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44 ぽかぽか
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直音さんのお見舞いに行ってから少しして、一度退院した彼女は再度入院することになった。
今度は風見先生を主治医に迎えたまま東誠社総合病院に戻ってきた。
前よりもお見舞いにすぐに行けてしまうものだから、俺は終業後によく会いに行っていた。たまにエヤとミケも連れて行き、大部屋の他の患者と共にトランプゲームで盛り上がったりもした。
病院食が嫌いではないという直音さん。だけどちょっとだけ違うものが食べたい。
そんなことを呟いていた彼女におすすめのチョコレートをこっそり渡すと、彼女は半分分けてくれた。
これは私もおすすめです。
そう言って初めてこのチョコレートを手に取った時と同じように得意気に笑いながら。
彼女の病室の場所はすっかり足に馴染んで、もうよそ見をしていても辿り着くことが出来る。
だから今も。
風見先生から電話を受けた今も、周りを省みずにまっすぐにそこへ向かうことが出来る。
すれ違う看護士さんから飛び出る声に何度も謝罪の声を残しながら、それでも急ぐ足を緩めることはできなかった。
執務室から飛び出した時からずっと、通常は走ってはいけない廊下を駆け抜ける。
途中、窘めるような声も聞こえた気がする。でも今は、通常なんかじゃない。
「直音さん!!」
重たい扉を勢いよく引き、反響する音も耳に入れずに開かれたカーテンの先へと急ぐ。
傍らにいた風見先生と目が合うと、彼はアイコンタクトで俺にすべてを教えてくれた。
看護士さんを連れて先生たちは一度部屋の外へと出て行く。
ここは大部屋。なのに、今はほかに誰もいない。だから余計にがらんとして、閑散とした侘しさが漂う。
ベッドに横たわる彼女の瞼がゆっくりと開く。
「……樫野さん……?」
俺の方を見て、彼女は重たくなった頭をどうにか動かした。
彼女の細い呼吸音だけが耳に届く。浮き沈みする身体の波は穏やかで、俺を見つけた彼女は柔く微笑んだ。
「来て、くれたんですね……」
「ああ。当たり前だ。直音さん、…………苦しくない?」
ベッドの傍らに手をついて、彼女に聞こえるように震えそうな声に芯を通す。
彼女は緊迫した空気を嫌うだろう。不安になんてさせたくなくて、俺はここに来て威勢を張った。
「今は、苦しくない、です……。ふふ、樫野さんの顔、見てるから、かな……」
彼女の声はフタを閉じられたみたいに小さい。今にも掠れてしまいそうだった。彼女の言葉に俺は小さく頷いてみせる。
「直音さん…………」
思わず声が漏れた。駄目だ。こんな情けない声を出しちゃ。
手に持っていたスマホが力なくベッドへと落ちていった。彼女はその重みを振動で感じたのか不思議そうな顔をする。スマホの画面には心寧からの不在着信の通知とメッセージが浮かび上がる。
“いまむかってるから!”
変換もしていない切羽詰まった文字の並びだった。
風見先生の電話を受けてから、俺は執務室を飛び出ると同時に心寧に連絡をした。
エヤとミケの迎えを頼もうとしたのだ。
今日は帰りが遅くなるかもしれないからだった。
すると当然心寧は理由を尋ねてくる。だから俺は正直に伝えた。偽る余裕なんて一ミリもなかった。
直音さんの容体が急変したこと。
先生曰く、明日を迎えるのは厳しい、と。
心寧は混乱しながらも二人を迎えに行くと答えてくれて、更には病院に連れてきてくれるそうだ。
二人が直音さんに懐いていることを知っていたからだろう。
目の前にいる直音さんの向こう側に見えるベッドサイドモニター。もう、ほとんど動いていない。
延命を望まない彼女のことを先生たちは把握している。つまりは今、彼らが出来ることはなくなった。
彼女は色彩の薄い肌を覗かせ、ベッドに落ちたスマホに触れた。
「……ふふ、懐かしい」
なんとか拾い上げたスマホの裏側を見やり、直音さんはそのままそっとスマホをベッドの上に置く。
俺に渡そうとしたけど、力が出なくて滑り落ちてしまったようだ。
「樫野さん。お仕事は……?」
「いいんです。この時期は残業になるんです」
「ふふふ。それはよくないですねぇ……」
「そう? あ、もしかして俺を追い出そうとしてる? その手には乗りませんよ?」
「ふふっ。ばれましたか」
直音さんがくす、くすと笑うと、強張っていた筋肉が勝手に和らいで全身から力が抜けていく。柔らかくなった身体が、微かに熱を取り戻した。
「俺にここにいて欲しくないですか?」
置いてあった椅子に座り、身体を少し傾けて彼女に尋ねる。
彼女はゆっくりと首を横に振って応えた。
「……嫌です。いかないで…………」
さっきよりもか細い声だった。でもそれは彼女の感情そのままの声で、その証拠に彼女は恥ずかしそうにきゅっと唇を噛む。
「出て行きませんよ。直音さんに何を言われても、俺は出て行きませんから」
「……うん」
彼女にちゃんと聞こえるように顔を寄せて伝えると、彼女の右目から涙がこぼれていった。
「樫野さん……樫野さんは、いつも、私の希望を叶えてくれるんですね…………」
直音さんは、ふふふ、と申し訳なさそうに笑う。
「どうして、私の願いが、分かるんですか……?」
「偉そうなことは言えないけど……でも、同じだから」
「同じ……?」
「はい。今も、同じことを願っていると……嬉しい、な」
「…………はい。たぶん、同じです……」
「本当?」
「はい。……自信、あります……ふふふ」
どんな瞬間だって、彼女の笑い声は胸をくすぐる。彼女のそれは魔法と同じだ。いつだって俺は、どんなに苦しくても心が緩んで、安堵を覚えてしまうのだから。
彼女にまた会いたい。でもきっとそれは叶わない。
天界に行ったら会えるのだろうか。いやきっとそうはいかない。どこに行ったって、もう彼女には会うことはできない。会えないことが分かっているのに、でも、それでも会えることを願ってしまう。
君と与えられた時間を生きた。直音さんは、精一杯に生き切った。
なのにまだ足りないなんて。少しの我が儘を赦して欲しい。
この前彼女が言っていたこと。俺はそれに共感できた。
彼女の瞳に映る自分。
そこにいる自分を俺も好きになれる。その気持ちが分かるからだ。
「あの、か、樫野、さん……わた、し…………」
掠れていく声。色を失った唇が微かに震えたように見えた。
彼女の霞がかった瞳が迷いなくこちらを見上げる。ずっと隠し続けていた彼女の最後の恐怖心。それが消えたのだと、その瞳を見れば分かった。
そっと開いていく彼女の心に呼ばれ、俺は顔を近づけ彼女の声を求めた。
「…………かし……のさ、ん……だいすき、です」
耳元で愛おしい声が響く。顔を離して彼女の表情を見ると、さっきまで彩度を失っていた彼女が鮮やかに見えた。動きにくくなった頬を微かに緩ませてはにかむ。
スマホを滑らせた彼女の右手。垂れたその手を覆うようにして包み込むと、彼女の柔い指先が俺の指先を撫でた。
「もう、怖がらなくて、いいよ」
彼女の右手を握りしめて囁くと、直音さんはこくりと頷いて微笑んだ。真綿ほどの繊細な感覚が包んだ手の中で返ってくる。それが彼女の精一杯の力だった。
「…………直音さん」
呼びかけると、彼女の瞳から涙が枕にこぼれる。微笑みを崩さぬまま、彼女の瞼がゆっくりと落ちていく。瞳が見えなくなるまで彼女から光が失われることはなかった。
「直音さん…………? の、と……さん……」
握りしめた右手に一度力が入った後で、彼女の全身からは力が抜けていく。
聞こえていた彼女の呼吸音も遠くなっていって、身体は沈んだまま浮き上がっては来ない。
「…………直音さん……っ」
彼女の右手を握りしめたまま、堰を切ったように感情が血流を通って指先まですべてを覆い尽くす。
平坦な機械音が容赦なく鼓膜を切り裂く。
穏やかに眠る彼女の寝顔。真正面からそれを映すと、途端に呼吸が乱れだした。
「あ……っ! ちょっと……!」
廊下の先で、俺の胸懐と同じようにざわめく声が聞こえてきた。どたどたといういくつかの足音は徐々に大きくなってきて、ドアの前で止まったと同時に勢いよく扉が開かれた。
「ノトチャン! ノトチャン! ノトチャン……っ!!」
弾丸の如く部屋の飛び込んできたのはエヤだった。一目散にベッドに駆け寄り、眠ってしまったまま動かない直音さんの身体を揺すぶる。
彼女の右手を放し立ち上がると、すかさずエヤが彼女の右手を握りしめた。
「……お兄ちゃん」
心寧の茫然とした声が背後から聞こえてくる。心寧は直音さんの病状も何も知らなかった。恐らく、この中で一番何が起きているのか分かってはいないだろう。それでも勘がいいから、心寧がその場から動くことはなかった。
「イタル……?」
黙ったまま顔を伏せた俺の隣にミケが並ぶ。俺を見上げたミケは、何も言わずに俺の手をぎゅっと握りしめた。
小さな温もりが指先に伝わると、反対に頬には冷たいものが這う。
瞳から落ちていく涙は、外気に触れてすぐに冷たくなってしまう。
「…………う……っ」
次から次へと涙が溢れだす。行列を成した彼らを止める術などなかった。
こめかみがキリキリと痛んで、口の中まで渇いてくる。
ああ、駄目だ。駄目だ駄目だ。
「……直音さん……うっ……直音さん……っ」
何度も手で拭おうとするけど、待ち構えていた涙腺は容赦などしない。
あっという間に輪郭をなぞって首元まで水が滴っていく。
「ああ…………う……うう……っ」
どうしようもなくて、滲んだ視界で彼女の勇姿を捉えようとする。ぼやけた彼女の寝顔。もう二度と、あの笑顔を見ることはできない。
最後に振り絞った彼女の勇気。その言葉が心を満たす。だけど足りない。俺には足りない。
好きという言葉なんかじゃ、この気持ちは満ち足りない。そんな言葉では収まりきらない感情は初めてだ。
彼女が伝えてくれた大好きという言葉。それに返す言葉は、同じ言葉では足りないんだ。
前に彼女と行ったコンサートを思い出す。
愛を囁く数々の歌詞。その表現力に照れながらも感心したものだ。
きっと彼女は恥ずかしいと言って笑うだろう。俺だってこれまでそんなことを言いたいと思ったことはない。
でも今は。いや、彼女になら。
花が咲くときに産声を上げるのなら、それはきっと彼女の笑う声と似ている。
だから花が揺れる度に、俺はいつだって彼女に励まされるんだ。
そんなくだらなくてあり得ないことを、彼女にならいくらでも囁こう。止めてと言われても止めない。
現実離れした甘い囁き。彼女にどんなに笑われたって構わない。
その声が聞けるのなら、恥という言葉なんて忘れてしまおう。
だけどもう彼女の喉は響かない。
彼女が望んだ道。俺はそれをちゃんと彩れたのだろうか。
彼女が最期の道を歩く背中に、俺はまだ伝えてないことがあるはずだ。
大事な言葉。
出会ったからには言わなければいけない言葉。
さようなら。
さようなら。
直音さん。
「…………ら……のとさ…………さよなら……っ」
いつから声に出ていたのだろう。
嗚咽と共に外に出て行った別れの挨拶に、ミケがちらりとこちらを見上げる。
「さよなら……さよなら……のとさん……」
ああ。結局、スマートじゃない俺には語彙力の限界がある。
好き。
シンプルな言葉が、結局は一番なのか。
大好き、愛している。
さようなら。
「…………直音さん……好き……好きです……」
なんて情けない。格好悪い。
繋いだミケの手にまた力が入る。
「ノトチャン! ノトチャン! うわあああああぁああぁあん!」
絶えず泣き叫ぶエヤの悲痛な声が部屋中に響き渡り、エヤはそのままベッドに顔を伏せた。その間もずっと直音さんの右手を握ったまま。
「イタル……」
だからだろうか。ミケの静かな声がやたらと真っ直ぐに耳に届いてきた。
彼女のそんな落ち着いた声が心の隙間を縫って余計に涙を誘ってくる。
ああ、まだ、駄目みたいだ。
悲しむエヤに安心感を与えないと。
感情を露わにしないミケの緊張を解かないと。
分かっているのに。涙が邪魔をして何もできない。
ただミケの小さな手を握りしめて、どうにか立っているだけで限界だ。
ミケがもう片方の手も伸ばして両手で俺の手を包み込もうとした。
もう止めてくれ。
そんなに優しくて頼もしい温もりを与えないでくれ。
ああ、ミケ、君は確かに立派な悪魔だ。
その温もりに、脆くなった心が甘えてしまっていつまでも涙が止まらない。
そんなんじゃ駄目なのに。
情けなく流れ続ける涙に痛みが伴う頃、気づけばエヤの声が聞こえなくなっていることに気づく。
エヤは直音さんの右手を握りしめたまま、潤んだ瞳を上げて彼女の最期の表情をじっと見つめた。
今度は風見先生を主治医に迎えたまま東誠社総合病院に戻ってきた。
前よりもお見舞いにすぐに行けてしまうものだから、俺は終業後によく会いに行っていた。たまにエヤとミケも連れて行き、大部屋の他の患者と共にトランプゲームで盛り上がったりもした。
病院食が嫌いではないという直音さん。だけどちょっとだけ違うものが食べたい。
そんなことを呟いていた彼女におすすめのチョコレートをこっそり渡すと、彼女は半分分けてくれた。
これは私もおすすめです。
そう言って初めてこのチョコレートを手に取った時と同じように得意気に笑いながら。
彼女の病室の場所はすっかり足に馴染んで、もうよそ見をしていても辿り着くことが出来る。
だから今も。
風見先生から電話を受けた今も、周りを省みずにまっすぐにそこへ向かうことが出来る。
すれ違う看護士さんから飛び出る声に何度も謝罪の声を残しながら、それでも急ぐ足を緩めることはできなかった。
執務室から飛び出した時からずっと、通常は走ってはいけない廊下を駆け抜ける。
途中、窘めるような声も聞こえた気がする。でも今は、通常なんかじゃない。
「直音さん!!」
重たい扉を勢いよく引き、反響する音も耳に入れずに開かれたカーテンの先へと急ぐ。
傍らにいた風見先生と目が合うと、彼はアイコンタクトで俺にすべてを教えてくれた。
看護士さんを連れて先生たちは一度部屋の外へと出て行く。
ここは大部屋。なのに、今はほかに誰もいない。だから余計にがらんとして、閑散とした侘しさが漂う。
ベッドに横たわる彼女の瞼がゆっくりと開く。
「……樫野さん……?」
俺の方を見て、彼女は重たくなった頭をどうにか動かした。
彼女の細い呼吸音だけが耳に届く。浮き沈みする身体の波は穏やかで、俺を見つけた彼女は柔く微笑んだ。
「来て、くれたんですね……」
「ああ。当たり前だ。直音さん、…………苦しくない?」
ベッドの傍らに手をついて、彼女に聞こえるように震えそうな声に芯を通す。
彼女は緊迫した空気を嫌うだろう。不安になんてさせたくなくて、俺はここに来て威勢を張った。
「今は、苦しくない、です……。ふふ、樫野さんの顔、見てるから、かな……」
彼女の声はフタを閉じられたみたいに小さい。今にも掠れてしまいそうだった。彼女の言葉に俺は小さく頷いてみせる。
「直音さん…………」
思わず声が漏れた。駄目だ。こんな情けない声を出しちゃ。
手に持っていたスマホが力なくベッドへと落ちていった。彼女はその重みを振動で感じたのか不思議そうな顔をする。スマホの画面には心寧からの不在着信の通知とメッセージが浮かび上がる。
“いまむかってるから!”
変換もしていない切羽詰まった文字の並びだった。
風見先生の電話を受けてから、俺は執務室を飛び出ると同時に心寧に連絡をした。
エヤとミケの迎えを頼もうとしたのだ。
今日は帰りが遅くなるかもしれないからだった。
すると当然心寧は理由を尋ねてくる。だから俺は正直に伝えた。偽る余裕なんて一ミリもなかった。
直音さんの容体が急変したこと。
先生曰く、明日を迎えるのは厳しい、と。
心寧は混乱しながらも二人を迎えに行くと答えてくれて、更には病院に連れてきてくれるそうだ。
二人が直音さんに懐いていることを知っていたからだろう。
目の前にいる直音さんの向こう側に見えるベッドサイドモニター。もう、ほとんど動いていない。
延命を望まない彼女のことを先生たちは把握している。つまりは今、彼らが出来ることはなくなった。
彼女は色彩の薄い肌を覗かせ、ベッドに落ちたスマホに触れた。
「……ふふ、懐かしい」
なんとか拾い上げたスマホの裏側を見やり、直音さんはそのままそっとスマホをベッドの上に置く。
俺に渡そうとしたけど、力が出なくて滑り落ちてしまったようだ。
「樫野さん。お仕事は……?」
「いいんです。この時期は残業になるんです」
「ふふふ。それはよくないですねぇ……」
「そう? あ、もしかして俺を追い出そうとしてる? その手には乗りませんよ?」
「ふふっ。ばれましたか」
直音さんがくす、くすと笑うと、強張っていた筋肉が勝手に和らいで全身から力が抜けていく。柔らかくなった身体が、微かに熱を取り戻した。
「俺にここにいて欲しくないですか?」
置いてあった椅子に座り、身体を少し傾けて彼女に尋ねる。
彼女はゆっくりと首を横に振って応えた。
「……嫌です。いかないで…………」
さっきよりもか細い声だった。でもそれは彼女の感情そのままの声で、その証拠に彼女は恥ずかしそうにきゅっと唇を噛む。
「出て行きませんよ。直音さんに何を言われても、俺は出て行きませんから」
「……うん」
彼女にちゃんと聞こえるように顔を寄せて伝えると、彼女の右目から涙がこぼれていった。
「樫野さん……樫野さんは、いつも、私の希望を叶えてくれるんですね…………」
直音さんは、ふふふ、と申し訳なさそうに笑う。
「どうして、私の願いが、分かるんですか……?」
「偉そうなことは言えないけど……でも、同じだから」
「同じ……?」
「はい。今も、同じことを願っていると……嬉しい、な」
「…………はい。たぶん、同じです……」
「本当?」
「はい。……自信、あります……ふふふ」
どんな瞬間だって、彼女の笑い声は胸をくすぐる。彼女のそれは魔法と同じだ。いつだって俺は、どんなに苦しくても心が緩んで、安堵を覚えてしまうのだから。
彼女にまた会いたい。でもきっとそれは叶わない。
天界に行ったら会えるのだろうか。いやきっとそうはいかない。どこに行ったって、もう彼女には会うことはできない。会えないことが分かっているのに、でも、それでも会えることを願ってしまう。
君と与えられた時間を生きた。直音さんは、精一杯に生き切った。
なのにまだ足りないなんて。少しの我が儘を赦して欲しい。
この前彼女が言っていたこと。俺はそれに共感できた。
彼女の瞳に映る自分。
そこにいる自分を俺も好きになれる。その気持ちが分かるからだ。
「あの、か、樫野、さん……わた、し…………」
掠れていく声。色を失った唇が微かに震えたように見えた。
彼女の霞がかった瞳が迷いなくこちらを見上げる。ずっと隠し続けていた彼女の最後の恐怖心。それが消えたのだと、その瞳を見れば分かった。
そっと開いていく彼女の心に呼ばれ、俺は顔を近づけ彼女の声を求めた。
「…………かし……のさ、ん……だいすき、です」
耳元で愛おしい声が響く。顔を離して彼女の表情を見ると、さっきまで彩度を失っていた彼女が鮮やかに見えた。動きにくくなった頬を微かに緩ませてはにかむ。
スマホを滑らせた彼女の右手。垂れたその手を覆うようにして包み込むと、彼女の柔い指先が俺の指先を撫でた。
「もう、怖がらなくて、いいよ」
彼女の右手を握りしめて囁くと、直音さんはこくりと頷いて微笑んだ。真綿ほどの繊細な感覚が包んだ手の中で返ってくる。それが彼女の精一杯の力だった。
「…………直音さん」
呼びかけると、彼女の瞳から涙が枕にこぼれる。微笑みを崩さぬまま、彼女の瞼がゆっくりと落ちていく。瞳が見えなくなるまで彼女から光が失われることはなかった。
「直音さん…………? の、と……さん……」
握りしめた右手に一度力が入った後で、彼女の全身からは力が抜けていく。
聞こえていた彼女の呼吸音も遠くなっていって、身体は沈んだまま浮き上がっては来ない。
「…………直音さん……っ」
彼女の右手を握りしめたまま、堰を切ったように感情が血流を通って指先まですべてを覆い尽くす。
平坦な機械音が容赦なく鼓膜を切り裂く。
穏やかに眠る彼女の寝顔。真正面からそれを映すと、途端に呼吸が乱れだした。
「あ……っ! ちょっと……!」
廊下の先で、俺の胸懐と同じようにざわめく声が聞こえてきた。どたどたといういくつかの足音は徐々に大きくなってきて、ドアの前で止まったと同時に勢いよく扉が開かれた。
「ノトチャン! ノトチャン! ノトチャン……っ!!」
弾丸の如く部屋の飛び込んできたのはエヤだった。一目散にベッドに駆け寄り、眠ってしまったまま動かない直音さんの身体を揺すぶる。
彼女の右手を放し立ち上がると、すかさずエヤが彼女の右手を握りしめた。
「……お兄ちゃん」
心寧の茫然とした声が背後から聞こえてくる。心寧は直音さんの病状も何も知らなかった。恐らく、この中で一番何が起きているのか分かってはいないだろう。それでも勘がいいから、心寧がその場から動くことはなかった。
「イタル……?」
黙ったまま顔を伏せた俺の隣にミケが並ぶ。俺を見上げたミケは、何も言わずに俺の手をぎゅっと握りしめた。
小さな温もりが指先に伝わると、反対に頬には冷たいものが這う。
瞳から落ちていく涙は、外気に触れてすぐに冷たくなってしまう。
「…………う……っ」
次から次へと涙が溢れだす。行列を成した彼らを止める術などなかった。
こめかみがキリキリと痛んで、口の中まで渇いてくる。
ああ、駄目だ。駄目だ駄目だ。
「……直音さん……うっ……直音さん……っ」
何度も手で拭おうとするけど、待ち構えていた涙腺は容赦などしない。
あっという間に輪郭をなぞって首元まで水が滴っていく。
「ああ…………う……うう……っ」
どうしようもなくて、滲んだ視界で彼女の勇姿を捉えようとする。ぼやけた彼女の寝顔。もう二度と、あの笑顔を見ることはできない。
最後に振り絞った彼女の勇気。その言葉が心を満たす。だけど足りない。俺には足りない。
好きという言葉なんかじゃ、この気持ちは満ち足りない。そんな言葉では収まりきらない感情は初めてだ。
彼女が伝えてくれた大好きという言葉。それに返す言葉は、同じ言葉では足りないんだ。
前に彼女と行ったコンサートを思い出す。
愛を囁く数々の歌詞。その表現力に照れながらも感心したものだ。
きっと彼女は恥ずかしいと言って笑うだろう。俺だってこれまでそんなことを言いたいと思ったことはない。
でも今は。いや、彼女になら。
花が咲くときに産声を上げるのなら、それはきっと彼女の笑う声と似ている。
だから花が揺れる度に、俺はいつだって彼女に励まされるんだ。
そんなくだらなくてあり得ないことを、彼女にならいくらでも囁こう。止めてと言われても止めない。
現実離れした甘い囁き。彼女にどんなに笑われたって構わない。
その声が聞けるのなら、恥という言葉なんて忘れてしまおう。
だけどもう彼女の喉は響かない。
彼女が望んだ道。俺はそれをちゃんと彩れたのだろうか。
彼女が最期の道を歩く背中に、俺はまだ伝えてないことがあるはずだ。
大事な言葉。
出会ったからには言わなければいけない言葉。
さようなら。
さようなら。
直音さん。
「…………ら……のとさ…………さよなら……っ」
いつから声に出ていたのだろう。
嗚咽と共に外に出て行った別れの挨拶に、ミケがちらりとこちらを見上げる。
「さよなら……さよなら……のとさん……」
ああ。結局、スマートじゃない俺には語彙力の限界がある。
好き。
シンプルな言葉が、結局は一番なのか。
大好き、愛している。
さようなら。
「…………直音さん……好き……好きです……」
なんて情けない。格好悪い。
繋いだミケの手にまた力が入る。
「ノトチャン! ノトチャン! うわあああああぁああぁあん!」
絶えず泣き叫ぶエヤの悲痛な声が部屋中に響き渡り、エヤはそのままベッドに顔を伏せた。その間もずっと直音さんの右手を握ったまま。
「イタル……」
だからだろうか。ミケの静かな声がやたらと真っ直ぐに耳に届いてきた。
彼女のそんな落ち着いた声が心の隙間を縫って余計に涙を誘ってくる。
ああ、まだ、駄目みたいだ。
悲しむエヤに安心感を与えないと。
感情を露わにしないミケの緊張を解かないと。
分かっているのに。涙が邪魔をして何もできない。
ただミケの小さな手を握りしめて、どうにか立っているだけで限界だ。
ミケがもう片方の手も伸ばして両手で俺の手を包み込もうとした。
もう止めてくれ。
そんなに優しくて頼もしい温もりを与えないでくれ。
ああ、ミケ、君は確かに立派な悪魔だ。
その温もりに、脆くなった心が甘えてしまっていつまでも涙が止まらない。
そんなんじゃ駄目なのに。
情けなく流れ続ける涙に痛みが伴う頃、気づけばエヤの声が聞こえなくなっていることに気づく。
エヤは直音さんの右手を握りしめたまま、潤んだ瞳を上げて彼女の最期の表情をじっと見つめた。
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