37 / 47
37
しおりを挟む
あの母親のいる家にはもう戻りたくない。あんなに嫌がってたのに、騙すなんてひどい。たぶん、お涙頂戴の番組にでもするつもりだったんだろう。姉の櫻子のかわりに私が母親を支える、とか言わせて。
結局そのまま一晩さまよい続けた。
夜が明けてきた頃には空腹でふらふらになっていた。ヒールの靴だから足も痛い。
倒れたのは貧血というよりは疲労だったのかもしれない。
次に目を開いた時、そこには僕がいた。
不安そうな目をした僕の顔を見て、柳子はひどい空腹を覚えたという。
たくさん話して疲れた柳子に、僕は冷たい麦茶とアイスをあげた。
「お父さんには連絡したの? きっと心配してるよ」
「連絡したよ」
「なんて?」
「帰っておいでって」
そうだろうな。
「でも帰らないって言った。お母さんにもそう伝えてって」
じゃあ、母親も柳子が無事なことは知ってるわけだ。じゃないと、あんな元気そうにテレビには出られないか。
「音大のほうはいいの?」
「もういい。ピアノももう見たくないぐらい」
だからピアノを教えるのをためらってたのか。
「元々ピアノは好きでやってたわけじゃないし。母親に言われたからやってただけ。姉もそうだった。ピアノを弾くことが当たり前。母親の言うことをきくのが当たり前。姉は言われるままに生きてあっけなく死んじゃった。私はそういうのは嫌。ピアノと母親がいない人生をこれからは生きるの」
柳子はアイスを黙々と食べた。なにを考えているのかわからない遠い目をしている。
ねえ、と僕は声をかけた。
「ウィッグをどうしてずっとかぶってたの?」
ぼんやりとこちらを見た柳子は、ふっと苦笑いをした。
「最初は取ろうと思ったよ。でもすぐに、このままでもいいかなぁって思ったの。変な話だけど、母親と離れてみたら、なんだか気が楽になって、可愛い恰好に抵抗がなくなったんだよね。私、本当は可愛い服が好きなの。きれいな長い髪もね」
「それなら、髪を伸ばせばよかったのに」
「少し伸ばしてたんだけど、ついこの間、また短くしちゃった」
「なんで?」
「母親に会ったから。父親から私のこと聞き出したらしくて、急にここに来たの。戻ってこいって腕を引っ張られて揉み合ってるところを、偶然、時蔵さんに見られちゃって。彼にはあとで説明して、みんなには黙っておいてくれるように頼んだんだけどね」
もしかして、『旋律』で二人を見かけた時の話だろうか。
「母親に会ったら、髪伸ばしてる自分がまた嫌になっちゃって。それで自分で切っちゃった」
そう言って柳子は笑った。食べ終えたアイスの棒をかつんとテーブルの上に置く。
窓の外は暗くなったが、蝉たちはまだ盛大に鳴いている。
「そろそろ夕飯かな。正子さんが呼びに来るかも」
柳子はそう言って腰を浮かせた。
「夕飯、僕が作ろうか?」
僕の言葉に、柳子は浮かせた腰をまたおろした。
「ほんと?」
「うん。て言っても、ろくなもんはないけど。レトルトカレーとかカップ麺とか」
「レトルトカレー、食べたい」
「じゃあ、オムカレーにしようか? 卵あるし」
「おいしそうだね。私、サラダ作るよ。冷蔵庫にトマトがあったはず」
柳子がトマトを取りに部屋に戻ると、僕はご飯がないことに気づいた。いや、あるか。柳子から毎朝もらってる冷凍の桃色おにぎりが。
「正子さんには夕飯外で食べるって言っておいた」
柳子は両手に一つずつ大きなトマトを持って戻ってきた。
彼女に冷凍庫の中の桃色おにぎりを見せると、「ほんとにたまってる」と呆れた顔をした。
冷凍したおにぎりを温めて簡単なオムライスを作る。皿にのせたオムライスに、チンしたレトルトカレーをかければ完成。
冷えたトマトは柳子が丁寧にスライスして皿に並べた。
オムカレーは意外とおいしく、たまに舌に感じる鮭の触感もまあまあ。さっぱりした冷やしトマトともよく合った。
「そういえば、前に僕が見かけた短髪の男って、柳子さんだったんだね」
あれこれ想像したのがばかみたいだ。
そうそうと柳子は頷く。
「外出先でウィッグが壊れちゃって。服と髪型が似合わないから、近くのお店で服を買って着替えたの」
スウェットの上下にね。
「帽子でもかぶればよかったのに」
「そう思って探したんだけど、髪が全部隠れるタイプのがなくて。ドラッグストアの店頭に、スウェットの上下が千円で売ってたから、これでいいやって」
「びっくりしたよ、あのときは」
「驚かせてごめんね」
柳子の口の端にカレーがついている。僕は黙ってティッシュを一枚取ると彼女に渡した。
「ついてる? ありがと」
少し恥ずかしそうに口を拭く。
いまさらだけど、なんだろうこの状況は。
成り行きとはいえ、僕の部屋で一緒に料理を作って食べている。まるで恋人同士みたいに。
僕がいまここで告白したら、柳子はなんて答えるだろう。
柳子が何者であるのかもわかったし、なにも閉店までまたなくても……。
「来週、私、夏休みもらえたんだ」
「あ、そうなんだ」
それならどこかへ誘おうか。
「うん。友達のところに泊まりにいく予定。音大の」
「ああ……いいね」
そっか。でも、友達と会うのはきっといいことだよな。
「友達もピアノやってるの?」
「そうだよ。心配してくれてよく連絡くれるんだ。だから、一度ゆっくり会おうと思って」
そりゃ心配してるだろう。突然、友達が家出して大学にも来なくなったら。
結局そのまま一晩さまよい続けた。
夜が明けてきた頃には空腹でふらふらになっていた。ヒールの靴だから足も痛い。
倒れたのは貧血というよりは疲労だったのかもしれない。
次に目を開いた時、そこには僕がいた。
不安そうな目をした僕の顔を見て、柳子はひどい空腹を覚えたという。
たくさん話して疲れた柳子に、僕は冷たい麦茶とアイスをあげた。
「お父さんには連絡したの? きっと心配してるよ」
「連絡したよ」
「なんて?」
「帰っておいでって」
そうだろうな。
「でも帰らないって言った。お母さんにもそう伝えてって」
じゃあ、母親も柳子が無事なことは知ってるわけだ。じゃないと、あんな元気そうにテレビには出られないか。
「音大のほうはいいの?」
「もういい。ピアノももう見たくないぐらい」
だからピアノを教えるのをためらってたのか。
「元々ピアノは好きでやってたわけじゃないし。母親に言われたからやってただけ。姉もそうだった。ピアノを弾くことが当たり前。母親の言うことをきくのが当たり前。姉は言われるままに生きてあっけなく死んじゃった。私はそういうのは嫌。ピアノと母親がいない人生をこれからは生きるの」
柳子はアイスを黙々と食べた。なにを考えているのかわからない遠い目をしている。
ねえ、と僕は声をかけた。
「ウィッグをどうしてずっとかぶってたの?」
ぼんやりとこちらを見た柳子は、ふっと苦笑いをした。
「最初は取ろうと思ったよ。でもすぐに、このままでもいいかなぁって思ったの。変な話だけど、母親と離れてみたら、なんだか気が楽になって、可愛い恰好に抵抗がなくなったんだよね。私、本当は可愛い服が好きなの。きれいな長い髪もね」
「それなら、髪を伸ばせばよかったのに」
「少し伸ばしてたんだけど、ついこの間、また短くしちゃった」
「なんで?」
「母親に会ったから。父親から私のこと聞き出したらしくて、急にここに来たの。戻ってこいって腕を引っ張られて揉み合ってるところを、偶然、時蔵さんに見られちゃって。彼にはあとで説明して、みんなには黙っておいてくれるように頼んだんだけどね」
もしかして、『旋律』で二人を見かけた時の話だろうか。
「母親に会ったら、髪伸ばしてる自分がまた嫌になっちゃって。それで自分で切っちゃった」
そう言って柳子は笑った。食べ終えたアイスの棒をかつんとテーブルの上に置く。
窓の外は暗くなったが、蝉たちはまだ盛大に鳴いている。
「そろそろ夕飯かな。正子さんが呼びに来るかも」
柳子はそう言って腰を浮かせた。
「夕飯、僕が作ろうか?」
僕の言葉に、柳子は浮かせた腰をまたおろした。
「ほんと?」
「うん。て言っても、ろくなもんはないけど。レトルトカレーとかカップ麺とか」
「レトルトカレー、食べたい」
「じゃあ、オムカレーにしようか? 卵あるし」
「おいしそうだね。私、サラダ作るよ。冷蔵庫にトマトがあったはず」
柳子がトマトを取りに部屋に戻ると、僕はご飯がないことに気づいた。いや、あるか。柳子から毎朝もらってる冷凍の桃色おにぎりが。
「正子さんには夕飯外で食べるって言っておいた」
柳子は両手に一つずつ大きなトマトを持って戻ってきた。
彼女に冷凍庫の中の桃色おにぎりを見せると、「ほんとにたまってる」と呆れた顔をした。
冷凍したおにぎりを温めて簡単なオムライスを作る。皿にのせたオムライスに、チンしたレトルトカレーをかければ完成。
冷えたトマトは柳子が丁寧にスライスして皿に並べた。
オムカレーは意外とおいしく、たまに舌に感じる鮭の触感もまあまあ。さっぱりした冷やしトマトともよく合った。
「そういえば、前に僕が見かけた短髪の男って、柳子さんだったんだね」
あれこれ想像したのがばかみたいだ。
そうそうと柳子は頷く。
「外出先でウィッグが壊れちゃって。服と髪型が似合わないから、近くのお店で服を買って着替えたの」
スウェットの上下にね。
「帽子でもかぶればよかったのに」
「そう思って探したんだけど、髪が全部隠れるタイプのがなくて。ドラッグストアの店頭に、スウェットの上下が千円で売ってたから、これでいいやって」
「びっくりしたよ、あのときは」
「驚かせてごめんね」
柳子の口の端にカレーがついている。僕は黙ってティッシュを一枚取ると彼女に渡した。
「ついてる? ありがと」
少し恥ずかしそうに口を拭く。
いまさらだけど、なんだろうこの状況は。
成り行きとはいえ、僕の部屋で一緒に料理を作って食べている。まるで恋人同士みたいに。
僕がいまここで告白したら、柳子はなんて答えるだろう。
柳子が何者であるのかもわかったし、なにも閉店までまたなくても……。
「来週、私、夏休みもらえたんだ」
「あ、そうなんだ」
それならどこかへ誘おうか。
「うん。友達のところに泊まりにいく予定。音大の」
「ああ……いいね」
そっか。でも、友達と会うのはきっといいことだよな。
「友達もピアノやってるの?」
「そうだよ。心配してくれてよく連絡くれるんだ。だから、一度ゆっくり会おうと思って」
そりゃ心配してるだろう。突然、友達が家出して大学にも来なくなったら。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
夜食屋ふくろう
森園ことり
ライト文芸
森のはずれで喫茶店『梟(ふくろう)』を営む双子の紅と祭。祖父のお店を受け継いだものの、立地が悪くて潰れかけている。そこで二人は、深夜にお客の家に赴いて夜食を作る『夜食屋ふくろう』をはじめることにした。眠れずに夜食を注文したお客たちの身の上話に耳を傾けながら、おいしい夜食を作る双子たち。また、紅は一年前に姿を消した幼なじみの昴流の身を案じていた……。
(※この作品はエブリスタにも投稿しています)
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
王太子さま、側室さまがご懐妊です
家紋武範
恋愛
王太子の第二夫人が子どもを宿した。
愛する彼女を妃としたい王太子。
本妻である第一夫人は政略結婚の醜女。
そして国を奪い女王として君臨するとの噂もある。
あやしき第一夫人をどうにかして廃したいのであった。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる