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妻サイド

後編

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そんなある朝、夫が珍しく声をかけてきた。

「おはよう」

何気ない朝の挨拶。
けれど私たちの間では、最近はそれすらほとんどなくて。驚いてしまい、すぐには返せなかった。

「…おはよう」

手が離せない振りをして、夫に背を向けたまま答えた。

魚が焼けたらお皿に盛って、いつものようにキッチンから離れればいい。どうせ気まぐれで声をかけてきただけなのだから。

そう自分に言い聞かせた私に、夫は言った。
「大事な話がある」と。

いったい何を言うつもりなのか。
とうとう別居でもするのだろうか。
それとも…離婚…だろうか。


彼は父に取り立ててもらう為に私と結婚した筈だけれど、社内の情勢が変わったのかもしれない。
父は…そんな事態になってもきっと私に話したりはしないだろう。
プライドの高い人だから。
子飼いの部下に離反されるなんて、とても娘に言えないだろう。

嫌々席についてすぐに、何故か夫に手を握られた。驚いて振り払おうとしたけれど、強く握り込まれ離してもらえない。

息を深く吸い込む夫。
嫌だ。聞きたくない。
けれど耳を塞ごうにも両手はしっかりと握られてしまっている。
夫が口を開いて声を発した。
聞きたくなーー


「愛している」


最初、自分が何を耳にしたのかわからなかった。
次いで理解して、湧き上がったのは強い怒りだった。
所詮夫は、私を利用するつもりしかないのだという悲しみとともに。

気づいたら怒鳴っていた。
バカにしないでと。

立場を利用されるのは仕方がない。
最初からわかっていたことだから。
けれど気持ちまで、心まで利用されるのは我慢ならなかった。

今まで一度も言ったことなかった癖に。そんな偽りの言葉で、いったい私をどうしようというのか。

私はそこまで、彼にとってどうでもいい人間なのか。
どう利用しても、どう傷つけても構わないくらいに。

悲しくて怒鳴りちらした。
もう離縁されても構わない。
こんな風に、毎日少しずつ心を削り取るように傷つけられるくらいなら、いっそ何もかも終わってしまった方がマシだった。

なのに夫は繰り返した。
「愛している」と。
そんなの、信じられる訳ないのに。
頼むから信じてくれと。
泣きながら。

到底信じられる筈がないのに、心の底では信じたいと願ってしまった。夫の言葉が本心ならいいと、思ってしまった。
今までの態度で、その言葉が嘘だなんてことは、わかりきっているのに。

信じない。
絶対に信じない。そんな言葉。

けれど、あまりにしつこいから思わずキレてしまった。そこまで言うなら、信じさせてみせなさいよ、と。
だから気づいたらこう口にしていた。

「私も朝ごはんを食べるわ」




朝食を一緒にとりながら、夫はまた泣いた。

ありがとう、と。

ずっと感謝していたのだと。
…私の料理が、好きだと。

たとえ信じていなくても、そう言われて嬉しくなってしまうのは仕方のないことだった。
だって私は、ずっと夫の為にごはんを作ってきたのだから。夫が好きな料理を、夫の好みに合わせてずっと…。

だから、その言葉を嬉しく思わないのは無理だった。



食事の後、夫にリビングに誘われた。
他愛のない話をして。
そして何故か夫に抱きしめられた。

もしかして、父に子どもはまだかとせっつかれたから…

嫌な考えが浮かんだけれど、夫はそれ以上何をするでもなく、少ししてからそっと身体を離した。


その後、夫の話を聞いて、意外にも夫も同じ犬に嫌な目に遭わされたことを知った。夫がその時のことを思い出してあまりに渋い顔をするものだから、少しおかしくなってしまった。

だからつい、お茶にしようと言ってしまった。もう少し夫と話していたいと、うっかり思ってしまった。


お皿にお気に入りの和菓子を乗せながら、ふと気になった。
結婚前からよく買っていたお店のものだけれど、もしかして夫は、私がこれを普段一人で食べるのは贅沢だと思うだろうか、と。
思わず上目遣いに窺うと

「妻に好きな菓子も食わせてやれないほど、稼ぎが少なくもケチでもないつもりだ。好きに買ってくれ」

と言われた。
当たり前のように「妻」だと言われて、私は少し…嬉しくなってしまった。
確かに私は妻だけれど、戸籍上の妻だという事実と、妻として扱われることは少し違うから。


お茶菓子を食べ終わった後も、夫は席を立とうとしなかった。
こんなに長い時間を夫と過ごすのは初めてで、戸惑いはあったけれど嫌ではなかった。


夕飯の支度をする時間になって、今夜は油淋鶏だと告げると、夫は嬉しそうな顔になった。

「俺の好物だ」

多分本人は気づいていないだろうけれど、夫は食べ物のことになると少し口数が多くなる。表情も緩む。
それがおかしくて笑ってしまった。


何故か夫はキッチンに移動した私の後についてきた。そしてテーブルでぼんやりとしている。
背中をじっと観察されているようで落ちつかない。

「お風呂にでも入ってきたらどうです?」

そう促してみたけれど、上の空な返事が返ってきただけだった。
結局夫はお風呂にもどこにも行かず、夕飯ができあがってしまった。


お皿を並べて席に着く。
一口食べて、美味しいと内心満足した。
結構色々なレシピを試したりして工夫したのだ。夫が好物だと言うから覚えたけれど、今では私の好物でもある。
不意に夫が呟いた。

「君のメシは美味いな」

しみじみした口調に、思わず赤面する。

「そんな…普通ですよ」

それはまあ一応、花嫁修業をした身だけど…。
動揺して視線を逸らす。
こんな…こんなことくらいで絆されたりなんて…

「いや、君のメシが食える俺は幸せだよ」

けれど、重ねて言われて嬉しくなってしまうのは、本当に仕方のないことだった。



「晩酌に付き合ってくれないか?」

そう聞かれて、反射的に頷いてしまった。
本当は、いつもと違う態度の夫が慣れなくて少し疲れていた。
けれど、明日になったらまたいつもの夫に戻ってしまうかもしれない。そう思うと、今、夫の側から離れたくなかった。



お中元に誰かから送られてきた、手付かずだった日本酒を開けた。
そしてほろ酔いの、少し眠そうな夫とまたとりとめのない話をした。


酔いが回ったのか、夫はとうとう目を閉じてしまった。もう立てそうにない。
夫の身体を私が寝室まで運ぶのは無理なので、仕方なく夫のベッドから毛布をとってきた。

「ああもう、風邪を引くじゃないの…」

こういうセリフは少し「妻」っぽい。
そんなことを思いつつ夫の身体に毛布をかけていると、急に目を開けた夫に手首をつかまれた。そのまま引き寄せられ抱きしめられる。

酒くさい夫の息。
酔っているのだ。

…愛人と間違われているのだろうか。

そう思った途端、心が冷えた。
抱きしめる夫の腕から逃れようともがく。
けれど

「…側にいてくれ」

耳元で切なそうにそう囁かれて、思わず動きが止まってしまった。

「君が好きなんだ」

顔を少し離した夫に、まっすぐ見つめられた。
夫の目には私が写っている。
酔ってはいるけれど、泥酔している訳ではない。夫は…私だとわかってそう言っている…。
そう思ったら身体が震えだした。
夫が私を強く抱きしめ直す。

「愛している」

繰り返される愛の言葉。
今日、出会って以来初めて夫から言われた言葉。

「俺は君を愛している」

酔っている癖に、それでもまだそう言うの…。
少し躊躇ってから、腕をそっと夫の背中に回した。

信じていいのか。
疑う気持ちはある。
けれど

「愛している」

夫にそう言われるのは嫌じゃない。
嬉しくない、訳じゃない。
嬉しくない、訳がない。
だってーー

不意に外が真昼のように明るくなった気がした。
それと大きな音と衝撃。

「私も…」

そう、言葉にできたかどうかはわからない。



-本編完-
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