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七話
しおりを挟むオーカマバレーの谷の底までロッロはイールビを背に乗せて器用に降りた。
谷の奥に行くほど瘴気に近い霧が満ちていて、イールビの体調はますます悪くなった。
陽の光が届きにくい場所に屋敷を見つけるのに時間はかからなかった。
こんな場所に住む者は1人しかいない。
ロッロが入り口の扉に手を触れる前にゆっくりと扉は開いた。
《ああ、やっぱり、来てくれたのね。さぁ、奥までいらっしゃい。歓迎するわ》
低いが妖艶な声が響いた。
ロッロは怯む事無く迷わず進んだ。
薬を精製しているであろう道具や、その材料となるであろう薬草や何かの目玉や生き物が捕らえられている檻、沢山の本が入った本棚を横目に部屋の奥へ奥へ。ピアノやギターの楽器も沢山置かれていたが屋敷の中は薄暗く、ロッロはそれらには気がつかなかった。所々に灯されたろうそくの灯りだけを頼りに進む。
最奥の部屋に大きな椅子の背もたれがこちらを向いているのが見えた。
くるり、と椅子が回ってそこにいたのは美しい魔女だった。
「いらっしゃい。よく来てくれたわね」
《ムヒ、コーウェル、さん…》
「あら。ケルベロスなのねあなた!いいわいいわ…!!メスなのはちょっと気に入らないけれど、魔族は大歓迎よ」
背中のイールビはグッタリしてしまって荒い息遣いこそ聞こえるが、屋敷内の気にも当てられて会話はままならない。
《私の事はどうされても良いので、どうかイールビ様を早く…治してください…》
「ふぅん。本当に忠実なのねぇ。イールちゃんの心の中を覗かせてもらった時見えたけど、貴方達、会って1日とか2日でしょ?何故そこまでするのかしらね。理解に苦しむわ」
《この方は…何か運命的なモノを感じるのです…。お願いします!早く!もうイールビ様を苦しませたくない…》
「いいわ。そこに下ろして」
ロッロはイールビを魔方陣のような模様が描かれた絨毯の上に慎重すぎるほどそっとこ、下ろす。
「離れなさい」
心配そうに側に寄り添っていたが、ムヒコーウェルにピシャリと言われて「キュゥン…」という声を出しつつ少し離れる。
ムヒコーウェルは手をイールビに向かって突き出し、何か呪文をつぶやくと全身が紫の光に包まれる。
紫の光は触手のようになってムヒコーウェルの背後にユラユラと揺らめく。
手のひらに光が集まると、イールビの体内に入っていた水晶のカケラがキラキラとイールビから出て行き、集まる。
全てが手に収まった時、ムヒコーウェルは手のひらをグッと握り、全ての光が消えた。
「ふぅ。人間は脆いわね。瘴気如きで。もう少しじっくり攻めるべきだったわ」
「うっ…」
「イールちゃん、ちょっと急きすぎたわ。貴方の内面から力を解放してあげる方が良さそうね」
《こ、これ以上何をするつもりですか!もうやめてください!》
「うるさい犬ねぇ…あなたも。ケルベロスにしては人馴れしすぎているというか、魔力が少なすぎるわ。私のをわけてあげる。闇の力でもっと強くなって、その忠誠は私に誓うのよ」
《えっ…!あっ、ああああ…!!!》
ムヒコーウェルがロッロに向かって手を突き出すと、瘴気の霧が集まりロッロを包んだ。
《イールビ様、逃げて…》
瘴気を全て吸い込み、毛並みがオレンジからくすんだ茶色になり、毛が逆立つ。
ツメや牙は禍々しく伸びていき、身体もムクムクと大きくなり、恐ろしい魔物へと変わった。
「グルル……」
喉から発される声も、低い唸り声のみとなった。
「いい子ねぇ。いいわよ。とっても可愛くなったわ」
「ロッロ…うっ…」
「イールちゃん。アナタどうしてこの犬の声が聞こえるがわかると思う?魔力があるのよ。そして魔法の知識もセンスもある。何故それを使おうとしないの?アナタの心を見た時に感じた違和感を解放してあげるわ」
イールビは横になったまま動けないでいた。
体内の水晶のカケラや瘴気は既に消えていたが、そのダメージの蓄積で身体が言う事を聞かなかったのだ。
「アナタ。記憶を書き換えているわね。奥さんが亡くなった、と。違うわ。そんな事で他人を恨んだりしないでしょう。アナタの最深部にある記憶…、それは…」
「や、やめろ…」
「奥さんは亡くなったんじゃない。出ていったんでしょう?裏切られて、他の男に取られて」
「やめろ!知りたくない!知らない!」
「いいえ、アナタは知っているわ。亡くなった事に記憶をすり替える事で自分を守っているのよ。…もういいのよ。解放しなさい。全てを憎むのよ!」
ムヒコーウェルとイールビを黒い霧が包む。
…
『イール!!今年も満開だよ!来年もこの花が見られるといいなぁ』
『イールって歌が上手いんだね!もっと歌ってよ!』
『イール!大好き!!ずっとこのままでいたいね』
…
『……あなた、私、出て行くね』
『待ってくれ、何故だ?!ずっと一緒にいると言ったじゃないか!』
『身勝手なあなたについていけないわ。あなたよりももっと優しく大切にしてくれる人を見つけたの』
『待て!誰なんだ…!そいつは…!』
『さよなら…』
『◯◯!!◯◯!!待ってくれ!!』
…
『あら、イールビさん。奥様最近見ないわね。身体が弱かったみたいだけど、どうしたの?』
『イールちゃん、奥さんどした?最近見かけないじゃん』
『ああ……アイツは……』
(許さない、裏切られた)
『アイツは…』
(最愛の人に、裏切られた)
『「死んだんだ」』
…
「いいわよイールちゃん!やっぱり見込んだ通り!闇の魔法のセンスが抜群よぉ!私が分けた力だけじゃない、元から身体の奥に魔力を秘めていたのね!!憎しみの心が引き金になって、蓄積された力を解放すべき時が来たのよ!!さぁ、私に忠誠を誓いその力を使うなら何でも願いを叶えてあげるわよ」
黒い霧が消え、立ち上がったイールビの耳の横から魔力を蓄えた牛の角が生えていた。その他に見た目に大きな変化は無かったが、その表情は暗く憎しみに満ち、目は全てに絶望した瞳をしていた。
「何でも…?」
「そうよ、何でも。ちゃーんと言う事聞いてくれるならね」
「…もう二度と俺を裏切らない妻を作る事もできるのか」
「あらやだ。あの女がそんなにいいわけぇ?」
「……」
イールビがジロリとムヒコーウェルを睨む。
つい先程までただの人だったというのにオーラまでもがムヒコーウェルに匹敵するほど禍々しい。
「…あいつは“死んだ”んだ。無くなったら新しいモノを補充するのは当然だろう」
「ちょっと、ちょっとぉ、怖ーい。人を作るのはなかなか大変だけど、できない事は無いわよぉ~。とりあえず…何か物を作るのには魔力でなくて神力が必要よ。この世界を壊すにも邪魔になる、夢とか希望とかそういう…うーん、口にするだけでも虫唾が走るわ!!とにかくそういう力…!!最近では美しい歌声に特にそういう力が含まれているようね。それを奪って来られるかしら」
「……了解した」
スッ、と踵を返して屋敷の出口へ足早に向かうイールビを見て、
「ちょっとちょっと!このワンちゃんは連れて行かないの?」
とムヒコーウェルが叫ぶ。
「……ロッロ。着いてきたければ着いてくるがいい。好きにしろ」
恐ろしく姿を変えたケルベロスは何も言う事無く、イールビの背を追った。
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