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エピソード7. 命の音
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どれくらいの時間が立っただろう。気付けば火は燃え尽きようとしていて、部屋は暗くなっていた。皆もう眠りに付いているらしかった。座ったまま眠ってしまっていたのだろうか? 長い間火を見つめていた気がする。囲炉裏の中には魚が刺さった串が突き立っている。既に脂は落ち切っていて、火の勢いを強めるようなこともない。僕の分を残しておいてくれたのかもしれない。
立てた膝の間に頭を入れ、頭を抱え込んだ。足で耳を挟み込むと、命の音がした。血の流れる、生きている音だ。僕たちは嫌なことや、涙が出そうになることがあるといつも体の一部で耳を塞いだ。それは今みたいに膝であったり、手のひらであったりした。
それは昔長老が教えてくれた方法だった。泣き虫だった僕に、子供たちに、長老は、命の音の聞き方を教えてくれた。
「手のひらを耳に当てて、目を閉じて、命の音に耳を傾けなさい。人間は感情が揺れると涙を流してしまう。かつて女神の涙はこの星を洗い流してしまった。涙には強大な力が宿るのだ。何より、水は貴重だ。泣いてばかりいると、干上がってしまう。感情を御する術を覚えなさい」
目を閉じて、命の音を聴く。耳を澄ませないと聞こえない、小さな音。音を立てながら流れている命。それはとてもちっぽけだけど、確かに生きていた。僕はその音を聴くと、海や宇宙を思い浮かべる。僕たちは大海を漂う一匹の魚に過ぎない。或いは、宇宙にある神々の子供の星かもしれない。いずれも命尽きるまで、生きていることに変わりはないのだ。
僕はそっと立ち上がり、音を立てないように家を出た。今日は月が明るい。女神がヴェールを脱いでいるのだろう。女神の優しい光は、砂浜を白く浮き上がらせ、その一粒一粒を煌めかせた。漣の音が聞こえる。それは先程まで聴いていた、命の音に似ていた。流れて、循環する命。そこには何の違いもないように思えた。
生きていることは、とても貴重なことだ。僕たちは生まれてくる子供たちを見るよりも、老いて死んでしまう大人たちを見送ることの方が多い。死んだら魂は死者の国に迎え入れられると言うけれど、本当のところどうなのか、誰も知らない。死者の国から戻ってきた者は誰もいないからだ。もしかしたら、目に見えないだけで、本当は戻ってきているのかもしれない。生きていくことは大変だけれど、誰にも気付いてもらえなくなってしまうことの方が、悲しいことのような気がした。
島の皆が生きていくために、皆が力を合わせなければいけない。そのために男手が必要なことだって、分かっている。だけど、僕にはどうしても海に行きたい気持ちの方が強かった。海に行くことこそが、この命に意味を与える行為なのだと強く感じていた。罪深いことに、その気持ちが皆を死なせてしまうとしても、自分の気持ちを殺すことの方がよっぽど堪え難いと、思ってしまったのだ。
罪悪感で、動悸が激しくなる。僕の心臓は止まってしまいそうなほどに、内へと向かう力が、痛みを訴えかけてくる。一方で、胸から込み上げる何かが、喉元から外へ出ようと押し寄せてくる。心と体がバラバラで、壊れてしまいそうだ。声にならない声が、虚空へと漏れ出すと同時に、涙が溢れ出してきた。僕は耳を塞ぎ、必死に命の音を聴こうとしたが、無駄だった。僕の意思に反して大粒の涙がぼたぼたとこぼれ落ちた。頬を伝って流れたそれは、砂浜に吸い込まれていき、後には何も残らなかった。
僕の涙に力があるなんて、嘘だ。女神の涙に僕の涙が一滴混じったところで、何も変わりはしない。ちっぽけな人間の涙に、力などないのだ。僕は今、こんなに無力さを感じているのだから。
皆が、誰かのためではなく、自分のために生きられたらいいのに。僕はちっぽけで、僕に抱えられるものなどほんの少ししかないのだ。僕は、僕のことしか……。
今日出会った人魚のあの子。あの子の声の方が、僕を引き止める長老よりも、誰よりも、切実に聞こえたのだ。海へ来て、その言葉の意味するところはまだ分からない。海へ行って、何が待っているのかも、分からない。それでも、少なくとも、あの子が待っていることだけは確かだ。この夜は僕にとってすら長いのに、あの子にとっては一体どれほど長く感じられるだろう。
感情を制して生きてきた人間と、感情をそのまま伝えられる人魚。後者の方が、遥かに自由に感じられた。人魚になれたらいいのに。或いは魚でもいい。感情を抑え込まなくていい、自由に泳ぎ回る存在に、なってしまいたい——。
僕は月を見上げて、大きく息を吸った。夜の冷たく澄んだ空気が、肺に行き渡る。一通り涙を流しきってしまうと、不思議と気持ちが凪いだ。
長老の話を聞いても、僕の心は変わらなかった。〈心が海にある〉のが僕の常だったのだ。地に足がついた生活よりも、宙に浮くような、海に浮くような心で生きてきたのだ。魚が海で生きるように、鳥が空を飛ぶように、それが僕の自然だと、ようやく自覚した。
明日、長老に僕の決意を話そう。掟という軛から解き放たれて、人魚になろう。海の中を自由に泳ぐ、夜の魚に。
立てた膝の間に頭を入れ、頭を抱え込んだ。足で耳を挟み込むと、命の音がした。血の流れる、生きている音だ。僕たちは嫌なことや、涙が出そうになることがあるといつも体の一部で耳を塞いだ。それは今みたいに膝であったり、手のひらであったりした。
それは昔長老が教えてくれた方法だった。泣き虫だった僕に、子供たちに、長老は、命の音の聞き方を教えてくれた。
「手のひらを耳に当てて、目を閉じて、命の音に耳を傾けなさい。人間は感情が揺れると涙を流してしまう。かつて女神の涙はこの星を洗い流してしまった。涙には強大な力が宿るのだ。何より、水は貴重だ。泣いてばかりいると、干上がってしまう。感情を御する術を覚えなさい」
目を閉じて、命の音を聴く。耳を澄ませないと聞こえない、小さな音。音を立てながら流れている命。それはとてもちっぽけだけど、確かに生きていた。僕はその音を聴くと、海や宇宙を思い浮かべる。僕たちは大海を漂う一匹の魚に過ぎない。或いは、宇宙にある神々の子供の星かもしれない。いずれも命尽きるまで、生きていることに変わりはないのだ。
僕はそっと立ち上がり、音を立てないように家を出た。今日は月が明るい。女神がヴェールを脱いでいるのだろう。女神の優しい光は、砂浜を白く浮き上がらせ、その一粒一粒を煌めかせた。漣の音が聞こえる。それは先程まで聴いていた、命の音に似ていた。流れて、循環する命。そこには何の違いもないように思えた。
生きていることは、とても貴重なことだ。僕たちは生まれてくる子供たちを見るよりも、老いて死んでしまう大人たちを見送ることの方が多い。死んだら魂は死者の国に迎え入れられると言うけれど、本当のところどうなのか、誰も知らない。死者の国から戻ってきた者は誰もいないからだ。もしかしたら、目に見えないだけで、本当は戻ってきているのかもしれない。生きていくことは大変だけれど、誰にも気付いてもらえなくなってしまうことの方が、悲しいことのような気がした。
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僕の涙に力があるなんて、嘘だ。女神の涙に僕の涙が一滴混じったところで、何も変わりはしない。ちっぽけな人間の涙に、力などないのだ。僕は今、こんなに無力さを感じているのだから。
皆が、誰かのためではなく、自分のために生きられたらいいのに。僕はちっぽけで、僕に抱えられるものなどほんの少ししかないのだ。僕は、僕のことしか……。
今日出会った人魚のあの子。あの子の声の方が、僕を引き止める長老よりも、誰よりも、切実に聞こえたのだ。海へ来て、その言葉の意味するところはまだ分からない。海へ行って、何が待っているのかも、分からない。それでも、少なくとも、あの子が待っていることだけは確かだ。この夜は僕にとってすら長いのに、あの子にとっては一体どれほど長く感じられるだろう。
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明日、長老に僕の決意を話そう。掟という軛から解き放たれて、人魚になろう。海の中を自由に泳ぐ、夜の魚に。
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