逆説

ササラギ

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二章

真実

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夢を見た。電気のついていない部屋、立ち尽くす私、目の前には月明りに照らされ、ベッドで寝ている両親がいた。私の手にはキッチンから持ってきた包丁、目の前の両親をどうしようもなく殺したい欲求に駆られた。迷いなく二人に近づき、包丁を振り下ろす。目覚めることのないよう心臓に一突き。心臓を確実に仕留めた後、無心で二人を切り刻む。切る度に血が噴き出し、ドロドロしたものが体中に纏わりつく。赤く染まっていく布団、服、皮膚。しかし、そんなことは一切気にせず、ただひたすらに、無心に、一心に、二人をボロボロにした。どれくらいそうしていただろう。気が済むまで切り刻むと、私はその場に倒れた。
次に目が覚めると、突然お母さんが飛びかかってきた。お母さんの右手には包丁、僕の心臓めがけて降ってくるところだった。僕は最後の力を振り絞り、全力でお母さんを押しのけた。
「やめて!!」
すると突然体が軽くなり、鈍い音が響いた。
きっと、5秒もない沈黙だっただろう。しかし僕には、10分にも1時間にも感じられるほど長い沈黙だった。目を開けると、少し離れたところにお母さんが狂った顔のまま仰向けに倒れていた。
「お母さん…?お母さん!?」
打ちどころが悪かった。本来、僕なんかの力では到底傷をつけられないお母さんの頭に大きな傷がつき、あたりには血が飛び散っていた。僕の恐怖が、憎しみが、悲しみが、一斉にお母さんに飛びかかっていた。
「お母さん…」
ふと横を見ると、お母さんが大切にしていた三面鏡があった。僕は笑っていた。お父さんがいなくなってから、ずっと家になかった笑顔が生まれた。僕はどうなっているのかわからなかった。しかし僕の中に確かに存在していたのは、解放感と歓喜だった。憎しみもない、悲しみもない、屈託のない純粋無垢な笑顔をその鏡は映していた。お父さんがお母さんにプレゼントしたその鏡。お父さんが何百と向けた笑顔、お母さんが何千と向けた笑顔、それと同じ笑顔が、そこに残っていた。
次に目を覚ますと、目の前には泣いているお母さんがいた。包丁を持ちながら、見ていられないほど悲しい涙を流すお母さんだった。
「お母さん…?」
一筋、二筋とどんどん頬を濡らしていく。生まれてから今まで、見たことがないほどお母さんは泣いていた。いつもとは比べ物にならないくらい悲しく、切ない表情で。私は、その様子に何かとてつもない危機感を覚えた。これから何か大きいものを失うような感覚。部屋には、秒針の音とお母さんの静かな泣き声だけが響く。無情に時だけが進んでいく。私とお母さんを置いて行って。まるで、その時が迫っているかのように。私は息を飲んだ。
「もうダメ…ダメなの…」
「…」
「こんなに大好きな春香を…こんなに大切な春香を…これ以上傷つけるなんて…私、もう耐えられない…このままじゃ…」
お母さんはそっと持っていた包丁を私に渡した。
「え…?」
「春香、ごめんね…お母さん弱いから、自分で終わらせることができないの…だから、春香が終わらせてくれたら、お母さん幸せだから…」
「お母さん…?」
お母さんは泣きながら、優しく微笑んだ。いつもの、私の大好きな優しい笑顔で。
「春香。それ、しっかり持っててね。」
そして、お母さんは私を強く抱きしめた。その瞬間私の手に伝わってきたのは、柔らかい感触と生暖かい血液の温度。私はお母さんの心臓を刺した。
「お母さん…?ねぇ、お母さん!?」
私は慌てて包丁を抜こうとした。しかし、お母さんがさらに強く抱きしめる。
「春香…ごめんね…こんなお母さんで…春香のこと、いっぱい傷つけた…でもね、これだけは覚えておいてほしいの…お母さん、春香のこと一度だって嫌いになったことないよ…?ずっと大好きだった…愛してた…春香はいい子だったよ…?本当に優しいいい子だったよ…?お母さん世界一の幸せ者だった…春香はお母さんの宝物なんだから…!ありがとう…ずっと大好きだよ…」
そう言い終わると、私の背中に回された腕は体温を失くし、力を失くし、重力の奴隷となり落ちていった。ずっしりと力の抜けたお母さんの体重が、そのまま私に覆いかぶさる。私がした選択。それは、あの時包丁を持つ手を動かさなかったこと。お母さんがこれから何をするか、なんとなくわかっていたのに。なぜあの時、手を動かさなかったか。それは、お母さんが笑っていたから。ずっと私が求めていたお母さんの笑顔を、私の手で手に入れることができると思ったから。お母さんがいなくなるなんて絶対に嫌だ。私の大好きなお母さんがいなくなるなんて私耐えられない。そう思ったけど、お母さんはそれで幸せになるって。今度こそお母さんを喜ばせてあげられるって。そう思ったから、手を動かさなかった。私の選択は正しかったのかな。お母さん幸せになれたのかな。私は、優しかったのかな。
次に目を覚ますと、目の前には私がいた。何もない真っ白な空間で、私と私は向かい合っていた。少し離れたところにいる私は、微笑みながらこう言う。
「ねぇ、今の、誰の夢だと思う?」
「誰の夢だろう?」
「君の夢。」
「え?」
私たちは何を言っているのだろう?私はさっき寝て、今ここにいるのだから私の夢に決まっている。何を聞いているのだろう?何を驚いているのだろう?
「正確には君の夢に見る君の現実。今まで見てきた夢、全部君の思い出だよ。」
「思い出?なに言ってるの?私こんなことした記憶ないよ。」
「まあ君はそう言うだろうね。記憶なんてないはずだよ。だから今から思い出させてあげる。」
そう言って私に近づき、私の頬に手を当てた。
「いい?目を閉じてね。」
私は言われるがまま目を閉じた。すると、頬に当てられた知らないはずの手に、知っている体温が宿った。柔らかくて、優しくて、安心する手。そう、お母さんの手。そして私は抱きしめられる。その瞬間、脳内に鮮明に蘇る記憶。泣いているお母さん、微笑んでいるお母さん。今、私の手に伝わるのは、柔らかい感触と生暖かい血液の温度。そうだ、殺したんだ。この手で、お母さんと何度もつないだ、お母さんが何度も握ってくれたこの手で、私はお母さんを殺したんだ。今日ずっとつき纏ってきた喪失感の正体がわかった。私は、失った。そのことに気が付いた途端、弾けるように全ての記憶が蘇った。渡された包丁を動かさず大好きなお母さんを刺した私、飛びかかってきそうなお母さんを全力で押しのけ笑っていた僕、殺される前に殺してやりたいと両親を切り刻んだ僕。殺した、殺した、殺した。みんな、私が殺したんだ。
「思い出した?じゃあもう何が聞きたいかわかるよね。愛って、幸せって何だった?」
「…わからない。」
「…」
「…何も…わからないよ…。」
人間は愚かな生き物だ。愛なんて、幸せなんて、そういう大切なものは失って初めて気づく。そう、失って初めて気づくんだ。だから奪ってみた。愛や幸せが何なのか、その答えを探すために。愛も幸せもわからないけど、自分は愛されていると、自分は幸せだと、そう信じるために。
「じゃあさ、君は他の人と比べて、恵まれてた?」
「…そう、かもしれない…。」
「よし、じゃあ第一段階はクリアだね!」
「…第一段階?」
「そう、第一段階!次は、いよいよ愛と幸せの正体を知ろう!他の人より恵まれている君の家庭を、等身大の愛や幸せを持っている君の家庭を壊してみよう!さあ、人のものばっか奪ってないで、自分のものを奪ってみるの!つまり、家族みんな殺しちゃえ!」
「…!」
お母さんたちを殺す…?そんなこと、できるわけない。だってお母さんは優しくて、お父さんも優しくて、祐希も可愛いのに…みんな大好きなのに…?
「あれぇ?もしかして怖がってる~?何を今さら怖いことがあるの?今まで散々殺してきたじゃ~ん!何も恐れることなんてないよね!」
「違う…お母さんたちは…」
「あ、そっか~!他人の家庭を壊してみたら、自分が恵まれていることに気が付いちゃったから、もう壊すのが怖くなっちゃったんだね~!うんうん、わかるよわかるよ。なんてったって私は君だからね!その気持ちすごく伝わってくるよ~?」
「そうじゃない…そうじゃ…!」
屈託のないような何かを孕んでいるような、そんな笑顔で私が詰め寄ってくる。これ、私じゃないよね?私の中にこんな人間いるわけないよね?私はもっと、普通で、愛されるような人間で…!そこまで思って気が付いた。私、殺人犯なんだ。顔も知らない人間の人格を手に入れ、何も知らない家庭を壊した。愛を、幸せを知るために。そんな人間に愛される権利なんてあるのだろうか。誰が私を、普通じゃない私を愛そうと思うだろうか。今目の前にいる私は、知らない人じゃない。きっと私の中にずっと存在していた私なんだ。こんな、狂った私も私なんだ。
「でもさ、もう今さらだよ。君が狂っていることはもう変わることのない事実なの。だったらさ、もう余計なこと考えないで好きにしちゃおうよ。君は、愛と幸せ、それが何なのか知りたいんでしょ?だったら探そうよ。家族をみんな殺しちゃえば、きっと見つかるよ。」
「でも…でも…!」
「大丈夫。私がついてるから。」
私の頭に、優しく手が置かれる。優しい、優しいけど狂気を感じる手だった。私は耳を塞ぎ、現実逃避をするようにしゃがみ込む。
「やめて…やめて…!」
「ねぇ、君も自分が幸せだと信じたいでしょ?」
「いやあああ!!」
耳元で囁かれたその言葉を最後に、私は私に飲み込まれた。そうだ、探そう。私が知りたいものを見つけ出そう。もう、何でもいい。大好きな家族がいなくなろうと私には関係ない。愛を、幸せを知ることができたら、何もいらないんだ。

 目が覚める。クローゼットを開け、奥にある箱を取り出す。私が今まで使ってきた凶器たち。これはちゃんと残しておこう、私が答えを見つけたとき、どれだけの時間がかかりどれだけの努力があったのか、しっかり確認できるように。私はその箱を持ち、一階へ降りて行った。
「あら、どうしたの?眠れない?」
リビングで家計簿をつけているお母さんに声を掛けられ、私は適当な言い訳をした。
「なんか喉乾いちゃってさ。」
別に飲みたくはないが、とりあえず冷蔵庫に向かいお茶を取り出す。コップ一杯のお茶を飲み干すと、私はお母さんに最後の質問をした。
「ねぇ、お母さんは今幸せ?」
突拍子もない私の投げかけに、お母さんは驚いた顔をして動いている手を止めた。
「なに急に。変なこと聞くわね。」
「いいから。お母さんは幸せ?」
「そうねぇ~…そりゃあ嫌なこともあるし、思い通りにいかないこともあるし、不幸だと思うこともあるよ。でも、家族とか友達とか仕事とか、今手にしているものが全てなくなったときの想像をすると、それこそ不幸だなって思うの。失った状態を不幸だと思うってことは、それが全てある今は幸せなんじゃないかな。」
幸せとは、逆説的に考えるもの。自分が苦しいとき、自分より苦しんでいる人を見て強くなれるように、自分が不幸だと感じているとき、自分より不幸な人を見て幸せだと思う。そうやって比較対象がない限り、人はなかなか自分が幸せだなんて思えないのだろう。だから私は壊す。今私が手にしているものを、手にしているその手で消失させる。そして探すんだ。世界の回答を。
「そっか。ありがとう。おやすみ。」
そう言って、私は手にしていた包丁をお母さんの背中に突き刺した。突然の出来事に、状況が理解できていないお母さんは、振り返ることもなくそのままテーブルにもたれた。包丁を抜き、息の根が止まったことをしっかり確認する。そしてお父さんの寝室へ向かう。扉を開けるとお父さんと祐希が寝ていた。私は無心で二人に近づき、一人ずつ確実に心臓を貫いた。これで私は家族を失った。これまでの努力が詰まったあの箱に包丁を入れ、蓋を閉める。お母さん、お父さん、祐希。三人の呼吸を確認し、私は静かに家を出た。
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