22 / 50
22 ふわふわでくらくら
しおりを挟む
イベント展示のクラゲエリアは、隣のクリオネの部屋とは違って一段と暗い。
たくさんのクラゲが入っている大きな水槽をライトで照らし、観客たちを囲うように出迎える。
その場に一歩踏み入れるだけで世界が大きく変わり、クラゲたちはまるで夜空を舞う雪のようだった。
高いところまで水槽が伸びているから上を見上げて歩いている人も多い。皆して幻想的な空間に見惚れているせいか歩幅が合わなかったり急に立ち止まる人なんかもいて、淑やかな世界観とは真逆で鑑賞エリアはどちらかというと整備されていない荒野に近い。
貴族のように優雅に遊泳するクラゲたちに見下ろされて、どちらが鑑賞されているのか分からないほどだ。
捕獲されてガラスの向こうに閉じ込められたクラゲたちの方が自由を知らないはずなのに、どうにも立場が逆に見えてしまうくらいに窮屈だった。
この時期の目玉みたいな展示だと分かってはいたから文句を言う筋合いなんてないんだろうけど。
乱雑な人波に嫌気がさしてしまいそうだったが、三組前を歩く先にエヤと初橋さんの横顔が見えたので内心ほっとする。初橋さんはエヤが人に潰されてしまわないように彼女の後ろに回り、包み込むようにして守りながら目の前を泳ぐ小さなクラゲを指差していた。
二人の居場所を確認して、俺は小さな身体を駆使してそそくさと良い場所で展示を見回っているミケのことを見失わないように視線を戻す。
ミケは俺がついてきていることを時折確認しながら、マイペースにクラゲ鑑賞を満喫しているようだった。
ちらりと腕時計を見やり時間を確認する。いつの間にかすっかり夕方を過ぎていた。展示を見終えたらそろそろ帰宅する時間になるだろう。
初橋さんとも一日中一緒にいたけど、結局家族のこととかを聞く機会は見つけられなかった。
こんなに人が多いところに一緒に来たのは初めてだったから、エヤとミケの世話をするのに精一杯だったと言い訳をすれば簡単だ。でも本当は違うんだと思う。
このまま帰宅して、今日はチャンスがなかったからと先延ばしにするのだろうか。
朝、目に入ったポスターに描かれた写真と文字を思い出す。
もうすぐ花火の時間か……。
初橋さんの方を見ると、エヤに手を引かれて今度は巨大なクラゲの水槽の前まで向かっていた。
水族館を出たら、彼女はもう帰ってしまう。
近くにいたクラゲが視界に入ってきて初橋さんの姿を遠のかせていく。
チクリと、間に入ったクラゲに身体のどこかを刺されたような錯覚がする。
嫌だな。
目の前で粉雪のように積もりゆくクラゲたちに覆われて、隠したくない気持ちまでもが白に塗れていった。
その瞬間に、視界がグワンと揺れてクラゲたちも消えていく。
「あっ、すみません……!」
「いえ。こちらこそ……」
ぼぅっとしていたせいだろう。背中に衝撃の余韻を残したまま会釈を返す。
ぶつかってきた女性の声に、疎かになりかけていた注意力が戻ってきた。
「ミケ……?」
さっきまでミケが釘付けになっていたクラゲの大群の前にその姿が見えない。
サーっと、一気に血の気が引いていくのが分かった。
「ミケ!」
厳かで煌びやかな音楽に負けないように声の音量を上げて辺りを見回す。
「あーっ! もう……!」
自分のせいなのは明白だった。だからこそ今、自分のことが相当憎い。
低い位置に目線を落としてミケの姿を探す。彼女は慣れてきたとはいえこういった人の多いところはあまり得意ではないはずだ。一人ぼっちで不安にさせてしまっているかもしれない。
今日はミケたちとはぐれることがないようにとずっと肝に銘じていたのに。なんとも不甲斐ない。
目が回りそうなほどあちこちを見渡して、ようやく暗がりに馴染んできた視界に遠めの輪郭も形を帯びてくる。
「…………あ!」
左右に動かしていた頭を止め、ある一点に視界が定まった。
ミケのつけているヘアゴムの蛍光色が目についたからだ。
「ミケ……!」
その姿を見つけてどっと安心が押し寄せてくる。安堵の息とともに彼女のもとに向かおうとすると、ミケが近くにいた俺とよく似た色のコートを着ている男性の手をそっと握ったのが見えた。
男性の顔も見ずに手を繋いだミケだったが、突然知らない子に手を握られた男性は戸惑いながらも彼女を見下ろす。そして、無反応な男性に違和感でも覚えたのか、ミケも彼のことを見上げ、二人の目が合った。
「あ…………」
小さな口が丸を描いたまま固まる。男性は迷子だと察したのか優しく笑ってくれたが、ミケは彼の手を離し、何が起こったのか分からずに伸ばした手を静かに下ろした。
「わー! かーわいい! あはははっ!」
男性の連れである女性が、ミケが人違いをしたことに気づいて軽やかに声を上げて笑い出す。するとミケは彼女の反応に驚いたのか、びくりと肩を上げて眉を大きく下げた。
「ミケ!」
驚きのあまり泣きそうになっているミケのもとへと急ぎ、男女に軽く頭を下げてから行き場をなくしたミケの手を握る。
「イタル…………どこにいたの」
ミケはまだ放心した声のまま、俺を見上げて下がっていた眉を元に戻した。
「ごめん。ちょっとクラゲに見惚れてた」
「……迷子になっちゃだめだよ」
「うん。本当そうだよな。ごめんね、ミケ」
「…………ううん」
ミケは足元に視線を下げてとぼとぼと歩き出す。
彼女と合流できたことに一安心しながらも、先ほど見た光景を思い返す。
よく似たコートを着ていたあの人と俺を間違えたのは分かるけど、まさかミケの方から手を繋ごうとするなんて。このエリアに入った時には頑なに手を繋ぐことを拒んでいたのに。
やっぱり人が多いのに疲れてしまったのだろうか。
ミケの気まぐれに思いを馳せていると、繋いだ左手から、きゅっと小さな力が入るのが伝わってくる。
「……ごめんなさい」
足元を見たまま、ミケはぼそりとそう呟いた。
「いいや。俺の方こそごめんな。でももう迷子は嫌だから、お互い気を付けよう」
「うん」
こくりと頷くミケは、目の前に広がるクラゲの大群に再び顔を上げる。
まぁ、どうして気が変わったのかなんてどうでもいいか。
圧巻の綿雪に吸い込まれるように瞳を開くミケの横顔からは、さっきまで潜んでいた不安心はもう見えなくなっていた。
たくさんのクラゲが入っている大きな水槽をライトで照らし、観客たちを囲うように出迎える。
その場に一歩踏み入れるだけで世界が大きく変わり、クラゲたちはまるで夜空を舞う雪のようだった。
高いところまで水槽が伸びているから上を見上げて歩いている人も多い。皆して幻想的な空間に見惚れているせいか歩幅が合わなかったり急に立ち止まる人なんかもいて、淑やかな世界観とは真逆で鑑賞エリアはどちらかというと整備されていない荒野に近い。
貴族のように優雅に遊泳するクラゲたちに見下ろされて、どちらが鑑賞されているのか分からないほどだ。
捕獲されてガラスの向こうに閉じ込められたクラゲたちの方が自由を知らないはずなのに、どうにも立場が逆に見えてしまうくらいに窮屈だった。
この時期の目玉みたいな展示だと分かってはいたから文句を言う筋合いなんてないんだろうけど。
乱雑な人波に嫌気がさしてしまいそうだったが、三組前を歩く先にエヤと初橋さんの横顔が見えたので内心ほっとする。初橋さんはエヤが人に潰されてしまわないように彼女の後ろに回り、包み込むようにして守りながら目の前を泳ぐ小さなクラゲを指差していた。
二人の居場所を確認して、俺は小さな身体を駆使してそそくさと良い場所で展示を見回っているミケのことを見失わないように視線を戻す。
ミケは俺がついてきていることを時折確認しながら、マイペースにクラゲ鑑賞を満喫しているようだった。
ちらりと腕時計を見やり時間を確認する。いつの間にかすっかり夕方を過ぎていた。展示を見終えたらそろそろ帰宅する時間になるだろう。
初橋さんとも一日中一緒にいたけど、結局家族のこととかを聞く機会は見つけられなかった。
こんなに人が多いところに一緒に来たのは初めてだったから、エヤとミケの世話をするのに精一杯だったと言い訳をすれば簡単だ。でも本当は違うんだと思う。
このまま帰宅して、今日はチャンスがなかったからと先延ばしにするのだろうか。
朝、目に入ったポスターに描かれた写真と文字を思い出す。
もうすぐ花火の時間か……。
初橋さんの方を見ると、エヤに手を引かれて今度は巨大なクラゲの水槽の前まで向かっていた。
水族館を出たら、彼女はもう帰ってしまう。
近くにいたクラゲが視界に入ってきて初橋さんの姿を遠のかせていく。
チクリと、間に入ったクラゲに身体のどこかを刺されたような錯覚がする。
嫌だな。
目の前で粉雪のように積もりゆくクラゲたちに覆われて、隠したくない気持ちまでもが白に塗れていった。
その瞬間に、視界がグワンと揺れてクラゲたちも消えていく。
「あっ、すみません……!」
「いえ。こちらこそ……」
ぼぅっとしていたせいだろう。背中に衝撃の余韻を残したまま会釈を返す。
ぶつかってきた女性の声に、疎かになりかけていた注意力が戻ってきた。
「ミケ……?」
さっきまでミケが釘付けになっていたクラゲの大群の前にその姿が見えない。
サーっと、一気に血の気が引いていくのが分かった。
「ミケ!」
厳かで煌びやかな音楽に負けないように声の音量を上げて辺りを見回す。
「あーっ! もう……!」
自分のせいなのは明白だった。だからこそ今、自分のことが相当憎い。
低い位置に目線を落としてミケの姿を探す。彼女は慣れてきたとはいえこういった人の多いところはあまり得意ではないはずだ。一人ぼっちで不安にさせてしまっているかもしれない。
今日はミケたちとはぐれることがないようにとずっと肝に銘じていたのに。なんとも不甲斐ない。
目が回りそうなほどあちこちを見渡して、ようやく暗がりに馴染んできた視界に遠めの輪郭も形を帯びてくる。
「…………あ!」
左右に動かしていた頭を止め、ある一点に視界が定まった。
ミケのつけているヘアゴムの蛍光色が目についたからだ。
「ミケ……!」
その姿を見つけてどっと安心が押し寄せてくる。安堵の息とともに彼女のもとに向かおうとすると、ミケが近くにいた俺とよく似た色のコートを着ている男性の手をそっと握ったのが見えた。
男性の顔も見ずに手を繋いだミケだったが、突然知らない子に手を握られた男性は戸惑いながらも彼女を見下ろす。そして、無反応な男性に違和感でも覚えたのか、ミケも彼のことを見上げ、二人の目が合った。
「あ…………」
小さな口が丸を描いたまま固まる。男性は迷子だと察したのか優しく笑ってくれたが、ミケは彼の手を離し、何が起こったのか分からずに伸ばした手を静かに下ろした。
「わー! かーわいい! あはははっ!」
男性の連れである女性が、ミケが人違いをしたことに気づいて軽やかに声を上げて笑い出す。するとミケは彼女の反応に驚いたのか、びくりと肩を上げて眉を大きく下げた。
「ミケ!」
驚きのあまり泣きそうになっているミケのもとへと急ぎ、男女に軽く頭を下げてから行き場をなくしたミケの手を握る。
「イタル…………どこにいたの」
ミケはまだ放心した声のまま、俺を見上げて下がっていた眉を元に戻した。
「ごめん。ちょっとクラゲに見惚れてた」
「……迷子になっちゃだめだよ」
「うん。本当そうだよな。ごめんね、ミケ」
「…………ううん」
ミケは足元に視線を下げてとぼとぼと歩き出す。
彼女と合流できたことに一安心しながらも、先ほど見た光景を思い返す。
よく似たコートを着ていたあの人と俺を間違えたのは分かるけど、まさかミケの方から手を繋ごうとするなんて。このエリアに入った時には頑なに手を繋ぐことを拒んでいたのに。
やっぱり人が多いのに疲れてしまったのだろうか。
ミケの気まぐれに思いを馳せていると、繋いだ左手から、きゅっと小さな力が入るのが伝わってくる。
「……ごめんなさい」
足元を見たまま、ミケはぼそりとそう呟いた。
「いいや。俺の方こそごめんな。でももう迷子は嫌だから、お互い気を付けよう」
「うん」
こくりと頷くミケは、目の前に広がるクラゲの大群に再び顔を上げる。
まぁ、どうして気が変わったのかなんてどうでもいいか。
圧巻の綿雪に吸い込まれるように瞳を開くミケの横顔からは、さっきまで潜んでいた不安心はもう見えなくなっていた。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
思い出を売った女
志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。
それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。
浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。
浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。
全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。
ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。
あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。
R15は保険です
他サイトでも公開しています
表紙は写真ACより引用しました
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
政略結婚の約束すら守ってもらえませんでした。
克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
「すまない、やっぱり君の事は抱けない」初夜のベットの中で、恋焦がれた初恋の人にそう言われてしまいました。私の心は砕け散ってしまいました。初恋の人が妹を愛していると知った時、妹が死んでしまって、政略結婚でいいから結婚して欲しいと言われた時、そして今。三度もの痛手に私の心は耐えられませんでした。
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる