夜食屋ふくろう

森園ことり

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8 たぬき蕎麦 pm11:08

8 たぬき蕎麦 pm11:08(3)

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 紅は久しぶりに祖父の礼一の夢を見た。

 台所で彼は蕎麦を茹でている。
 夜、お腹が空いたと幼い双子が訴えると、彼はたぬき蕎麦を作ってくれた。
 具材はいつも常備している揚げ玉のみ。

 双子は祖父の足にそれぞれからみついて、危ないとよく叱られた。
 祖父は怒るととても怖かったけれど、それは双子に危険が及ぶ場合だけだった。
 普段はとてもやさしくて、いたずらをしても叱らない。

 揚げ玉は自分で好きなだけ入れることができたので、それも双子には楽しみだった。
 祖父の部屋に集まって三人でずるずると音をたてながら食べるたぬき蕎麦。真夜中の食事は特別な感じがして、紅も祭も大好きだった。

 祖父は冷蔵庫の中身をいつもいっぱいにしてくれていて、蕎麦の具材になるようなものも豊富にあった。それなのに、なぜか夜食でよく出てくるのはシンプルなたぬき蕎麦だった。

「夜食は簡単でおいしいのがいいんだよ」

 おじいちゃんが笑いながらそう言ったのを紅は憶えている。
 夢の中に出てきた祖父は台所にいて、大きな鍋で三人分の蕎麦を茹でていた。
 その背中は大きくて頼りがいがある。

(大丈夫。おじいちゃんがいるから、寂しくない)

 目が覚めた紅は落胆した。
 おじいちゃんがもういないことを思い出してしまったからだ。
 でも、一年の終わりに祖父の夢を見られたことは嬉しかった。まるで贈り物みたいだ。

 時計は十時半をさしている。あと一時間と少しで今年も終わる。
 再び目を閉じようとしたとき、住居部分のインターホンが鳴り響いた。





 泥棒?

 一瞬、紅はそう疑った。
 年末年始などの長期休暇の時には、旅行で家を空ける人が多い。そういう時期を狙う泥棒がいると聞いたことがあったからだ。

 家に人がいるかどうかを確かめるためにインターホンを鳴らしたのでは、と紅は表情を硬くした。
 そもそもこんな夜中に訪ねてくる人はいない。
 祭は鍵を持っているから鳴らさない。

 どくんどくんと大きくなっていく心臓の鼓動。紅はスマホを握りしめながらそっと部屋から出た。冷たい廊下に身をひそめて耳をすます。
 インターホンは鳴り続けている。だがドアを叩く音は聞こえてこない。
 どうしようかと動揺しながらも、紅は音をたてないように静かに階段を下りていった。
 訪問者はなにか言っているようだ。

 一階に着くと、その声ははっきりと聞こえた。

「こんばんは」

 この声には聞き覚えがある。忘れるはずがない。
 昴流の声だった。
 廊下の明かりをつけて、紅は慌てて玄関に近づいく。

「どちらさまですか?」

 一応、紅はドア越しに訊ねた。

「紅? 僕だよ。昴流。遅くにごめん」

 驚きながらも紅は急いで玄関のドアを開けた。
 グレーのステンカラーコートに黒いマフラーを巻いた昴流が立っている。右手に大きめの紙袋を下げて。

「久しぶり」

 髪が伸びてる、と昴流を見て紅はまず思った。
 短い髪の昴流しか見たことがないので、耳や首筋を覆うまで伸ばした姿を見るのは初めてだった。
 緊張のせいか微笑みは少しだけ硬い。

「寒いでしょ。入って」

 凍えるような風と共に昴流は中に入ってきた。

「帰ってきてたの?」

 スリッパを出しながら紅は訊ねる。自然と話せていることにほっとした。

「今日、戻ったんだ。もっと早くに着いてたんだけど、荷物が行方不明になってこんな時間になっちゃった」
「見つかったの?」
「なんとか」

 紅は階段の上を指差して先にあがりはじめた。あとから昴流もついてくる。

「祭は?」
「いまいない」
「買い物?」
「デート」
「デート?」

 祖父の部屋に入ると、昴流は部屋を見まわした。幼い頃から何度も出入りした部屋。礼一と双子と彼の四人でテレビを見たり食事をしたり、トランプや宿題だってした。
 紅が炬燵に入ると、昴流は足元に紙袋を置いてコートを脱いだ。黒いニットにデニムパンツというシンプルな恰好は以前と変わらない。

「メイちゃんて憶えてる? 工房で働いてた人の娘さんなんだけど、昨日うちに訪ねてきたの」

 昨日の出来事を話しながら、紅は急須で緑茶を淹れた。

「メイ……もしかして長い髪でカチューシャしてた子?」

 ぴたりと手を止めた紅は不思議そうに昴流を見た。

「憶えてるの?」
「このまえ祭と会った時に偶然そんな話をしたんだ。メイとかマイとかいう女の子がいたって。その子と祭はデートしてるの?」
「そう。水族館と初詣に行くんだって」
「今夜は帰ってこないの?」
「どうなんだろうね」

 湯呑を昴流の前に置いて紅は腰を上げた。お茶に合うお菓子なんてあっただろうか。

「お茶請け探してくる」
「おかまいなく……なんかいい匂いするね」
「さっきまでおせち料理作ってたから。味見する?」
「いいの?」
「たくさん作ったから食べて。ちょっと待っててね」

 紅はいそいそと台所に向かった。せっかくなのでお正月用の皿におせち料理をきれいに盛り付ける。おにしめは少し温めた。
 部屋に戻ると、昴流は窓を開けて外を眺めていた。視線の先にあるのはもちろん夜の森だ。梟がほぅほぅとまだ鳴いている。昴流がそばにいると、その声の物悲しさもあまり気にならない。

 窓から入り込んでくる冷たい風が部屋の空気を急激に下げていく。でも紅は気にならなかった。こもった空気を入れ替えるにはちょうどいい。
 お皿を炬燵の上に置く音に気づいた昴流は、窓を閉めて炬燵に戻ってきた。豪華なおせち料理をじっと見つめる。

「こんなにいいの? 一足先にお正月みたいだね」
「遠慮なくどうぞ」
「全部ひとりで作ったの?」
「半分ぐらいは祭と作ったよ」

 昴流はいただきますと手を合わせると箸を手に取った。
 なにから取るのかと紅が見ていると、彼は迷いなく伊達巻きを選んだ。一口食べてにっこりと笑う。

「ふわふわでおいしい。甘さもちょうどいいね。これ作るの大変でしょ?」
「意外と簡単なんだよ。フライパンでできるし」
「へえ、知らなかった」

 紅も伊達巻きを小皿にとって食べてみる。形もきれいにできたし、味も合格点だ。これならきっとみんなにも喜んでもらえるだろう。

「たくさん作ったって言ってたけど、誰かにあげるの?」

 昴流は訊ねながらおにしめの八つ頭に箸を伸ばす。

「常連のお客さん。明日届けてあげるの」
「お客さんか。喜ぶだろうな」
「だといいけど」
「八つ頭おいしい。これ食べると、お正月だなって思うよ。他の日に食べないもん」
「そういえばそうだね。おいしいから普通の日にも作って食べようと思うけど、お正月が終わると忘れちゃうんだよね」
「そう。かまぼこもほんとにおいしいなぁって思うけど、普段は全然食べない」

 おせち料理をつまみながら、二人はだらだらと思いついたことを話し続けた。
 しばらくして紅は新しいお茶を淹れながら昴流に訊ねた。

「どうしてこんな遅くにうちに来たの?」

 昴流はちらりと紅を見てから、栗きんとんを小皿に取った。

「別に明日でもよかったんだけど、どうせ今夜は遅くまで起きてるんじゃないかと思って」
「大晦日だもんね」

 湯呑を彼に差し出しながら紅が呟くように言う。

「それに明後日には帰るから」
「そうなんだ」

 紅は淹れたての熱いお茶をすすった。舌先を火傷するほど熱い。それなのに立て続けにすする。

「この部屋落ち着くね」

 また部屋を見まわしながら昴流は言った。
 祖父の部屋はいつも家族の団欒の場所だった。
 炬燵も箪笥も棚も時計も礼一が生きていたときのままにしてある。いまもここで紅と祭はご飯を食べたりテレビを見たりしていた。

「今日、おじさんたちと会ってどうだった?」

 紅が訊ねると、彼は目を瞬いて俯く。

「怒られなかったけど、泣かれた」
「おじさんに?」
「両親どちらもに」
「許してもらえた?」

 昴流が小さく頷いたので、紅はほっとした。

「でも、許さなかったら二度と戻ってこないと思ったのかも。気をつかわれてる感じがした」
「そりゃ気はつかうよ。誰でも」
「それもそうか」

 昴流はかすかに笑うと、栗きんとんを食べはじめた。紅はお茶をすする。
 沈黙がおりて、紅は古びた壁時計を見上げた。もう十一時を過ぎている。
 あっ、と彼女は声をあげた。

「年越し蕎麦、まだ食べてなかった」
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