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秋の夢

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 翌日、いつもの検診センターの隣に立つ大きな大学病院へ向かった。
 目的の病室の扉を開く。水色の病衣に身を包み、ベッドの上で起き上がる彼女は、とてもか弱い存在に映った。俺と目が合った波瑠は驚いたように目を見開いた後、悲しそうな顔で目を逸らした。

「見られたく、なかったな」

 ベッド脇に寄せてあった丸椅子に腰かける。
「どうしても波瑠に話したいことがあるんだ。昨日話してた手術のことだけど……」
 その時、波瑠は近くに置いていた時計にふっと目を向けた。そして慌てたように俺の方を向く。
「茜君! ベッドの後ろに隠れて!」

 必死な様子に訳も分からないまま、窓際の壁とベッドの間に身をかがめた。
 その時、カラカラと扉の開く音がした。

「お姉ちゃん、おはよう!」
「おはよう、璃子」
 この子が言っていた妹、か。
「あれ。椅子が出てるなんて、さっき誰か来てた?」

 その言葉にドキッと心臓が跳ねる。

「さっきまでそこに問題集を置いていたの。椅子をしまうのを忘れてたよ」
「勉強もできて、やっぱりお姉ちゃんはすごいなぁ。私なんてこの前のテスト、赤点スレスレだったのに」
「また時間のあるとき、勉強みてあげるね」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
 椅子をカタッと引き寄せる音が聞こえた。

「璃子はこの後部活?」
「うん! もう少しでコンクールがあるから、いつもより早く集まって練習しようってことになったの。最近トランペット上手になったって、先輩にも褒められたんだ」
「そっか。すごいね、璃子は」
「えへへ。もっと上手になったらお姉ちゃんにも聴いてもらいたいな」

 二人のやり取りを聞いていて、胸がズキンと痛んだ。波瑠が憧れてそれでも手に出来なかった青春は、こんなにも青くて痛い。

「うん、楽しみにしてるね。ああ、そうだ。璃子がこの前持ってきてくれた漫画、すごく面白かったよ」
 ガタッと椅子から立ち上がるような音が聞こえた。
「ほんと!? よかった! きっとお姉ちゃんも気に入ってくれるって思ってたんだ」
 ベッドがギシっと軋む音が聞こえる。
「4巻に鮫島って元カレ出てきたでしょ。クラスの速水って男に何となく似てて苦手だったんだけど、5巻から一気に印象変わるんだよ! 早く続きも読んでほしいから、すぐ持ってくるね!」
「うん、ありがとう。でも、無理して急がなくてもいいからね」
「大丈夫だよ。お姉ちゃんを楽しませるのは私の楽しみでもあるんだから」
「璃子のおかげでいつも楽しいよ」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいな」
 それから少し話をして、波瑠の妹は病室を出て行った。

「もういいよ。ありがとう」
 そう言われて、ベッドの陰から立ち上がった。妹が片付けていった椅子を引き出して座る。
「痛々しいって思ったでしょ」
 波瑠は言った。
「妹の前で必死に余裕ぶって、平気なふりしてるの」
「それは波瑠の優しさだろ」
「違うの!」

 波瑠の声は今にも泣き出しそうなくらいだった。

「優秀な姉を演じていないと、劣等感で押しつぶされそうになるの。本当は、自分の憧れているものをみんな持っている妹が羨ましくて仕方ない。だけどその醜い感情を取り繕って、同じく充実した日々を送っているふりをしているの。滑稽でしょ?」
「そんなこと……」
「そうだ、ついでだから秘密にしていたことを教えてあげる。私と茜君が初めて歩道橋の上で話したとき、あれは偶然じゃなかったの」
「え……?」
 波瑠は窓の方を向いた。

「この窓から検診センターに向かう人達が見えるの。検診に来るのって、おじいちゃんおばあちゃんとか、会社の健康診断で来た大人ばっかりで、同い年ぐらいの人ってほとんどいないんだよ。だから猫背で、真っ黒い服を着て、陰気臭い顔をした君はよく覚えていたんだ」

 波瑠と出会うもっと前から、この病院で波瑠は俺を見つけていたんだ。

「そんな君に興味が湧いて、あの日、君の後を追いかけたんだよ」
 そう言ってふっと微笑む波瑠の横顔は、楽しかった昔を思い出すような、そんな儚さがあった。

「そうしたら突然歩道橋の上で立ち止まって、手すりに足を掛けたからびっくりしたよ。でもそれを見て確信したの。やっぱり君は私と同じなんだって。デートしようなんて言ったのは、もちろん君に興味があったからだけど、それで逆上されてひどい目に遭ったとしてもこの日々が終わるならそれでよかったんだ」

 どんな人間かも知らない俺に対して、妙に距離が近かったり、意味深な言葉を言っていた訳がようやく理解できた。

「二回目にまた歩道橋の上で会ったのも、私が後を付けたから。初めて夜に病院を抜け出したら、路地で言い争う君を見つけた時は流石に驚いたよ。とまあ、こんな風に運命的に出会った私達じゃないんだよ。どう、がっかりした?」

 そう言って、波瑠は俺の方を向いた。そんな程度で引くなんて、見くびらないでくれよ。

「もちろん驚いたけど、そんな上手く出来た話はないよなって納得もできた。それ以上に、波瑠が俺に会おうとしてくれていたことが聞けて嬉しいかな」
 俺の言葉に波瑠の顔はほのかに赤く染まった。
「今の話はそういう話じゃなくって! 運命なんかじゃなかったってがっかりするところでしょ?」
「運命じゃなくたっていいよ、俺は」
 たとえ離れる未来だとしても、力づくで側にいてみせるから。

 俺はバッグから通帳を取り出して、波瑠に手渡した。

「今日は話が合って来たんだよ。この口座に入ってる金を受け取ってほしい」
 恐る恐る通帳を開いた波瑠はその数字を見て固まった。そして俺の方を向く。
「どうして、こんな大金……!」
「これは俺が他人の不幸を売って稼いだ汚い金なんだ。もうあんな仕事は辞めてきた。これからは勉強をして普通の仕事に就こうと思っていて、当面の生活費を差し引いてもこんな大金は持て余す。それに、あの仕事に関係する物は全部手放してしまいたいんだ」

 あの仕事に関する全てのものを捨てたいという気持ちは本当だ。もう真っ黒いスーツも、革靴も、仕事を連想させるものはみんな捨ててしまった。ただそれ以上に、そうでも言わないと波瑠は遠慮して金を受け取ってはくれないだろうと思った。

 俺は波瑠を真っ直ぐに見据えた。
「これは取引だ。俺の過去を清算するために、この金を使ってくれないか?」
「……本当に、いいの?」
 波瑠は遠慮がちに俺を窺う。
「ああ。金を使ってくれるなら、ギャンブルにつぎ込むでも、ブランド品を買い漁るでも、何でも構わないよ」
 波瑠は口元に手を当てて笑った。
「ふふっ……しないよ、そんなこと」
 そして俺の方を向いた。やっと表情に明るさが戻った。

「私、手術を受けるよ。それで茜君の過去も、私の過去も清算してみせる」
「ああ、全部綺麗に消し去ってくれよ」

 あの仕事は最低で最悪だったけど、大切な人の役に立つことが出来たのなら少しは価値のある時間だったのかもしれないと思った。
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