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別離と再会
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――――待っててね、バルトゥルス。
愛しい者の声がして、……遠ざかる。
一体どこへ行くんだ。バルトゥルスはその声を追いかけようとする。
足を一歩踏み出して駆け出そうとしたとき、自分が暗闇の中にいることに気づいた。
そこにはバルトゥルス一人しかいない。声の主も、いない。
(ここは……どこだ……)
なぜ自分はこんな空間にいるのだろう。そして、声はどこから聞こえたのか。
周りを見渡しても、すべて黒一色。自分以外の気配を一切感じない。
そして何より静かだ。何も聞こえない、自分の呼吸音でさえも――――
(……?)
置かれた状況に違和感を覚えつい瞬きした瞬間、景色は様変わりしていた。
いつの間にか、見慣れた場所に立っている。
木の壁に立てかけられたバルトゥルスの得物である鹿の角を削り自ら作った槍。
藁ぶきの天井に藁編みの床。
最低限の物しか置いていない質素な空間、紛れもない我が家だ。
しかしその質素な空間に男たちが慌ただしく出入りしている。その中心にバルトゥルスが寝かされていて、自分はそれを見下ろすように佇んでいた。
自分で自分を見下ろすなど湖面に映った時くらいなのに、なんとも不思議な感覚だ。
寝かされている自分は生気を感じない顔色をしている。
(ああ、そうか。自分は死にかけているのか)
バルトゥルスは徐々に状況を把握し始める。だが、どこかぼんやりとしていて他人事のように見えてしまう。それは男たちが何か声を発しても自分の耳には聞こえないせいだろうか。
魚のようにパクパクと口を動かす――――父が、指示を出すようなそぶりを見せる。それから自分が男たちによってうつ伏せにされた。
そこで見えたのは赤黒い血に染まった自身の背中だった。
ヒューレシアを庇い、大熊によって切り裂かれた傷が露わになる。バルトゥルスの体に触れた男たちの手は揃って赤くなっていた。
弟のオルトゥルスが医箱を持った初老の男を連れやってくる。自分を取り囲んでいた男たちが退き、初老の男は傷の様子を観察し始めた。まずは傷の縫合し、止血をしなければ命が危ぶまれる。
(……ヒューシャ?)
彼女の姿を探す。
こんな場面なら、絶対自分のそばについていると思ったのに。
すっと身体が移動する。歩いているような滑っているような、奇妙な感覚。そのままバルトゥルスは家を出た。
空は夜の闇が支配している。夜空いっぱいに、小さな輝きがきらきらとその存在を主張している。
バルトゥルスの家を出入りする人間は星を見上げることなく、行き来する。
彼らを慌ただしくさせているのは自分なのだが、こんな綺麗な星空を見ないなんて勿体ないと思ってしまう。
音もなく、桟橋のような木で作られた道を歩く。
目指すのはヒューレシアの家だ。彼女は今両親と住んでいた家で独り暮らしている。場所はそう離れていない。
不思議な静寂の中を進んでいると、若い男二人が並んで立つ家があった。そこはヒューレシアの家だ。何故男が入口の前に立っているのだろう? 何やら話し込んでいるようだが。怪しみつつも彼らに問いかけることもできないので、バルトゥルスは彼らの間を通り抜けヒューレシアの家へ侵入する。
木彫りの熊や鹿などの小物が並ぶ部屋、血の付いたナイフが円卓に置かれている。その隅にヒューレシアはいた。
(……ヒューシャ)
彼女は膝を抱え、肩を震わせていた。
ヒューレシアの事だから、恐らく自分の怪我の責任を感じて泣いているのだろう。しかし怪我はバルトゥルス自身の責任だ。だから彼女が泣く必要などない。
(……ヒューシャ、すまない)
そう呟いても、彼女の耳にバルトゥルスの声は届かない。
彼女を泣き止ませたいのに、今の自分には出来ない。
ここにいても彼女に触れられなくてもどかしかった。
バルトゥルスはヒューレシアに寄り添うよう、そばに腰を下ろす。
血で汚れた衣服を着替えもせず、泣いているヒューレシア。上衣と下衣の間に見える肌にも赤黒いものが付着している。彼女の涙がぽたぽたと落ちては汚れと混じり、肌の上を滑っていた。そんなヒューレシアをバルトゥルスはただ見守っていた。
不意に、ヒューレシアが顔を上げた。泣き腫らした目が家の出入り口を見ている。
どうしたのだろう、そう思ったのと同時にヒューレシアは立ち上がりそこへ移動する。
木造の戸にぴったり耳を押し付け、何かを聞いている。
その向こう側にいるのは男二人だ。彼らの会話を聞いているのだろうか……?
ヒューレシアが何事か呟きながらよろよろと戸から離れた。その顔は青ざめており、自身の肩を抱いてぷるぷると震えている。
一体、何を聞いたのか。次の瞬間には行動を始めていた。
少し高い位置にある格子窓。その格子を切るなり外すなりすれば、小柄な者なら通り抜けられそうな大きさだ。
ヒューレシアはそこから外に出るつもりなのか、円卓を持ち上げその窓の下へと移動させた。血塗れのナイフをとり、格子に手を掛けた。その表情は真剣だった。見たこと無いような決意に満ちた瞳で、一生懸命に刃で格子を傷つけている。ノコギリのように、前後へ刃を動かす。
太くもない木の格子は、案外早く切り落とされた。隣の、また隣のと順に切り、ようやくヒューレシアが通れるくらいになったときには彼女の額に玉の汗が滲んでいた。
ナイフを放り壁に足を掛け登ろうとするヒューレシア。
彼女は木登りが得意な活発な少女だ、これくらいの高さなら軽々と登られるだろう。
ハッとした表情のヒューレシアが背後を振り返る。バルトゥルスも釣られて見れば、戸が開けられようとしていた。男たちが物音に気付きそれを不審に思ったのか様子を見に来たのだろう。
男たちが入室する直前、ヒューレシアは壁を急ぎ登り切り脱出を成功させた。
入れ違いで入って来た彼らが誰もいない中を見て血相を変えた時、バルトゥルスも外へ出てヒューレシアを追いかけることにした。
◆
ヒューレシアは、素早い。身体が小柄であることを生かした動作がとても上手だった。成人して狩りに出られるようになれば、立派な狩人になれるだろう。
しかも彼女は移動の手段として使われている鹿に跨っていたので、追いつくのは容易ではない。
だが今のバルトゥルスにはそんなものは関係なかった。霊体のようなふんわりとした存在であることが幸いして、すぐに俯瞰できる位置まで追いつき後を追っていた。
そしてヒューレシアは霧の中へと突入する。
夜の森は危険だ。しかも濃い霧に包まれた場所、視界が悪く油断すれば狼など危険な獣に遭遇する恐れがある。
故に精霊の加護があったとしても、ボスコの皆は夜の濃霧に飛び込もうとは思わない。
バルトゥルスはそれをヒューレシアに教えていたので、彼女は承知で森へ入った事になる。
しかし成人していないヒューレシアが森へ入ったのは二回目、それは同時に禁を破った回数でもある。
どんな危険が彼女に及ぶかバルトゥルスにも予想がつかない。だから今すぐ引き返せと彼女に叫びたいが、何も言えずただ見ることしかできない。
バルトゥルスは祈る、どうかヒューレシアに危機が訪れませんようにと。
しばらく走って、彼女は鹿から降りた。
不気味な夜の霧に警戒しているのか、落ち着かない様子で鹿がヒューレシアの近くをうろつく。
当の彼女は何かを探しているようで、闇の中懸命に目を凝らしていた。
地面に手をつき、そこに茂った草を見ては首を振り、一面を這いつくばるように探す。
鹿が何かの気配を察知したのか、動きを止めて耳をピンと立てる。探すことに夢中なヒューレシアはそれに気づかない。
彼女の表情がパッと明るくなった。太陽のような明るさで、そこにあったものを拾い上げ大事そうに抱え込む。そこにあったのは、傷によく効くという薬草だった。ヒューレシアはこれを探していたのだろう。彼女自身に怪我はないのに何故、と思ったが自分のためだと気づきバルトゥルスの胸が熱くなった。危険を冒す、それほどまでに自分を大事に思ってくれているのだと嬉しかった。
ヒューレシアが立ち上がったその刹那、音もなく鹿が倒れた。
――――いや、音はあったのだろう。今の自分には聞こえないだけで。
現に彼女は音を察知し、驚いたそぶりをしていた。その拍子に腕からはらはらと薬草が舞い落ちる。
倒れた鹿は首のあたりから血を流し、ぴくぴくと痙攣している。まだ息はあるが、今にも消え入りそうで痛ましい。
鹿の首には丸い傷跡……銃痕があった。
霧の向こうから、何者かが現れる。銃を携えた男と、数人。彼らが纏う衣服はボロボロで、表情は狂気に満ちていて異様だ。
きっと濃霧の森を踏破しようとした外の人間だろう。昼中に森へ入ると、時々そういった人間を見かけることがある。
外の人間を見つけたらすぐに集落へ引き返すことになっている。それはボスコの暮らしを脅かされないようにするため。その為にこの濃霧が存在しているのだから。
――――だが、今ヒューレシア自身が脅威にさらされている。
男たちに異様な瞳を向けられ、彼女はじりじりと後退った。
今の彼女に身を守る術はない。ナイフは家の床に放り投げてしまった。
銃を構えた男が瞳をギラつかせ、ヒューレシアに迫る。
(やめろ……!!)
バルトゥルスは男の前に立つが、男はその身体をすり抜けていく。止められない。
(逃げろ! 逃げるんだヒューシャ!!)
懸命に叫ぶ。だが己の声が彼女の耳に届いた様子はない。
恐怖で足が竦んでいるのか、背後にある木に身を寄せ動かないでいた。
男たちが何事か話し出す。口がぱくぱくと動くが、何を言っているのかは分からない。
銃を構えた男が、背後に立つ仲間を顎で促す。
男たちの手が、ヒューレシアに伸ばされた。
(――――ヒューシャ!!!!)
ヒューレシアを大熊から庇ったあの時のようにバルトゥルスは移動を試みる。だが後ろへ引っ張られるような感覚がして叶わなかった。
それはぐいぐいと抗えないほどの力でバルトゥルスを引き寄せる。
(くっ……! ヒューシャ、ヒューシャ!!)
男たちが暴れるヒューレシアを羽交い絞めにする。彼女の持っていた薬草が舞う。
ひらひらと落ちる葉が鹿が流す血の上に落ちた。
抱えあげられたヒューレシアが男たちとともに霧の向こうへ消えていく。
叫んでも叫んでも、ヒューレシアに届かない。やめろ、やめてくれ。ヒューレシアを連れて行かないでくれ……!
視界がぐにゃりと歪み、彼女とは違う方へ身体が引っ張られる。
流れる景色、狭まる視界。
守れない、守ってやれなかった。
ヒューレシアが、愛しいものが霧の向こうに消えた。
完全にそれが見えなくなる前、音もなかった自分の世界に彼女の声が聞こえる。それは目覚めの前に聞いたものと同じ。
――――待っててね、バルトゥルス。だから、どうか死なないで……
そしてバルトゥルスは自分自身の中に吸い寄せられ、目覚めた。
傍についていた仲間たちが口々に『大いなる精霊の奇跡だ』と呟く中、ヒューレシアの願いを聞き届けたバルトゥルスは彼らに告げる。
「俺は族長にはならない」
それは、彼女との約束を守るという決意だった。
族長の血を引く者は、二十一になると嫁を取りその跡を継いできた。バルトゥルスもそれに続く予定だった。しかしそれはヒューレシアのため――――
すでにヒューレシアが姿を消したことは彼女の家を見張っていた男たちによって伝えられていた。
皆は揃って異を唱える。そんなことは許されない、自由を愛するボスコだから守ってきたルールを破るなんて、と。
バルトゥルスの決意は堅い。
族長である父は息子の意志を尊重し、彼の跡はオルトゥルスが継ぐ事に決まった。
それから何度も事あるごとにその当時の事を言われるようになった。
ヒューレシアは戻ってこない。禁を冒したのだから、もうどこかで死んでいる。
そう言われてもバルトゥルスは否定し、信じ続けた。
ヒューレシアが『待ってて』と言ったのだ。
彼女が帰ってきたとき、諦めて他の誰かと婚姻関係を結んでいたとしたらきっと悲しむ、きっと傷つくだろう。
そうして、待ち続けて六年。
信じ続けていた彼女は、帰ってきた。
二人は身を寄せ合って座り、この六年のことを話し合った。
運悪く外の世界に連れ出されてしまったヒューレシアの六年。傷だらけだった理由、奴隷という身分のこと。
聞いていてとても痛ましく酷い環境に身を置かれていたことにバルトゥルスは嘆く。
ヒューレシアは『けど……』と言葉を続ける。
頬を赤らめ『純潔は散らされていないよ』とバルトゥルスに告げた。
ヒューレシアを連れ去った男たちに幼女を犯す趣味嗜好がなかったことが幸いしたようだ。
森に迷い何も得ることなくこのまま力尽きるのかと半ば諦めていたところ、遭遇したのがヒューレシアだった。
外の世界には人身売買というものがあるらしく、珍しい容姿のヒューレシアは『カネ』になると見て拐ったのだそう。
乱暴に扱われはしたが、決して身体を穢すようなことはされなかった。
記憶はあの家の主人に売られる前に催眠術というもので忘れさせられてしまったが、こうして女としての尊厳を傷つけられずに生きてこられたのは、全て半人前のままだったヒューレシアの精霊がバルトゥルスの代わりに護ってくれたからだと言う。
「そうか……よく頑張ったな、ヒューシャも。ヒューシャの精霊も」
「うん……忘れてもずっとそばにいてくれたよ」
「大いなる精霊は偉大だ」
「そうだね……禁を破った私でも成人と認めてくれたんだもん。感謝してもしきれないよ」
再会してから、あまり言葉を交わさなかった二人。
ヒューレシアの記憶が戻り、ここぞとばかりに会話をする。
これもすべて大いなる精霊の導きがあってからこそ。
「ヒューシャ、戻ろう」
だから戻って、この儀式を完了させなければいけない。
そしてやっと約束を果たす時がやってくるのだ。
バルトゥルスはヒューレシアに手を差し出す。
「ねぇ、バルトゥルス……」
その手を取りながら、ヒューレシアが言う。
「私をお嫁さんにしてくれる?」
バルトゥルスがその問いに『勿論だ』と返すと、ヒューレシアが微笑う。
それはあの頃と同じ、太陽のような明るさを持った彼女の笑顔だった。
愛しい者の声がして、……遠ざかる。
一体どこへ行くんだ。バルトゥルスはその声を追いかけようとする。
足を一歩踏み出して駆け出そうとしたとき、自分が暗闇の中にいることに気づいた。
そこにはバルトゥルス一人しかいない。声の主も、いない。
(ここは……どこだ……)
なぜ自分はこんな空間にいるのだろう。そして、声はどこから聞こえたのか。
周りを見渡しても、すべて黒一色。自分以外の気配を一切感じない。
そして何より静かだ。何も聞こえない、自分の呼吸音でさえも――――
(……?)
置かれた状況に違和感を覚えつい瞬きした瞬間、景色は様変わりしていた。
いつの間にか、見慣れた場所に立っている。
木の壁に立てかけられたバルトゥルスの得物である鹿の角を削り自ら作った槍。
藁ぶきの天井に藁編みの床。
最低限の物しか置いていない質素な空間、紛れもない我が家だ。
しかしその質素な空間に男たちが慌ただしく出入りしている。その中心にバルトゥルスが寝かされていて、自分はそれを見下ろすように佇んでいた。
自分で自分を見下ろすなど湖面に映った時くらいなのに、なんとも不思議な感覚だ。
寝かされている自分は生気を感じない顔色をしている。
(ああ、そうか。自分は死にかけているのか)
バルトゥルスは徐々に状況を把握し始める。だが、どこかぼんやりとしていて他人事のように見えてしまう。それは男たちが何か声を発しても自分の耳には聞こえないせいだろうか。
魚のようにパクパクと口を動かす――――父が、指示を出すようなそぶりを見せる。それから自分が男たちによってうつ伏せにされた。
そこで見えたのは赤黒い血に染まった自身の背中だった。
ヒューレシアを庇い、大熊によって切り裂かれた傷が露わになる。バルトゥルスの体に触れた男たちの手は揃って赤くなっていた。
弟のオルトゥルスが医箱を持った初老の男を連れやってくる。自分を取り囲んでいた男たちが退き、初老の男は傷の様子を観察し始めた。まずは傷の縫合し、止血をしなければ命が危ぶまれる。
(……ヒューシャ?)
彼女の姿を探す。
こんな場面なら、絶対自分のそばについていると思ったのに。
すっと身体が移動する。歩いているような滑っているような、奇妙な感覚。そのままバルトゥルスは家を出た。
空は夜の闇が支配している。夜空いっぱいに、小さな輝きがきらきらとその存在を主張している。
バルトゥルスの家を出入りする人間は星を見上げることなく、行き来する。
彼らを慌ただしくさせているのは自分なのだが、こんな綺麗な星空を見ないなんて勿体ないと思ってしまう。
音もなく、桟橋のような木で作られた道を歩く。
目指すのはヒューレシアの家だ。彼女は今両親と住んでいた家で独り暮らしている。場所はそう離れていない。
不思議な静寂の中を進んでいると、若い男二人が並んで立つ家があった。そこはヒューレシアの家だ。何故男が入口の前に立っているのだろう? 何やら話し込んでいるようだが。怪しみつつも彼らに問いかけることもできないので、バルトゥルスは彼らの間を通り抜けヒューレシアの家へ侵入する。
木彫りの熊や鹿などの小物が並ぶ部屋、血の付いたナイフが円卓に置かれている。その隅にヒューレシアはいた。
(……ヒューシャ)
彼女は膝を抱え、肩を震わせていた。
ヒューレシアの事だから、恐らく自分の怪我の責任を感じて泣いているのだろう。しかし怪我はバルトゥルス自身の責任だ。だから彼女が泣く必要などない。
(……ヒューシャ、すまない)
そう呟いても、彼女の耳にバルトゥルスの声は届かない。
彼女を泣き止ませたいのに、今の自分には出来ない。
ここにいても彼女に触れられなくてもどかしかった。
バルトゥルスはヒューレシアに寄り添うよう、そばに腰を下ろす。
血で汚れた衣服を着替えもせず、泣いているヒューレシア。上衣と下衣の間に見える肌にも赤黒いものが付着している。彼女の涙がぽたぽたと落ちては汚れと混じり、肌の上を滑っていた。そんなヒューレシアをバルトゥルスはただ見守っていた。
不意に、ヒューレシアが顔を上げた。泣き腫らした目が家の出入り口を見ている。
どうしたのだろう、そう思ったのと同時にヒューレシアは立ち上がりそこへ移動する。
木造の戸にぴったり耳を押し付け、何かを聞いている。
その向こう側にいるのは男二人だ。彼らの会話を聞いているのだろうか……?
ヒューレシアが何事か呟きながらよろよろと戸から離れた。その顔は青ざめており、自身の肩を抱いてぷるぷると震えている。
一体、何を聞いたのか。次の瞬間には行動を始めていた。
少し高い位置にある格子窓。その格子を切るなり外すなりすれば、小柄な者なら通り抜けられそうな大きさだ。
ヒューレシアはそこから外に出るつもりなのか、円卓を持ち上げその窓の下へと移動させた。血塗れのナイフをとり、格子に手を掛けた。その表情は真剣だった。見たこと無いような決意に満ちた瞳で、一生懸命に刃で格子を傷つけている。ノコギリのように、前後へ刃を動かす。
太くもない木の格子は、案外早く切り落とされた。隣の、また隣のと順に切り、ようやくヒューレシアが通れるくらいになったときには彼女の額に玉の汗が滲んでいた。
ナイフを放り壁に足を掛け登ろうとするヒューレシア。
彼女は木登りが得意な活発な少女だ、これくらいの高さなら軽々と登られるだろう。
ハッとした表情のヒューレシアが背後を振り返る。バルトゥルスも釣られて見れば、戸が開けられようとしていた。男たちが物音に気付きそれを不審に思ったのか様子を見に来たのだろう。
男たちが入室する直前、ヒューレシアは壁を急ぎ登り切り脱出を成功させた。
入れ違いで入って来た彼らが誰もいない中を見て血相を変えた時、バルトゥルスも外へ出てヒューレシアを追いかけることにした。
◆
ヒューレシアは、素早い。身体が小柄であることを生かした動作がとても上手だった。成人して狩りに出られるようになれば、立派な狩人になれるだろう。
しかも彼女は移動の手段として使われている鹿に跨っていたので、追いつくのは容易ではない。
だが今のバルトゥルスにはそんなものは関係なかった。霊体のようなふんわりとした存在であることが幸いして、すぐに俯瞰できる位置まで追いつき後を追っていた。
そしてヒューレシアは霧の中へと突入する。
夜の森は危険だ。しかも濃い霧に包まれた場所、視界が悪く油断すれば狼など危険な獣に遭遇する恐れがある。
故に精霊の加護があったとしても、ボスコの皆は夜の濃霧に飛び込もうとは思わない。
バルトゥルスはそれをヒューレシアに教えていたので、彼女は承知で森へ入った事になる。
しかし成人していないヒューレシアが森へ入ったのは二回目、それは同時に禁を破った回数でもある。
どんな危険が彼女に及ぶかバルトゥルスにも予想がつかない。だから今すぐ引き返せと彼女に叫びたいが、何も言えずただ見ることしかできない。
バルトゥルスは祈る、どうかヒューレシアに危機が訪れませんようにと。
しばらく走って、彼女は鹿から降りた。
不気味な夜の霧に警戒しているのか、落ち着かない様子で鹿がヒューレシアの近くをうろつく。
当の彼女は何かを探しているようで、闇の中懸命に目を凝らしていた。
地面に手をつき、そこに茂った草を見ては首を振り、一面を這いつくばるように探す。
鹿が何かの気配を察知したのか、動きを止めて耳をピンと立てる。探すことに夢中なヒューレシアはそれに気づかない。
彼女の表情がパッと明るくなった。太陽のような明るさで、そこにあったものを拾い上げ大事そうに抱え込む。そこにあったのは、傷によく効くという薬草だった。ヒューレシアはこれを探していたのだろう。彼女自身に怪我はないのに何故、と思ったが自分のためだと気づきバルトゥルスの胸が熱くなった。危険を冒す、それほどまでに自分を大事に思ってくれているのだと嬉しかった。
ヒューレシアが立ち上がったその刹那、音もなく鹿が倒れた。
――――いや、音はあったのだろう。今の自分には聞こえないだけで。
現に彼女は音を察知し、驚いたそぶりをしていた。その拍子に腕からはらはらと薬草が舞い落ちる。
倒れた鹿は首のあたりから血を流し、ぴくぴくと痙攣している。まだ息はあるが、今にも消え入りそうで痛ましい。
鹿の首には丸い傷跡……銃痕があった。
霧の向こうから、何者かが現れる。銃を携えた男と、数人。彼らが纏う衣服はボロボロで、表情は狂気に満ちていて異様だ。
きっと濃霧の森を踏破しようとした外の人間だろう。昼中に森へ入ると、時々そういった人間を見かけることがある。
外の人間を見つけたらすぐに集落へ引き返すことになっている。それはボスコの暮らしを脅かされないようにするため。その為にこの濃霧が存在しているのだから。
――――だが、今ヒューレシア自身が脅威にさらされている。
男たちに異様な瞳を向けられ、彼女はじりじりと後退った。
今の彼女に身を守る術はない。ナイフは家の床に放り投げてしまった。
銃を構えた男が瞳をギラつかせ、ヒューレシアに迫る。
(やめろ……!!)
バルトゥルスは男の前に立つが、男はその身体をすり抜けていく。止められない。
(逃げろ! 逃げるんだヒューシャ!!)
懸命に叫ぶ。だが己の声が彼女の耳に届いた様子はない。
恐怖で足が竦んでいるのか、背後にある木に身を寄せ動かないでいた。
男たちが何事か話し出す。口がぱくぱくと動くが、何を言っているのかは分からない。
銃を構えた男が、背後に立つ仲間を顎で促す。
男たちの手が、ヒューレシアに伸ばされた。
(――――ヒューシャ!!!!)
ヒューレシアを大熊から庇ったあの時のようにバルトゥルスは移動を試みる。だが後ろへ引っ張られるような感覚がして叶わなかった。
それはぐいぐいと抗えないほどの力でバルトゥルスを引き寄せる。
(くっ……! ヒューシャ、ヒューシャ!!)
男たちが暴れるヒューレシアを羽交い絞めにする。彼女の持っていた薬草が舞う。
ひらひらと落ちる葉が鹿が流す血の上に落ちた。
抱えあげられたヒューレシアが男たちとともに霧の向こうへ消えていく。
叫んでも叫んでも、ヒューレシアに届かない。やめろ、やめてくれ。ヒューレシアを連れて行かないでくれ……!
視界がぐにゃりと歪み、彼女とは違う方へ身体が引っ張られる。
流れる景色、狭まる視界。
守れない、守ってやれなかった。
ヒューレシアが、愛しいものが霧の向こうに消えた。
完全にそれが見えなくなる前、音もなかった自分の世界に彼女の声が聞こえる。それは目覚めの前に聞いたものと同じ。
――――待っててね、バルトゥルス。だから、どうか死なないで……
そしてバルトゥルスは自分自身の中に吸い寄せられ、目覚めた。
傍についていた仲間たちが口々に『大いなる精霊の奇跡だ』と呟く中、ヒューレシアの願いを聞き届けたバルトゥルスは彼らに告げる。
「俺は族長にはならない」
それは、彼女との約束を守るという決意だった。
族長の血を引く者は、二十一になると嫁を取りその跡を継いできた。バルトゥルスもそれに続く予定だった。しかしそれはヒューレシアのため――――
すでにヒューレシアが姿を消したことは彼女の家を見張っていた男たちによって伝えられていた。
皆は揃って異を唱える。そんなことは許されない、自由を愛するボスコだから守ってきたルールを破るなんて、と。
バルトゥルスの決意は堅い。
族長である父は息子の意志を尊重し、彼の跡はオルトゥルスが継ぐ事に決まった。
それから何度も事あるごとにその当時の事を言われるようになった。
ヒューレシアは戻ってこない。禁を冒したのだから、もうどこかで死んでいる。
そう言われてもバルトゥルスは否定し、信じ続けた。
ヒューレシアが『待ってて』と言ったのだ。
彼女が帰ってきたとき、諦めて他の誰かと婚姻関係を結んでいたとしたらきっと悲しむ、きっと傷つくだろう。
そうして、待ち続けて六年。
信じ続けていた彼女は、帰ってきた。
二人は身を寄せ合って座り、この六年のことを話し合った。
運悪く外の世界に連れ出されてしまったヒューレシアの六年。傷だらけだった理由、奴隷という身分のこと。
聞いていてとても痛ましく酷い環境に身を置かれていたことにバルトゥルスは嘆く。
ヒューレシアは『けど……』と言葉を続ける。
頬を赤らめ『純潔は散らされていないよ』とバルトゥルスに告げた。
ヒューレシアを連れ去った男たちに幼女を犯す趣味嗜好がなかったことが幸いしたようだ。
森に迷い何も得ることなくこのまま力尽きるのかと半ば諦めていたところ、遭遇したのがヒューレシアだった。
外の世界には人身売買というものがあるらしく、珍しい容姿のヒューレシアは『カネ』になると見て拐ったのだそう。
乱暴に扱われはしたが、決して身体を穢すようなことはされなかった。
記憶はあの家の主人に売られる前に催眠術というもので忘れさせられてしまったが、こうして女としての尊厳を傷つけられずに生きてこられたのは、全て半人前のままだったヒューレシアの精霊がバルトゥルスの代わりに護ってくれたからだと言う。
「そうか……よく頑張ったな、ヒューシャも。ヒューシャの精霊も」
「うん……忘れてもずっとそばにいてくれたよ」
「大いなる精霊は偉大だ」
「そうだね……禁を破った私でも成人と認めてくれたんだもん。感謝してもしきれないよ」
再会してから、あまり言葉を交わさなかった二人。
ヒューレシアの記憶が戻り、ここぞとばかりに会話をする。
これもすべて大いなる精霊の導きがあってからこそ。
「ヒューシャ、戻ろう」
だから戻って、この儀式を完了させなければいけない。
そしてやっと約束を果たす時がやってくるのだ。
バルトゥルスはヒューレシアに手を差し出す。
「ねぇ、バルトゥルス……」
その手を取りながら、ヒューレシアが言う。
「私をお嫁さんにしてくれる?」
バルトゥルスがその問いに『勿論だ』と返すと、ヒューレシアが微笑う。
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