手のひらのしかくい地球

冠つらら

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1 空から女の子が…?

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 いつもと変わらない帰り道。
 片手には駅前のスーパーで買った夕食の材料が入ったエコバッグ。反対の肩からずり落ちそうになっているトートバッグを身体を弾ませて安定の位置に戻す。
 二十六歳も後半戦に向かって行く季節の夕暮れ。
 早く帰って、疲れた身体を一刻も早く休めたい。
 もう空は落ちかけている。藍色に溶けた歩道橋の向こう側は、羨ましいことに一足お先に眠ろうとしていた。

 仕事で酷使した目の休息を求め、星が輝きだすのを見ようとして顔を上げる。そうするとさっきよりも歩道橋がよく見えてきた。
 少し古いその橋は、長い階段を携えていつも変わらずそこに鎮座する。
 まるでこの道の守護神のように堂々と。文句を言うことも、時代に逆らうこともなく。
 歩道橋を見ると一日の終わりをようやく実感できる。

 ああ。

 今日も疲れた。荷物も重いが心も重い。疲労でも溜まっているんだろうか。
 仕事という規制こそはあれど、毎日を自由に過ごして何をせずとも毎年例外なく同じ日に歳を取る。
 何か夢を追いかけたり目標を掲げたりして過ごす誰かの時間と、俺がこうやって毎日を繰り返す時間。そのどちらも同じ比重だなんて天秤にかけてみても納得はできないだろう。

 でもそんなことを言っても時計の針が意志を持つわけでもなく。ただ人生らしきものを歩むだけ。
 過去を振り返って後悔することもある。その時に将来の誓いを立てたとしよう。だが自分に残された時間なんて分からないから結局はいつもと何ら変わりない一日を終える。そしてこの歩道橋は、なんでもない一日の終わりを告げる目印だ。
 そんな一日はくだらないと叱責されるだろうか。

 でも今の俺に大事なのは家に帰って心置きなく寝転がること。
 さぁ愛しの我が家まであと少し。
 目がしょぼくれてきて少し痛い。強めに瞬きをして歩道橋から目を逸らそうとする。
 ちょうどその時だった。それを引き戻すように俺の耳に声が届いてきたのは。

「待ってください! エヤたちのことを見捨てないで欲しいだす!」

 独特の訛りに乗せて幼い声が周辺に轟く。

「お願いだす!」

 何事かとその声に目を向けると、歩道橋の階段で小学校低学年くらいの女の子が彼女の目の前に立っている背の高い人物に必死に呼びかけている。
 白いワンピースにセミロングのオリーブベージュの髪の毛。
 幼い子どもが小さな手に強い意思を宿し、スラリとしたスタイルの背の高い人の服を掴んでいた。だが女性にも男性にも見えるその人の態度はあっけない。その手を軽くあしらうかのように払う。

「もう、我慢の限界なの」

 冷たい声に、女の子は焦った様子を見せた。大きな瞳が今にも泣きだしそうになっていることが離れている俺にも分かる。
 あれ、これって、もしかして虐待か育児放棄か?
 ドラマでしか見たことがないような光景に、俺は階段を見上げて冷や汗をかいた。

「エヤとミケが悪いんだす! でも、今度は頑張るから!」

 女の子は隣で他人事のようにおとなしくしている黒い服の女の子の手を引っ張った。同じくらいの年の子なのだろう。手を引かれた女の子は、短い黒髪を高い位置で二つ結びにして、まるで角が生えているように見えた。

「でも、私にもほかにやることがあるのよ」

 幼い二人に対し、保護者らしき人は呆れたようにため息を吐いている。
 嘘だろ。本当にこれは良くない展開じゃないのか?
 気づけば冷たい汗が首筋を流れていった。思わず息を潜め、空気を飲み込む。
 すると、その人はくるりと彼女たちに背を向けて階段を上りだす。

「ま、待って……!」

 それを白い服の女の子が必死で追いかけようとした。しかし小さなその足は、慌てるあまり滑ってしまい、するりと段を踏み外す。

「危な…………っ!」

 気づいたときには、俺は階段を駆け上がり、転げ落ちてくる女の子に向かって手を伸ばしていた。エコバッグが無残にも地面に叩きつけられる音がする。

「わぁっ!!」

 しかし考える間もなく、女の子の声が目の前に降ってくる。伸ばした手が、どうにか彼女の腕に触れた。
 次の瞬間、ドンッという鈍い衝撃とともに俺は尻もちをついて階段の中間地点に落ちる。

「いって……」

 久しぶりの痛みに、意識とは関係なく顔が歪む。大人になってから転ぶことなんてめっきりなくなっていたから、ジーンとした痛みが身体中に響いて、一瞬骨が折れたかと思った。
 脳にまで衝撃が走ったのと同時に眼下を見ると、俺の腕を小さな手がつかんでいるのが見えた。女の子は、どうにかコンクリートに直撃落下することは免れたようだ。
 めちゃくちゃ痛いけど、とりあえず女の子のことは助けられたみたいで俺は安堵の息を吐く。

「あ! マーフィー!」

 女の子は転がり落ちたことも気にせずに、さっきと同じ泣きそうな顔をすぐさま上に向ける。その視線に続くと、上段からあの背の高い中性的な人が俺たちのことを見下ろしていた。

「待ってください……!」

 女の子はまだ冷酷な目をしたその人のことを止めようと訴えかけている。黒い服の女の子は相変わらず何も言葉を出さないでこちらを静観していた。
 ぎゅう、と、地面にへたり込んだ女の子が両手を握りしめるのが見えた。小さなクリームパンみたいな手は微かに震えている。
 俺の目の前にいる女の子と背の高い影は顔を合わせたまま黙り込んでしまった。

「……あの、俺、部外者ですけど…」

 たまらず声を上げる。勿論、控えめに。
 妙に緊迫したこの空気に耐えられるほど俺は丈夫な人間ではないもので。

「あなたは、保護者の方ですか?」

 まだ強打した箇所が痛むが、俺はゆっくりと立ち上がった。女の子は、転んで汚れてしまった顔をこちらに向けた。突然主張を始めた俺のことをぽかんとした様子で見上げている。
 俺の声を聞いた本人がこちらを吟味するかのようにじっくり見てきた。凛とした眼差しは、動くたびに美しい鈴の音が鳴りそうだった。

「まぁ、そうなりますけど」

 息の混じった、やはり中性的な低めの声が俺に向かって落ちてくる。

「……あなた」

 続けて腕を組んで顔をしかめてきた。俺のことを不審者だと思っているのだろうか。すると女の子は手をついて立ち上がり、また黙ったままのその人のことを見る。

「…………マーフィー」

 女の子がその名前を呼ぶと、相手はまたため息を吐いた。観念したのか、苦い顔をしたまま階段を渋々降りてくる。

「いいわ、話をしましょう」

 マーフィーと呼ばれた人物は女の子ではなく俺の瞳を真っ直ぐに見つめてくる。睨まれているのではないかと錯覚するほど鋭い眼光に俺は少したじろいだ。

「話、ですか?」

 俺、部外者なんですが。
 そう言いたくもなるが、一度首を突っ込んだのだ。そんな言い訳は聞いてくれなさそうだ。

「そう。話をしましょう。えっと……」

 マーフィーは咳払いをした。

樫野至かしのいたる、さん」
「……え?」

 どうしてかは分からなかった。
 疑問なんてどうでもよくなるくらい、俺はマーフィーの美しい微笑みに目を奪われてしまった。
 この人は初対面の俺の名前を一文字も間違えずに呼んだのだ。それなのに、近くで見ると迫力を増すその彫刻のような現実離れした顔立ちに圧倒されたまま口が動かない。
 マーフィーは呆気に取られている俺のことなどお構いなしに話を続ける。

「確かに私はこの子たちの保護者です。今は」
「今は?」
「ええ。私は、この子たちの監督官なだけ」
「……は?」

 どこかの施設の話だろうか。もしかしたら、この子たちに身寄りはないのか?
 いつの間にか黒い服の女の子も近くに来ていて、小さな女の子二人はマーフィーの言葉に対してやけにハラハラした様子でこの展開を見守っている。

「だけど、その期間はとっくに過ぎているのよ」
「はい……?」
「この下界の修業期間はもうとっくに終わっているはずなの。それなのに、この子たち……」

 マーフィーは二人を見て眉を下げる。

「ぜんぜん基準に値しないの。その度に私の任期も伸びて、他の任務が全く手につかないままなの」
「ちょ、ちょっと待ってください!」

 ようやく口を挟めた。
 俺は、たぶんものすごく冷静を欠いた顔をしていると思う。誰かに写真を撮られていたら即黒歴史行きだ。
 だけど自分の間抜けな顔のことよりも、耳慣れない言葉が気になって全然話が入ってこない。

「げ、下界って、なんですか……?」

 マーフィーはショートカットの髪をかき、呆れたように俺を見る。

「下界は下界よ。ここのこと」

 宝石を模したような長い爪をキラリと光らせ人差し指を勢いよく地面に向ける。
 いや、それが分からないって聞いてるんだけど。

「そんなに難しい話じゃないでしょう? あなたたちの世界じゃない」
「俺たちのって……それじゃあ、あなたはなんなんですか?」

 俺の問いにマーフィーはクスリと笑う。切れ長の目元が緩やかに三日月を描く。

「天界の使者よ」
「……………………は?」

 十分に間を置いてから、ようやく俺は口をポカンと開ける。

「天使……?」
「私は違うけどね」

 マーフィーはあっけらかんとしていた。まるで無知を嘲笑って常識を語るように。

「この子たちは、天使と悪魔よ。まだ修行中だけどね」

 女の子二人をちらりと見て、マーフィーはまた俺に視線を合わせる。

「天使と悪魔になるには、下界で修業が必要なの。だいたい、三年くらいで終わるんだけど、この子たちはもう五年目なのよ」
「…………え? は?」

 俺の思考を置いたままマーフィーは話を続けようとする。
 いやいや、強引に進めようとしたって限度があるだろ。

「待ってください! て、天使って……悪魔……って、本当の話ですか? 俺のことからかってます?」
「本当よ。あなた人間の癖に、想像力に乏しいの?」

 え、俺の想像性の問題なの? それは納得できない。

「天使と悪魔は、天界で下界のことを見守っているわ。空想のおとぎ話じゃないの。これは現実よ」

 マーフィーは俺のおでこを指で弾く。痛い。めちゃくちゃ痛い。確かに夢ではなさそうだ。

「きっとフィクションだって、思っていたのね? 夢がない人ね」

 俺がおかしいのだろうか。
 天使と悪魔の存在を秒で理解できない俺が悪いのだろうか。
 マーフィーはそう言いたいようだが、俺はそんなの認められない。誰だって戸惑うだろう。そんな非現実的なことを言われても。
 それとも何か? 俺が知らないだけで、皆はすんなりと受け入れることなのか?
 混乱のあまり俺は目が回りそうになってきた。

「話を戻すよ? それで、私は三年の任期でこの子たちの監督官を引き受けた。私は天使でも悪魔でもない、分け与えられた創造主でね。天界を率いるトップカーストにいるの。どんな魂も私にしてみればなんてことはないの」
「…………はぁ」

 もう、ため息しか出なかった。マーフィーがふざけているようには見えない。もしふざけているとしたら、それはもう、結構危ない人になってくる。

「私は忙しいの。いつまでもこの子たちの面倒を見ていられない」
「マーフィー!」

 白い服の女の子が、また泣きそうな声を出す。愛らしい声。だけど別に普通に街で見かける女の子と何も変わらない。俺はまたしても立ち眩みそうになってどうにか地面を足で捉えた。

「でも、このままじゃこの子たちは天界にも帰れない。修行をちゃんと終えないと、いつまでも下界にいることになる」
「そうしたらどうなるんですか?」

 くらくらとして、もう思考回路がショートしそうだ。
 俺はついにこの話に乗ることにした。もういい。全く信じられない話だが、ここまでの話を聞くことは滅多にできない。ならば全力で聞いてやる。

「別にどうもならない。……消えてしまうとか、人間になるとか、そういう悲劇を期待した?」
「……いえ」

 本当は少しそう思っていた。一瞬の間に夢を見た俺が悪いのか。映画とかだと、大体そうだろ。

「残念でした。真実は違う。永遠に未熟な天使と悪魔のまま。ずっとずっと下界を彷徨うしかないのよ。別に、天は彼女たちを見捨てはしないけど、同情もしない」
「放置ってことですか?」
「そうね。いつか修行を終えればいいと思ってる」
「……放任すぎるだろ」

 ぼそっと俺が言うと、当然聞き逃してはくれないマーフィーは軽く睨みつけてきた。

「……で、ここで提案なんだけど」
「提案?」

 怖い顔をしたまま、マーフィーは俺をじーっと見ている。

「私は天界に帰りたいの。仕事があるから。でも、この子たちは幼すぎる」
「……はい」
「だから、あなたが面倒見てやってくれない?」
「…………は?」

 間抜けな声が出た。マーフィーの提案に、小さな天使と悪魔もポカンとしている。
 え……俺が、何……? 眩暈のせいで耳が塞がったか?

「この子たちに足りないものを補うには、人間と生活するのが一番手っ取り早い、そう思ったの」
「何、言ってるんですか?」

 マーフィーの真剣な眼差しに、俺は思わず渇いた笑いが出る。出会ってまだ数分だけど、この人は冗談としか思えないことしか言ってこない。

「言葉通りのこと。あなたは、きっとこの子たちのためになる」
「俺の都合は……?」
「あなたも……きっとそうよ」

 少しだけ遠くを見るマーフィーの奥深い瞳に俺は胸がざわついた。
 このマーフィーという人は、一体何を言っているのだろう。脳が全然追いついていかない。
 しかしマーフィーは俺がフリーズしているのをいいことに、しゃがみこんで二人の未熟者に目線を合わせる。

「いい? こうすればきっと、修行を終わらせられるはずよ」
「本当だすか?」

 白い服の女の子の目が輝いていく。きら、きら、きら……。水槽の中を揺らめく光のように、穏やかなのに希望に満ちた輝き。
 待ってくれ。まだ現実に追いついていないというのに。そんな無垢な心を見せないでくれ。

「このお兄さんと一緒にいれば、私たち天界に戻れるだすか?」

 俺のことを救世主のように見てくる。俺はぎょっとして思わず後ずさりをした。

「ええ。その時は、私が迎えに来る」
「マーフィー! ありがとうだす!」

 女の子はマーフィーに抱き着く。無邪気の塊のような少女。俺は心が痛んできた。まだ俺は何も返事をしていないじゃないか。

「カシノ!」
「えっ」

 女の子が俺の前まで前のめりでやってくる。にこにこと笑い、戸惑いのあまり挙動不審になっている俺のことを真っ直ぐに見上げてきた。

「よろしくだす! 私、エヤっていうんだす!」
「え、エヤ……?」
「はい!」

 エヤの訛りは癖のようだ。ずっとその調子で喋るものだから、小学生の時にクラスにやってきた都会に出てきたばかりの転校生を思い出した。

「え、えっと……」

 いや、懐かしんでいる場合じゃない。
 俺はようやく落としていたエコバッグを拾い上げる。もう買い物をしたことすらすっかり忘れていた。しかし何を言っていいのか分からない。
 え、本当に俺、お世話することになってるの?

「じゃあよろしくね、樫野至くん。この子たちの私物は後で届けるから」
「え!?」

 俺が顔を上げるや否や、目が合う寸前でマーフィーは瞬く間に姿を消した。

「嘘……」

 あの人が人間ではないことを思い知った瞬間だった。透明になっていったマーフィーは、この場からすっかり消えてしまったのだ。残っているのは俺と天使と悪魔だけ。
 預かるなんて返事もしていないのに。
 体温が引いていき、指先まで冷たくなってくる。

「カシノ」

 途方に暮れている俺に、エヤは無邪気に話しかけてくる。

「君が、天使なの?」

 俺は茫然として意識がうっすらとしたまま覇気のない目をエヤに向けた。するとエヤは泥だらけの顔で満面の笑みを見せる。

「そうだす! 私が天使だす!」

 マーフィーをずっと追いかけていたのだろう。泥っこ天使は、それでも全てを包むこむような笑顔で純真に俺を見ている。
 もう辺りは暗いのに、エヤはどこからともなくスポットライトを浴びて輝いているように見えた。

「…………イタル」

 気づくと、俺の空いている方の手を黒い服の女の子が握ってきた。

「われは、ミケ」
「……じゃあ、君が悪魔?」
「うん」

 存在感を消していたミケは、こくりと頷く。しかしその後は俺の手を握ったまま何も言わなくなってしまった。

「……はぁ」

 大きなため息が出た。これは許して欲しい。当然だ。だって、急に二人の女の子を押し付けられたのだから。しかも、天使と悪魔だって?
 悪い夢でも見てるのか。そう思いたかったが、あの痛みは決して夢じゃない。俺はもう一度息を吐いた。

「カシノ、何を作るの?」

 エヤがエコバッグの中身を覗こうとしている。俺はエコバッグを上にあげ、エヤの視界から外した。

「パスタだよ」
「わぁ! おいしそうだす!」

 ぱぁっと明るくなるエヤ。君たちは、どうして平気なんだ。こんな見ず知らずの男について行くことになったというのに。

「……帰るよ」

 だが俺だって、どうすればいいのか分からない。
 迷子でもなければ、育児放棄でもない。警察に頼ることもできない。
 とにかく今は、家に帰って空腹を満たす。
 それしか、出来ることはないだろう。
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