上 下
29 / 47

29

しおりを挟む
 翌日、昼前に起きて家を出ると、隣の正子さんちから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
 男の声が聞こえた気がして、庭から中を覗きこむと、ひょいと縁側に剣太郎君が現れた。

 にゃあにゃあと鳴き声が聞こえたかと思うと、剣太郎君が放った魚に白猫が飛びついて食べ始める。
 剣太郎君の声だったんだろうか。
 そのまま立ち去ろうとすると、彼がさっとこちらを見た。

「あ、りょーさん、こんにちはー」

 大声で挨拶するので、僕もこんにちはと返した。

「誰?」

 鋭い正子さんの声が中から飛んでくる。
 剣太郎君は家の中を振り返ってから、僕を手招きした。

「おばあちゃんが、お昼まだならどうぞってー」

 これから『旋律』でモーニングを食べに行くつもりだ。断りの言葉を口にしかけた時、正子さんがばっと縁側に現れた。僕をすぐに見つけてぶんぶんと乱暴に手招きする。
 こうなったら終わりだ。
 僕はおとなしく庭に入っていって、縁側でサンダルを脱いだ。

「冷やし中華食べるでしょ?」

 なんと夏らしい。冷やし中華はこの夏まだ食べてない。

「いただきます」

 クーラーがきいた和室に入っていくと、灰野さんと時蔵さんがずるずると麺をすすっていた。
 同時に顔を上げて僕を見ると、どうもというように会釈する。
 柳子がいないのが珍しい。

「麺、茹でるからちょっと待ってなさいよ。枝豆でも食べてて」

 台所から正子さんが叫ぶ。
 はいと小さく返事をしながら、灰野さんたちの向かい側に座った。
 山盛りの枝豆に手を伸ばし、もそもそと食べる。

「私、夏嫌い。私の七月と八月は誰か欲しい人にあげたい」

 灰野さんはそう言うと、ちらっと台所を振り返った。以前より少し痩せたようだ。顎まわりがすっきりしている。
 そう思った次の瞬間、彼女はテーブルの下からタッパを取り出した。素早く冷やし中華の麺を半分ほど中に入れると、すぐにまたテーブルの下に隠す。
 そういうことか。正子さんの目を盗んで食事の量を減らしているわけだ。

「夏はとりわけ胃が疲れるの」

 言い訳するように僕に囁く。いいんですよ、わかりますというように僕は頷いた。
 僕も柳子から桃色おにぎり攻撃をくらっているので、その気持ちは痛いほどわかる。

「僕が食べてあげましょうか」

 隣の時蔵さんがそう声をかけると、灰野さんはぶんと首を横に振った。

「お気遣いけっこう」

 苦笑しながら灰野さんを見つめる時蔵さん。
 そんな彼を僕はじろじろと見た。

 昨日、柳子の部屋に入っていった男は時蔵さんじゃないよな。だいたい髪の長さが違う。時蔵さんは少し長めだけど、昨日の男は短髪だった。それに、時蔵さんはいつもしゅっとしたクールな黒づくめで、スウェットの上下なんかで外を歩きそうにない。

「どうかしました?」

 僕の視線に気づいた彼が、不思議そうに訊ねた。

「いえ……今日は二人でお出かけですか?」

 日曜のお昼に二人並んで冷やし中華食べて、仲のよろしいことで。

「まさか。このあと絵を描くの。冬に個展することになったから」

 そう言って灰野さんはほっと息を吐いた。お皿がやっと空になったのだ。

「先生と僕と二人でね」

 嬉しそうな顔で時蔵さんが続ける。

「はい、冷やし中華。とうもろこし茹でたからみんな食べなさい」

 どん、と冷やし中華と熱々の山盛りとうもろこしの皿をテーブルに置く正子さん。
 灰野さんがわずかに身を引いた。
 正子さんは灰野さんの空の皿を持って、またすぐに台所に消える。
 僕は冷やし中華をずるずるすすりながら、とうもろこしに手を伸ばす時蔵さんを見た。

「灰野さんのお部屋で描いてるんですか?」
「うちは狭いから、一階の空いてる部屋をアトリエとして借りたの」
「コラボする作品もあるから、一緒に描ける場所が必要なんだよ」と時蔵さん。

 テーマは(森の中のおとぎばなし)。油彩を得意とする灰野さんが森を描き、時蔵さんがポップなイラストでおとぎ話の住人たちを描くらしい。

「なんでおとぎ話なんですか?」

 僕が訊ねると、とうもろこしを食べている時蔵さんのかわりに、灰野さんが「それはね」と口を開いた。

「誰でも知ってるお話だから。それに小さい頃にみんなおとぎ話を通過しているでしょ。絵を見れば、遠い記憶まで刺激されて、いい時間になると思うんだよね」

 あっという間にとうもろこしを一本食べた時蔵さんが、口のまわりをきれいに拭いて頷く。
 灰野さんは彼が食べたとうもろこしの芯を、自分の前にちゃっかり置いた。自分が食べました、みたいに。

「イラストにもしやすい世界観だし、先生の油彩画のすばらしさも伝わりやすい題材だと思って選んだ」

 時蔵さんはそう言いながらずっと灰野さんを見つめている。とてもわかりやすい人だ。わかってないのは灰野さんだけ。いや、わかっているのに知らんふりしているのか。

「売れっ子さんの力を借りて、当面の生活費を稼がせていただこうかと」

 灰野さんがそう言って笑うと、時蔵さんは自分が傷ついたような顔をした。

「そんな言い方、だめですよ先生。たとえ冗談でも」

 灰野さんは台所を気にしながら、粉の胃薬を飲んで笑う。

「生きるために生活費を稼ぐのは悪いことじゃないわよ。好きな絵で稼げたら最高じゃない」
「でも先生の絵はお金のためには描かれてない」
「そんなことないわよ。私の絵がお金を生んでくれたらとっても嬉しいわよ」

 時蔵さんが言葉を探すように唇をもごもごさせていると、どすどすと足音をたてて正子さんが戻ってきた。今度は西瓜を並べた大皿を持っている。

「冷やしといたからおいしいよ。今日、柳子はお出かけだからね」

 正子さんは僕に向かってそう言うと、灰野さんの前にあるとうもろこしの芯を拾い上げた。

「どこへですか?」
「買い物だって」

 買い物。
 出かけるふりして、家で昨日の黒髪短髪スウェットといるんじゃないか? それか、そいつと出かけたとか。
 どう考えても、ああいう感じの男はよくない。ヒモみたいな風体だったし。
 僕が冷やし中華を三分の一ほど残して箸をおくと、正子さんがじろりと見た。

「なに、夏バテ?」
「はい……」

 そういうことにしてください。食欲がないです。
 柳子が心配だ。

 道に倒れていたのを見つけたのは僕だ。まったくの他人だったのに、いまはこうして一緒に働いて、同じアパートで暮らしている。だから、僕にはなにか責任のようなものがある気がする。ここで変な男にひっかかって不幸になられたら気分が悪い。

 ピアノが上手で白いドレスも似合う。品もある。自分にふさわしい男性と付き合って欲しい。
 絶対にあの短髪スウェット上下はやめておいたほうがいい。

「夏バテならスタミナつけないとね。今晩は焼肉にするから食べにおいで」
「わかりました」

 夕飯を食べに来れば柳子に会えるだろう。あのスウェット男のことを見かけたと話せば、説明してくれるかもしれない。

「良君は夏休み、どっか行くの?」

 西瓜の種を箸でとりのぞきながら、時蔵さんが訊いてきた。

「特になにも。バイトぐらいですね」
「そうなんだ」

 時蔵さんはひとりで東北スケッチ旅行だったよな。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

伝える前に振られてしまった私の恋

メカ喜楽直人
恋愛
母に連れられて行った王妃様とのお茶会の席を、ひとり抜け出したアーリーンは、幼馴染みと友人たちが歓談する場に出くわす。 そこで、ひとりの令息が婚約をしたのだと話し出した。

心の落とし物

緋色刹那
ライト文芸
・完結済み(2024/10/12)。また書きたくなったら、番外編として投稿するかも ・第4回、第5回ライト文芸大賞にて奨励賞をいただきました!!✌︎('ω'✌︎ )✌︎('ω'✌︎ ) 〈本作の楽しみ方〉  本作は読む喫茶店です。順に読んでもいいし、興味を持ったタイトルや季節から読んでもオッケーです。  知らない人、知らない設定が出てきて不安になるかもしれませんが、喫茶店の常連さんのようなものなので、雰囲気を楽しんでください(一応説明↓)。 〈あらすじ〉  〈心の落とし物〉はありませんか?  どこかに失くした物、ずっと探している人、過去の後悔、忘れていた夢。  あなたは忘れているつもりでも、心があなたの代わりに探し続けているかもしれません……。  喫茶店LAMP(ランプ)の店長、添野由良(そえのゆら)は、人の未練が具現化した幻〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉と、それを探す生き霊〈探し人(さがしびと)〉に気づきやすい体質。  ある夏の日、由良は店の前を何度も通る男性に目を止め、声をかける。男性は数年前に移転した古本屋を探していて……。  懐かしくも切ない、過去の未練に魅せられる。 〈主人公と作中用語〉 ・添野由良(そえのゆら)  洋燈町にある喫茶店LAMP(ランプ)の店長。〈心の落とし物〉や〈探し人〉に気づきやすい体質。 ・〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉  人の未練が具現化した幻。あるいは、未練そのもの。 ・〈探し人(さがしびと)〉  〈心の落とし物〉を探す生き霊で、落とし主。当人に代わって、〈心の落とし物〉を探している。 ・〈未練溜まり(みれんだまり)〉  忘れられた〈心の落とし物〉が行き着く場所。 ・〈分け御霊(わけみたま)〉  生者の後悔や未練が物に宿り、具現化した者。込められた念が強ければ強いほど、人のように自由意志を持つ。いわゆる付喪神に近い。

処理中です...