。意識してしまうことなんてなかったのに。
「ニア……」
何も言わないニアが怖くなって、恐る恐る口にしてみる。
今のニアは、あの時とは違う。分かってはいるけれど、今のニアも知らないんだもの。
「……どうしてだろう……前に、こんなことがあったような……」
「……え?」
ようやく聞けたニアの言葉に、私はもう一度顔を上げる。
「ニア? ……どういうこと……?」
まさか、覚えているの?
消えたはずのシナリオの記憶が、皆の中にも残っているというの?
「……いや、ごめん……気のせいかな……。夢で見たのかもしれない……。でも、なんだか知っている気がして……」
ニアの声は優しかった。だけど、どこか苦しそう。
「悪夢みたいだった……それだけを、なんとなく覚えてる」
「悪夢……?」
「うん……ずっと、うなされてた。君を傷つけたって……」
「……でも、夢……だよね?」
「夢に閉じ込めておけるなら、そう願いたい」
ニアはまたほわほわしたまま嗤う。
もしかしたら、どこかに染みついてしまっているのかもしれない。
記憶がなくても、シナリオがなかったことになっても、その感覚だけは残ってしまうのかもしれない。
私は、ぎゅっとニアの胸元を掴む。
あまりにも辛そうな顔をしているから、大丈夫だよって、縋るほどに伝えたかったから。
「ニア、大丈夫? やっぱり、アルコールが回っているの?」
「……うん、そうかもしれない」
ニアの服を掴んでいる私の手を、ニアの左手が包み込む。とても暖かかった。緊張のせいか冷たくなっていた私の手が溶かされていくみたい。
ニアの瞳がぐっと近づく。もう、鼻先にニアの熱を感じる。大きくて、でも垂れた端正な瞳に見つめられ、私は恥ずかしくなってしまって思わず目を伏せる。
どうしよう。どうすればいいの?
手から伝わるニアの熱に侵され、思考が鈍ってくる。私まで酔ってしまいそう。
ああ、でも、そんなんじゃ……、ニアを裏切ることになってしまう。
私が口を開こうとしたとき、図ったように鼻先にあるニアの熱が離れていく。
「……ロミィ、君は…………あぁ、だめだ……こんなんじゃ……」
「ニア?」
糸を紡ぐように何かを言いかけたニアは項垂れ、その表情は見えなくなってしまう。
「……酔いに任せてしまっては駄目なんだ」
ニアは額を抑え、私から離れていった。少しふらついているから、はらはらしながらその様子を見守る。後ろにあった木製の長椅子にへたっと腰を掛け、ニアはそのまま俯いてしまった。
「…………こういうことは、素面で伝えないと意味がない」
「……ニア、どういう……」
微かに漏れてくるニアの声は、酔っているせいかふやけていたけれど、それでも芯が通っていたように聞こえた。そこには確かに血の通う力強さが見え隠れする。
私はまだ、緊張が張り詰めている。だけどどこまで踏み込んでいいのか分からない。肩を落としているニアに向かって、ずかずかと足を踏み入れる気になんてなれない。
「ごめんロミィ、帰らないとだね……」
「う、うん……そう、ね。……ニア、歩ける……?」
「ああ、大丈夫だよ」
ぱっと、ニアが顔を上げる。
見慣れたニアの人懐っこい柔らかい笑みに、私はズキンと胸が痛んだ。
大丈夫ではないでしょう。
「戻りましょう……?」
「うん」
やっぱり心配で、立ち上がろうとするニアの身体を支えようとしたけれど、ニアはそれを手で抑止する。
「大丈夫だから、……ほら、行こう? ごめんね、迷惑かけて……」
「ううん。そんなことない」
まだ足元がたどたどしいニアの後ろを歩き、その背中をじっと見つめる。
どきどきと、微かに鼓動が鳴り続けている。全身に響き渡るその振動に、私は動揺していた。
あの時、ニアは何を言おうとしたの?
……というか、ニア、酔っていたとはいえ、あんな近くに……。
私はまた頬が赤くなる。熱い、熱くて苦しい……。手で頬をパタパタと仰ぎ、急いで鎮めようと試みた。
ひんやりとした空気に酔いがさめてきたのか、ニアの足取りはだんだんとしっかりとしていく。
それとは正反対に、今度は私の足元がおぼつかなくなる。
ニアはエレノアが好きなのだと思っている。
けど……。
あんな表情を見てしまったら、それも分からなくなってしまう。
自惚れ、ただの勘違い、酔いに惑わされただけの幻覚。どれも正解と言っていいのかもしれないけれど。
私は両手で頬を包み込む。やっぱり全然熱が引いていない。
帰りの車で、エレノアは私の隣に座ってずっと窓の外を見たままだ。黙ったままのエレノアの表情が、時折窓ガラスに反射する。
ニアは酔いが完全に醒めてはいないみたいで、助手席に座ってぐっすりと眠っている。車内に流れる音楽に紛れ、静かな寝息が聞こえてくる。背もたれから見え隠れするニアの柔らかな髪の毛が揺れる度に、さっきのことを思い出して脈が乱れそうになる。私は冷静を装うために、ぐっと舌を噛む。
ベラも疲れているのか、いつの間にか目を閉じてしまった。
ベラとエレノアに挟まれている私は、唯一の話し相手となったエレノアをちらりと見る。
「ねぇ、ロミィ」
そんな視線に気がついたのか、流れる風景を見たままエレノアが口を開いた。
「私、この学院に入れて、良かったと思うの」
「え? いきなりどうしたの?」
エレノアは可愛らしい笑い声を零す。
「今日、ワイナリーでも思ったことだけれど、母がこの学院に私を入れたのは、きっと世界を見て欲しかったからなの。大層な言い方だけど、母にとって、社会は宇宙のように未知なものだったと思うから」
「……エレノア、そんなことを考えていたの?」
「ええ」
こちらを向いて、朗らかに笑いかけてくれる。何かに吹っ切れたように見えるのは気のせいか。
「母の実家の事業は、とても偉大なものだと思う。大変なことだし、重圧だってある。これまで積み重ねてきたことを崩してはいけない、さらに積み上げなければ、なんて、どこかでバランスがおかしくなってしまうのも不思議ではないでしょう?」
「そうね……たしかに、高い塔はその立派な姿に圧倒されてしまうけれど、崩れるときは一瞬。それも、大きな犠牲を伴うかもしれない。諸刃の剣でもあると思うわ」
エレノアの凛とした眼差しに、私は背筋を伸ばす。
「母は、本当はそれを恐れていた。だから、経営に参加したかったのよ。母だって、何も考えてこなかったわけではない。家のことを、家族のことを大事に思っているからこそ、必死になれるはずだもの」
「お母様は、大丈夫なの……?」
「今はちょっとした小さな仕事を始めたみたいよ。まだ実家のことも諦めてはいないけれど、まだ一触即発って感じだから。……兄も頑固だからね」
ふふふっ、と口元を緩ませるエレノアからは、家族への愛情を感じた。エレノアも苦しかったはずだ。親族が冷戦状態だなんて、しんどくならないはずがない。
それも自分が火種になってしまう可能性すらある。エレノアは、どれだけ神経を消耗してきたのだろう。
「でもね、今日、テイラーさんと話をしていて、思ったの。母は意固地になっているだけじゃないって。ちゃんと私のことを考えてくれていたのよ。私の可能性を信じて、黙って背中を押してくれたの」
「……エレノアは、お母様の気持ちが理解できるのね」
「ええ。ちょっと前までは、そこまでちゃんと理解できていなかったと思う。だけど、母は私を信じてくれている。私が、自分の足で歩いていけることを」
きりっとした眉で、エレノアは真っ直ぐに前を見る。
「これは性別とか、そういう問題じゃないの。だから私は、ちゃんと向き合うことにしたわ」
すれ違う対向車の光がエレノアの顔を明るく照らした。
「この学院にいる意味を、私は無駄にしたくない」
美しいその顔の造形のせいじゃない。
今のエレノアに圧倒されてしまうのは、決してそんなもののためじゃない。
内面から満ち溢れる勇気と、これからの未知の期待に胸を弾ませているその表情からは、エレノアの覚悟が見てとれる。
こちらまで、なんだか胸が高鳴ってきてしまう。そんな希望を魅せてくれるのだ。
「だからまずは、私の実力を磨かなくちゃね」
「ふふ、もう十分、エレノアは立派だけどね」
「まぁ、そんな甘やかさなくていいのよ、ロミィ」
エレノアは嬉しそうに私にちょんっと体当たりをする。
「いずれ、お母様の実家の方までこの想いを届けたいの。だからちゃんと私は根をはって立てるようになるわね」
「ふふふふ。私も頑張らないといけないなぁ」
内緒話をするように控えめに笑い合うと、隣にいるベラが「うーん」と身体の向きを変える。
それを見て、私はまたエレノアと顔を見合わせて躍る心のままに微笑む。
ニアの心は読めないまま。でも、エレノアの心には少し近づけた気がする。
ねぇ、ベラ、私は一体どこまであなたに感謝をすればいいのか、もう分からないじゃない。
窓は次第に結露してきて、これから訪れる季節がひょっこりと顔を覗かせているようだった。
靴を汚さないように気をつけながら小屋の扉を開き、私は中を見渡す。
カウンターが用意されていて、本当にお店みたい。だけど、机はあまり置いていない。普段はあまり使用していないのだろう。少しだけ埃の匂いがした。
「ロミィ……?」
探していたニアはここにいた。背の高い丸テーブルの近くに立っていて、私の名前を呼ぶ。
「そうよ。そろそろ迎えが来る時間よ? もう見学は十分満足した?」
ニアに近寄り、私は微笑みかける。いい勉強になったのなら、それは何よりだと思うから。
……けど、なんだか様子がおかしい。
顔を見上げるようにしてニアを覗き込む。やっぱり、少し表情がおかしいわ。
ニアの頬はほんのりと紅潮していて、大きな瞳はとろんと溶けてしまいそうなほど柔らかくなっている。
丸いテーブルに寄りかかり、ニアはそのままぽやんと笑いかけてくる。
「あはは、ごめん、ロミィ」
「……お酒、飲んじゃったの?」
この場にグラスや瓶は何もなかったけれど、もしかしたら貯蔵庫でテディさんに勧められたんじゃないだろうか。ニアのほんわかとした声に、私は眉をひそめる。
「……ああ、そうみたい……間違えて……」
ニアは困ったように笑う。
「見学していたら、テディさんがどれでも飲んでいいよって……言ってくれて……それで、俺、間違えて、テディさんの教えてくれた棚と違うところ、飲んじゃったみたい……」
たどたどしく喋るニア。どれくらい飲んだのかな。ニアはボンボンショコラを食べすぎただけでも酔ってしまうような人なのに。
「もう、どうして間違えちゃったのよ……」
「ははは……どうしてだろ……ごめん」
「謝らなくていいの」
たぶん、集中していたのだと思う。このワイナリーで、ニアは学びを得たかったのかもしれない。
「大丈夫? ニア」
真っ直ぐ歩けるといいのだけれど。迎えの車が来るまであと少し。こんな様子のニアを見たら、一体何を思われるだろう。幸いにも今日の送迎はベラが担当してくれたけれど、誤魔化すのもきっと大変。
ニアのお父様たちはルールに厳しいから。
「大丈夫だよ、ロミィ。歩ける……」
そう言って、ニアの身体がぐらりと揺れる。
「ニア……!」
慌ててその身体を支えようとするけれど、体格差があるせいで、うまく支えられなかった。
バランスを崩しかけて、私はあと少しでこけそうなところで踏みとどまった。
「ふぅ……」
冷や汗をかいてしまった。このまま二人して倒れたら、汚れてしまう。この服を汚したら、ゾイアがまた騒ぎ出してしまう。それに私もお気に入りだから、それは避けたい。
「ニア、ごめん、ね……」
ニアの体重が少し寄りかかっていることを自覚しながら、頼りない自分のことを反省し、瞳を上げる。するとすぐそこにニアの顔が見えた。
息がかかるほどに近くて、私は思わず息を止めた。ニアの息遣いが伝わってくる。ワインの香りが漂ってきて、そのまま吸い込んでしまうとこちらまで酔いが回りそうに錯覚した。
前にクタルストンで支えてくれた時や、ダンスの時とは違う。
ニアの潤んだ瞳が目の前にあって、私を見つめている。長い睫が照明のオレンジに透かされ、柔く溶けてしまうように艶めく。
「ロミィ……」
ほんのりとアルコールを含んだ甘美な吐息が漏れると、その甘く垂れた瞳が色香を増して切なさが強調される。
「に、ニア……?」
こんなニアの表情を私は知らない。
脈の速度が高まるのを感じた。どうしよう。否応なしに意識させられる。
な、何か言って、ニア……。
そう願いながらも、私は目が離せないままじっと黙る。
高まる緊張で、心臓の音が聞こえているのではないだろうか。私を支えにしているニアの左手は、咄嗟に掴んでいた私の右腕から離れる。
こういうことが前にもあった。もう、存在しなかった過去だけれど。
私はニアの苦しそうな瞳を見て、ぐっと唇を噛む。
季節はもっと後だけれど、シナリオに操られていた時、ニアは同じように酔ってしまって、偶然来た私に手を伸ばす。
「ごめんね、ロミィ」そう言って口づけをする。きっと私と同じように悪魔に囁かれて、ニアも抵抗できないのに。
苦しそうに、そして悔しそうに泣いていた。
その時も、ニアの瞳は近くにあった。こんな風に、すぐ触れられるところに。
ニアの左手は私の髪にそっと触れ、ほんの少し指先が頬に当たる。
「……ぅ」
思わず声が出てしまった。あんなことを思い出していたから、気づかぬうちに勝手に神経が研ぎ澄まされてしまった。恥ずかしい。ただ指が触れただけなのに。
無意識に赤くなる頬を見られたくなくて、私は視線を下げた。ニアの視線が毒のように感情を痺れさせる。
今のニアはその時のことを覚えていない。そもそもあり得なかったことになっているのだけれど。……でも。
所詮はシナリオだから、感覚など薄れてしまってはいるけれど、あの時のニアのキスを、私はまだ忘れていない。私の記憶の中には存在してしまうのだ。
こんな状況にならなければ、きっと平気だった。意識してしまうことなんてなかったのに。
「ニア……」
何も言わないニアが怖くなって、恐る恐る口にしてみる。
今のニアは、あの時とは違う。分かってはいるけれど、今のニアも知らないんだもの。
「……どうしてだろう……前に、こんなことがあったような……」
「……え?」
ようやく聞けたニアの言葉に、私はもう一度顔を上げる。
「ニア? ……どういうこと……?」
まさか、覚えているの?
消えたはずのシナリオの記憶が、皆の中にも残っているというの?
「……いや、ごめん……気のせいかな……。夢で見たのかもしれない……。でも、なんだか知っている気がして……」
ニアの声は優しかった。だけど、どこか苦しそう。
「悪夢みたいだった……それだけを、なんとなく覚えてる」
「悪夢……?」
「うん……ずっと、うなされてた。君を傷つけたって……」
「……でも、夢……だよね?」
「夢に閉じ込めておけるなら、そう願いたい」
ニアはまたほわほわしたまま嗤う。
もしかしたら、どこかに染みついてしまっているのかもしれない。
記憶がなくても、シナリオがなかったことになっても、その感覚だけは残ってしまうのかもしれない。
私は、ぎゅっとニアの胸元を掴む。
あまりにも辛そうな顔をしているから、大丈夫だよって、縋るほどに伝えたかったから。
「ニア、大丈夫? やっぱり、アルコールが回っているの?」
「……うん、そうかもしれない」
ニアの服を掴んでいる私の手を、ニアの左手が包み込む。とても暖かかった。緊張のせいか冷たくなっていた私の手が溶かされていくみたい。
ニアの瞳がぐっと近づく。もう、鼻先にニアの熱を感じる。大きくて、でも垂れた端正な瞳に見つめられ、私は恥ずかしくなってしまって思わず目を伏せる。
どうしよう。どうすればいいの?
手から伝わるニアの熱に侵され、思考が鈍ってくる。私まで酔ってしまいそう。
ああ、でも、そんなんじゃ……、ニアを裏切ることになってしまう。
私が口を開こうとしたとき、図ったように鼻先にあるニアの熱が離れていく。
「……ロミィ、君は…………あぁ、だめだ……こんなんじゃ……」
「ニア?」
糸を紡ぐように何かを言いかけたニアは項垂れ、その表情は見えなくなってしまう。
「……酔いに任せてしまっては駄目なんだ」
ニアは額を抑え、私から離れていった。少しふらついているから、はらはらしながらその様子を見守る。後ろにあった木製の長椅子にへたっと腰を掛け、ニアはそのまま俯いてしまった。
「…………こういうことは、素面で伝えないと意味がない」
「……ニア、どういう……」
微かに漏れてくるニアの声は、酔っているせいかふやけていたけれど、それでも芯が通っていたように聞こえた。そこには確かに血の通う力強さが見え隠れする。
私はまだ、緊張が張り詰めている。だけどどこまで踏み込んでいいのか分からない。肩を落としているニアに向かって、ずかずかと足を踏み入れる気になんてなれない。
「ごめんロミィ、帰らないとだね……」
「う、うん……そう、ね。……ニア、歩ける……?」
「ああ、大丈夫だよ」
ぱっと、ニアが顔を上げる。
見慣れたニアの人懐っこい柔らかい笑みに、私はズキンと胸が痛んだ。
大丈夫ではないでしょう。
「戻りましょう……?」
「うん」
やっぱり心配で、立ち上がろうとするニアの身体を支えようとしたけれど、ニアはそれを手で抑止する。
「大丈夫だから、……ほら、行こう? ごめんね、迷惑かけて……」
「ううん。そんなことない」
まだ足元がたどたどしいニアの後ろを歩き、その背中をじっと見つめる。
どきどきと、微かに鼓動が鳴り続けている。全身に響き渡るその振動に、私は動揺していた。
あの時、ニアは何を言おうとしたの?
……というか、ニア、酔っていたとはいえ、あんな近くに……。
私はまた頬が赤くなる。熱い、熱くて苦しい……。手で頬をパタパタと仰ぎ、急いで鎮めようと試みた。
ひんやりとした空気に酔いがさめてきたのか、ニアの足取りはだんだんとしっかりとしていく。
それとは正反対に、今度は私の足元がおぼつかなくなる。
ニアはエレノアが好きなのだと思っている。
けど……。
あんな表情を見てしまったら、それも分からなくなってしまう。
自惚れ、ただの勘違い、酔いに惑わされただけの幻覚。どれも正解と言っていいのかもしれないけれど。
私は両手で頬を包み込む。やっぱり全然熱が引いていない。
帰りの車で、エレノアは私の隣に座ってずっと窓の外を見たままだ。黙ったままのエレノアの表情が、時折窓ガラスに反射する。
ニアは酔いが完全に醒めてはいないみたいで、助手席に座ってぐっすりと眠っている。車内に流れる音楽に紛れ、静かな寝息が聞こえてくる。背もたれから見え隠れするニアの柔らかな髪の毛が揺れる度に、さっきのことを思い出して脈が乱れそうになる。私は冷静を装うために、ぐっと舌を噛む。
ベラも疲れているのか、いつの間にか目を閉じてしまった。
ベラとエレノアに挟まれている私は、唯一の話し相手となったエレノアをちらりと見る。
「ねぇ、ロミィ」
そんな視線に気がついたのか、流れる風景を見たままエレノアが口を開いた。
「私、この学院に入れて、良かったと思うの」
「え? いきなりどうしたの?」
エレノアは可愛らしい笑い声を零す。
「今日、ワイナリーでも思ったことだけれど、母がこの学院に私を入れたのは、きっと世界を見て欲しかったからなの。大層な言い方だけど、母にとって、社会は宇宙のように未知なものだったと思うから」
「……エレノア、そんなことを考えていたの?」
「ええ」
こちらを向いて、朗らかに笑いかけてくれる。何かに吹っ切れたように見えるのは気のせいか。
「母の実家の事業は、とても偉大なものだと思う。大変なことだし、重圧だってある。これまで積み重ねてきたことを崩してはいけない、さらに積み上げなければ、なんて、どこかでバランスがおかしくなってしまうのも不思議ではないでしょう?」
「そうね……たしかに、高い塔はその立派な姿に圧倒されてしまうけれど、崩れるときは一瞬。それも、大きな犠牲を伴うかもしれない。諸刃の剣でもあると思うわ」
エレノアの凛とした眼差しに、私は背筋を伸ばす。
「母は、本当はそれを恐れていた。だから、経営に参加したかったのよ。母だって、何も考えてこなかったわけではない。家のことを、家族のことを大事に思っているからこそ、必死になれるはずだもの」
「お母様は、大丈夫なの……?」
「今はちょっとした小さな仕事を始めたみたいよ。まだ実家のことも諦めてはいないけれど、まだ一触即発って感じだから。……兄も頑固だからね」
ふふふっ、と口元を緩ませるエレノアからは、家族への愛情を感じた。エレノアも苦しかったはずだ。親族が冷戦状態だなんて、しんどくならないはずがない。
それも自分が火種になってしまう可能性すらある。エレノアは、どれだけ神経を消耗してきたのだろう。
「でもね、今日、テイラーさんと話をしていて、思ったの。母は意固地になっているだけじゃないって。ちゃんと私のことを考えてくれていたのよ。私の可能性を信じて、黙って背中を押してくれたの」
「……エレノアは、お母様の気持ちが理解できるのね」
「ええ。ちょっと前までは、そこまでちゃんと理解できていなかったと思う。だけど、母は私を信じてくれている。私が、自分の足で歩いていけることを」
きりっとした眉で、エレノアは真っ直ぐに前を見る。
「これは性別とか、そういう問題じゃないの。だから私は、ちゃんと向き合うことにしたわ」
すれ違う対向車の光がエレノアの顔を明るく照らした。
「この学院にいる意味を、私は無駄にしたくない」
美しいその顔の造形のせいじゃない。
今のエレノアに圧倒されてしまうのは、決してそんなもののためじゃない。
内面から満ち溢れる勇気と、これからの未知の期待に胸を弾ませているその表情からは、エレノアの覚悟が見てとれる。
こちらまで、なんだか胸が高鳴ってきてしまう。そんな希望を魅せてくれるのだ。
「だからまずは、私の実力を磨かなくちゃね」
「ふふ、もう十分、エレノアは立派だけどね」
「まぁ、そんな甘やかさなくていいのよ、ロミィ」
エレノアは嬉しそうに私にちょんっと体当たりをする。
「いずれ、お母様の実家の方までこの想いを届けたいの。だからちゃんと私は根をはって立てるようになるわね」
「ふふふふ。私も頑張らないといけないなぁ」
内緒話をするように控えめに笑い合うと、隣にいるベラが「うーん」と身体の向きを変える。
それを見て、私はまたエレノアと顔を見合わせて躍る心のままに微笑む。
ニアの心は読めないまま。でも、エレノアの心には少し近づけた気がする。
ねぇ、ベラ、私は一体どこまであなたに感謝をすればいいのか、もう分からないじゃない。
窓は次第に結露してきて、これから訪れる季節がひょっこりと顔を覗かせているようだった。
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つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
【完結】王女様がお好きなら、邪魔者のわたしは要らないですか?
曽根原ツタ
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