眩暈

いなぐ

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5話

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 あれは、夏の強い日差しを浴びた時に、総身そうしんを貫いたと思われるほど鋭く感じる、目眩のようなものだったと思う。平穏な日々の中で、俺はあの日に生じた欲望をそうやって幻惑として処理することに苦心した。

 永澤さんがこの地を去ってから、兄は少しく肥って……とは言っても、前から痩せていたので病的なものを感じない程度に元の体型に戻っただけだが、とにかく元気を取り戻したように見えた。俺の目をまっすぐに見て、何の陰も無く笑い、永澤さんに力ずくで屈服させられた心身はいまや、緊張を解かれてのびのび動いていた。最後に会いに行った日から、永澤さんのことは、お互いに一度も口にしなかった。俺は、このまま死ぬまであの人のことを口に出したくない、と思っていた。あんなことが兄の人生を醜く引きずることがあってはならない、と同時に、己の窮屈な肉体は未だに兄と少しでも肌が触れ合った時にチラ、と燃え上がりそうな欲望を覗かせる。兄は俺を心から信頼していて、自分の脅威になるなんて考えはつゆほども抱いていないのだろう。性的で加害的な欲望のままに他人から手ひどく扱われる兄を見、変革させられた自分の意識は戻そうと思っても簡単に戻るものではなかった。心身が安定しない思春期特有の混乱による産物だと、何度も思い込もうとした。では、もしあの出来事を目撃しなかったら俺が兄に抱く感情はずっと、家族に向ける距離を持った穏やかな愛情のままだったのだろうか?……いや、それはきっと違う。小さい頃から、激情の萌芽はあった、それが性の目覚めという然るべき時期に、最悪のきっかけによって花開いただけだ、虚しい努力はそういった確信を一層深めるだけだった。
 同級生の、多くの同性の友人は、成長と共に異性の肉体に興味を持つようになり、そのことが少しの戸惑いと公然の秘密を共有する誇らしさを持って口の端に上ることが増えてきた。そういった場で俺は無感動に相槌を打つだけだった。そして、愛情はともかくとして性的な欲望は広い対象に抱ける人が多いと思われるのに、自分の性的観念の世界に兄しか住まってないことは異常なのだろうか、ということをぼんやりと考えた。性的な欲求を抱く対象も、愛情を抱く対象も兄ただ一人となると、兄への感情ばかりが昂進していくのも仕方ない、でも実を結ばないと思われるそれはあまりに苦しい。だから俺は、別の対象を愛したり欲情を抱いたりしようと試みた。結果として、実際の経験を伴う前に全て失敗に終わってしまったが。俺の性的欲求には、羞恥と苦痛から離れられないものとして存在するようになった。
 最後に会った時の永澤さんの言葉は忘れたくても忘れられず、思い出すたびに印象が強くなった。体力の無い兄が泣きながら必死に抵抗して、でも最後には力尽きて弱々しく永澤さんに身を任せることになる、そして自分が強いられている行為の意味を覚え始めたせいで体が………… 俺が兄のあられもない姿を見て変わってしまったように、兄も蹂躙されたことによってどうしても変わってしまった部分があるのではないだろうか、俺は、自分が望んでいないはずの疑問が頭から離れなかった。しかしそうだとしても、兄が求めるのは弟の俺ではないことだけは確かだった。

 
 来年になったら、俺も兄もそれぞれ高校、大学を受験する年になり忙しくなるため、冬休みのうちに家族旅行をしようという話が出た。両親は片田舎の温泉にでも行き、旅館に泊まるという計画を話したが、俺はどうしても駄目だと思った。なぜなら、兄の裸を今の自分は平常な心で見ることができないだろうし、他の人達がいる場で兄が裸の状態でいることが耐えられないという、子どもじみた独占欲と青年期の性的な欲求が混ざり合ったグロテスクな理由からだった。そんなことを知る由もない兄は、家族と行けるならどこでも嬉しいとにこにこしていた。
 兄さんは可愛かった、その優しい笑顔を見ると心があたたかくなった。柔らかい声で話しかけられると幸せな気持ちになった、控えめに触れられると胸が弾んだ。でも俺は、そのまま兄を力強く自分の元へと引き寄せて、思うがままにその体を貪りたかった。徐々に大人の陰りを見せてきた白い肌はどんな味がするのか、自分の舌で確かめたい、隅々まで兄を感じ取ってその反応を目に焼き付けた後、今度は自分の体を強く刻みつけてやりたいと思ってしまう。
「……俺は遊園地に行きたいんだけど。」
「え、遊園地って?都心の?」
「うん。」
 普段は要求を言わない俺がいきなり口を出したので、母はびっくりした。俺は子ども的な態度を装って、温泉なんて刺激がないから遊園地で遊びたいと言い張った。来年の修学旅行でその遊園地に行くことが決まっていたが、兄と一緒に行くまたとない機会だと思った。母も父もそして兄も、反対する理由は特に無いので、すぐに俺の提案は飲み込まれた。
「遊園地かあ、中学生の時以来だな。あれ、でも小さい頃に家族で行かなかったっけ。」
「行ったよ。でも春が六歳で、秋が三歳の時だったから秋はほとんど覚えてないんじゃない?それにしても来年学校で行くのに本当に遊園地でいいの?」
 兄の言葉に、母が反応した。おぼろげな過去は、アルバムの写真によって補強されていた。小さな兄さんともっと小さかった俺が遊園地のマスコットキャラクターの着ぐるみと一緒に写真に収められていた。俺は兄に必死にしがみつき、兄は笑顔をカメラではなく俺に向けていた。
「うん。だって兄さんと行きたいし……それに、三歳の頃の記憶なんてないに等しいからね。」
「秋は小さい頃からお兄ちゃんにべったりだったからな。パパとママどっちが好きか聞いたら、にいちゃん!って答えたことは忘れられないよ。春は春で、秋の面倒をよく見てたし。」
「だって、秋が可愛くて。」
 父に言われて照れ臭そうに兄は答え、母も笑っていた。それは幸せな家族の時間だった、俺が心に抱いているものを決して外に漏らさず、落ち着くのを待てば全てが何事もなく終わるはずだ。兄が遠方の大学に進むことになったらこの家を離れることになるし、遅かれ早かれ俺たち兄弟は生まれた家を出てバラバラになる運命にある。そばにいたいがために兄にはずっと家族に縛られていてほしかったけど、俺は、純粋に兄を尊敬する従順な弟、という仮面を被って一緒に生活し続けるのに耐えられそうになかった。子どものままではいられない、というのは俺自身が一番よく分かっていた。
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