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 あの母親のいる家にはもう戻りたくない。あんなに嫌がってたのに、騙すなんてひどい。たぶん、お涙頂戴の番組にでもするつもりだったんだろう。姉の櫻子のかわりに私が母親を支える、とか言わせて。
 結局そのまま一晩さまよい続けた。

 夜が明けてきた頃には空腹でふらふらになっていた。ヒールの靴だから足も痛い。
 倒れたのは貧血というよりは疲労だったのかもしれない。

 次に目を開いた時、そこには僕がいた。
 不安そうな目をした僕の顔を見て、柳子はひどい空腹を覚えたという。


 たくさん話して疲れた柳子に、僕は冷たい麦茶とアイスをあげた。

「お父さんには連絡したの? きっと心配してるよ」
「連絡したよ」
「なんて?」
「帰っておいでって」

 そうだろうな。

「でも帰らないって言った。お母さんにもそう伝えてって」

 じゃあ、母親も柳子が無事なことは知ってるわけだ。じゃないと、あんな元気そうにテレビには出られないか。

「音大のほうはいいの?」
「もういい。ピアノももう見たくないぐらい」

 だからピアノを教えるのをためらってたのか。

「元々ピアノは好きでやってたわけじゃないし。母親に言われたからやってただけ。姉もそうだった。ピアノを弾くことが当たり前。母親の言うことをきくのが当たり前。姉は言われるままに生きてあっけなく死んじゃった。私はそういうのは嫌。ピアノと母親がいない人生をこれからは生きるの」

 柳子はアイスを黙々と食べた。なにを考えているのかわからない遠い目をしている。
 ねえ、と僕は声をかけた。

「ウィッグをどうしてずっとかぶってたの?」

 ぼんやりとこちらを見た柳子は、ふっと苦笑いをした。

「最初は取ろうと思ったよ。でもすぐに、このままでもいいかなぁって思ったの。変な話だけど、母親と離れてみたら、なんだか気が楽になって、可愛い恰好に抵抗がなくなったんだよね。私、本当は可愛い服が好きなの。きれいな長い髪もね」
「それなら、髪を伸ばせばよかったのに」
「少し伸ばしてたんだけど、ついこの間、また短くしちゃった」
「なんで?」
「母親に会ったから。父親から私のこと聞き出したらしくて、急にここに来たの。戻ってこいって腕を引っ張られて揉み合ってるところを、偶然、時蔵さんに見られちゃって。彼にはあとで説明して、みんなには黙っておいてくれるように頼んだんだけどね」

 もしかして、『旋律』で二人を見かけた時の話だろうか。

「母親に会ったら、髪伸ばしてる自分がまた嫌になっちゃって。それで自分で切っちゃった」

 そう言って柳子は笑った。食べ終えたアイスの棒をかつんとテーブルの上に置く。
 窓の外は暗くなったが、蝉たちはまだ盛大に鳴いている。

「そろそろ夕飯かな。正子さんが呼びに来るかも」

 柳子はそう言って腰を浮かせた。

「夕飯、僕が作ろうか?」

 僕の言葉に、柳子は浮かせた腰をまたおろした。

「ほんと?」
「うん。て言っても、ろくなもんはないけど。レトルトカレーとかカップ麺とか」
「レトルトカレー、食べたい」
「じゃあ、オムカレーにしようか? 卵あるし」
「おいしそうだね。私、サラダ作るよ。冷蔵庫にトマトがあったはず」

 柳子がトマトを取りに部屋に戻ると、僕はご飯がないことに気づいた。いや、あるか。柳子から毎朝もらってる冷凍の桃色おにぎりが。

「正子さんには夕飯外で食べるって言っておいた」

 柳子は両手に一つずつ大きなトマトを持って戻ってきた。
 彼女に冷凍庫の中の桃色おにぎりを見せると、「ほんとにたまってる」と呆れた顔をした。
 冷凍したおにぎりを温めて簡単なオムライスを作る。皿にのせたオムライスに、チンしたレトルトカレーをかければ完成。
 冷えたトマトは柳子が丁寧にスライスして皿に並べた。
 オムカレーは意外とおいしく、たまに舌に感じる鮭の触感もまあまあ。さっぱりした冷やしトマトともよく合った。

「そういえば、前に僕が見かけた短髪の男って、柳子さんだったんだね」

 あれこれ想像したのがばかみたいだ。
 そうそうと柳子は頷く。

「外出先でウィッグが壊れちゃって。服と髪型が似合わないから、近くのお店で服を買って着替えたの」

 スウェットの上下にね。

「帽子でもかぶればよかったのに」
「そう思って探したんだけど、髪が全部隠れるタイプのがなくて。ドラッグストアの店頭に、スウェットの上下が千円で売ってたから、これでいいやって」
「びっくりしたよ、あのときは」
「驚かせてごめんね」

 柳子の口の端にカレーがついている。僕は黙ってティッシュを一枚取ると彼女に渡した。

「ついてる? ありがと」

 少し恥ずかしそうに口を拭く。
 いまさらだけど、なんだろうこの状況は。
 成り行きとはいえ、僕の部屋で一緒に料理を作って食べている。まるで恋人同士みたいに。

 僕がいまここで告白したら、柳子はなんて答えるだろう。
 柳子が何者であるのかもわかったし、なにも閉店までまたなくても……。

「来週、私、夏休みもらえたんだ」
「あ、そうなんだ」

 それならどこかへ誘おうか。

「うん。友達のところに泊まりにいく予定。音大の」
「ああ……いいね」

 そっか。でも、友達と会うのはきっといいことだよな。

「友達もピアノやってるの?」
「そうだよ。心配してくれてよく連絡くれるんだ。だから、一度ゆっくり会おうと思って」

 そりゃ心配してるだろう。突然、友達が家出して大学にも来なくなったら。
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