魔法狂騒譚

冠つらら

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五部

86/遺言

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 レティは金色に輝く光の粒に導かれるように、そっと手を伸ばした。少し背伸びをして、どうにかその遺言書を手に取った。紙は黄ばんでいて、パピルス紙のようだった。数枚に綴られたその遺言書は、術がかけられているようで、めくることはできなかった。

 レティはその場にしゃがみこんだ。もう立ってはいられなかった。固まっていく足に恐怖を覚えながらも、レティは埃だらけの外套から筆を取り出した。息がどんどん上がってくる。

 -落ち着いて…

 自分にそう言い聞かせながら、レティは深呼吸をした。過呼吸になってしまっては、すべてが台無しだ。数回深呼吸を繰り返すと、少しだけ落ち着いてきた。

遺言書に目をやると、自分の触った箇所が指紋によって光の粒で示されている。よく見ると、レティのではない指紋が端の方についているのに気がついた。レティよりも大きな指のようだったが、バルクたちのものでもなさそうだ。この指紋は、本人たち以外が触った時に証拠として残るように術がかけられているはずだからだ。

 レティは筆で遺言書の上に紋様を描いた。宙に描かれた紋様は、その姿こそは見えないものの、これこそがシャドウハイルだった。どういう紋様を自分は描いているのか、感覚で覚えていくしかない。

 しかし不思議だった。なぜ、この遺言書だけこんなに分かりやすく示されているのか。普通は、分かりにくく隠すものだ。正直、これが本物なのかと首を傾げたくもなったが、この遺言書を手に取った瞬間、他の本や紙は色褪せていった。そして、この指紋の術。今、手に持っている遺言書以外に、該当するものはないのだ。

 紋様を描き終えると、遺言書は小さく震えた。そして一度レティの手から飛び跳ねると、またその手に大人しく戻ってきた。今度は、数枚のページが捲れる音がした。

「……よし!」

 無意識のうちに声が出てきた。レティは、術が決まったことが単純に嬉しかった。シャドウハイルは集中力が必要となる。今、この足の痛みに邪魔をされては、術が上手くいかない可能性もある。

 レティは遺言書をめくった。その中には、バルクの叔母が主に書いたであろう文字と、バルク自身がかけた仮想空間の術がしたためられている。

 レティが仮想空間の術によって描かれたイラストに触れると、自分がまるでミニチュアサイズになったくらいの小さな場所に意識が飛ばされた。

 その、おもちゃの家の中のような空間で、かつての執政府の代表である女性が、得意げな表情で笑っている。いかにも穏健そうな思想を持っている表情をしているのに、その笑顔には感情が宿っていなかった。レティはその無感情な笑顔に寒気を覚える。まるで木製の人形のような姿となってそこに存在しているのだが、その威圧感は隠せていなかった。

 女性は、今よりも若いバルクが部屋を訪れると、自分の計画を語り始める。バルクは、はじめからその計画に前のめりだった。叔母の話を嬉々として聞いているその姿は、まるでプレゼントを初めてもらった少年のようだった。

 話している内容は、すでにレティたちの知っているものだった。バルクとその叔母は、密かに湧き上がってきた古代魔法の個人能力差の不満や、近代科学魔法の危険さへの疑念の声に向け魔法統一論を掲げ、人々の本能的な不安と闘争心を煽り、その隙に表の世界の破壊と新民族の構想を進めていた。

 レティにとっての新しい情報としては、バルクの叔母のことの発端は、表の世界の戦争に嫌気が差したことから思いついたということだった。その気持ちはわからなくもないが、だからといって躊躇いもなく同意をするバルクの存在が、レティには恐ろしかった。

 自分であれば理想の世界と人を創ることができると、どうしてそんなことが思えるのだろうか。その自信がどこから来るのか、レティには理解ができなかった。人は、分かり合えないこともある。そんな当然なことを、こんな形で知るなんて。

 レティは、ぎゅっと目を閉じると、大きく息を吸った。すると、もといた場所に意識が戻ってきた。ついでに足の痛みも戻ってきた。

 レティは右太ももをそっと見る。その傷痕は、あまりにも残酷な色をしていて、思わずレティは吐きそうになった。このまま、凍り付いて腐ってしまうのだろうか。レティは、ふとそう思った。

 魔法は、なんて恐ろしいのだろう。使い方次第で、どうとでもなってしまう。魔法はなんでも叶えられる。人々は目を輝かせ、希望に満ちてそう語るだろう。

 しかし使う人を誤れば、その希望は絶望に変わる。この二つは表裏一体だ。誰かが勝てば、誰かが負ける。誰かが儲ければ、誰かが損をする。この関係は、どうしても切り離せない。喜びに満ちた世界には、必ず悲しみが潜んでいる。自分の番を待ち望んでいても、一向に光がこちらを向いてくれることがないことだってある。

 魔法だってそうだ。何ら変わりがない。魔法は特別な力だが、この世界では誰しもが使う権利を持っている。自分の素質以上の力すら出せてしまう。バルクもきっと、それに驕り高ぶっているだけだ。

 本当に大切なことは、魔法はなぜ、何でもできてしまうのか、その意味を見つけることだ。なぜ、人は魔法を望むのか。彼らの切望に目を向けなければ、一人で暴走してしまうだけ。それでは、人間が社会を形成して生きる必要などないだろう。

 魔法はなんでも叶えられるのであれば、その夢の力を信じよう。自分はみんなの夢の灯を集めて、それを届け続けよう。

 レティは、ぐっと筆を握った。

 どうか、この魔法が届きますように。

 レティが紋様を描き始めると、右太ももが強烈に痛み始める。硬直が始まったのだろうか。血が、もう流れようとしていない。レティは歯を食いしばった。この痛みに心が乱されてしまっては、紋様が上手く描けない。まだ、作ったばかりの術だ。レティは、震える手をどうにか抑えようと、反対の手で手首をつかんだ。

「…痛っ」

 紋様を途中まで描いたところで、レティは上半身を倒して蹲った。ズキズキという音が頭の中で響いている。紋様は途中で切れてしまった。もう一度、はじめから描かなくては。

 レティは、痛みで飛びそうな意識をぐっと留まらせて、表情を歪ませながら顔を上げる。手を正面に向けて伸ばし、遺言書の上に再び紋様を描いた。徐々に目がかすんできた。あと少しなのに、こんなところで途絶えてしまってはいけない。

 レティは自分の手を睨みつける。

 -絶対に、この手を下ろすな

 自分を心の中で叱咤激励しながら、レティは手を止めることなく描き続けた。右足全体が冷たくなって、もはや感覚は失っている。上半身まで侵食してこようとするその氷のような血は、次にどこを狙うのだろうか。血が進む度に、釘が走るような感覚だった。

 レティは、そんな恐怖を頭から切り離し、術に集中した。視界は薄く、靄がかかっているように見える。しかし、紋様を描き上げるまでは、決して目をそらしてはいけない。レティは、目を見開くようにして必死に自分の手を追った。

 そして、ぐらりと上半身が崩れる。レティは筆を握りしめたまま、前方へと倒れ込んだ。また息が荒くなってきた。今度は身体も硬くなってくる。精一杯の力で目だけを上に向けると、上に描いた紋様が、床に置いてある遺言書に吸い込まれるようにして入っていくような風が吹いた。

 レティの目が閉じてくる。その睫を揺らすように、数秒後、遺言書から爽やかな風が竜巻のように昇ってきた。その風は、鈴のような音を鳴り響かせ、そのまま壁を抜けてどこかへと飛んでいった。

「…………おねが…い」

 それだけ言葉をこぼすと、レティはそのまま目を閉じて床に脱力した。その手に握っていた筆が、力尽きたようにコトンと倒れた。
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