37 / 42
9 僕のナポリタン
9 僕のナポリタン(2)
しおりを挟む
小金さんのワインバーに顔を出すと、彼はジーンズにTシャツといういつものスタイルで野菜が入った段ボールを運んでいた。
「こんばんは」
振り返った彼は人の良い笑顔を浮かべる。
「こんばんは。さくらちゃんから伝言聞いた?」
「はい」
口ひげと丸眼鏡がトレードマークの小金敏雄さんは今六十歳だ。
髪には白いものが多く交じっているが、日焼けして引き締まった体をしている。自転車が趣味で休日は奥さんと走り回っているらしい。
「ちょうどよかった」
彼はカウンターの上に置いてあったクリアファイルを手に取った。
「これ、見てもらえる?」
「なんですか?」
「昼間、ここで食堂をはじめようかと思ってさ」
ここは夜、ワインバーとして営業しているが、昼間は近隣の農家や店から集めた不要な食材などを人々に提供している。中には生活用品などもあり、必要な分を誰でも自由に持っていっていい。
元々は小金さんの実家の農家で余った野菜を近所に住む学生さんなんかにあげていた。
そのことが人づてに評判になり、どんどん輪が広がっていったらしい。
先月、僕は若村さんに連れられて初めてこの店を訪れた。諏訪さんや彼女のお母さんも一緒に。
そのときに、若村さんは旦那さんが失業中であることを僕に教えてくれた。息子さんはまだ中学生で、彼女一人の稼ぎでは生活が苦しいということも。
「この店があって、本当にすごく助かってるのよ。ワインバーだからたまにお酒なんかもくれるし。子供が好きそうなお菓子とかもたっぷり持たせてくれるのよ。だから、さくらちゃんも遠慮しないで利用してみて」
食費を切り詰めて倒れた諏訪さんを心配して、小金さんの店を紹介したのだ。
諏訪さんは小金さんの人柄が気に入ったのか、意外にもすぐに打ち解けた様子だった。
「ごはんはちゃんと食べないとね」という彼の言葉にも素直にうなずいていた。
諏訪さんのお母さんは少しふっくらした、おおらかそうな人で、諏訪さんが止めに入るほど、あれやこれやたくさん食材をダンボール箱に詰めていた。
驚いたことに小金さんは僕の叔父さんと顔見知りだった。
お酒に目がない叔父さんは、小金さんのワインバーにも何度か足を運んでいたらしい。
小金さんのほうも居酒屋に来たことがあるようだった。
「ここで食堂をやるんですか」
少し前に、無料の弁当を配りたいので作ってくれないかと小金さんから頼まれていた。
もちろんお給料はきちんと出すと。
もちろんお手伝いしたい。
でも、どうやって時間を作り出そうか悩んでいた。
昼間はファミレス、夜は居酒屋の仕事がある。
そうなると、弁当は早朝に作るしかない。
急いでやっても一時間から二時間はかかるだろう。
それに弁当はできたら毎日用意したいと小金さんは言っていた。
僕に務まるだろうかと不安だったが、とりあえずやってみるか、と腹をくくってはいた。
それが弁当ではなく食堂になるとは。
「やっぱり温かいものを食べて欲しくなっちゃって。それに、ここなら人とお喋りしながら楽しく食事できるでしょ。そういうのも大事だと思うんだ」
「たしかにそうですね」
でも、僕は時間的に無理だ。
「これ、娘に作ってもらったんだ。いろいろ細かいことが書いてあるから、読んでみてくれる」
クリアファイルの中から、きれいにプリントアウトされた用紙を取り出して読んだ。
それによると、食堂はお昼の十二時から夕方の六時まで営業するとある。
提供するのは日替わり定食ひとつだけ。
栄養バランスがとれていて、満腹になれる料理。子供も大人もおいしく食べられるメニューが理想、とある。
「新君、忙しいだろうけど、出てもらえる日はあるかな?」
僕はうーんと考え込んだ。
「……月曜日は仕事がないので出られます」
今度は小金さんが考え込む。
「そうか。お休みって週に一日だけ?」
「はい。月曜しかないんです」
「でも無休で働かせるのはまずいな」
僕的には大丈夫だ。
小金さんは腕組みをしてさらに考え込む。
「新君、ファミレスで働いてどのくらいなの?」
「まだ二カ月ぐらいです」
もっと長く働いているような気がするけど、実際はまだそれしか経っていない。
小金さんの本音は、「ファミレスを辞めて食堂で働いて欲しい」だろう。
でも小金さんはそれ以上なにも言わなかったし、僕も黙っていた。
食堂の話はとりあえず保留になった。
ワインバーを出て、急ぎ足で居酒屋に向かう。
店に着くと、開店の準備をしながら、叔父さんに食堂の話をした。
「その食堂って、新に向いてるんじゃないか」
叔父さんにそう言われても、すぐにはぴんとこなかった。
でも、こんにゃくと唐辛子を炒めていると、そう言われればそうかもしれないと思った。
居酒屋の仕事を通じてわかったことがある。
僕は料理を通じてお客さんに元気になってもらいたい。
疲れているなら元気がでるものを食べさせたい。落ち込んでいるならやさしい味の料理を出してあげたい。
誰かと話したい気分なら話し相手にもなってあげたい。
そういうことを、小金さんの食堂ならできるのかもしれない。
でも、僕はファミレスの仕事もとても気に入っている。
仲間たちはみんないい人で居心地もいい。
なにより自信をくれた。
職場の同僚たちとうまくやることができるという。
それは僕にとってはとても重要なことだ。
その日、仕事を終えて深夜に家に帰ると、いつになく疲れを感じた。
「こんばんは」
振り返った彼は人の良い笑顔を浮かべる。
「こんばんは。さくらちゃんから伝言聞いた?」
「はい」
口ひげと丸眼鏡がトレードマークの小金敏雄さんは今六十歳だ。
髪には白いものが多く交じっているが、日焼けして引き締まった体をしている。自転車が趣味で休日は奥さんと走り回っているらしい。
「ちょうどよかった」
彼はカウンターの上に置いてあったクリアファイルを手に取った。
「これ、見てもらえる?」
「なんですか?」
「昼間、ここで食堂をはじめようかと思ってさ」
ここは夜、ワインバーとして営業しているが、昼間は近隣の農家や店から集めた不要な食材などを人々に提供している。中には生活用品などもあり、必要な分を誰でも自由に持っていっていい。
元々は小金さんの実家の農家で余った野菜を近所に住む学生さんなんかにあげていた。
そのことが人づてに評判になり、どんどん輪が広がっていったらしい。
先月、僕は若村さんに連れられて初めてこの店を訪れた。諏訪さんや彼女のお母さんも一緒に。
そのときに、若村さんは旦那さんが失業中であることを僕に教えてくれた。息子さんはまだ中学生で、彼女一人の稼ぎでは生活が苦しいということも。
「この店があって、本当にすごく助かってるのよ。ワインバーだからたまにお酒なんかもくれるし。子供が好きそうなお菓子とかもたっぷり持たせてくれるのよ。だから、さくらちゃんも遠慮しないで利用してみて」
食費を切り詰めて倒れた諏訪さんを心配して、小金さんの店を紹介したのだ。
諏訪さんは小金さんの人柄が気に入ったのか、意外にもすぐに打ち解けた様子だった。
「ごはんはちゃんと食べないとね」という彼の言葉にも素直にうなずいていた。
諏訪さんのお母さんは少しふっくらした、おおらかそうな人で、諏訪さんが止めに入るほど、あれやこれやたくさん食材をダンボール箱に詰めていた。
驚いたことに小金さんは僕の叔父さんと顔見知りだった。
お酒に目がない叔父さんは、小金さんのワインバーにも何度か足を運んでいたらしい。
小金さんのほうも居酒屋に来たことがあるようだった。
「ここで食堂をやるんですか」
少し前に、無料の弁当を配りたいので作ってくれないかと小金さんから頼まれていた。
もちろんお給料はきちんと出すと。
もちろんお手伝いしたい。
でも、どうやって時間を作り出そうか悩んでいた。
昼間はファミレス、夜は居酒屋の仕事がある。
そうなると、弁当は早朝に作るしかない。
急いでやっても一時間から二時間はかかるだろう。
それに弁当はできたら毎日用意したいと小金さんは言っていた。
僕に務まるだろうかと不安だったが、とりあえずやってみるか、と腹をくくってはいた。
それが弁当ではなく食堂になるとは。
「やっぱり温かいものを食べて欲しくなっちゃって。それに、ここなら人とお喋りしながら楽しく食事できるでしょ。そういうのも大事だと思うんだ」
「たしかにそうですね」
でも、僕は時間的に無理だ。
「これ、娘に作ってもらったんだ。いろいろ細かいことが書いてあるから、読んでみてくれる」
クリアファイルの中から、きれいにプリントアウトされた用紙を取り出して読んだ。
それによると、食堂はお昼の十二時から夕方の六時まで営業するとある。
提供するのは日替わり定食ひとつだけ。
栄養バランスがとれていて、満腹になれる料理。子供も大人もおいしく食べられるメニューが理想、とある。
「新君、忙しいだろうけど、出てもらえる日はあるかな?」
僕はうーんと考え込んだ。
「……月曜日は仕事がないので出られます」
今度は小金さんが考え込む。
「そうか。お休みって週に一日だけ?」
「はい。月曜しかないんです」
「でも無休で働かせるのはまずいな」
僕的には大丈夫だ。
小金さんは腕組みをしてさらに考え込む。
「新君、ファミレスで働いてどのくらいなの?」
「まだ二カ月ぐらいです」
もっと長く働いているような気がするけど、実際はまだそれしか経っていない。
小金さんの本音は、「ファミレスを辞めて食堂で働いて欲しい」だろう。
でも小金さんはそれ以上なにも言わなかったし、僕も黙っていた。
食堂の話はとりあえず保留になった。
ワインバーを出て、急ぎ足で居酒屋に向かう。
店に着くと、開店の準備をしながら、叔父さんに食堂の話をした。
「その食堂って、新に向いてるんじゃないか」
叔父さんにそう言われても、すぐにはぴんとこなかった。
でも、こんにゃくと唐辛子を炒めていると、そう言われればそうかもしれないと思った。
居酒屋の仕事を通じてわかったことがある。
僕は料理を通じてお客さんに元気になってもらいたい。
疲れているなら元気がでるものを食べさせたい。落ち込んでいるならやさしい味の料理を出してあげたい。
誰かと話したい気分なら話し相手にもなってあげたい。
そういうことを、小金さんの食堂ならできるのかもしれない。
でも、僕はファミレスの仕事もとても気に入っている。
仲間たちはみんないい人で居心地もいい。
なにより自信をくれた。
職場の同僚たちとうまくやることができるという。
それは僕にとってはとても重要なことだ。
その日、仕事を終えて深夜に家に帰ると、いつになく疲れを感じた。
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
夜食屋ふくろう
森園ことり
ライト文芸
森のはずれで喫茶店『梟(ふくろう)』を営む双子の紅と祭。祖父のお店を受け継いだものの、立地が悪くて潰れかけている。そこで二人は、深夜にお客の家に赴いて夜食を作る『夜食屋ふくろう』をはじめることにした。眠れずに夜食を注文したお客たちの身の上話に耳を傾けながら、おいしい夜食を作る双子たち。また、紅は一年前に姿を消した幼なじみの昴流の身を案じていた……。
(※この作品はエブリスタにも投稿しています)
【完結】転生少女は異世界でお店を始めたい
梅丸
ファンタジー
せっかく40代目前にして夢だった喫茶店オープンに漕ぎ着けたと言うのに事故に遭い呆気なく命を落としてしまった私。女神様が管理する異世界に転生させてもらい夢を実現するために奮闘するのだが、この世界には無いものが多すぎる! 創造魔法と言う女神様から授かった恩寵と前世の料理レシピを駆使して色々作りながら頑張る私だった。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
希望が丘駅前商店街 in 『居酒屋とうてつ』とその周辺の人々
饕餮
ライト文芸
ここは東京郊外松平市にある商店街。
国会議員の重光幸太郎先生の地元である。
そんな商店街にある、『居酒屋とうてつ』やその周辺で繰り広げられる、一話完結型の面白おかしな商店街住人たちのひとこまです。
★このお話は、鏡野ゆう様のお話
『政治家の嫁は秘書様』https://www.alphapolis.co.jp/novel/210140744/354151981
に出てくる重光先生の地元の商店街のお話です。当然の事ながら、鏡野ゆう様には許可をいただいております。他の住人に関してもそれぞれ許可をいただいてから書いています。
★他にコラボしている作品
・『桃と料理人』http://ncode.syosetu.com/n9554cb/
・『青いヤツと特別国家公務員 - 希望が丘駅前商店街 -』http://ncode.syosetu.com/n5361cb/
・『希望が丘駅前商店街~透明人間の憂鬱~』https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271
・『希望が丘駅前商店街 ―姉さん。篠宮酒店は、今日も平常運転です。―』https://www.alphapolis.co.jp/novel/172101828/491152376
・『日々是好日、希望が丘駅前商店街-神神飯店エソ、オソオセヨ(にいらっしゃいませ)』https://www.alphapolis.co.jp/novel/177101198/505152232
・『希望が丘駅前商店街~看板娘は招き猫?喫茶トムトム元気に開店中~』https://ncode.syosetu.com/n7423cb/
・『Blue Mallowへようこそ~希望が丘駅前商店街』https://ncode.syosetu.com/n2519cc/
すこやか食堂のゆかいな人々
山いい奈
ライト文芸
貧血体質で悩まされている、常盤みのり。
母親が栄養学の本を読みながらごはんを作ってくれているのを見て、みのりも興味を持った。
心を癒し、食べるもので健康になれる様な食堂を開きたい。それがみのりの目標になっていた。
短大で栄養学を学び、専門学校でお料理を学び、体調を見ながら日本料理店でのアルバイトに励み、お料理教室で技を鍛えて来た。
そしてみのりは、両親や幼なじみ、お料理教室の先生、テナントビルのオーナーの力を借りて、すこやか食堂をオープンする。
一癖も二癖もある周りの人々やお客さまに囲まれて、みのりは奮闘する。
やがて、それはみのりの家族の問題に繋がっていく。
じんわりと、だがほっこりと心暖まる物語。
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
私と継母の極めて平凡な日常
当麻月菜
ライト文芸
ある日突然、父が再婚した。そして再婚後、たった三ヶ月で失踪した。
残されたのは私、橋坂由依(高校二年生)と、継母の琴子さん(32歳のキャリアウーマン)の二人。
「ああ、この人も出て行くんだろうな。私にどれだけ自分が不幸かをぶちまけて」
そう思って覚悟もしたけれど、彼女は出て行かなかった。
そうして始まった継母と私の二人だけの日々は、とても淡々としていながら酷く穏やかで、極めて平凡なものでした。
※他のサイトにも重複投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる