逆説

ササラギ

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一章

小牧春香の話

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ねぇ、君は『優しさ』ってなんだと思う?私はね、相手によって自分の選択を変えることだと思うよ。たとえそれが、自分にとって苦しい選択だとしても。
「うるさい!!」
そう言ってお母さんは私にお皿を投げる。そのお皿は私のすぐ横を飛んでいき、背後で形を失くした。
「ごめんなさい…っ!」
私の目には涙が浮かび、それを見たお母さんの目にも涙が浮かぶ。そして、我に返ったようにお母さんは私に駆け寄り私の体を確かめる。
「ごめんね!大丈夫!?ケガしてない!?」
「ううん。大丈夫だよ。ごめんなさい…っ」
「ううん。お母さんが悪いの。ごめんね…っ」
お母さんは泣きながら私を抱きしめた。その温もりは決して嘘なんかじゃなく、確かに私の居場所だった。私もお母さんを抱き返し涙が止むまで待った。
 私のお母さんは病気だった。突然、何かが爆発したように攻撃的になって暴れだした。少しするともとに戻り、激しい後悔に見舞われた。そんな毎日でもう1年は経っていた。この一年で何枚のお皿が割れただろう。お母さんが暴れる度私はどうしようもない恐怖を感じたが、それでもいつも優しいお母さんのことが大好きだった。お母さんが冷静になって私に謝罪をするこの瞬間、私のことを抱きしめて温もりが感じられるこの瞬間が、大好きだった。この瞬間のためなら、どんなに怖い思いをしても、どんなに痛い傷を負っても、気にならなかった。お母さんという存在を確かに感じられる。それだけで、たった数分を耐えるには十分だった。
「ねぇ春香…。この傷…」
私たちが泣き止んだ後、お母さんは私の腕にある真新しい傷を目にして、悲しそうに呟いた。
「あっ、これはね!その、えっと…こ、転んじゃったの!まいちゃんたちと鬼ごっこしてて!でももう痛くないよ!」
うかつだった。私の傷を見たら、お母さんはまた悲しんじゃうのに。これ以上お母さんを悲しませちゃいけないのに。必死に傷を隠す私を見て、お母さんは再び泣き出した。
「ごめんね…っ私のせいで…っお母さんがこんなだから…っごめんね…っお母さんが…っ」
「お母さん!そんなことないよ!お母さんは何も悪くないよ!私は大丈夫だから!全然痛くないから!だから泣かないで!」
私は必死にお母さんを慰めた。大丈夫、お母さんは悪くない。私が悪い子だから、私がもっといい子になればいいの。お母さんの側にいてあげられるのは私だけ。お母さんのことを分かってあげられるのは私だけ。私が、お母さんを守るから。
 ある日のこと。その日は母の日だった。私はお母さんに喜んでもらおうと、部屋で小学校の先生に教えてもらったお花を作っていた。
「ピンクと…赤と…できた!」
いくつかのお花で作った花束。気が付くと二時間も経っていた。いつもお母さんを悲しませてばっかりだけど、今日は絶対に喜んでもらうんだ。
「お母さん喜んでくれるかな!」
ワクワクしながらリビングに向かうとお母さんが夕飯の準備をしていた。
「お母さん!今日母の日だからお母さんにプレゼント作ったんだ!みてみて!」
私はお母さんのもとに駆け寄った。そして気が付いた。いつものお母さんじゃない。いつもの優しさなんて一つも感じられず、威圧だけが残っていた。お母さんが纏う真っ黒な雰囲気に侵されそうになった私は再びいつもの、いや、いつも以上の恐怖を感じた。
「おかあ…さん…?」
プレゼントに夢中になって、早く見てほしくて気が付かなかった。お母さんがイライラしていること、声をかけていい状態ではなかったこと、私がいい子だったらもっと早く気づくことができたのに。今日こそは喜ばせてあげようと思ったのに。
「なんで黙っていられないの…?お母さん今忙しいの…なんでわからないの…?」
「ごめん…なさい…」
「あんたがいるから…あんたのせいでお母さん疲れるの!!あんたがもっといい子だったら私はもっと幸せだったのに!!」
「ごめんなさい!!」
お母さんは暴れだした。右手に包丁を持ったまま叫んで叫んで叫び散らかした。何を言っているかも聞き取れないほど声を荒げて。それはいつもの何倍も怖くて、悲しくて、苦しかった。逃げ出したいと思えば思うほど体が動かなくって、なのに脅威はすぐそこにあって、今にも飛びかかってきそうなその脅威は、もう私の知っているお母さんじゃない。またお皿が飛んでくる。また叩かれる。また傷が増える。それでも逃げ出すことはできない。逃げ出してはいけない。私がもっといい子だったらお母さんは喜ぶの。私がもっといい子になればお母さんの病気は治るの。私がお母さんを守るから。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
「うるさいな!!黙れよ!毎日毎日お母さんお母さんってさあ!?疲れてるのになんで面倒ごとばっかり増やしてくるかなあ!?自分の母親の疲れも癒せないの!?無能が!金食い虫が!害悪が!!あんたなんて邪魔なのよ!!」
飛びかかってきそうは現実になり、お母さんは包丁を持ったまま私に飛びかかってきた。そしてその包丁を振り上げた途端、一筋の涙が頬を伝った。お母さんの頬を。
「お母さん…?」

 一筋、二筋とどんどん頬を濡らしていく。生まれてから今まで、見たことがないほどお母さんは泣いていた。いつもとは比べ物にならないくらい悲しく、切ない表情で。私は、その様子に何かとてつもない危機感を覚えた。これから何か大きいものを失うような感覚。部屋には、秒針の音とお母さんの静かな泣き声だけが響く。無情に時だけが進んでいく。私とお母さんを置いて行って。まるで、その時が迫っているかのように。私は息を飲んだ。
「もうダメ…ダメなの…」
「…」
「こんなに大好きな春香を…こんなに大切な春香を…これ以上傷つけるなんて…私、もう耐えられない…このままじゃ…」
お母さんはそっと持っていた包丁を私に渡した。
「え…?」
「春香、ごめんね…お母さん弱いから、自分で終わらせることができないの…だから、春香が終わらせてくれたら、お母さん幸せだから…」
「お母さん…?」
お母さんは泣きながら、優しく微笑んだ。いつもの、私の大好きな優しい笑顔で。
「春香。それ、しっかり持っててね。」
そして、お母さんは私を強く抱きしめた。その瞬間私の手に伝わってきたのは、柔らかい感触と生暖かい血液の温度。私はお母さんの心臓を刺した。
「お母さん…?ねぇ、お母さん!?」
私は慌てて包丁を抜こうとした。しかし、お母さんがさらに強く抱きしめる。
「春香…ごめんね…こんなお母さんで…春香のこと、いっぱい傷つけた…でもね、これだけは覚えておいてほしいの…お母さん、春香のこと一度だって嫌いになったことないよ…?ずっと大好きだった…愛してた…春香はいい子だったよ…?本当に優しいいい子だったよ…?お母さん世界一の幸せ者だった…春香はお母さんの宝物なんだから…!ありがとう…ずっと大好きだよ…」
そう言い終わると、私の背中に回された腕は体温を失くし、力を失くし、重力のまま落ちていった。ずっしりと力の抜けたお母さんの体重が、そのまま私に覆いかぶさる。私がした選択。それは、あの時包丁を持つ手を動かさなかったこと。お母さんがこれから何をするか、なんとなくわかっていたのに。なぜあの時、手を動かさなかったか。それは、お母さんが笑っていたから。ずっと私が求めていたお母さんの笑顔を、私の手で手に入れることができると思ったから。お母さんがいなくなるなんて絶対に嫌だ。私の大好きなお母さんがいなくなるなんて私耐えられない。そう思ったけど、お母さんはそれで幸せになるって。今度こそお母さんを喜ばせてあげられるって。そう思ったから、手を動かさなかった。私の選択は正しかったのかな。お母さん幸せになれたのかな。私は、優しかったのかな。
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